妹に撃たれない方法   作:Brooks

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第43話 軍の眼

 

 

新移民向けの居住環――外周部に増設された仮設居住ブロックでは、噂は水より先に回る。

 

人数が増えたからだ、と言ってしまえばそれまでだった。知らぬ顔同士が同じ通路を行き交い、同じ配給箱の前に並び、同じ薄い壁の向こうで眠るようになると、確かな話より、確からしく聞こえる話の方が早く広がる。

 

七月の終わり、第二居住環の仮設市場で最初に囁かれたのは、来月から新移民区画の電力を先に絞るらしい、という話だった。

 

暖房が落ちる。 給湯も怪しい。 新しい小型炉は軍が先に持っていく。 古い住区は守られても、新しい居住環から先に削られる。

 

最初に誰が言い出したのかは曖昧だった。だが、半日もすると、話だけが一人で歩き始めた。市場を抜けるころには、配給の列の方がその話をよく知っていた。

 

午後には、同じ噂が工区で別の顔になった。

 

今度は、小型炉の次段試験は止まるらしい、という形だった。止まったのではない、止められたのだ。いや、部材が消えたのだ。いや、消えたのではなく、軍が先に押さえたのだ。

 

一つの噂が場所を変えるごとに、別の都合を着込む。居住環では暮らしの話になり、工区へ入ると仕事の話になる。

 

そのどちらも、まったくの嘘ではなかった。

 

連邦が工区向けの大口電力と仮設送電を締めているのは事実だった。炉の保守部材も、認証だの再確認だので遅れがちだ。だから噂は完全な嘘にはならない。半分だけ本当な話は、人を一番よく疲れさせる。残りの半分に勝手な不安が寄り集まって、勝手に太るからだ。

 

第二居住環の配給所で、列が初めて本当に崩れかけたのは、その夕方だった。

 

前の方で、保存食を抱えた女が窓口へ半歩出る。 後ろの男が「本当なのか」と声を上げる。 さらにその後ろで、誰かが押した。子を抱いた母親がよろめき、小さな水筒が腕から滑り落ちて床を打った。

 

乾いた音がした。

 

たったそれだけの音だったが、それまで低く沈んでいた空気が、一度に細く尖った。

 

警備兵が一歩前へ出かける。 その肩を、横から伸びた手が軽く押さえた。

 

「お前はそこへ立つな」

 

ユーリ・ケラーネだった。

 

兵ははっとして足を引く。ユーリはそのまま列の正面へ出たが、窓口を塞ぐようには立たない。人の真正面ではなく、少し脇へ体を流す。壁のように見える位置を避けたのだ。

 

「暖房が落ちるって本当かい」

 

最初に声を上げた女が訊いた。

 

「現時点で、その予定はありません」

 

「現時点で、だろ」

 

「今分かっていることだけを、今は申します」

 

声音は低く、平板だった。宥めもしない。怒鳴り返しもしない。ただ、余計な感情を混ぜない。

 

「列を二つに分けろ」

 

ユーリは後ろの兵へ言った。

 

「受け取りと問い合わせを混ぜるな。通路を空けろ。子連れを先に通せ」

 

兵が動く。もう一人の兵は窓口の前で固まりかけたが、ユーリが目だけで動かした。

 

「帳面は閉じるな。見えるように置け」

 

窓口の女が配給表を表へ出す。それだけで、後ろからの押しが少し緩んだ。閉じた窓口は人を焦らせる。見える帳面は、それだけで一つの抜け道になる。

 

「水はどうなんだ」

 

別の男が訊く。

 

「落ちません」

 

「信用していいのか」

 

「私ではなく、水を見てください」

 

ユーリは短く答えた。

 

「今夜止まらなければ、明日も同じ問い方ができます」

 

愛想のある答えではなかった。だが、こういう時、人は愛想より明日の形に反応する。

 

配給所からの報せが首相府へ入るころには、工区の方でも別の火が上がりかけていた。

 

工区の食堂は、腹を減らして荒れる時より、静かな時の方が嫌だ。匙の音が減り、耳だけが動いている。誰もまだ席を立たない。だが、全員がいつ立つかを考えている。そういう沈み方だった。

 

ドズルは食堂へ入るなり顔をしかめた。

 

「始まってるな」

 

ラルが箸を置く。

 

「腹ではありませんな」

 

「分かってる。帰りの顔だ」

 

