テキサス・コロニーの朝は、いつものように人工の空が穏やかな青を広げていた。
穏やかであることが、かえって落ち着かなかった。
出発の刻限が決まってから、アルテイシアは妙に静かだった。落ち着いているわけではない。ただ、口を開けば不安がこぼれそうで、それを堪えている静かさだった。昨夜のうちに小さな荷はまとめてある。母に見せたいものを入れては出し、出してはまた入れた跡があった。
キャスバルはそれを見ても何も言わなかった。
何か言えば、自分の方が先に迷いを露わにしそうだったからだ。
テアボロ・マスは、玄関ホールで二人を待っていた。地球で最初に引き取られた頃と違い、もう「守られるだけの子供」ではないと分かっている目だった。それでも、見送る側の目はどうしても父に近くなる。
「会うべき相手には会ってこい」
それだけ言って、テアボロはキャスバルを見た。
「だが、忘れるな。お前たちは誰かの臣下として行くのではない。私の客人として行く」
「分かっています」
「帰る場所はここにもある」
アルテイシアが小さく頭を下げる。
「ありがとうございます」
テアボロはそれに頷いたあと、ほんのわずかに表情を和らげた。
「泣くのは構わん。だが、言うべきことは言ってこい」
その言葉に、アルテイシアの睫毛が震えた。
キャスバルは黙って一礼した。礼の角度はきちんとしていたが、そのまま顔を上げるまでの一拍に、言葉にならないものが詰まっていた。
見送りはそれで終わりだった。
船へ向かう車中、誰もほとんど喋らなかった。キシリアは向かい側に座り、窓の外でも見るように視線をずらしていた。わざと沈黙を保っているのだと分かる。今日は余計な言葉を挟まないと決めているのだろう。
ガルマだけが、何度かアルテイシアの方を見て、しかし何を言ってよいか分からず口を閉じていた。
その不器用さは、キャスバルにとって少しだけ救いだった。取り繕った気遣いより、そういう中途半端な優しさの方がまだ信用できる。
連絡船の待合区画は、朝の移動客で賑わっていた。軍服、作業着、商社員、家族連れ。誰も彼も、自分の行き先だけを見ている。キャスバルはその流れの中に紛れながら、ふと考えた。
ここでは自分たちは、ただの移動客に見えるのだろう。
だが行き先はサイド3だ。
かつての故郷であり、今はザビ家の都であり、母のいる場所。
帰るという言葉では足りない。戻るというには遠い。訪れるというには近すぎる。
船が離床すると、わずかな振動とともにテキサスの港が下へ流れていった。人工重力が少し緩む感覚。機械音。壁の薄い唸り。地球へ降りた時とは逆に、身体の奥が宇宙の軽さを思い出していく。
アルテイシアは窓際に座り、黙って外を見ていた。
「怖いか」
キャスバルが訊くと、アルテイシアはすぐには振り向かなかった。
「……少し」
「そうか」
「でも、会いたい」
それだけは、迷いなく言った。
「うん」
キャスバルはそれ以上、何も言えなかった。
母に会いたい。その感情だけなら、自分も同じだった。ただそこへ、サイド3という場所そのものへの警戒と、ザビ家の人間に導かれて戻る嫌悪が重なって、簡単に言葉にならないだけだ。
しばらくして、ガルマがそっと近寄ってきた。
「具合、悪くない?」
アルテイシアが小さく首を振る。
「大丈夫」
「そうか……あの、母上、ずっと待ってた」
ガルマはたぶん慰めたかったのだろうが、言ってから少し困った顔になった。待っていたという言葉は、会えなかった時間まで思い出させる。
だがアルテイシアは怒らなかった。
「ありがとう」
その一言に、ガルマは少しだけほっとした顔をした。
キャスバルはそのやり取りを見ながら、ガルマが悪い子ではないのだと改めて思う。だから厄介なのだ。憎みやすい相手なら簡単だった。だがこの少年は、ザビ家の末子でありながら、まだ何かに染まり切っていない。
船は予定通りサイド3の港へ入った。
タラップを降りた瞬間、アルテイシアが小さく息を呑んだのが分かった。
人工空の色。照明の白さ。柱の配置。港湾区画の広さ。どれも見覚えがある。だが同時に、以前とは違っていた。軍服の数が増えている。行き交う作業員の足取りが速い。搬送台車の台数も多い。港の空気そのものに、前へ前へと押し出すような気配があった。
