妹に撃たれない方法   作:Brooks

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第59話 別の世界

 

 テキサス・コロニーへ戻ってから、数日が過ぎた。

 

 屋敷の中は以前と変わらず静かだった。人工の朝、規則正しく入れ替わる照明の色、廊下の温度、給仕の足音。何も変わっていないように見える。だが、ひとたび角を曲がるたびに、エドワウはサイド3で過ごした数日の気配を思い出した。

 

 母の息づかい。

 

 白石の霊廟。

 

 ギレンの目。

 

 デギンの独白。

 

 それらが、まだ胸の底に沈み切っていない。

 

 居間の窓際では、アルテイシアが刺繍枠を膝に置いていた。針は布に刺さったまま止まり、彼女の視線は窓の外へ向いている。泣くことは減った。だが、泣かなくなったことが癒えたことを意味しないと、エドワウにも分かった。

 

 アルテイシアはふと顔を上げ、兄を見た。

 

「どこかへ行くの」

 

「テアボロ様に呼ばれた」

 

「……そう」

 

 それだけ言って、彼女はまた視線を布へ戻した。けれど手は動かない。

 

 母を失ってから、彼女は言葉を選ぶようになった。以前ならすぐ口に出していた心配や不安を、一度胸の中で丸めてから相手へ渡すようになった。成長と言えば聞こえはいい。だが、それを喜ぶ気にはなれなかった。

 

「戻ったら、夕食は一緒に取ろう」

 

 エドワウが言うと、アルテイシアは小さく頷いた。

 

「うん」

 

 返事は短かったが、その声には少しだけ安堵があった。

 

 テアボロの執務室は、今日も紙と数字の匂いがした。

 

 壁一面の航路図には細い光線が幾重にも走り、机の上には積み上がった書類の束と、価格表、入港予定、保険契約、融資条件、工業資材の在庫表が広がっている。政治家の部屋ではない。軍人の部屋でもない。だが、ここに置かれた数字のひとつが、どこかの工場を動かし、どこかの港を飢えさせる。

 

 テアボロは書類から目を上げた。

 

「来たか」

 

「はい」

 

「座れ」

 

 勧められた椅子へ腰を下ろすと、テアボロは手元の端末を閉じた。短く母の死を悼む言葉を述べ、それきりその話題には触れない。彼なりの配慮なのだろう。傷の上へ慰めを重ねることが、必ずしも優しさではないと知っている男だった。

 

「昨夜の続きをする」

 

 葉巻を指先で転がしながら、テアボロは言った。

 

「ザビ家を見た。連邦を疑い始めた。そこまではいい」

 

 エドワウは黙って聞く。

 

「だが、それだけでは半端だ」

 

 窓の外へ目を向けると、テアボロはゆっくり続けた。

 

「政治家は国家を見る。軍人は戦場を見る。だが商人は、その両方を動かす流れを見る」

 

 その言い方は、前に聞いた言葉に似ていた。だが、今は前よりよく分かる。ギレンは国家そのものを作ろうとしていた。デギンは国家に押し潰されぬために現実を抱え込んでいた。テアボロは、国家の内側ではなく、その外を流れるものを見ている。

 

「軍艦は誰の金で作る。工場は誰が建てる。大学は誰が寄付する。軍拡の予算はどこへ流れ、戦争になれば誰が太る」

 

 テアボロは相場表を指で叩いた。

 

「国の名前だけ見ていると、その先が見えなくなる」

 

 そこで初めて葉巻へ火をつける。細い煙が立った。

 

「今日は、その先を見せる」

 

 会わせたい男がいる、と第58話の夜に言われていた。その相手がどういう類の人間なのか、エドワウはまだ知らない。ただ、テアボロがわざわざ見せようとする以上、商会の取引先というだけでは済まないはずだった。

 

「俺を預けるつもりですか」

 

 テアボロは煙越しに片目を細めた。

 

「誰にだ」

 

「その男に」

 

「預けはせん」

 

 即答だった。

 

「お前はまだ誰のものにもならん方がいい」

 

 そう言ってから、テアボロは少しだけ口元を緩める。

 

「だが、見ておく価値はある」

 

 管理区画へ続く通路は、居住区のそれとは空気が違った。

 

 壁材の色からして違う。案内板に並ぶ名前も違う。金融機関、研究財団、工業出資連合、教育基金、輸送保険組合。人の歩き方も静かで速い。大声で笑う者はいない。足音と低い会話、靴底の硬い音、認証扉の解錠音ばかりが耳に残る。

 

 テキサス・コロニーは、エドワウにとって避難先であり、第二の生活の場だった。だが今日、初めて別の顔を見た気がした。住むためのコロニーではなく、動かすためのコロニー。物流、工業、教育、資本。その接点がここに集められている。

 

 高層棟の上層階にある一室へ通されると、そこには一見して隙のない空間があった。

 

 壁は明るすぎず暗すぎず、窓は広いが眺望を誇るような高さではない。調度は上質だが、見せびらかす趣味はない。書棚には法務、工学、会計、歴史、政治、宇宙開発の専門書が整然と並び、机の上は整理されている。高価だ。だが、その高価さが主張してこない。

 

 その部屋の主も、そういう男だった。

 

 三十代後半。痩せすぎず太すぎず、姿勢がよく、仕立ての良い服を着ている。笑みはある。だがその笑みの下に、何一つ零れ落ちていない。

 

