妹に撃たれない方法   作:Brooks

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第45話 優性人類生存説

 

八月のズムシティは、工事の音で朝が始まるようになっていた。

 

外縁工区へ向かう搬送艇の唸り、外壁補修用の作業灯が切り替わる明滅、新移民住区へ流れ込む雑多な荷の擦れる音。そのどれもが、役所の始業より早く街を起こす。通路を歩けば知らぬ顔に肩が触れ、食堂へ入れば席が足りず、保管区画の前では朝から台車が列を作る。伸びている、と誰もが感じていた。感じているからこそ、今のサイド3に足りないものが、資材や人手だけではないこともまた分かり始めていた。

 

名前だ。

 

いま自分たちが何になりつつあるのか、それを言い切る言葉を、街全体が欲しがっていた。

 

中央講堂で行われるギレン・ザビの講話は、その朝から妙な熱を帯びていた。名目は国是に関する基本方針の発表。だが、それだけだと思っている者はほとんどいない。最近のサイド3に足りぬのは工事でも炉でもなく、そういう大きな言葉だと、肌で感じている者が多かったからだ。

 

もっとも、講堂へ入れる人間は限られていた。

 

デギン、公国政府高官、軍務府の上層、招待記者、それに最低限の中継班。ほかは各持ち場で映像を受ける。工区の公営端末、軍務府の応接室、宇宙港の管制室、保税区画の会議室、主要居住区の共用映像室。今のサイド3は、何かがあるたび人を一室へ集められるような大きさではなくなっている。

 

その一方で、声を遠くまで届ける仕込みの方は、もうだいぶ前から進んでいた。

 

他サイドの中堅紙のいくつかは、ここ半年で妙にサイド3寄りの紙面を作るようになっていた。経営難だった通信社は、設備更新の資金を得て紙質まで上がった。論説誌の広告欄には、聞き慣れぬ中立商社の名が増えた。どの資本がどこから入ったかを表で口にする者はいない。だが紙の匂いというものは変わる。変わった匂いは、たいてい金で分かる。

 

首相府の執務室では、セシリアが最後の束を机へ置いていた。

 

同じ講話の要旨でも、紙は一種類ではない。公営放送用の要約。中堅紙向けの短い抜粋。通信社が見出しにしやすい一文だけを前へ出した文面。他サイド向けには、公国民ではなくスペースノイド全体へ開いた響きを強めた稿。連邦軍寄りの通信社へ流れれば、最も怒りやすい一行が先に目へ入るように並べた要旨まである。

 

セシリアは紙を整えながら言った。

 

「公営放送向けはこれです。各通信社向けの先行文面は別便で回しています」

 

「軍が怒る行は」

 

「先に流れております」

 

ギレンはそこでようやく目を上げた。

 

「他サイド向けは」

 

「スペースノイド全体へ開いた言い方を前へ出しました。サイド3だけの思想には見えません」

 

「いい」

 

セシリアは頷いて下がる。余計な確認はしない。今どの一節がどこへ走るかを、彼女ももう把握している。

 

窓辺にはキシリアがいた。会場の飾りや招待客ではなく、紙の流れと受け手の顔の方を見ている目だった。

 

「今さらそれを公に出すの」

 

ギレンは襟を直しながら答えた。

 

「出す時期だ」

 

「軍は食うわね」

 

「食わせる」

 

「議会は引く。商人は寄る。他サイドは嫌悪と共感の間で揺れる」

 

ギレンは否定しない。

 

キシリアは机に置かれた別稿の束を指先で弾いた。

 

「軍向けに強い一節、他サイド向けに開いた一節、連邦の新聞が喜んで抜きそうな一節。ずいぶん手が込んでいるわ」

 

「向こうが喋りたくなるように置いただけだ」

 

キシリアは薄く笑った。

 

「兄上は、いつも自分が喋るより相手に喋らせる時の方が機嫌がいい」

 

「そう見えるか」

 

「見えるわ」

 

彼女はそこで紙から客席の図面へ視線を移した。

 

「理屈は粗い。でも、そういう方が人は食う」

 

「食えば十分だ」

 

「効きすぎると後で面倒よ」

 

ギレンは短く答えた。

 

「知っている」

 

「兄上が、ではなく周りがね」

 

二人とも、その先を知っている。こういう言葉は、使う者より先に周囲が酔う。若い士官、野心のある官僚、言葉で自分を大きくしたがる人間。前の生でその先に何が育ったかを、兄も妹も覚えている。

 

「なら、お前が拾え」

 

キシリアは肩をすくめた。

 

「そうするわ」

 

講堂は、始まる前から静かだった。

 

熱気はある。だがそれを外へ漏らすのが野暮だと、そこにいる者がみな知っている静けさだ。デギンは一段奥に座り、何も言わず前を見ている。ギリアムは横の中継席で職員へ短い指示だけを飛ばす。