工区の人間が不安になる時、最初に崩れるのは気力ではない。帰りの足だ。今日は戻れるのか。明日また来ていいのか。そこが揺らぐと、人は持ち場より先に心を抜く。

 

食堂の奥で、若い労務者が立ち上がりかけた。

 

「どうせ、こっちは後回し――」

 

そこへドズルの声が飛ぶ。

 

「座れ」

 

怒鳴ったわけではない。だが、よく通る声だった。

 

若い男が立ったまま固まる。隣の年嵩の工員が、その袖を引いて椅子へ戻した。

 

ドズルは副官へ向き直る。

 

「戻りの便を増やせ。今夜だけでいい。裏の保守路も使え」

 

「今からですか」

 

「今からだ。水も出せ。飯も回せ」

 

「備蓄を」

 

「使え。足りなきゃ軍の炊事班を引っ張れ」

 

ラルが低く言った。

 

「兵を見せる話ではないでしょう」

 

ドズルは鼻を鳴らす。

 

「分かってる」

 

「先に兵の顔が見えると、噂よりそちらを覚えます」

 

それだけで十分だった。

 

水が先に回る。戻りの便が増えると伝わる。飯が来る。人は、そういうもので一晩くらいは持つ。

 

港では、デラーズが別のものを見ていた。

 

部材が消えたことそのものではない。 その話が、倉庫の確認より先に港へ回っていることだった。

 

小型炉次段試験用の周辺制御部材が合わない、という話は、まだ保税倉の帳簿を見返している最中に、荷役事務へ届いていた。荷役事務だけではない。外周航路の誘導管制にまで流れている。

 

デラーズは台帳を閉じた。

 

「順番がおかしい」

 

副官が顔を上げる。

 

「部材ではなく、ですか」

 

「物は後でいい」

 

デラーズの声は低い。

 

「だが、倉庫の中の話が、倉庫の確認より先に港へ出るのは良くない。誰かが途中で横へ流している」

 

「どこから洗います」

 

「最初に『消えた』と口にした者からだ。話の中身ではない。順を追え」

 

副官が急いで書きつける。

 

「噂ではなく、伝わった順を」

 

「そうだ。噂は勝手に膨らむ。だが順は、誰かが作る」

 

彼が見ていたのは、人心ではない。報告と情報の漏れ方だった。

 

コンスコンは、その漏れを数で塞ぐ方へ回っていた。

 

全部を守るつもりはない。 全部を守るふりもしない。 だが、薄くしてはならぬところだけは決める。

 

「新移民区画の見せる兵は減らせ」

 

若い士官が驚く。

 

「よろしいのですか」

 

「よろしい」

 

コンスコンは編制表へ指を置いた。

 

「増やすのは護衛便だ。工区行きと住区戻りの節だけ厚くする」

 

「港は」

 

「今のままで足りる。兵は増えませんな。なら、見せる場所だけ決めるしかない」

 

若い士官が書き取る。

 

「全部へは回せませんか」

 

「諦めろ」

 

コンスコンは短く言った。

 

「全部へ手を出すと、全部が薄くなる」

 

派手さはない。だが、古い軍人の重さはあった。

 

保税倉では、マ・クベが帳簿を見ていた。

 

「消えたのではありませんな」

 

立会いの係官が聞き返す。

 

「では何と」

 

「隠したのです」

 

彼は二枚の票を重ね、三枚目をずらす。

 

労務者名簿。 仮引当票。 搬入先一覧。

 

それぞれ一枚なら整って見える。だが重ねると、人がいることになっていていない。資材が引かれていて届いていない。両方に同じ部材が座っている。

 

「この手の帳簿は、足りぬ時ほど人に媚びます」

 

マ・クベは静かに言った。

 

「物が消えたのではありません。減り方が汚いだけです」

 

係官の喉が鳴る。

 

「架空人員、ですか」

 

「それだけではありません」

 

マ・クベは別の票を抜いた。

 

「こちらは住区建設用。こちらは試験線用。どちらにも同じ部材がぶら下がっている」

 

「そんなことが」

 

「起きますとも。国が太れば、最初にこういう虫が湧く」

 

彼は倉の奥を見た。

 

「その棚を開けなさい」

 

倉番の手が一瞬遅れた。それで十分だった。

 

