妹に撃たれない方法   作:Brooks

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第57話 帰郷と再会

 テキサス・コロニーの朝は、いつものように人工の空が穏やかな青を広げていた。

 

 穏やかであることが、かえって落ち着かなかった。

 

 出発の刻限が決まってから、アルテイシアは妙に静かだった。落ち着いているわけではない。ただ、口を開けば不安がこぼれそうで、それを堪えている静かさだった。昨夜のうちに小さな荷はまとめてある。母に見せたいものを入れては出し、出してはまた入れた跡があった。

 

 キャスバルはそれを見ても何も言わなかった。

 

 何か言えば、自分の方が先に迷いを露わにしそうだったからだ。

 

 テアボロ・マスは、玄関ホールで二人を待っていた。地球で最初に引き取られた頃と違い、もう「守られるだけの子供」ではないと分かっている目だった。それでも、見送る側の目はどうしても父に近くなる。

 

「会うべき相手には会ってこい」

 

 それだけ言って、テアボロはキャスバルを見た。

 

「だが、忘れるな。お前たちは誰かの臣下として行くのではない。私の客人として行く」

 

「分かっています」

 

「帰る場所はここにもある」

 

 アルテイシアが小さく頭を下げる。

 

「ありがとうございます」

 

 テアボロはそれに頷いたあと、ほんのわずかに表情を和らげた。

 

「泣くのは構わん。だが、言うべきことは言ってこい」

 

 その言葉に、アルテイシアの睫毛が震えた。

 

 キャスバルは黙って一礼した。礼の角度はきちんとしていたが、そのまま顔を上げるまでの一拍に、言葉にならないものが詰まっていた。

 

 見送りはそれで終わりだった。

 

 船へ向かう車中、誰もほとんど喋らなかった。キシリアは向かい側に座り、窓の外でも見るように視線をずらしていた。わざと沈黙を保っているのだと分かる。今日は余計な言葉を挟まないと決めているのだろう。

 

 ガルマだけが、何度かアルテイシアの方を見て、しかし何を言ってよいか分からず口を閉じていた。

 

 その不器用さは、キャスバルにとって少しだけ救いだった。取り繕った気遣いより、そういう中途半端な優しさの方がまだ信用できる。

 

 連絡船の待合区画は、朝の移動客で賑わっていた。軍服、作業着、商社員、家族連れ。誰も彼も、自分の行き先だけを見ている。キャスバルはその流れの中に紛れながら、ふと考えた。

 

 ここでは自分たちは、ただの移動客に見えるのだろう。

 

 だが行き先はサイド3だ。

 

 かつての故郷であり、今はザビ家の都であり、母のいる場所。

 

 帰るという言葉では足りない。戻るというには遠い。訪れるというには近すぎる。

 

 船が離床すると、わずかな振動とともにテキサスの港が下へ流れていった。人工重力が少し緩む感覚。機械音。壁の薄い唸り。地球へ降りた時とは逆に、身体の奥が宇宙の軽さを思い出していく。

 

 アルテイシアは窓際に座り、黙って外を見ていた。

 

「怖いか」

 

 キャスバルが訊くと、アルテイシアはすぐには振り向かなかった。

 

「……少し」

 

「そうか」

 

「でも、会いたい」

 

 それだけは、迷いなく言った。

 

「うん」

 

 キャスバルはそれ以上、何も言えなかった。

 

 母に会いたい。その感情だけなら、自分も同じだった。ただそこへ、サイド3という場所そのものへの警戒と、ザビ家の人間に導かれて戻る嫌悪が重なって、簡単に言葉にならないだけだ。

 

 しばらくして、ガルマがそっと近寄ってきた。

 

「具合、悪くない?」

 

 アルテイシアが小さく首を振る。

 

「大丈夫」

 

「そうか……あの、母上、ずっと待ってた」

 

 ガルマはたぶん慰めたかったのだろうが、言ってから少し困った顔になった。待っていたという言葉は、会えなかった時間まで思い出させる。

 

 だがアルテイシアは怒らなかった。

 

「ありがとう」

 

 その一言に、ガルマは少しだけほっとした顔をした。

 

 キャスバルはそのやり取りを見ながら、ガルマが悪い子ではないのだと改めて思う。だから厄介なのだ。憎みやすい相手なら簡単だった。だがこの少年は、ザビ家の末子でありながら、まだ何かに染まり切っていない。

 

 船は予定通りサイド3の港へ入った。

 

 タラップを降りた瞬間、アルテイシアが小さく息を呑んだのが分かった。

 

 人工空の色。照明の白さ。柱の配置。港湾区画の広さ。どれも見覚えがある。だが同時に、以前とは違っていた。軍服の数が増えている。行き交う作業員の足取りが速い。搬送台車の台数も多い。港の空気そのものに、前へ前へと押し出すような気配があった。