 

「開演直後の拍手は拾わなくていい。声を先に通せ」 「要旨の第一便は開始一分後」 「中堅紙向けは全文ではなく、抜粋を先に」

 

部下が短く答え、動く。ギリアムはそれ以上喋らない。紙面はいつも、喋りすぎた者から崩れる。

 

ドズルは講堂にはいなかった。軍務府の応接室で、副官や数人の将校と一緒に映像を受けている。ラルは工区の端末の前、デラーズは宇宙港の管制室、マ・クベは資材管理区画の小会議室で、それぞれ放送開始を待っていた。

 

講堂の照明が落ち、ギレンが演壇へ立つ。

 

最初の数分は、誰でも言えそうな話だった。

 

宇宙移民の歴史。 サイド3の発展。 連邦の圧力にもかかわらず、自立へ向かいつつある現状。

 

それだけなら、よく整った国家方針の講話で終わる。だがギレンは、そこで止めなかった。

 

「地球に留まることは、もはや安定ではない」

 

その一行で、講堂の空気が変わる。

 

「重力の井戸に閉じこもり、旧い秩序に寄りかかることは、人類の停滞を意味する。宇宙へ出たことは逃避ではない。選別である」

 

記者の手が速くなる。中継を見ていた工区の若い労務者が、思わず端末の前へ半歩出た。宇宙港の管制卓では、デラーズの副官が視線を上げる。資材管理区画では、マ・クベが書類から目を離した。

 

ギレンは客席を見ない。

 

「地球に住む者が旧いのではない。旧いままで地球に留まる者が遅れるのだ」

 

軍務府の応接室で、ドズルが低く鼻を鳴らした。

 

「兄貴はまた、でけえことを言いやがる」

 

副官が返事に困っているうちに、ギレンの声はさらに前へ出る。

 

「宇宙へ適応し、生存の条件を自ら切り開いた者たちこそ、人類の次段階を担う。これはジオン公国だけの話ではない。すべてのスペースノイドに関わる、人類の進路そのものの問題である」

 

そこが肝だった。

 

サイド3だけを持ち上げれば、他サイドは反発する。だが、スペースノイド全体を先に置き、その先頭にサイド3が立つと言えば、少なくとも耳は傾く。

 

ギレンはそのまま一歩も緩めない。

 

「スペースノイドは辺境民ではない。次代の生活様式そのものである」 「我らは生き延びるのではない。先へ進む」

 

そして最後に、はっきりと言った。

 

「これを、優性人類生存説と呼ぶ」

 

講堂はすぐには拍手しなかった。先に起きたのは沈黙だった。人は、大きすぎる言葉を真正面から受けると、まず呑み込む時間を欲しがる。

 

その一拍のあとで、若い士官たちの列から拍手が起きた。続いて工区代表席。さらに民間人の列。熱の回り方が分かる拍手だった。

 

キシリアは演壇ではなく客席を見ていた。軍服の列で強く食っている顔。新移民代表席で、急に背筋の伸びた顔。記者証を持つ手がどの一行で止まり、どの一行で慌てて走ったか。全部を見ている。

 

デギンは表情を変えない。変えないまま、その音だけを聞いている。危険だと分かっている。だが、使えるとも見ている。そういう沈黙だった。

 

工区の端末の前では、ラルが若い作業者の顔つきを見ていた。言葉そのものより、言葉を食ったあとの兵や労務者の顔の方が重要だと知っている男の目だった。

 

「どうですか」

 

横の整備兵が尋ねる。

 

ラルは少し遅れて答えた。

 

「効くでしょう」

 

「よい言葉ですか」

 

「大きすぎます」

 

ラルは端末から目を離さずに言った。

 

「だが、大きい言葉でしか動かぬ顔もあります」

 

宇宙港では、デラーズが一度だけ頷いた。

 

「そう来るか」

 

副官が訊く。

 

「どう見ます」

 

「軍は喜ぶ」

 

デラーズは短く言った。

 

「連邦は怒る」

 

「他サイドは」

 

「連邦の怒り方を見るだろう」

 

それだけで十分だった。

 

講話が終わるより少し早く、紙はもう走り始めていた。

 

サイド1の中堅夕刊は、 スペースノイドは辺境民ではない を取った。

 

サイド2の論説誌速報は、 地球に留まる旧い秩序は遅れる を見出しの下へ据えた。

 

サイド5の経済通信は、 宇宙へ出た人類は次段階にある を前へ出した。

 

そのどれもが、少しずつ違う角度で同じ刃を配っていた。連邦軍寄りの通信社が最も怒りやすい一節を先に流したことも、ギリアムの部署はすでに掴んでいた。だが、それでよかった。

 

夕刻には連邦軍広報が噛みついた。

 

