朝、デギン・ソド・ザビはまだ薄暗さの残る私室で目を覚ました。
齢を重ねるにつれ、目覚めは早くなる。若い頃のように寝床へ身体を沈めていられる時間は短い。だがそれを不満と思ったことはなかった。眠りが浅くなった分だけ、朝の静けさを長く持てる。公王という立場には、その静けさの方がよほど貴重だった。
寝台を降り、ゆっくりと肩を回す。侍従の気配はもう扉の向こうにあるが、呼ぶ前にひとまず洗面へ向かった。
湯気の立つ浴室で、肩から胸へ湯を流す。
近頃は、入浴のあとに鏡を見る時間が少しだけ長くなっていた。
昔からそういう手合いに弱かったわけではない。若い者が好みそうな怪しげな薬油や育毛液など、公王家へは山ほど持ち込まれる。ほとんどは匂いばかりが強く、効き目は言葉ほどでもない。だから最初にあれを持ち込んできた商会の男にも、正直、期待はしていなかった。
グレイトグロウ。
なんとも大仰な名だ、と最初は思ったものだ。
だが、鏡の前へ立つと、最近はその大仰さをあまり笑えなくなってきていた。
額の生え際から頭頂へかけて、ほんの薄く、柔らかな影が戻っている。豊かに茂るなどというものではない。せいぜい、雨上がりの石に張る苔のようなものだ。だが、何もなかった場所に薄い緑が差すように、確かに戻ってきたものの気配がある。
デギンは鏡へ顔を寄せ、指先でそっと頭頂を撫でた。
「……ふむ」
侍従が後ろで気配だけを震わせる。
笑うまいと堪えているのだろう。
「言いたいことがあるなら申せ」
「い、いえ」
「ない顔ではないな」
「以前より、お元気に見えます」
「髪の話をしろ」
「……以前より、明らかに増しておられます」
そこでデギンはようやく喉の奥で低く笑った。
「苔のようにな」
「しかし、苔も石に張れば強うございます」
「余の頭を岩場扱いするか」
「め、滅相もございません」
朝の浴室に、短い笑いが落ちた。
公王として笑うことはあっても、こうして肩の力が抜けた笑いは案外少ない。デギン自身もそれを分かっていたから、近頃はあえてこの話題を口にすることがあった。威厳には関係ない。だが家の空気には関係がある。
衣服を整え、朝食の間へ向かう頃には、屋内の照明もすっかり昼の白さに変わっていた。
朝食の席には、ギレン、キシリア、ドズル、そしてガルマがいた。
こうして全員が揃う日は減ったが、それでも朝だけはなるべく顔を合わせるようにしている。放っておけば、家はすぐに家ではなく役所になる。だからこそ、せめて食卓だけは家族の形を残しておきたかった。
ガルマはまだ少年らしい丸みを顔のどこかに残している。だが、この一年で目の光は少し変わった。母の病と死を見て、家の空気の重さを知り、それでも子であることをやめずにいる。あれは年齢の割に、よく持ちこたえている方だとデギンは思っていた。
「眠そうだな、ガルマ」
デギンが言うと、ガルマは慌てて背筋を伸ばした。
「い、いえ、父上。少し本を読んでおりましたので」
「何の本だ」
「鉱業史です」
ドズルが露骨に顔をしかめた。
「朝っぱらから眠くなる本だな」
「兄上はすぐそう仰います」
「だって眠くなるだろうが」
ガルマは少しむっとした顔をしたが、すぐに言い直す。
「でも、面白いです。昔は人がつるはしで掘っていたものを、今はモビルワーカーがやっていると考えると」
そこでギレンが湯気の立つ茶器を置いた。
「過去を知るのは悪くない」
「技術は、前に進む時ほど後ろを知っていた方がいい」
ガルマは素直に頷いたあと、少し間を置いてデギンを見た。
「父上は、私に学者になってほしいのですか」
食卓が少し静かになる。
デギンはすぐには答えず、皿の端へナイフを置いた。
「なってほしい、とは思う」
ガルマの目が少しだけ揺れる。
「学ぶ者は国を支える。剣だけでは国は続かん。数を数え、土を測り、星を読み、人を診る者がいて、初めて国は立つ」
「だから学者がよいと?」
「学ぶ者であれ、という意味ではな」
ガルマは小さく息を吸った。
「でも私は……」
そこで言葉に迷う。
年相応に迷うところが、まだ幼い。
「申してみよ」
デギンが促すと、ガルマはきちんと背筋を伸ばし直した。
「ドズル兄上のような軍人も、格好良いと思います」
ドズルが思わずパンを落としかけた。
「お、おう」
「でも」
ガルマは続ける。
「ギレン兄上のように、人を動かして、国の形を決めるのもすごいと思います」
