連邦軍の靴は、どこで聞いても同じ音がする。
硬くて、遠慮がなくて、こちらの床の上なのに少しだけ借り物じみている。ズムシティの中央広場でも、外縁工区の通路でも、検問所の金属床でも同じだった。足音の持ち主が違っても、音だけはだいたい同じになる。自分の土地だと思って歩く者の音だ。
六月に入って、その音が少し増えた。
検問は三件増え、積荷照合は二段階になり、工区の出入り記録は半月前より厚くなった。名目は全部きれいだ。事故防止、治安維持、物資管理の厳正化。連邦官僚という生き物は、だいたい汚いことを綺麗な言葉で包む。そういう訓練だけは幼年学校より徹底している。
私は執務室でその報告書を一枚ずつ見ていた。
机の左には警備局の記録。右には工業区画から上がった苦情。中央にはキシリアのところから回ってきた監視報告がある。どれも別々の顔をしているが、言っていることは同じだった。連邦はまだ出ていかない。むしろ、こちらの脈を測るように、少しずつ指を深く入れてきている。
セシリアが新しい書類束を置いた。
「今朝の追加分です」
「多いな」
「連邦が働くと、こちらの紙が増えます」
「因果な話だ」
彼女は返事をせず、別紙だけ差し込んだ。工業区画第三ブロック、搬入時検査の長時間化により作業遅延。外縁ドック、巡回艇の無通告臨検。第一居住環、通行証の確認を巡る小競り合い。どれも戦争には見えない。だが、戦争はたいていこういうつまらない手触りから始まる。砲声より先に、通行証と検査票が来る。
私は一枚を裏返した。
裏には、別の報告が留められていた。工業区画第三研究線に対する連邦側の非公式照会。名目は安全性確認。質問内容は出力、重量、稼働時間、操縦負荷。つまり、こちらが何を作り始めているか、薄く勘づいているということだ。正確ではない。だが匂いは嗅がれている。
キシリアが来たのは、その時だった。
ノックのあと、彼女はいつもの顔で入ってくる。怒っているのか機嫌がいいのか、相変わらず分かりにくい。分かりにくいように保っているのだろう。
「連邦の犬は鼻だけはよく利くわね」
「犬に失礼だ」
「犬はもう少し愛嬌がある」
彼女は机の右端の報告へ目を落とした。
「まだ確信までは行っていない」
「行かせるつもりもない」
「けれど、嗅いでいる」
「嗅いでいる」
そこまでで十分だった。
連邦がどこまで知っているかは、いまは重要ではない。問題は、知られているかもしれないという前提でこちらがどれだけ早く骨を入れられるかだ。自治政府のまま、機嫌のよい顔だけしていれば許してもらえる段階は、もう過ぎている。
キシリアが椅子へ腰を下ろした。
「それで、今日は軍の話?」
「軍の骨の話だ」
「肉はまだ要らないのね」
「腐るからな」
彼女は少しだけ笑った。嘲りでも皮肉でもなく、本当に少しだけだ。
「なら、その方がいい。太る前に形を決めた方が切りやすいもの」
セシリアが静かに言った。
「召集名簿はできています」
私は頷いた。
「見せろ」
名簿は二枚あった。ひとつは軍務府が上げてきた公式の候補。もうひとつは、セシリアが並べ直した実務順だ。私は迷わず後者を取る。
エギーユ・デラーズ。ランバ・ラル。ギニアス・サハリン。ユーリ・ケラーネ。マ・クベ。コンスコン。マハラジャ・カーン。
良い顔触れだった。
忠誠だけで集めた顔ではない。忠誠は便利だが、それだけで軍を作ると、だいたい最初の負けで壊れる。必要なのは、癖と役目だ。癖があっても役目へ嵌まる者は使える。癖がなくても椅子だけ欲しがる者は邪魔だ。
私は名簿の下段で手を止めた。
ガルシア・ロメオ。
一度だけ、その名を眺める。
記憶の棚の奥で、妙に騒がしい音がした。こういう時の記憶は大抵ろくでもない。嫌な食器棚を開けた時みたいに、中身がこぼれそうになる。
「……ガルシア」
キシリアが私の顔を見た。
「まだいたのね」
「いたらしい」
私は二秒だけ考えた。三秒は要らなかった。
「切る」
セシリアが即座に別紙へ線を引く。
「理由は」
「要らん。呼ばない理由を作れ」
「地方視察でよろしいですか」
「よろしい」
キシリアが鼻で笑った。
「兄上にしては情け深いわ」