危険思想。 選民扇動。 反連邦的挑発。

 

言葉だけ見ればもっともだ。だが、その「もっともらしさ」の奥にある本音――またスペースノイドが生意気を言った、という顔――が紙面の行間から透ける。そこが弱点だった。

 

議会筋は一枚で怒りきれない。ここで露骨に叩けば、また地球側が上から踏みにじろうとしているように映る。商人はもっと素直だった。同じ夜のうちにサイド3向けの出資と共同事業の打診がいくつか入る。本気で独自の旗を立てるなら、その前に食い込む価値がある。危険だと言いながら、危険だから近寄る。連邦の中が揃わぬのは、いつものことだった。

 

首相府の執務室へ初動だけが戻ってくる。

 

セシリアは紙を整え、机の端へ置いていく。

 

連邦軍広報の第一反応。 議会側の抑制的なコメント。 他サイド中堅紙の見出し。 投資筋からの非公式打診。 そして、公営放送端末の視聴地点ごとの反応の簡潔な報告。

 

ギレンは一枚ずつ目を通した。満足げな顔はしない。ただ、割れ方を確認している顔だった。

 

キシリアが向かいへ腰を下ろす。

 

「軍は強く食ったわね」

 

「ああ」

 

「議会は引いた」

 

「そうだ」

 

「商人は寄った」

 

「いつものことだ」

 

キシリアは他サイド紙の束を見た。

 

「他サイドは、思想そのものより先に連邦の顔を見る」

 

「そうなる」

 

「だから先に怒らせたのね」

 

ギレンは否定しない。

 

キシリアはそこで目を細めた。

 

「効きすぎるわ」

 

「そうでなければ意味がない」

 

「兄上に、ではなく周りにね」

 

ギレンは紙から目を上げた。

 

「知っている」

 

「ならいいの。私は、酔いすぎる連中を別に拾う」

 

「好きにしろ」

 

そこへセシリアが最後の一枚を差し出した。

 

「各紙の初版が出揃いました。抜粋の出方は想定どおりです」

 

ギレンはサイド2の中堅紙を一枚だけ抜き出した。 見出しは短く、しかし強い。

 

宇宙へ出た人類は、地球へ戻らぬ。

 

ギレンはそれを机へ戻した。

 

「いい」

 

その夜、地球では雨が降っていた。

 

テアボロ・マスの屋敷の窓は厚く、雨音を丸めてしまう。外の気配がそのまま入ってこない。キャスバルは、地球の家のそういうところが好きになれなかった。

 

居間ではテアボロが夕刊を広げていた。紙面の下段に、サイド3で行われたギレン・ザビの講話抜粋が載っている。危険思想。選民的な論調。連邦軍の警戒。そういう文字が並ぶ。

 

「嫌な男になったものだ」

 

テアボロが言った。

 

「ザビの長男は」

 

キャスバルは返事をしなかった。その代わり、新聞を手に取る。

 

宇宙へ出たことは逃避ではない。 地球に留まる旧い秩序は遅れる。 スペースノイドは次代の担い手である。

 

目が、そこで止まった。

 

違う、と最初に思った。父上の言葉ではない。父上はこんなふうには言わなかった。

 

だが次の瞬間、もっと嫌なことに気づく。

 

似ている。

 

言葉そのものではない。言葉の置き方だ。地球の古い秩序を一段低く見て、宇宙へ出た側へ歴史の正しさを与える、その手つきが、嫌になるほど似ている。

 

キャスバルの指先に力が入る。紙が小さく鳴った。

 

「……違う」

 

テアボロが新聞から顔を上げる。

 

「何だね」

 

キャスバルはすぐには答えなかった。

 

違う。 父上は、こんなふうに言わなかった。 こんなふうに、人を軍服の下へ押し込むために宇宙を使わなかった。

 

だが、それを言葉にしてしまうと、逆に似ていることを認めるようで嫌だった。

 

「何でもありません」

 

やっとそれだけ言って、新聞を机へ置く。だが手は放さない。

 

アルテイシアは隣室にいる。ここで少しでも声を荒げれば、すぐ来るだろう。キャスバルはそれをしたくなかった。

 

紙面の一行をもう一度見る。

 

スペースノイドは次代の担い手である。

 

認めたくない、と彼は思った。

 

内容ではない。 それをギレンが言っていることが、耐えがたかった。

 

父の言葉の焼き直しだ。 いや、もっと悪い。 父の言葉を、自分の刃に掛け替えている。

 

窓の外では、地球の雨がまだ続いている。重力の下の雨音は鈍く、空の低さをそのまま部屋へ押し込んでくるようだった。

 

キャスバルは新聞を畳んだ。きれいには畳めなかった。端が少しだけ歪んだ。

 

その歪みだけが、いまの彼の中身にいちばん近かった。

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