妹に撃たれない方法   作:Brooks

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第55話 公王の一日

 

 朝、デギン・ソド・ザビはまだ薄暗さの残る私室で目を覚ました。

 

 齢を重ねるにつれ、目覚めは早くなる。若い頃のように寝床へ身体を沈めていられる時間は短い。だがそれを不満と思ったことはなかった。眠りが浅くなった分だけ、朝の静けさを長く持てる。公王という立場には、その静けさの方がよほど貴重だった。

 

 寝台を降り、ゆっくりと肩を回す。侍従の気配はもう扉の向こうにあるが、呼ぶ前にひとまず洗面へ向かった。

 

 湯気の立つ浴室で、肩から胸へ湯を流す。

 

 近頃は、入浴のあとに鏡を見る時間が少しだけ長くなっていた。

 

 昔からそういう手合いに弱かったわけではない。若い者が好みそうな怪しげな薬油や育毛液など、公王家へは山ほど持ち込まれる。ほとんどは匂いばかりが強く、効き目は言葉ほどでもない。だから最初にあれを持ち込んできた商会の男にも、正直、期待はしていなかった。

 

 グレイトグロウ。

 

 なんとも大仰な名だ、と最初は思ったものだ。

 

 だが、鏡の前へ立つと、最近はその大仰さをあまり笑えなくなってきていた。

 

 額の生え際から頭頂へかけて、ほんの薄く、柔らかな影が戻っている。豊かに茂るなどというものではない。せいぜい、雨上がりの石に張る苔のようなものだ。だが、何もなかった場所に薄い緑が差すように、確かに戻ってきたものの気配がある。

 

 デギンは鏡へ顔を寄せ、指先でそっと頭頂を撫でた。

 

「……ふむ」

 

 侍従が後ろで気配だけを震わせる。

 

 笑うまいと堪えているのだろう。

 

「言いたいことがあるなら申せ」

 

「い、いえ」

 

「ない顔ではないな」

 

「以前より、お元気に見えます」

 

「髪の話をしろ」

 

「……以前より、明らかに増しておられます」

 

 そこでデギンはようやく喉の奥で低く笑った。

 

「苔のようにな」

 

「しかし、苔も石に張れば強うございます」

 

「余の頭を岩場扱いするか」

 

「め、滅相もございません」

 

 朝の浴室に、短い笑いが落ちた。

 

 公王として笑うことはあっても、こうして肩の力が抜けた笑いは案外少ない。デギン自身もそれを分かっていたから、近頃はあえてこの話題を口にすることがあった。威厳には関係ない。だが家の空気には関係がある。

 

 衣服を整え、朝食の間へ向かう頃には、屋内の照明もすっかり昼の白さに変わっていた。

 

 朝食の席には、ギレン、キシリア、ドズル、そしてガルマがいた。

 

 こうして全員が揃う日は減ったが、それでも朝だけはなるべく顔を合わせるようにしている。放っておけば、家はすぐに家ではなく役所になる。だからこそ、せめて食卓だけは家族の形を残しておきたかった。

 

 ガルマはまだ少年らしい丸みを顔のどこかに残している。だが、この一年で目の光は少し変わった。母の病と死を見て、家の空気の重さを知り、それでも子であることをやめずにいる。あれは年齢の割に、よく持ちこたえている方だとデギンは思っていた。

 

「眠そうだな、ガルマ」

 

 デギンが言うと、ガルマは慌てて背筋を伸ばした。

 

「い、いえ、父上。少し本を読んでおりましたので」

 

「何の本だ」

 

「鉱業史です」

 

 ドズルが露骨に顔をしかめた。

 

「朝っぱらから眠くなる本だな」

 

「兄上はすぐそう仰います」

 

「だって眠くなるだろうが」

 

 ガルマは少しむっとした顔をしたが、すぐに言い直す。

 

「でも、面白いです。昔は人がつるはしで掘っていたものを、今はモビルワーカーがやっていると考えると」

 