「わざわざ本人の前で切るほど暇ではない」
「それもそうね」
そこで話は終わった。ガルシア・ロメオに割く時間は、その程度で十分だった。
昼前、軍務府第一会議室の席順が入れ替えられた。
通常なら家格と軍歴で決まる。だが今日は違う。私は正面に座る。デギンには上座を用意したが、あくまで見届け役としてだ。キシリアは右、ドズルは左。前方に半円を描くように席を置き、互いの顔が見えるようにする。序列ではなく機能で座らせる時、椅子の向きは案外大事だ。
最初に来たのはデラーズだった。
背筋に棒が一本入っているような男だ。軍服の襟元から靴先まで、規律という名の見えない糸で縫われている。こういう男は、上に無能を置くとすぐに腐る。逆に、命令系統が正しければ驚くほど粘る。
ランバ・ラルは、その次に入った。
父親の影を少しだけ残しているが、もうジンバ・ラルの息子ではない顔をしている。静かな目だ。野戦の泥を知っている者の目で、会議室の空気に呑まれない。下品さのない武人というのは貴重だ。ドズルのような豪放さとは種類が違う。あちらが斧なら、こちらは研ぎのよい鉈だった。
ギニアス・サハリンは、服の皺ひとつ見逃さぬ顔で現れた。技術将校らしい清潔さがある。頭は切れる。切れ味に本人が惚れている節もある。今はまだ使える範囲だが、放っておくと刃が勝手に前へ出る類だろう。
ユーリ・ケラーネは、地味だった。地味であることを恥じていない顔だ。守りと駐屯にはそういう男が向く。目立たぬ者は軽んじられるが、軽んじられている間に抜けを塞いでくれる。
マ・クベは、一歩目からして倉庫の匂いがした。陶器の趣味が顔に出るほどではないが、物の置き方にうるさい男特有の細さがある。余計なことは言わないだろう。言うとしても、言う必要がある時だけだ。
コンスコンは、前回こちらが勝手に若くしてしまったが、実際にはそんな顔ではない。年季の入った軍人の顔だ。若い士官にありがちな、仕事をやってみせたい熱ではなく、仕事が増える前に規模を測る顔をしている。古い型の軍人だが、それだけに編制と手順には強い。
最後にマハラジャ・カーン。静かな目をしていた。相手の言葉より、その言葉が出る前の間を見る種類の男だ。人事と教育に向く。派手なことを言わない人間は、時に一番長く残る。
全員が揃ったところで、デギンが入る。
父は何も飾らず椅子へ座った。こういう場で余計な権威を見せつけないところは、あの人の美点だ。黙って座っているだけで、この会議が単なる軍務調整ではなく、家と国の骨に関わる話だと伝わる。
私は紙を閉じた。
「連邦は、まだサイド3を自治体だと思っている」
誰も口を挟まない。
「自治体とはつまり、いざとなれば上から押さえつければ済む相手という意味だ。駐留軍を残し、検問を増やし、工区を嗅ぎ回り、それでもなお自分たちは秩序の担い手だと思っている。思わせているのはこちらの弱さでもある」
ドズルが鼻を鳴らした。
「喉元まで手ぇ突っ込まれて、まだ自治も何もねえな」
「そうだ」
私は続けた。
「加えて、あちらは工業区画の動きを薄く嗅ぎ始めている。正確ではない。だが、何かを作っているとは思っている。ならばこちらは、見せかけの自治政府ではなく、必要な時に動ける軍の形を先に作らねばならん」
デラーズが短く答えた。
「ご指示を」
私は名簿を開く。
「デラーズ。宇宙警備艦隊の規律と教導を任せる」
彼の目がわずかに上がる。
「艦の数はまだ多くない。だからこそ、少ないうちに癖を決めろ。出航、補給、整備、哨戒。この四つが乱れる艦隊は、数が増えるほど醜くなる」
「承知いたしました」
「規律は必要だ。だが、規律のために兵を折るな。折れた兵は従順に見えて、いざという時に動かん」
デラーズは一拍置いた。
「肝に銘じます」
その一拍で十分だった。言われ慣れていない忠告だろう。だから効く。
「ランバ・ラル」
「は」
「地上即応部隊と工区防護の訓練を任せる。連邦駐留軍と今すぐ正面からやり合う必要はない。だが、検問周りの乱れ、輸送路の停滞、工区の小競り合い、そういう泥の上で先に動ける兵が要る」
ランバ・ラルは短く頷いた。
