アストライアの死から、どれほど時間が経ったのか分からなかった。
屋敷の中は静まり返っていたが、完全な静寂ではない。人が動く気配、布の擦れる音、水を替える音、低い声で交わされる指示。それらがすべて抑えられたまま流れている。
屋敷全体が、静かに喪に包まれていた。
アルテイシアは母の部屋を離れようとしなかった。クラウレがそばについている。ガルマも途中まで一緒にいたが、夜更けにはキシリアに連れられて自室へ戻されたらしい。幼い彼にとって、あまりにも重い夜だった。
キャスバルだけが、屋敷の回廊に立っていた。
人工の夜空が高く、遠くにズムシティの光が並んでいる。あの光の下で、工場が動き、港が動き、人が働き、国が動いている。母が死んだ夜でも、国は止まらない。
それが妙に腹立たしかった。
だが同時に、それが国家というものなのだとも思った。誰か一人の死で止まるようなものなら、国家など成り立たない。
その国家を動かしているのがザビ家だ。
そのザビ家の長男と、これから話をしなければならない。
クラウレが静かに近づいてきた。
「ギレン様がお話を、と」
キャスバルはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「分かった」
断ることも出来た。今は誰にも会いたくないと言っても許されたはずだ。だが逃げるのも違う気がした。あの男が何を言うか、おおよそ想像はつく。それでも、聞かずに帰るわけにはいかない。
小応接間は灯りが落とされ、机の上のスタンドだけが部屋を照らしていた。政務室ほど固くなく、私室ほど柔らかくもない、半ば公、半ば私の空間だった。
ギレンは窓際に立っていた。
そして、その少し後ろ、壁際にはランバ・ラルが控えていた。軍服姿のまま、背を伸ばし、護衛としてそこにいる。だがその目は、ただ周囲を警戒しているだけではない。この場の行く末そのものを見届けようとしている目だった。
こちらが入ると、ギレンがゆっくり振り返る。その動きに無駄がない。喪の夜であっても、この男の中では思考が止まらないのだと分かる。
「来てくれたか」
声は静かだった。
「母上は亡くなった」
キャスバルはそれだけ言った。
慰めの言葉を長く交わすつもりはない。ギレンも同じだった。
「ああ」
短く頷く。
「惜しい方だった」
それ以上は続けなかった。
沈黙が一度落ちる。
先に口を開いたのはギレンだった。
「単刀直入に言う」
「聞いている」
「独立を勝ち取れば終わりだ、と思っている者は多い」
ギレンの目はまっすぐキャスバルを見ていた。
「だが、それは始まりにすぎん」
「独立の後に来るのは、利害の衝突だ。コロニー同士の主導権争い、資源配分、思想の違い、地球と宇宙の関係――そして、ダイクン派とザビ派の遺恨」
キャスバルは無言で聞いた。
壁際のラルもまた、一言も発さず、その言葉を受け止めている。ダイクンの時代を知る男として、今この場で語られていることの重さを誰より分かっているようだった。
「ダイクン派を潰せば簡単だ、と言う者もいる。だが、それでは独立の直後に内戦の芽を残すだけだ」
ギレンの声は低く、しかし迷いがなかった。
「圧殺ではなく、統合が要る」
「ザビ家の後を平和裏に繋ぐ橋が必要だ」
キャスバルは眉をわずかに動かした。
「その橋が、俺だと言うのか」
「そうだ」
ギレンは迷わなかった。
「お前に才があるなら、ダイクン派をまとめろ。ザビ家を今すぐ倒せと言っているのではない。独立後の秩序を平和裏に継ぐために必要だと言っている」
キャスバルはしばらく黙った。
この男は本気だ。
単なる懐柔ではない。国家の形として、それが必要だと本気で考えている。だからこそ厄介だった。
「お前は父上の名を使いたいだけだ」
キャスバルが言う。
「使う」