 そこでギレンが湯気の立つ茶器を置いた。

 

「過去を知るのは悪くない」

 

「技術は、前に進む時ほど後ろを知っていた方がいい」

 

 ガルマは素直に頷いたあと、少し間を置いてデギンを見た。

 

「父上は、私に学者になってほしいのですか」

 

 食卓が少し静かになる。

 

 デギンはすぐには答えず、皿の端へナイフを置いた。

 

「なってほしい、とは思う」

 

 ガルマの目が少しだけ揺れる。

 

「学ぶ者は国を支える。剣だけでは国は続かん。数を数え、土を測り、星を読み、人を診る者がいて、初めて国は立つ」

 

「だから学者がよいと?」

 

「学ぶ者であれ、という意味ではな」

 

 ガルマは小さく息を吸った。

 

「でも私は……」

 

 そこで言葉に迷う。

 

 年相応に迷うところが、まだ幼い。

 

「申してみよ」

 

 デギンが促すと、ガルマはきちんと背筋を伸ばし直した。

 

「ドズル兄上のような軍人も、格好良いと思います」

 

 ドズルが思わずパンを落としかけた。

 

「お、おう」

 

「でも」

 

 ガルマは続ける。

 

「ギレン兄上のように、人を動かして、国の形を決めるのもすごいと思います」

 

 キシリアがそこでわずかに笑う。

 

「欲張りね」

 

「……はい」

 

「軍人にもなりたい。政治を担う者にもなりたい。ついでに学者も捨てがたい、と」

 

 ガルマは赤くなった。

 

「そ、そこまでは」

 

「同じことよ」

 

 デギンはそのやり取りを黙って見ていた。

 

 自分の子が何になるか。公王であれ父であれ、それを先に決めたがる。だが、決めて育てた人間は、決められた形にしかならん。ましてガルマは末子だ。上の三人とは違う役を押しつければ、いずれ潰れる。

 

「ガルマ」

 

「はい、父上」

 

「今はまだ、何にでもなりたいでよい」

 

 ガルマは目を瞬かせた。

 

「学びたいなら学べ。剣を取りたいなら取れ。だが、何になるにせよ、国のために要る者になれ」

 

「要る者……」

 

「学者でも、軍人でも、政治を担う者でも、要らぬ者はおる。余は、それになるなと言っている」

 

 ガルマは真面目な顔で頷いた。

 

「はい、父上」

 

 ドズルがそこで大きく笑う。

 

「まあ、兄貴みてえなのは一人で十分だしな」

 

「貴様のようなのも一人で十分だ」

 

 ギレンが返すと、食卓の空気が少しだけ軽くなる。

 

 キシリアは茶を口へ運びながら、横目でガルマを見ていた。あれは値踏みではない。家の中で一番末の子が、どこまで自分の足で立ち始めているかを見ている目だ。母がいなくなってから、ガルマの周囲には自然と隙間が出来た。その隙間を誰がどう埋めるかで、家族の輪郭も変わる。

 

 朝食が終わると、デギンは公務へ向かった。

 

 午前の執務は、数字と面会の連続だった。

 

 食糧プラントの増設計画、外縁鉱区の進捗、連邦側投資家の資金流入、移民受け入れ、物資配分、輸送航路の調整。書類の束は変わっても、問われる中身は同じだ。どこへ何を流せば国が太るか。どこで絞れば崩れるか。国を治めるとは、要するに血の巡りを決めることに近い。

 

 だが、その日、昼前に一度だけ机から離れた。

 

 墓参りのためだった。

 

 霊廟は、ズムシティの喧騒から少し離れた静かな区画にある。内部は冷えた白石で造られ、天井が高い。声を出せばよく響くが、皆あまり声を出さない。そういう場所だ。

 

 最初に、亡き妻の前へ立つ。

 

 生前の名を刻んだ碑文は簡素だった。公王の妻としてより、一人の人間として刻ませたかったからだ。

 