 

 ガルマはそれを当然のものとして歩いていく。

 

 キシリアもまた、変化を変化としては見ていない。

 

 自分だけが、その変わりようを異物のように感じている。キャスバルはそのことに、少しだけ苛立った。

 

 移動車の窓から見えるズムシティは、記憶の中の都よりも鋭く見えた。整備された道路。増えた工場区画。遠くに見える建設中の施設。人の数も増えている。活気、と言ってしまえば聞こえはいい。だが活気とは、多くの場合、どこかで誰かが急がされている状態だ。

 

「……変わった」

 

 アルテイシアが小さく呟く。

 

「覚えているのか」

 

「少しだけ。でも、前より……忙しそう」

 

 キャスバルは答えなかった。

 

 忙しいのだろう。国そのものが、どこかへ向かって駆け始めている。あの兄が変えている世界。ガルマの言葉が頭の奥でよみがえった。

 

 移動車が私邸へ近づくにつれ、キャスバルの胸の奥は重くなった。

 

 懐かしいはずなのに、懐かしさに身を預けられない。ここはもう、自分たちの家ではない。子供の頃に出た場所へ、客として戻ってくる。それがどれほど居心地の悪いものか、車が門をくぐる時にはっきり分かった。

 

 玄関ホールに入ると、すぐに一人の女が出迎えた。

 

 クラウレだった。

 

 落ち着いた色の侍女服に身を包み、以前よりも少しだけ大人びて見える。だが、目元の理知的な静けさは変わらない。彼女は兄妹の姿を見ると、深く頭を下げた。

 

「お待ちしておりました」

 

 アルテイシアが先に名を呼びかけかけて、途中で止まる。クラウレも、余計な感情を前に出さない。ただ、その声の柔らかさが、それだけで十分だった。

 

「奥様がお待ちです」

 

 その一言で、アルテイシアの手がきゅっと布袋を握りしめた。あの、ガルマが持ってきた手芸品だ。

 

 クラウレが先に立ち、静かな廊下を案内する。

 

 屋敷の空気は変わっていた。足音が吸われるように静かだ。使用人たちも皆、声を落としている。病人のいる家の空気。そういうものは、どの階層の住まいでも変わらない。

 

 途中、曲がり角の先に一人の男が立っていた。

 

 ランバ・ラル。

 

 軍服姿で、壁際に控えるように立っている。護衛であることは一目で分かった。だが、その視線は監視のものではなかった。キャスバルと目が合うと、ラルは静かに胸へ手を当て、わずかに頭を下げた。

 

 キャスバルも、一拍置いてから同じだけ返した。

 

 言葉はない。

 

 だが、父の時代を知る男が、今ここにいる。その事実だけで胸のどこかがざわついた。

 

 廊下の奥で、ガルマが小さな声を出した。

 

「クラウレさん、アストライア様は……」

 

 クラウレは足を止めずに答える。

 

「今は少し落ち着いておられます」

 

 その言い方に、ガルマもそれ以上は訊かなかった。落ち着いている、という表現が、逆に何を意味するか分かっているのだろう。

 

 母の部屋の前まで来た時、アルテイシアの足が止まった。

 

 扉は閉まっている。そこに手をかければ、会える。だが同時に、その向こうにある現実へ触れることになる。キャスバルもまた、扉の前で立ち止まった。

 

 子供の頃は、こんなふうにためらったことなどなかった。母の部屋へ入るのに許可も決心も要らなかったのだ。

 

 クラウレが静かに二人を見た。

 

「奥様は、お二人をお待ちです」

 

 アルテイシアが頷く。

 

 扉が開いた。

 

 薄い薬草の匂いが漂う。陽光に似せた照明は柔らかく落とされ、部屋の中は白と淡い色で整えられていた。窓際の寝台に、アストライアがいた。

 

 痩せていた。

 

 頬は落ち、腕は布団の上で細く見える。だが、兄妹の姿を認めた瞬間、その顔が驚くほど生きた。

 

「……アルテイシア」

 

 その声を聞いた瞬間、アルテイシアは走った。

 

「母上……!」

 

 寝台へ駆け寄り、膝をつき、アストライアの手を取る。泣くのを堪えようとしたのだろうが、声はすぐに震えた。

 

「来てくれたのね」

 

 アストライアの手もまた弱く細い。だが、その指は確かに娘の頬に触れた。

 

「会いたかった……会いたかったわ」

 

 アルテイシアはそれに答えられず、ただ何度も頷いた。

 

 キャスバルは一歩遅れて部屋へ入った。

 

 目の前の母は、自分の記憶より小さく見えた。いつも柔らかく笑っていたはずの顔が、病で削られている。会いたいと思っていた。そのはずなのに、会えた瞬間、言葉がどこかへ消えた。

