テキサス・コロニーへ戻ってから、数日が過ぎた。
屋敷の中は以前と変わらず静かだった。人工の朝、規則正しく入れ替わる照明の色、廊下の温度、給仕の足音。何も変わっていないように見える。だが、ひとたび角を曲がるたびに、エドワウはサイド3で過ごした数日の気配を思い出した。
母の息づかい。
白石の霊廟。
ギレンの目。
デギンの独白。
それらが、まだ胸の底に沈み切っていない。
居間の窓際では、アルテイシアが刺繍枠を膝に置いていた。針は布に刺さったまま止まり、彼女の視線は窓の外へ向いている。泣くことは減った。だが、泣かなくなったことが癒えたことを意味しないと、エドワウにも分かった。
アルテイシアはふと顔を上げ、兄を見た。
「どこかへ行くの」
「テアボロ様に呼ばれた」
「……そう」
それだけ言って、彼女はまた視線を布へ戻した。けれど手は動かない。
母を失ってから、彼女は言葉を選ぶようになった。以前ならすぐ口に出していた心配や不安を、一度胸の中で丸めてから相手へ渡すようになった。成長と言えば聞こえはいい。だが、それを喜ぶ気にはなれなかった。
「戻ったら、夕食は一緒に取ろう」
エドワウが言うと、アルテイシアは小さく頷いた。
「うん」
返事は短かったが、その声には少しだけ安堵があった。
テアボロの執務室は、今日も紙と数字の匂いがした。
壁一面の航路図には細い光線が幾重にも走り、机の上には積み上がった書類の束と、価格表、入港予定、保険契約、融資条件、工業資材の在庫表が広がっている。政治家の部屋ではない。軍人の部屋でもない。だが、ここに置かれた数字のひとつが、どこかの工場を動かし、どこかの港を飢えさせる。
テアボロは書類から目を上げた。
「来たか」
「はい」
「座れ」
勧められた椅子へ腰を下ろすと、テアボロは手元の端末を閉じた。短く母の死を悼む言葉を述べ、それきりその話題には触れない。彼なりの配慮なのだろう。傷の上へ慰めを重ねることが、必ずしも優しさではないと知っている男だった。
「昨夜の続きをする」
葉巻を指先で転がしながら、テアボロは言った。
「ザビ家を見た。連邦を疑い始めた。そこまではいい」
エドワウは黙って聞く。
「だが、それだけでは半端だ」
窓の外へ目を向けると、テアボロはゆっくり続けた。
「政治家は国家を見る。軍人は戦場を見る。だが商人は、その両方を動かす流れを見る」
その言い方は、前に聞いた言葉に似ていた。だが、今は前よりよく分かる。ギレンは国家そのものを作ろうとしていた。デギンは国家に押し潰されぬために現実を抱え込んでいた。テアボロは、国家の内側ではなく、その外を流れるものを見ている。
「軍艦は誰の金で作る。工場は誰が建てる。大学は誰が寄付する。軍拡の予算はどこへ流れ、戦争になれば誰が太る」
テアボロは相場表を指で叩いた。
「国の名前だけ見ていると、その先が見えなくなる」
そこで初めて葉巻へ火をつける。細い煙が立った。
「今日は、その先を見せる」
会わせたい男がいる、と第58話の夜に言われていた。その相手がどういう類の人間なのか、エドワウはまだ知らない。ただ、テアボロがわざわざ見せようとする以上、商会の取引先というだけでは済まないはずだった。
「俺を預けるつもりですか」
テアボロは煙越しに片目を細めた。
「誰にだ」
「その男に」
「預けはせん」
即答だった。
「お前はまだ誰のものにもならん方がいい」
そう言ってから、テアボロは少しだけ口元を緩める。
「だが、見ておく価値はある」
管理区画へ続く通路は、居住区のそれとは空気が違った。
壁材の色からして違う。案内板に並ぶ名前も違う。金融機関、研究財団、工業出資連合、教育基金、輸送保険組合。人の歩き方も静かで速い。大声で笑う者はいない。足音と低い会話、靴底の硬い音、認証扉の解錠音ばかりが耳に残る。
テキサス・コロニーは、エドワウにとって避難先であり、第二の生活の場だった。だが今日、初めて別の顔を見た気がした。住むためのコロニーではなく、動かすためのコロニー。物流、工業、教育、資本。その接点がここに集められている。
高層棟の上層階にある一室へ通されると、そこには一見して隙のない空間があった。
壁は明るすぎず暗すぎず、窓は広いが眺望を誇るような高さではない。調度は上質だが、見せびらかす趣味はない。書棚には法務、工学、会計、歴史、政治、宇宙開発の専門書が整然と並び、机の上は整理されている。高価だ。だが、その高価さが主張してこない。
その部屋の主も、そういう男だった。
三十代後半。痩せすぎず太すぎず、姿勢がよく、仕立ての良い服を着ている。笑みはある。だがその笑みの下に、何一つ零れ落ちていない。
「ようこそ」
男は立ち上がった。
「カーディアス・ビストです」
物腰は柔らかい。声も穏やかだ。だが、握手を求める手の角度ひとつにまで無駄がない。鍛えた軍人の動きとは違う。もっと別の、長年人と取引し、人を安心させ、人を値踏みしてきた人間の所作だった。