棚の奥から出てきたのは、帳簿の上では既に別用途へ回ったことになっている小型炉周辺制御部材だった。

 

「ほら」

 

マ・クベの声は細い。

 

「外へ出たのではありません。見えなくしただけです」

 

マハラジャ・カーンは現場へ出なかった。

 

その代わり、戻ってきた若い士官と副官を一人ずつ座らせ、同じ件を二度聞いた。 一度目は好きに喋らせる。 二度目は、何が足りなかったかだけを言わせる。

 

最初の士官は、自分がどれだけ早く動いたかを先に話した。住区で列を押さえたこと、工区へ伝令を飛ばしたこと、兵を下げたこと。マハラジャは途中で止めなかった。ただ最後まで聞いてから、紙を閉じた。

 

「足りなかったものは」

 

若い士官が一瞬黙る。

 

「……人手、でしょうか」

 

「違う」

 

マハラジャの声は静かだった。

 

「お前は最初に、自分の働きを話した。そういう時に足りないのは、たいてい人手ではなく目だ」

 

士官は顔を強張らせた。

 

次の副官は、戻ってくるなり先に言った。

 

「配給所の通路が狭すぎました。兵を出す前に、列を割るべきでした」

 

マハラジャはそこで初めて頷いた。

 

「そういう報告をする者を残しなさい」

 

傍らの書記が顔を上げる。

 

「功績ではなく、ですか」

 

「功績はあとで足せる」

 

マハラジャは短く言った。

 

「だが、自分の顔より先に欠けを言える者は、崩れた時にも残る」

 

キシリアのところへは、別の方角から同じ臭いが上がっていた。

 

最初に居住区で電力制限の噂を流したのは、連邦系投資筋と繋がる情報屋だった。だが、それを工区向けに「小型炉は軍が独占する」へ変えたのは、公国内の下請け商会だ。連邦の締めつけに、内側の小利が乗る。混じり方としては、いかにもありふれていて厄介だった。

 

「外だけが敵なら、どれだけ楽かしら」

 

キシリアは報告書を閉じた。

 

「全部摘みますか」

 

部下が問う。

 

「全部は要らない」

 

「商会の方は」

 

「泳がせる。金の線だけ押さえなさい」

 

「連邦筋は」

 

「まだ浅くていい」

 

キシリアは立ち上がる。

 

「今切るのは、すぐ石を投げる馬鹿だけ。それ以外は、今はまだ使える」

 

ギリアムは、その間ずっと紙を整えていた。

 

今回は四十一話のように大きく打つ場ではない。勝ち誇る紙面は、こういう時には火を増やすだけだ。

 

保税倉内確認作業中。 居住区配給・給水に変更なし。 工区向け搬入便は予定どおり再編。 苦情受付窓口を拡張。

 

短い文。感情のない文。 その分だけ、火の回りは遅くなる。

 

夕刻、首相府の机に報告が戻った。

 

ギレンは一枚ずつ目を通した。

 

噂が立つことも、帳簿の中で物が抜かれることも、最初から予想の内だった。見たかったのはそこではない。こういう腐りが出た時、誰が最初にどこへ手を入れるか。それだけだ。

 

キシリアが向かいの椅子へ腰を下ろした。

 

「どうだったの」

 

ギレンは最後の紙を置いた。

 

「悪くない」

 

「兄上にしては甘いわね」

 

「甘くはない」

 

ギレンの声は低い。

 

「港から入ったのが一人」

 

キシリアが目を細める。

 

「デラーズ」

 

「帳簿の減り方から入ったのが一人」

 

「マ・クベ」

 

ギレンは続ける。

 

「人が崩れる場所を先に塞いだのが一人。兵を前へ出さなかったのが一人」

 

「ユーリとラル」

 

「器を先に作ったのが一人」

 

「コンスコン」

 

「人ではなく、報告する顔を見ていたのが一人」

 

「マハラジャ」

 

キシリアがそこで少しだけ笑った。

 

「答えより、入口が欲しかったわけね」

 

「答えは後でいい」

 

ギレンは言った。

 

「入口を間違えると、潰せる腐りも手間が掛かる」

 

セシリアの手がそこで一瞬だけ止まった。だが何も言わず、次の一枚を差し出す。

 

「小型炉次段試験、予定どおり移行可能とのことです」

 

ギレンは受け取り、目を通し、机の右へ置いた。

 

「進めろ」

 

それだけだった。

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