「来たぞ」

 

 誰もいない空間へ、デギンはいつもそう言う。

 

 若い頃は、妻の方がよく喋った。家の中の空気を見て、黙る者に代わって言うべきことを言っていた。ザビ家の女としては柔らかすぎると言う者もいたが、デギンはその柔らかさに何度も救われた。だから死後も、ここへ来るとつい話しかける。

 

「髪が少し戻った」

 

 自分で言って、少しだけ苦く笑う。

 

「見ておれば、笑っただろうな」

 

 返事はない。だが、返事のないことにも慣れた。

 

 次に向かったのは、ジオン・ズム・ダイクンの墓だった。

 

 ここだけ、空気が違う。

 

 亡き友、と言い切るには遠い。

 かつての同志、と言うには近すぎる。

 

 あの男は、人を酔わせる言葉を持っていた。自分にはないものを、確かに持っていた。だからこそ多くの者が集まり、だからこそあの男の死後、残された者たちはその影をどう扱うかで迷い続けることになった。

 

「貴様の名は、まだ生きておる」

 

 デギンは低く言った。

 

「貴様が望んだ形かどうかは知らん」

 

 霊廟の石壁に声がかすかに返る。

 

「だが、名というものは厄介だな」

 

 死んでも残る。

 残るから、人がそれぞれの都合で使う。

 使われるから、本人のものですらなくなる。

 

 ジオン・ズム・ダイクンの墓前に立つたび、デギンは思う。あの男は理念を遺した。自分は国を残している。どちらが重いかは、たぶん死んでも分からない。

 

 それでも今は、自分が生きて決めねばならない。

 

 霊廟を出る頃には、昼の光が回廊の白床へ長く落ちていた。

 

 午後は、出入りの商会との懇談にあてられていた。

 

 公王家出入りの古い商会で、代々ザビ家と取引を重ねてきた家だ。食糧、衣料、嗜好品、薬剤、そして時に表へ出しづらい工業資材まで、商人というものはザビ家の台所をよく知っている。

 

 応接室は霊廟とは逆に暖色の照明で、椅子も柔らかめに作られている。公務といっても、ここでは剣呑な話ばかりをする必要はない。商人は数字と同じくらい、空気で動く。

 

 商会の当主は初老の男で、頭を深く下げながらも目はよく動いていた。

 

「近頃は外縁の工業需要がずいぶん増しております」

 

「増やしておるからな」

 

「それに伴い、生活物資の方も動きが変わって参りました。若い家族連れの移民が増えております」

 

「良いことではないか」

 

「はい。衣料、学用品、保存食、そのあたりが伸びております」

 

 デギンはそこで、ふと訊いた。

 

「育毛剤はどうだ」

 

 当主の目が一瞬だけ揺れた。

 

「……は」

 

「売れているのかと聞いている」

 

「は、はは。おかげさまで、近頃は非常に」

 

「そうか」

 

「公王家でお使いいただいていると聞けば、皆、試したがりますので」

 

「余を広告塔にする気か」

 

「滅相もございません。ただ、実績というものは何より強く」

 

 デギンは笑った。

 

 商人はしたたかだ。だが、したたかでなければ商人など務まらない。国を回すのは忠臣だけではない。こうした利に聡い者もまた必要だ。

 

 夕方には、ようやく執務を終えて私邸へ戻った。

 

 夕食の席は朝より少し静かだ。日中それぞれが別の戦場を歩いてきて、その疲れをまだ肩に乗せているからだろう。その夜の席にいたのは、キシリアとガルマだった。ギレンはまだ執務、ドズルは視察のあとで遅れるらしい。

 

 ガルマは昼より少し眠たそうだったが、朝よりは落ち着いていた。

 

「今日は何をした」

 

 デギンが訊くと、ガルマはすぐに答える。

 

「午前は家庭教師と政治史を。午後は士官候補向けの基礎訓練の見学をしました」

 