「エドワウ・マスです」
エドワウが名乗ると、カーディアスはほんのわずかに頷いた。
「ええ、そう伺っています」
それだけの言葉に、薄い刃のようなものを感じた。否定も追及もしない。ただ、言外に「その名で通したいのなら、それで構わない」と置いてくる。知らないふりをする自由を与えているようでいて、実際には相手の仮面ごと受け取っている。
テアボロはそのやり取りを特に補足しなかった。つまり、この二人の間で何が含まれているか、彼も承知の上なのだ。
三人は席に着いた。
最初に交わされたのは、テキサスの工業再編と教育機関への寄付に関する、ごく表向きの話だった。研究棟の拡張。奨学基金。技術者の流出防止。企業と財団と地方管理者との折衝。エドワウには分かる言葉もあれば、分からない言葉もある。
だが、分からないなりに感じることはあった。
ギレンと話した時のような熱はない。デギンと対峙した時のような重さもない。ここにあるのは、もっと乾いた力だ。人を殺すことも、工場を建てることも、法を変えることも、すべて同じ秤の上へ乗せて計るような冷静さ。
しばらくして、カーディアスがエドワウへ視線を向けた。
「少し、あなたの考えを聞いてもよろしいかな」
「俺の、ですか」
「ええ。若い人間が何をどう見るかには、年寄りには見えなくなったものが映ることがあります」
言葉は丁寧だった。だが、試されていると分かる。
「独立とは、感情だと思いますか。それとも採算だと思いますか」
エドワウはすぐには答えられなかった。
父なら、どう答えただろう。ジオン・ズム・ダイクンなら。理想を語ったはずだ。人の尊厳を。宇宙移民の自治を。だが今の自分には、その言葉をそのまま口にすることが出来ない。デギンの墓前で聞いた独白が、ギレンの冷たい論理が、もう知ってしまっている。
「……分かりません」
やっと言うと、カーディアスは失望も嘲りも見せず頷いた。
「正直で結構です。分からぬものを分かった顔で語るより、よほどましだ」
そこで一拍置き、次の問いを投げる。
「では、コロニーは何で動くと思いますか。理念ですか。食料ですか。雇用ですか」
「全部では」
答えながら、自分でも少し曖昧だと思った。
「そうですね。全部です」
カーディアスは微笑んだ。
「では、最後にその『全部』へ順番をつけるのは誰だと思います」
エドワウは答えを探したが、出てこない。
ギレンなら国家と答えるかもしれない。デギンなら現実を見ろと言うだろう。テアボロなら市場だと言うかもしれない。だがこの男の前では、そのどれも少し違う気がした。
「……為政者ですか」
「半分は正しい」
カーディアスは机上の紙片を指先で揃えた。
「為政者は決定します。ですが、何を決定可能なものとして差し出されるかは、別の場所で決まっている」
その言い回しに、エドワウはギレンを思い出した。あの男は国家を盤面にして、その上で人を動かそうとした。だが目の前の男は、その盤面そのものを誰が並べているかの話をしている。
「法も制度も、もちろん重要です」
カーディアスは続けた。
「ですが、それらを現実にするには、資本がいる。工業がいる。教育がいる。人材を集める仕組みがいる」
「連邦は法で支配しているように見えます。ジオンは理念で動いているように見える。けれど実際には、それらを支える基盤の強弱で、未来はかなりの部分まで決まります」
父は未来を信じていた。人は宇宙へ出れば変われると。だがこの男は、未来を信じていない。未来を予測し、配分し、必要なら作るものとして扱っている。
「ジオン・ズム・ダイクンという人物も、そういう意味では興味深い存在でした」
カーディアスは自然にその名を口にした。
「人を動かす力があった。理想は火です。暖を取ることも出来るが、制御を誤れば秩序も焼く」
冷たい言い方だった。
父の理想を、火種と見る。否定ではない。称賛でもない。ただ有用性と危険性として測っている。
エドワウは、それにすぐ反発出来なかった。なぜなら、父の理想が人を集め、同時に人を巻き込むものであったことも、もう知ってしまっているからだ。
「ではザビ家は」
知らず、口に出ていた。
カーディアスはわずかに目を細める。
「野心は扱いやすい」
あまりにもあっさりと言った。
「理想家より、欲で動く者の方が読みやすい。もちろん危険ではありますが、理想に酔った者ほど不規則ではない」
ギレンの顔が頭に浮かぶ。あの男は野心家だ。だが同時に、野心の向こうに国家を見ている。目の前の男はそこすら、扱いやすさの尺度でしか見ていない。
「連邦もまた同じです」
カーディアスは水差しへ手を伸ばした。
「巨大で、腐敗し、硬直している。だが巨大である以上、利用価値がある。器が大きいというのは、それだけで寄生の余地があるということです」
その表現に、エドワウはぞっとした。
