サイド5、テキサス・コロニー。
キャスバルはテアボロ・マスの商会の倉庫区画の通路を歩きながら、積み上げられたコンテナの番号を目で追っていた。鉱石、機械部品、食料、生活用品。荷の種類も行き先も様々だが、どれも金の流れと人の流れに繋がっている。
戦争でも思想でもなく、まず世界を動かしているのは物流と資金だ。
それが、ここへ来てからキャスバルが最初に学んだことだった。
テアボロは彼に剣も銃も与えなかった。その代わりに帳簿を渡し、船の発着表を見せ、商人たちの会話を聞かせた。キャスバルは最初こそ退屈だと思ったが、すぐにそれが国家や軍よりも現実に近い力であることに気づいた。
アルテイシアはテキサスの生活に少しずつ馴染み始めていた。地球での逃亡生活の頃より表情が柔らかくなり、商会の人間とも普通に話すようになっていた。それでも、兄の顔色を窺う癖はまだ残っていた。
二人にとってここは安住の地ではない。だが、少なくとも追われる側ではない場所だった。
その日、屋敷の使用人が慌てた様子でキャスバルを呼びに来た。
「旦那様がお呼びです。お客様が……その……」
言葉を濁した時点で、ただの客ではないと分かる。
応接室へ入ると、テアボロ・マスの向かいに二人の客が座っていた。
一人は、紫の長い髪を背に流した女性。
もう一人は、まだ少年と呼んでいい年頃の少年。
キャスバルは足を止めた。
キシリア・ザビ。
そして、ガルマ・ザビ。
アルテイシアも後ろから入ってきて、その姿を見た瞬間に息を呑んだ。
部屋の空気が一瞬で張り詰める。
キシリアはゆっくりと立ち上がり、キャスバルとアルテイシアを順に見た。その視線には敵意も侮りもなかった。ただ、相手の成長を測るような冷静さだけがあった。
「久しいな」
それだけ言って、すぐに本題に入った。
「単刀直入に言う。アストライアの死期が近い」
アルテイシアが小さく声を漏らした。
キャスバルの表情は動かなかった。だが、握った拳に力が入る。
キシリアは続けた。
「来るなら今しかない。
だが、ダイクン家の子として来いとは言わん。
アストライアの子として来い」
そこで一度言葉を切る。
「その後どうするかは、お前たちの自由だ」
キャスバルは黙ったままキシリアを見つめた。
ザビ家の口から「自由」という言葉が出るとは思っていなかった。罠かもしれない。政治的な思惑がないはずもない。それでも、母の名を出された以上、無視することもできない。
沈黙が続いた。
その沈黙を破ったのはガルマだった。
「これ……母上から預かってきた」
彼が差し出したのは、小さな布袋だった。刺繍の入った、手作りの袋。アルテイシアはそれを見た瞬間、目を見開いた。
「……これ、母上が……」
袋の刺繍は、子供の頃に見たものと同じ模様だった。アストライアが夜、静かに針を動かしていた姿が脳裏に蘇る。
アルテイシアは袋を受け取ると、両手で抱えるようにして胸に当てた。
キャスバルもそれを見て、何も言えなくなった。政治でもザビ家でもない。そこにあったのは、ただ母の手の記憶だった。
テアボロが静かに口を開いた。
「今回は連れ戻しではない、という理解でいいのだな」
キシリアは頷いた。
「その通りだ。来るかどうかも、その後どうするかも、本人たちに決めさせる」
テアボロはキャスバルとアルテイシアを見た。
「私は止めない。だが勧めもしない。
決めるのはお前たちだ」
しばらくして、キシリアが席を外し、テアボロも別室へ下がった。応接室にはキャスバルとガルマ、少し離れてアルテイシアだけが残った。
ガルマは少し迷ったようにしてから、キャスバルの方を向いた。
「サイド3、すごく変わったよ」
キャスバルは黙って聞いている。
「工場も増えたし、軍もどんどん大きくなってる。
兄上……ギレン兄上が、全部動かしてる」
その言い方に、ガルマの尊敬が混じっているのが分かった。
「国が、前に進んでる感じなんだ。
みんな、これから何かが起きるって顔してる」
少し間を置いて、ガルマは続けた。
「僕は、ドズル兄上みたいな軍人になるつもりだ。
守る力が必要だと思うから」
そして、まっすぐキャスバルを見た。
「君はどうする?」
キャスバルは何も答えなかった。
ガルマはさらに言った。
「ダイクンのような政治家になるんだろう?」
その言葉に、キャスバルの表情がわずかに歪んだ。
父の名。
まだ、軽く口に出していい言葉ではない。
「……まだ決めていない」
それだけ答えるのがやっとだった。
ガルマはそれ以上は何も言わなかった。ただ、少しだけ寂しそうな顔をした。
その後、兄妹だけの部屋。
アルテイシアは布袋を握ったまま言った。
「……行きたい」
迷いのない声だった。
「母上に会いたい。
行かないで、会えなかったら……きっと後悔する」
キャスバルは窓の外を見た。テキサス・コロニーの人工の夜景が広がっている。ここでの生活は静かで、少なくとも命の危険は少ない。
だが、母はサイド3にいる。
「兄さんは、どうなの」
アルテイシアにそう言われて、キャスバルはようやく自分の心を見た。
ザビ家は信用できない。
サイド3へ戻るのも嫌だ。
だが、母には会いたい。
その順番を、ようやく認めた。
「……行く」
小さく、しかしはっきりと言った。
「母上に会うためだけに行く。
その後どうするかは、その時決める」
翌日、テアボロに二人は答えを告げた。
テアボロはしばらく二人を見てから、ゆっくり頷いた。
「行ってこい。
だが忘れるな。お前たちはザビ家の臣下ではない。
私の客人として行け。
そして、帰る場所はここにもある」
その言葉に、アルテイシアは小さく頭を下げた。キャスバルも無言で頷いた。
出発前夜。
キャスバルはベッドに横になったまま、眠れずにいた。
キシリアの言葉。
ガルマの問い。
母の手芸品。
頭の中で何度も同じ言葉が巡る。
ダイクンのような政治家になるのか。
そんなもの、知らない。
父のようになりたいとも、なりたくないとも、まだ言えない。
だが、一つだけははっきりしている。
母には会わなければならない。
会って、そのあと、自分がどこへ立つのかを考えるしかない。
キャスバルは静かに目を閉じた。
テキサスの人工の夜は静かだった。
その静けさの中で、彼の人生はまた大きく動こうとしていた。