「ほう」

 

「面白かったです。まだ子供の訓練なのに、皆、すごく真面目で」

 

 キシリアが肉を切りながら言う。

 

「見学だけで満足したの」

 

「い、いえ」

 

「なら、そのうち自分でやりなさい」

 

「はい、姉上」

 

 ガルマは素直に頷く。その素直さが、時に危うく、時に救いでもある。

 

 デギンはそこで訊いた。

 

「朝の話の続きだ」

 

 ガルマが顔を上げる。

 

「学者、軍人、政治を担う者。どれになるにせよ、なぜそれになりたい」

 

 ガルマは少しだけ考えた。

 

「……皆を守れると思うからです」

 

 キシリアの手が一瞬だけ止まる。

 

「皆、とは?」

 

「家族もですし、公国の人たちもです」

 

 年若い答えだ。青いと言ってもいい。だが、青さを最初から嗤う大人は、だいたい自分の青さを忘れた大人だ。デギンはその答えを嗤わなかった。

 

「守る、か」

 

「はい」

 

「では覚えておけ。守るというのは、甘やかすことではない。時に切り捨てることも、守るに入る」

 

 ガルマは少しだけ顔を曇らせた。

 

「難しいです」

 

「難しいから大人が失敗する」

 

 キシリアがそこで杯を置いた。

 

「でも、その答えは悪くないわ」

 

 ガルマが姉を見る。

 

「ただし、守ると言うなら、自分が何を守れないのかも知っておきなさい」

 

「守れないもの……」

 

「全部は守れない」

 

 キシリアの声は静かだった。

 

「だから順番を決めるの。国か、家か、民か、理念か、自分か。何を先にし、何を後へ回すかで、その人間の形は決まる」

 

 ガルマは難しい顔で考え込んだ。

 

 その様子を見て、デギンはふと、亡き妻ならもっと別の言い方をしただろうと思う。柔らかく、だが逃げずに。キシリアの言葉は正しい。だが正しさは時に鋭すぎる。ガルマにはまだ、少しだけ丸みが要る。

 

「今すぐ答えを出さなくてよい」

 

 デギンは言った。

 

「だが考え続けろ。何を守りたいか。それを決めぬまま力を持てば、人は他人の言葉で動く」

 

 ガルマは真剣に頷いた。

 

「はい、父上」

 

 食事が終わる頃には、窓の外の人工照明も夜の色へ変わっていた。

 

 私邸の廊下を歩き、自室へ戻る。

 

 寝室の照明は落とされ、侍従が寝具を整えている。デギンは上着を脱ぎ、椅子の背へかけた。鏡の前を通る時、朝に見た頭頂へ、ついまた目が行く。

 

「……増えておるな」

 

 独り言のように呟くと、侍従が視線を逸らした。

 

「笑うな」

 

「笑ってはおりません」

 

「今、口が動いた」

 

「安心しただけでございます」

 

「何にだ」

 

「まだお元気でいてくださると」

 

 デギンはそれに答えず、寝台へ腰を下ろした。

 

 公王の一日は、朝から晩まで他人の前で終わる。家族の前でも、臣下の前でも、商人の前でも、墓前でさえ、完全に一人にはなれない。だが寝台へ腰を下ろすこの一瞬だけは、ようやく公王でも父でもなく、ただ歳を重ねた一人の男に戻る。

 

 妻のことを思う。

 ジオン・ズム・ダイクンの顔も、遠くでまだ消えない。

 そして、残った子らの顔が一人ずつ浮かぶ。

 

 国を治めることと、家を守ることは似ている。

 だが、同じではない。

 

 どちらも結局、明日また起きて続けるしかない、という点だけが同じだった。

 

 デギンは横になり、ゆっくりと目を閉じた。

 

 明日になれば、また朝が来る。

 髪の薄い公王の頭に、ほんの少し苔のような影を増やしながら。

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