デギンは連邦を恐れ、憎み、しかし背負うべき現実として見ていた。ギレンは打倒すべき敵として見ている。だがカーディアスは違う。敵ですらない。利用価値のある器だと言い切る。
「あなたは、どちらの側に立つんです」
問いというより、ほとんど反射だった。
カーディアスは答える前に、ほんの少しだけ首を傾けた。
「立つ必要があるでしょうか」
柔らかな声音だった。
「どちらか一方にのみ立つのは、往々にして視野を狭めます。とりわけ、不安定な時代には」
そこまで言って、カーディアスはエドワウの顔を静かに見た。
「血筋というものは、本人の意思とは関係なく価値を持つことがあります」
やわらかい声音のまま、言葉だけが冷たい。
「特に、正統性が不足している時代には」
エドワウの背筋に冷たいものが走った。
ギレンは自分に役目を与えようとした。橋になれと。国家の中で使おうとした。だがこの男は違う。自分を役目としてではなく、価値として見ている。もっと前の段階で、まだ人間になる前の札として見ている。
その違いが、たまらなく気味が悪かった。
会談はそれ以上、深入りしなかった。カーディアスは自然に話題を教育支援と工業研究へ戻し、テアボロとの間でいくつかの数字を確認した。最後まで礼儀は崩れず、笑みも崩れなかった。
席を立つ時、カーディアスはエドワウへ向かって言った。
「またいらっしゃるといい」
その言葉は親切に聞こえる。だが実際には、もっと別の意味を帯びていた。この男は、自分を手元へ置けた時の価値まで計算している。そう感じた。
廊下へ出て、扉が閉まると、エドワウはようやく息を吐いた。
エレベーターへ向かう間、テアボロはしばらく何も言わなかった。管理棟の窓からは、研究区画へ人が流れていくのが見える。学生らしい若者もいれば、企業の腕章をつけた技術者もいる。軍服はない。だが、ここで作られるものが、やがてどこかの軍港へ流れるのだろう。
「どうだった」
やがてテアボロが訊いた。
エドワウはすぐには答えられなかった。窓に映った自分の顔が、少し強張っている。
「……薄気味が悪い」
やっと絞り出した言葉に、テアボロは短く笑った。
「そうだろうな」
「あなたは、ああいう男と付き合っているんですか」
「付き合っている」
否定しない。
「好きか嫌いかは別だ」
その答えが、いかにもテアボロらしかった。
「国を憎むのは簡単だ」
エレベーターの中で、テアボロは前を見たまま言う。
「だが、国を動かしているものを知らずに憎んでも届かん」
その言葉は、サイド3の夜に聞いた時よりも重かった。
屋敷へ戻ると、アルテイシアは食堂の窓際に座っていた。テーブルの上には、クラウレから送られてきたらしい小さな包みが置かれている。母の遺品の一部だろうか。
「おかえり」
「ただいま」
エドワウが向かいに座ると、アルテイシアはじっと兄の顔を見た。
「疲れてる」
「そう見えるか」
「うん」
少し迷ってから、彼女は続けた。
「嫌な人に会ったの」
エドワウは思わず苦笑した。
「嫌な人、か」
「違う?」
違わない。だが、嫌な人というだけでもない。善意がないわけではないのかもしれない。むしろ彼なりの誠実さすらあるのかもしれない。だからこそ気味が悪い。
「……分からない」
そう答えると、アルテイシアはそれ以上訊かなかった。兄が言葉に出来ない時に、無理に口を開かせても意味がないと知っている顔だった。
夜、自室の窓の前に立つ。
テキサスの人工夜景は整いすぎていて、時々現実味を失う。一定間隔で並ぶ灯り、遠くを流れる搬送車の光、規則正しく点滅する港湾誘導灯。そのどれもが、誰かの設計の中にある。
父を思う。
ジオン・ズム・ダイクンは未来を信じていた。人が宇宙へ出れば変われると、ニュータイプになれると、本気で思っていた。少なくとも、そう語る時の父は偽ってはいなかった。
デギンを思う。
あの老人は理想を捨てたのではない。理想だけでは守れないものがあると知っていた。背負っていた。国を、民を、現実を。汚れも含めて。
ギレンを思う。
冷たい。傲慢だ。だが国家を作ろうとしている。国家という巨大なものの中へ、自分も敵も味方も配置しようとしていた。少なくとも盤の中に、自分もいる。
テアボロを思う。
商人だ。数字を信じ、流れを見る。だが人間を見失ってはいない。だからアルテイシアを放っておけないし、自分を誰かに売り渡しもしない。
そして、今日会った男を思う。
カーディアス・ビスト。
あの男は、盤の中に立っていなかった。
国家も、理想も、現実も、戦争も、全部を外から見ていた。いや、見ているだけではない。必要な時に傾けられるものとして触っていた。
為政者ではない。
為政者を使う側の人間だった。
窓へ映る自分の顔を見ながら、エドワウはゆっくり目を閉じた。
世界を動かしているのは、王でも将軍でも政治家でもないのかもしれない。
それらを動かしている者が、別の場所にいるのかもしれない。
そう思った時、父を奪ったものの輪郭が、また少しだけ大きくなった気がした。