キシリアがそこでわずかに笑う。
「欲張りね」
「……はい」
「軍人にもなりたい。政治を担う者にもなりたい。ついでに学者も捨てがたい、と」
ガルマは赤くなった。
「そ、そこまでは」
「同じことよ」
デギンはそのやり取りを黙って見ていた。
自分の子が何になるか。公王であれ父であれ、それを先に決めたがる。だが、決めて育てた人間は、決められた形にしかならん。ましてガルマは末子だ。上の三人とは違う役を押しつければ、いずれ潰れる。
「ガルマ」
「はい、父上」
「今はまだ、何にでもなりたいでよい」
ガルマは目を瞬かせた。
「学びたいなら学べ。剣を取りたいなら取れ。だが、何になるにせよ、国のために要る者になれ」
「要る者……」
「学者でも、軍人でも、政治を担う者でも、要らぬ者はおる。余は、それになるなと言っている」
ガルマは真面目な顔で頷いた。
「はい、父上」
ドズルがそこで大きく笑う。
「まあ、兄貴みてえなのは一人で十分だしな」
「貴様のようなのも一人で十分だ」
ギレンが返すと、食卓の空気が少しだけ軽くなる。
キシリアは茶を口へ運びながら、横目でガルマを見ていた。あれは値踏みではない。家の中で一番末の子が、どこまで自分の足で立ち始めているかを見ている目だ。母がいなくなってから、ガルマの周囲には自然と隙間が出来た。その隙間を誰がどう埋めるかで、家族の輪郭も変わる。
朝食が終わると、デギンは公務へ向かった。
午前の執務は、数字と面会の連続だった。
食糧プラントの増設計画、外縁鉱区の進捗、連邦側投資家の資金流入、移民受け入れ、物資配分、輸送航路の調整。書類の束は変わっても、問われる中身は同じだ。どこへ何を流せば国が太るか。どこで絞れば崩れるか。国を治めるとは、要するに血の巡りを決めることに近い。
だが、その日、昼前に一度だけ机から離れた。
墓参りのためだった。
霊廟は、ズムシティの喧騒から少し離れた静かな区画にある。内部は冷えた白石で造られ、天井が高い。声を出せばよく響くが、皆あまり声を出さない。そういう場所だ。
最初に、亡き妻の前へ立つ。
生前の名を刻んだ碑文は簡素だった。公王の妻としてより、一人の人間として刻ませたかったからだ。
「来たぞ」
誰もいない空間へ、デギンはいつもそう言う。
若い頃は、妻の方がよく喋った。家の中の空気を見て、黙る者に代わって言うべきことを言っていた。ザビ家の女としては柔らかすぎると言う者もいたが、デギンはその柔らかさに何度も救われた。だから死後も、ここへ来るとつい話しかける。
「髪が少し戻った」
自分で言って、少しだけ苦く笑う。
「見ておれば、笑っただろうな」
返事はない。だが、返事のないことにも慣れた。
次に向かったのは、ジオン・ズム・ダイクンの墓だった。
ここだけ、空気が違う。
亡き友、と言い切るには遠い。
かつての同志、と言うには近すぎる。
あの男は、人を酔わせる言葉を持っていた。自分にはないものを、確かに持っていた。だからこそ多くの者が集まり、だからこそあの男の死後、残された者たちはその影をどう扱うかで迷い続けることになった。
「貴様の名は、まだ生きておる」
デギンは低く言った。
「貴様が望んだ形かどうかは知らん」
霊廟の石壁に声がかすかに返る。
「だが、名というものは厄介だな」
死んでも残る。
残るから、人がそれぞれの都合で使う。
使われるから、本人のものですらなくなる。
ジオン・ズム・ダイクンの墓前に立つたび、デギンは思う。あの男は理念を遺した。自分は国を残している。どちらが重いかは、たぶん死んでも分からない。
それでも今は、自分が生きて決めねばならない。
霊廟を出る頃には、昼の光が回廊の白床へ長く落ちていた。
午後は、出入りの商会との懇談にあてられていた。
公王家出入りの古い商会で、代々ザビ家と取引を重ねてきた家だ。食糧、衣料、嗜好品、薬剤、そして時に表へ出しづらい工業資材まで、商人というものはザビ家の台所をよく知っている。
応接室は霊廟とは逆に暖色の照明で、椅子も柔らかめに作られている。公務といっても、ここでは剣呑な話ばかりをする必要はない。商人は数字と同じくらい、空気で動く。
商会の当主は初老の男で、頭を深く下げながらも目はよく動いていた。
「近頃は外縁の工業需要がずいぶん増しております」
「増やしておるからな」
「それに伴い、生活物資の方も動きが変わって参りました。若い家族連れの移民が増えております」