 

「……キャスバル」

 

 母が、名を呼ぶ。

 

 それでようやく、彼は寝台のそばまで歩いた。

 

「来てくれて、ありがとう」

 

 キャスバルの喉が詰まる。

 

 本当はもっと言うべきことがあった。なぜ知らせなかった、どうして自分たちを置いていった、そんな子供じみた恨みも、会いたかったというただ一つの思いも。だが、母の前では全部がほどけてしまう。

 

「……会いに来た」

 

 それだけをやっと言うと、アストライアは泣きそうな顔で微笑んだ。

 

「ええ」

 

 その短い応答だけで、もう十分だった。

 

 しばらくは、誰も大きな話をしなかった。

 

 アストライアはアルテイシアの髪を撫で、キャスバルの顔を何度も見た。二人がどこで、どう暮らしていたかを訊く。食事はきちんとしていたか。眠れていたか。寒い思いはしていないか。政治の話でも、ザビ家の話でもなく、ただ母の問いばかりだった。

 

 それがかえって、胸に堪えた。

 

 アルテイシアが布袋を差し出す。

 

「これ……ガルマ様が持ってきてくれたの」

 

 アストライアはそれを見ると、目を細めた。

 

「まあ……まだ残っていたのね」

 

「母上が作ったのでしょう」

 

「ええ。あなたたちが小さい頃に」

 

 そう言って笑う顔は、一瞬だけ昔のままだった。

 

 しばらくして、クラウレがそっと入ってきた。薬の時間なのだろう。彼女は兄妹へ「少しだけ」と目で伝える。アルテイシアは名残惜しそうに母の手を離した。

 

 部屋を出ると、廊下の静けさがひどく冷たく感じられた。

 

 キャスバルはそのまま窓際まで歩き、外の人工空を見た。明るい。国は今日も動いている。工場も港も止まらない。だが、そのすぐ内側で、母は死にかけている。

 

「キャスバル様」

 

 クラウレの声が背後からした。

 

 キャスバルは振り返らない。

 

「奥様は、お喜びでした」

 

 キャスバルは窓の外を見たまま訊いた。

 

「……どのくらいだ」

 

 クラウレはすぐには答えなかった。

 

「長くはございません」

 

 やがて、静かにそう言った。

 

 キャスバルの喉が一度だけ動く。

 

「そうか」

 

「ですが、お会いできました」

 

 クラウレは続けた。

 

「それだけでも、どれほどお喜びか」

 

 キャスバルは何も返さなかった。

 

 クラウレも、それ以上は言わない。ただ、少しだけ視線を和らげた。

 

「奥様は最後まで、お二人のことを誇りに思っておられました」

 

 その言葉だけが、妙に長く胸に残った。

 

 夕刻、医師が出入りし、部屋の中の空気はさらに張り詰めた。アストライアは一度眠りに落ちたが、呼吸は浅いままだった。アルテイシアは部屋のそばを離れたがらず、ガルマも落ち着かない様子で何度も廊下を行き来した。

 

「クラウレさん、アストライア様は大丈夫ですよね」

 

 ガルマが問う声は、子供らしく必死だった。

 

 クラウレは彼の高さに少しだけ視線を落とした。

 

「今はお静かに、お傍にいて差し上げましょう」

 

 肯定でも否定でもない。だが、それが一番誠実な答えだった。

 

 夜が深くなるにつれ、屋敷全体が沈黙に包まれていった。兄妹は部屋の外の長椅子に並んで座った。子供の頃のように並んでいるのに、もうその頃のように無邪気には寄りかかれない。

 

 アルテイシアがぽつりと言う。

 

「会えてよかった」

 

「……ああ」

 

「でも、怖い」

 

 キャスバルは隣を見る。妹は泣きそうなのを堪えていた。

 

「うん」

 

 慰める言葉は浮かばない。大丈夫だとも言えない。だからただ隣にいた。

 

 扉の向こうで、低い声が交わされる。医師か、侍女か。時折、水を替える音。薬瓶の小さな触れ合う音。どれも静かで、だからこそ、終わりが近いことを隠さない。

 

 深夜近く、一人の医師が部屋から出てきた。表情は整えていたが、その整え方そのものが答えだった。

 

「……今夜が山かもしれません」

 

 それだけを告げ、再び頭を下げる。

 

 アルテイシアが唇を噛んだ。キャスバルは立ち上がりかけて、しかしすぐには足が前へ出なかった。

 

 間に合った。

 

 だが、取り戻せたわけではない。

 

 会えた時間が、そのまま別れの時間でもある。

 

 ズムシティへ戻ってきたのではない。

 

 ここはもう、失うために訪れた場所に近かった。

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