ガルマはそれを当然のものとして歩いていく。
キシリアもまた、変化を変化としては見ていない。
自分だけが、その変わりようを異物のように感じている。キャスバルはそのことに、少しだけ苛立った。
移動車の窓から見えるズムシティは、記憶の中の都よりも鋭く見えた。整備された道路。増えた工場区画。遠くに見える建設中の施設。人の数も増えている。活気、と言ってしまえば聞こえはいい。だが活気とは、多くの場合、どこかで誰かが急がされている状態だ。
「……変わった」
アルテイシアが小さく呟く。
「覚えているのか」
「少しだけ。でも、前より……忙しそう」
キャスバルは答えなかった。
忙しいのだろう。国そのものが、どこかへ向かって駆け始めている。あの兄が変えている世界。ガルマの言葉が頭の奥でよみがえった。
移動車が私邸へ近づくにつれ、キャスバルの胸の奥は重くなった。
懐かしいはずなのに、懐かしさに身を預けられない。ここはもう、自分たちの家ではない。子供の頃に出た場所へ、客として戻ってくる。それがどれほど居心地の悪いものか、車が門をくぐる時にはっきり分かった。
玄関ホールに入ると、すぐに一人の女が出迎えた。
クラウレだった。
落ち着いた色の侍女服に身を包み、以前よりも少しだけ大人びて見える。だが、目元の理知的な静けさは変わらない。彼女は兄妹の姿を見ると、深く頭を下げた。
「お待ちしておりました」
アルテイシアが先に名を呼びかけかけて、途中で止まる。クラウレも、余計な感情を前に出さない。ただ、その声の柔らかさが、それだけで十分だった。
「奥様がお待ちです」
その一言で、アルテイシアの手がきゅっと布袋を握りしめた。あの、ガルマが持ってきた手芸品だ。
クラウレが先に立ち、静かな廊下を案内する。
屋敷の空気は変わっていた。足音が吸われるように静かだ。使用人たちも皆、声を落としている。病人のいる家の空気。そういうものは、どの階層の住まいでも変わらない。
途中、曲がり角の先に一人の男が立っていた。
ランバ・ラル。
軍服姿で、壁際に控えるように立っている。護衛であることは一目で分かった。だが、その視線は監視のものではなかった。キャスバルと目が合うと、ラルは静かに胸へ手を当て、わずかに頭を下げた。
キャスバルも、一拍置いてから同じだけ返した。
言葉はない。
だが、父の時代を知る男が、今ここにいる。その事実だけで胸のどこかがざわついた。
廊下の奥で、ガルマが小さな声を出した。
「クラウレさん、アストライア様は……」
クラウレは足を止めずに答える。
「今は少し落ち着いておられます」
その言い方に、ガルマもそれ以上は訊かなかった。落ち着いている、という表現が、逆に何を意味するか分かっているのだろう。
母の部屋の前まで来た時、アルテイシアの足が止まった。
扉は閉まっている。そこに手をかければ、会える。だが同時に、その向こうにある現実へ触れることになる。キャスバルもまた、扉の前で立ち止まった。
子供の頃は、こんなふうにためらったことなどなかった。母の部屋へ入るのに許可も決心も要らなかったのだ。
クラウレが静かに二人を見た。
「奥様は、お二人をお待ちです」
アルテイシアが頷く。
扉が開いた。
薄い薬草の匂いが漂う。陽光に似せた照明は柔らかく落とされ、部屋の中は白と淡い色で整えられていた。窓際の寝台に、アストライアがいた。
痩せていた。
頬は落ち、腕は布団の上で細く見える。だが、兄妹の姿を認めた瞬間、その顔が驚くほど生きた。
「……アルテイシア」
その声を聞いた瞬間、アルテイシアは走った。
「母上……!」
寝台へ駆け寄り、膝をつき、アストライアの手を取る。泣くのを堪えようとしたのだろうが、声はすぐに震えた。
「来てくれたのね」
アストライアの手もまた弱く細い。だが、その指は確かに娘の頬に触れた。
「会いたかった……会いたかったわ」
アルテイシアはそれに答えられず、ただ何度も頷いた。
キャスバルは一歩遅れて部屋へ入った。