ギレンは否定しなかった。
「国家のために必要なら使う」
「だが、それだけではない」
そこで、ギレンの目が少しだけ変わった。
「お前の中に、あの男の残り香がある」
キャスバルの胸の奥がざわついた。
「立っているだけで空気を変える」
「言葉を使わずとも、人を引き寄せる」
「それは利用価値ではなく、才だ」
キャスバルは唇をきつく結んだ。
父を知る者の口から、その言葉を聞きたくなかった。だが、完全に否定しきれない自分もいることが腹立たしかった。
「……復讐するつもりはない」
やがてキャスバルは言った。
「だが、お前たちの中に入る気もない」
ギレンは何も言わない。
「ダイクンの名で人をまとめるつもりもない。ザビ家の飾りにもならない。テアボロと商会をやる。商いの中で生きる」
その答えは、怒鳴るよりも冷たかった。
ザビ家にも、ダイクン派の期待にも、どちらにも乗らないという拒絶だった。
部屋の空気が重く沈む。
壁際のラルは微動だにしない。だが、その沈黙そのものが、このやり取りを刻みつける証人のようだった。
ギレンはしばらく沈黙した。
押せば壊れると分かっている時の沈黙だった。
「……惜しいな」
やがて、ギレンはそう言った。
本心なのだろう。
「それが今のお前の答えか」
「今はな」
キャスバルは短く返した。
それで話は終わった。
キャスバルが踵を返すと、ラルも静かに身を正した。部屋を出る直前、低い声が背に届く。
「それで、よろしいのですか」
キャスバルは足を止めなかった。
「今はな」
それだけを残して、小応接間を出た。
そのまま屋敷へ戻る気にはなれなかった。
母を弔い、そしてもう一つ、どうしても行かなければならない場所があった。
ジオン・ズム・ダイクンの霊廟。
夜明け前の霊廟は冷えた白石の中に静まり返っていた。灯りは絞られ、足音だけが小さく響く。奥へ進みかけた時、誰かの声がした。
低い、老人の声。
キャスバルは反射的に足を止め、柱の陰へ身を寄せた。
墓前に立っていたのは、デギン・ソド・ザビだった。
護衛も侍従もいない。本当に一人だった。
「ジオン」
デギンは墓前へ向かって語りかけていた。
「貴様の名はまだ生きておる」
返る声はない。だがデギンは続ける。
「貴様の望んだ形かどうかは、余にも分からん」
「理想を語ったのは貴様だ。現実を引き受けたのは余だ」
デギンはわずかに頭を垂れた。
「どちらが正しかったか、今でも分からん」
キャスバルは息を殺してそれを聞いていた。
「人は余が貴様を奪ったと言うだろう」
「それは否定できん。だがな、ジオン……余は時々思う」
そこでデギンは少しだけ間を置いた。
「本当に貴様を殺したのは、余だったのか」
キャスバルの胸が強く打った。
「宇宙を飢えさせ、地上だけで物を決め、サイドを数字でしか見ぬ連中」
「貴様を、我らを、そこまで追い詰めたのは、あの連邦そのものではなかったのか」
デギンはそれ以上、長くは語らなかった。
ただ、墓前でしばらく黙って立ち尽くしていた。やがて静かに一礼し、振り返らずに去っていく。
キャスバルはその背を、柱の陰から見送った。
父を奪ったのはザビ家だと思っていた。
その思いは今も消えていない。
だが、それだけでは足りないのかもしれない。
父を追い詰め、宇宙を押さえつけ、地上からすべてを決めるもの。
連邦。
いや、連邦という看板の向こうで、もっと別の力が動いているのではないか。
答えはまだ出ない。
だが、その疑いだけは胸に残った。
テキサスへ戻った夜、テアボロは短く言った。
「なら、次は別の世界を見ろ」
キャスバルが顔を上げると、テアボロは葉巻の煙を細く吐いた。
「政治でも軍でもない」
「金と工業で宇宙を動かしている連中だ」
そして、静かに続けた。
「このコロニーで、会わせたい男がいる」