「承知した。兵を動かすなら、まず足元から整えます」
「頼む。見栄えは要らん。遅れない足だけあればいい」
「見栄えを気にする兵は、たいてい靴の汚れに弱い」
ドズルがそこで少しだけ口元を動かした。
「そりゃそうだ」
ランバ・ラルはそちらを見たが、無駄な愛想はしなかった。ただ、否定もしない。あの距離感で正しい。
「ユーリ・ケラーネ」
「はい」
「駐屯、要塞、防空、居住区と工区の接面警備。つまり、日々の不満が最初に兵へ当たる場所だ。大勝ちのない仕事だが、一番先に腐る場所でもある。任せられるか」
「承知しております。目立たぬように整えます」
「それでいい。兵が目立ち始めた時は、大抵ろくなことになっていない」
ユーリは静かに頷いた。守りの人間には、派手な訓示は要らない。
「コンスコン」
「はっ」
声音に年季がある。良い。若い返事は時に耳障りだが、古い軍人の返事は重さがある。
「予備兵力と編制替えだ。今ある戦力を並べ直し、増えた時にそのまま継げる形へしておけ。訓練も要るが、先に器を作れ。器のないところへ人数を流し込むと泥になる」
コンスコンは紙へ目を落とした。
「その規模であれば、現行の隊編制では継ぎ目が増えますな」
「知っている。だからお前を呼んだ」
「承知しました。古い帳面も持ち出します」
「持ち出せ。古いものにも、まだ使える骨はある」
「は」
私は少しだけ安心した。コンスコンは若さで走る男ではない。こういう地味な役目にはその方がいい。
「マハラジャ・カーン」
「お言葉を」
「士官教育と人選だ。優秀な一人を探すな。壊れにくい十人を揃えろ。華のある馬鹿は後で役に立つこともあるが、今は要らん」
マハラジャはまばたき一つせずに聞いていた。
「承知しました。目立つ者より、残る者を拾います」
「そうしてくれ。残る者の顔は、たいてい退屈だからな」
「退屈な顔ほど、長く役に立ちます」
それは正しかった。
「ギニアス・サハリン」
「は」
「技術試験と工業防護を預ける。新しいものを作るなとは言わん。だが、夢を見る順番を間違えるな。守るべきラインを自分で増やすな。動く前に、まず回せ」
ギニアスの目に、わずかに反発が走る。予想どおりだ。自分の頭脳をもっと大きく使えると思っている顔だった。
「……承知しました」
「研究は好きにやれ。ただし、国の都合を先に置け。お前の都合ではない」
「心得ます」
完全には納得していない。だが、納得など要らない。役目が分かれば十分だ。
「マ・クベ」
「はい」
「鉱物、倉、在庫、搬入、帳尻、横流し。全部だ。軍は戦場で死ぬ前に、倉で死ぬ。弾がない、飯がない、部材がない。そういう死に方は見苦しい。私は嫌いだ」
マ・クベは細い指で帽子の縁を軽く押さえた。
「見苦しいものを減らすのは、案外手間がかかります」
「手間を惜しむな」
「承知しました。倉が恨まれるのは慣れております」
「ならちょうどいい」
マ・クベの口元が、ほんの少しだけ整った。喜んだというより、使い方を理解した顔だ。
一通りが終わると、会議室に短い沈黙が落ちた。
それぞれが、自分に渡された役目の重さを測っている。忠誠を誓う必要はない。拍手も要らない。こういう場で熱を上げると、だいたい後で面倒になる。
私は最後に言った。
「市民は連邦への反感を強めている」
誰も表情を変えない。だが、全員知っている。
「それを都合よく使うな。民の敵意は燃料にはなるが、操舵にはならん。兵が市民の怒りを借りて威張り始めたら、その軍はすぐ腐る。お前たちが扱うべきなのは怒りではなく秩序だ」
デラーズが姿勢を正した。
「心得ております」
ランバ・ラルも続く。
「兵が威張れば、まず足元から崩れます」
ユーリは静かに言った。
「接面警備の規律を先に固めます」
それで十分だった。
ドズルが大きな手で名簿を裏返し、そこでふと眉を寄せた。
「一人足りねえな」
私は分かっていたが、あえて黙る。
「ガルシア・ロメオがいねえ」
会議室の空気が、ほんの少しだけ緩んだ。笑いというほどではない。喉の奥で形になりかけて、誰も出さない類のものだ。
私は椅子にもたれた。
「切った」
ドズルがこちらを見る。