「良いことではないか」
「はい。衣料、学用品、保存食、そのあたりが伸びております」
デギンはそこで、ふと訊いた。
「育毛剤はどうだ」
当主の目が一瞬だけ揺れた。
「……は」
「売れているのかと聞いている」
「は、はは。おかげさまで、近頃は非常に」
「そうか」
「公王家でお使いいただいていると聞けば、皆、試したがりますので」
「余を広告塔にする気か」
「滅相もございません。ただ、実績というものは何より強く」
デギンは笑った。
商人はしたたかだ。だが、したたかでなければ商人など務まらない。国を回すのは忠臣だけではない。こうした利に聡い者もまた必要だ。
夕方には、ようやく執務を終えて私邸へ戻った。
夕食の席は朝より少し静かだ。日中それぞれが別の戦場を歩いてきて、その疲れをまだ肩に乗せているからだろう。その夜の席にいたのは、キシリアとガルマだった。ギレンはまだ執務、ドズルは視察のあとで遅れるらしい。
ガルマは昼より少し眠たそうだったが、朝よりは落ち着いていた。
「今日は何をした」
デギンが訊くと、ガルマはすぐに答える。
「午前は家庭教師と政治史を。午後は士官候補向けの基礎訓練の見学をしました」
「ほう」
「面白かったです。まだ子供の訓練なのに、皆、すごく真面目で」
キシリアが肉を切りながら言う。
「見学だけで満足したの」
「い、いえ」
「なら、そのうち自分でやりなさい」
「はい、姉上」
ガルマは素直に頷く。その素直さが、時に危うく、時に救いでもある。
デギンはそこで訊いた。
「朝の話の続きだ」
ガルマが顔を上げる。
「学者、軍人、政治を担う者。どれになるにせよ、なぜそれになりたい」
ガルマは少しだけ考えた。
「……皆を守れると思うからです」
キシリアの手が一瞬だけ止まる。
「皆、とは?」
「家族もですし、公国の人たちもです」
年若い答えだ。青いと言ってもいい。だが、青さを最初から嗤う大人は、だいたい自分の青さを忘れた大人だ。デギンはその答えを嗤わなかった。
「守る、か」
「はい」
「では覚えておけ。守るというのは、甘やかすことではない。時に切り捨てることも、守るに入る」
ガルマは少しだけ顔を曇らせた。
「難しいです」
「難しいから大人が失敗する」
キシリアがそこで杯を置いた。
「でも、その答えは悪くないわ」
ガルマが姉を見る。
「ただし、守ると言うなら、自分が何を守れないのかも知っておきなさい」
「守れないもの……」
「全部は守れない」
キシリアの声は静かだった。
「だから順番を決めるの。国か、家か、民か、理念か、自分か。何を先にし、何を後へ回すかで、その人間の形は決まる」
ガルマは難しい顔で考え込んだ。
その様子を見て、デギンはふと、亡き妻ならもっと別の言い方をしただろうと思う。柔らかく、だが逃げずに。キシリアの言葉は正しい。だが正しさは時に鋭すぎる。ガルマにはまだ、少しだけ丸みが要る。
「今すぐ答えを出さなくてよい」
デギンは言った。
「だが考え続けろ。何を守りたいか。それを決めぬまま力を持てば、人は他人の言葉で動く」
ガルマは真剣に頷いた。
「はい、父上」
食事が終わる頃には、窓の外の人工照明も夜の色へ変わっていた。
私邸の廊下を歩き、自室へ戻る。
寝室の照明は落とされ、侍従が寝具を整えている。デギンは上着を脱ぎ、椅子の背へかけた。鏡の前を通る時、朝に見た頭頂へ、ついまた目が行く。
「……増えておるな」
独り言のように呟くと、侍従が視線を逸らした。
「笑うな」
「笑ってはおりません」
「今、口が動いた」
「安心しただけでございます」
「何にだ」
「まだお元気でいてくださると」
デギンはそれに答えず、寝台へ腰を下ろした。
公王の一日は、朝から晩まで他人の前で終わる。家族の前でも、臣下の前でも、商人の前でも、墓前でさえ、完全に一人にはなれない。だが寝台へ腰を下ろすこの一瞬だけは、ようやく公王でも父でもなく、ただ歳を重ねた一人の男に戻る。
妻のことを思う。
ジオン・ズム・ダイクンの顔も、遠くでまだ消えない。
そして、残った子らの顔が一人ずつ浮かぶ。
国を治めることと、家を守ることは似ている。
だが、同じではない。
どちらも結局、明日また起きて続けるしかない、という点だけが同じだった。
デギンは横になり、ゆっくりと目を閉じた。
明日になれば、また朝が来る。
髪の薄い公王の頭に、ほんの少し苔のような影を増やしながら。