目の前の母は、自分の記憶より小さく見えた。いつも柔らかく笑っていたはずの顔が、病で削られている。会いたいと思っていた。そのはずなのに、会えた瞬間、言葉がどこかへ消えた。
「……キャスバル」
母が、名を呼ぶ。
それでようやく、彼は寝台のそばまで歩いた。
「来てくれて、ありがとう」
キャスバルの喉が詰まる。
本当はもっと言うべきことがあった。なぜ知らせなかった、どうして自分たちを置いていった、そんな子供じみた恨みも、会いたかったというただ一つの思いも。だが、母の前では全部がほどけてしまう。
「……会いに来た」
それだけをやっと言うと、アストライアは泣きそうな顔で微笑んだ。
「ええ」
その短い応答だけで、もう十分だった。
しばらくは、誰も大きな話をしなかった。
アストライアはアルテイシアの髪を撫で、キャスバルの顔を何度も見た。二人がどこで、どう暮らしていたかを訊く。食事はきちんとしていたか。眠れていたか。寒い思いはしていないか。政治の話でも、ザビ家の話でもなく、ただ母の問いばかりだった。
それがかえって、胸に堪えた。
アルテイシアが布袋を差し出す。
「これ……ガルマ様が持ってきてくれたの」
アストライアはそれを見ると、目を細めた。
「まあ……まだ残っていたのね」
「母上が作ったのでしょう」
「ええ。あなたたちが小さい頃に」
そう言って笑う顔は、一瞬だけ昔のままだった。
しばらくして、クラウレがそっと入ってきた。薬の時間なのだろう。彼女は兄妹へ「少しだけ」と目で伝える。アルテイシアは名残惜しそうに母の手を離した。
部屋を出ると、廊下の静けさがひどく冷たく感じられた。
キャスバルはそのまま窓際まで歩き、外の人工空を見た。明るい。国は今日も動いている。工場も港も止まらない。だが、そのすぐ内側で、母は死にかけている。
「キャスバル様」
クラウレの声が背後からした。
キャスバルは振り返らない。
「奥様は、お喜びでした」
キャスバルは窓の外を見たまま訊いた。
「……どのくらいだ」
クラウレはすぐには答えなかった。
「長くはございません」
やがて、静かにそう言った。
キャスバルの喉が一度だけ動く。
「そうか」
「ですが、お会いできました」
クラウレは続けた。
「それだけでも、どれほどお喜びか」
キャスバルは何も返さなかった。
クラウレも、それ以上は言わない。ただ、少しだけ視線を和らげた。
「奥様は最後まで、お二人のことを誇りに思っておられました」
その言葉だけが、妙に長く胸に残った。
夕刻、医師が出入りし、部屋の中の空気はさらに張り詰めた。アストライアは一度眠りに落ちたが、呼吸は浅いままだった。アルテイシアは部屋のそばを離れたがらず、ガルマも落ち着かない様子で何度も廊下を行き来した。
「クラウレさん、アストライア様は大丈夫ですよね」
ガルマが問う声は、子供らしく必死だった。
クラウレは彼の高さに少しだけ視線を落とした。
「今はお静かに、お傍にいて差し上げましょう」
肯定でも否定でもない。だが、それが一番誠実な答えだった。
夜が深くなるにつれ、屋敷全体が沈黙に包まれていった。兄妹は部屋の外の長椅子に並んで座った。子供の頃のように並んでいるのに、もうその頃のように無邪気には寄りかかれない。
アルテイシアがぽつりと言う。
「会えてよかった」
「……ああ」
「でも、怖い」
キャスバルは隣を見る。妹は泣きそうなのを堪えていた。
「うん」
慰める言葉は浮かばない。大丈夫だとも言えない。だからただ隣にいた。
扉の向こうで、低い声が交わされる。医師か、侍女か。時折、水を替える音。薬瓶の小さな触れ合う音。どれも静かで、だからこそ、終わりが近いことを隠さない。
深夜近く、一人の医師が部屋から出てきた。表情は整えていたが、その整え方そのものが答えだった。
「……今夜が山かもしれません」
それだけを告げ、再び頭を下げる。
アルテイシアが唇を噛んだ。キャスバルは立ち上がりかけて、しかしすぐには足が前へ出なかった。
間に合った。
だが、取り戻せたわけではない。
会えた時間が、そのまま別れの時間でもある。
ズムシティへ戻ってきたのではない。
ここはもう、失うために訪れた場所に近かった。