「早えな」
「考えるだけ無駄だ」
「そんなに駄目か」
「駄目だ」
キシリアが横で淡々と添える。
「長く置くと、そこだけ空気が鈍るのよ」
マ・クベが小さく言った。
「倉にも入れたくありませんな」
今度はドズルの鼻からだけ、少しだけ音が漏れた。
「ま、兄貴がそう言うならそうなんだろうよ」
「そうだ」
それで話は終わった。ガルシアについては、その程度でいい。大仰に評する価値もない。
会議が散る。
デラーズは真っ直ぐ出ていった。もう頭の中で艦の順を組み始めている顔だった。ランバ・ラルはドズルと二言三言だけ交わし、無駄なく去る。ギニアスは資料を抱えたまま、何か言いたげにして結局言わなかった。ユーリは誰より静かに消え、コンスコンは編制表を指で叩きながら出る。マハラジャはセシリアに一礼し、マ・クベは部屋を一度見渡してから去った。
人が減ると、会議室は急に広くなる。
デギンがその空いた椅子を見て言った。
「骨は入ったか」
「ひとまずは」
「よい顔もあれば、扱いの難しい顔もある」
「顔がよいだけの者よりはましです」
父は低く笑った。
「昔のお前なら、もっと飾った言い方をしただろうな」
「昔の私は、飾りで死にかけた」
キシリアが立ち上がる。
「それにしても、兄上にしてはずいぶん正直な人選だったわね」
「軍は嘘で作れん」
「諜報は作れるけれど」
「知っている」
彼女は封筒を一つ机へ置いた。
「駐留軍の巡回経路。ユーリに回した方がいい場所だけ抜いてある」
「助かる」
「礼はいらないわ。こっちの網まで巻き込まれたら困るだけ」
そう言って出ていった。あの女は、手を貸す時ほど貸した顔をしない。
ドズルはまだ残っていた。
「ランバは使える」
「そうだな」
「腹の話をしても、ちゃんと通じる顔してた」
「お前はそこしか見ないのか」
「そこが抜けると大抵全部抜ける」
それも正しい。軍というのは、案外そういうものだ。
ドズルは少しだけ声を落とした。
「兄貴」
「何だ」
「連邦の駐留軍、あいつらまだ増えるか」
「増える」
「だろうな」
「だが、増やしたところで同じだ。兵を置けば置くほど、市民の敵意は濃くなる。向こうはそれを分かっていて、やめられん」
ドズルは腕を組んだ。
「だったら、こっちはその前に足腰作っとくしかねえな」
「そのための今日だ」
「分かった」
それでドズルも出ていった。
部屋に残ったのは私とセシリアだけになる。
彼女は散った紙を束ね直し、誰に見せる紙か、誰に見せない紙かで重ね方を変えていく。いつ見ても正確だ。正確なものは、それだけで人を安心させる。国という大雑把な生き物には、そういう部品が要る。
「うまく並びました」
「まだ並べただけだ」
「並べ方で九割決まるものもあります」
私は窓の方を見た。外では、連邦駐留区の塔が少しだけ明るい。予備電源でも回しているのだろう。こちらの居住区より、あちらの方が灯りが整っている夜がある。それだけで市民の顔は曇る。曇った顔は、そのうち怒りへ変わる。
だが、怒りは軍の骨にはならない。
今日必要だったのは、怒りより先に椅子を埋めることだった。誰をどこへ座らせるか。軍というものは、旗の前にだいたい人事表の上で生まれる。
セシリアが最後の名簿を差し出す。
「正式な発令文にしますか」
「まだだ。内示で回せ」
「理由は」
「働きぶりを見る」
「集めたその日にですか」
「集めたその日にだ」
彼女は頷いた。
「では、ガルシア・ロメオの欄は」
「空欄のままにしておけ」
「わざとですか」
「わざとだ。空席は、案外よく喋る」
セシリアはその意味をすぐ理解した顔をした。
「承知しました」
扉が閉まる。
私はもう一度、机の上の名簿を見た。名前の並びは、それだけで未来の地図になる。よい地図とは、派手な色分けのことではない。道に迷わないことだ。
連邦はまだこちらを自治体の延長だと思っている。
なら、その勘違いが解ける頃には、こちらの軍はもう勘違いでは済まない形になっていなければならない。
机の端には、一本の赤線が残っていた。ガルシア・ロメオの名を消した線だ。
悪くない始まりだった。
ガルシア登場前に退場。