「ようこそ」

 

 男は立ち上がった。

 

「カーディアス・ビストです」

 

 物腰は柔らかい。声も穏やかだ。だが、握手を求める手の角度ひとつにまで無駄がない。鍛えた軍人の動きとは違う。もっと別の、長年人と取引し、人を安心させ、人を値踏みしてきた人間の所作だった。

 

「エドワウ・マスです」

 

 エドワウが名乗ると、カーディアスはほんのわずかに頷いた。

 

「ええ、そう伺っています」

 

 それだけの言葉に、薄い刃のようなものを感じた。否定も追及もしない。ただ、言外に「その名で通したいのなら、それで構わない」と置いてくる。知らないふりをする自由を与えているようでいて、実際には相手の仮面ごと受け取っている。

 

 テアボロはそのやり取りを特に補足しなかった。つまり、この二人の間で何が含まれているか、彼も承知の上なのだ。

 

 三人は席に着いた。

 

 最初に交わされたのは、テキサスの工業再編と教育機関への寄付に関する、ごく表向きの話だった。研究棟の拡張。奨学基金。技術者の流出防止。企業と財団と地方管理者との折衝。エドワウには分かる言葉もあれば、分からない言葉もある。

 

 だが、分からないなりに感じることはあった。

 

 ギレンと話した時のような熱はない。デギンと対峙した時のような重さもない。ここにあるのは、もっと乾いた力だ。人を殺すことも、工場を建てることも、法を変えることも、すべて同じ秤の上へ乗せて計るような冷静さ。

 

 しばらくして、カーディアスがエドワウへ視線を向けた。

 

「少し、あなたの考えを聞いてもよろしいかな」

 

「俺の、ですか」

 

「ええ。若い人間が何をどう見るかには、年寄りには見えなくなったものが映ることがあります」

 

 言葉は丁寧だった。だが、試されていると分かる。

 

「独立とは、感情だと思いますか。それとも採算だと思いますか」

 

 エドワウはすぐには答えられなかった。

 

 父なら、どう答えただろう。ジオン・ズム・ダイクンなら。理想を語ったはずだ。人の尊厳を。宇宙移民の自治を。だが今の自分には、その言葉をそのまま口にすることが出来ない。デギンの墓前で聞いた独白が、ギレンの冷たい論理が、もう知ってしまっている。

 

「……分かりません」

 

 やっと言うと、カーディアスは失望も嘲りも見せず頷いた。

 

「正直で結構です。分からぬものを分かった顔で語るより、よほどましだ」

 

 そこで一拍置き、次の問いを投げる。

 

「では、コロニーは何で動くと思いますか。理念ですか。食料ですか。雇用ですか」

 

「全部では」

 

 答えながら、自分でも少し曖昧だと思った。

 

「そうですね。全部です」

 

 カーディアスは微笑んだ。

 

「では、最後にその『全部』へ順番をつけるのは誰だと思います」

 

 エドワウは答えを探したが、出てこない。

 

 ギレンなら国家と答えるかもしれない。デギンなら現実を見ろと言うだろう。テアボロなら市場だと言うかもしれない。だがこの男の前では、そのどれも少し違う気がした。

 

「……為政者ですか」

 

「半分は正しい」

 

 カーディアスは机上の紙片を指先で揃えた。

 

「為政者は決定します。ですが、何を決定可能なものとして差し出されるかは、別の場所で決まっている」

 

 その言い回しに、エドワウはギレンを思い出した。あの男は国家を盤面にして、その上で人を動かそうとした。だが目の前の男は、その盤面そのものを誰が並べているかの話をしている。

 

「法も制度も、もちろん重要です」

 

 カーディアスは続けた。

 

「ですが、それらを現実にするには、資本がいる。工業がいる。教育がいる。人材を集める仕組みがいる」

 

「連邦は法で支配しているように見えます。ジオンは理念で動いているように見える。けれど実際には、それらを支える基盤の強弱で、未来はかなりの部分まで決まります」

 

 父は未来を信じていた。人は宇宙へ出れば変われると。だがこの男は、未来を信じていない。未来を予測し、配分し、必要なら作るものとして扱っている。

 

「ジオン・ズム・ダイクンという人物も、そういう意味では興味深い存在でした」

 

 カーディアスは自然にその名を口にした。

 

「人を動かす力があった。理想は火です。暖を取ることも出来るが、制御を誤れば秩序も焼く」

 

 冷たい言い方だった。

 

 父の理想を、火種と見る。否定ではない。称賛でもない。ただ有用性と危険性として測っている。

 

 エドワウは、それにすぐ反発出来なかった。なぜなら、父の理想が人を集め、同時に人を巻き込むものであったことも、もう知ってしまっているからだ。

 

「ではザビ家は」

 

 知らず、口に出ていた。

 

 カーディアスはわずかに目を細める。

 

「野心は扱いやすい」

 

 あまりにもあっさりと言った。

 

「理想家より、欲で動く者の方が読みやすい。もちろん危険ではありますが、理想に酔った者ほど不規則ではない」

 

 ギレンの顔が頭に浮かぶ。あの男は野心家だ。だが同時に、野心の向こうに国家を見ている。目の前の男はそこすら、扱いやすさの尺度でしか見ていない。

 

「連邦もまた同じです」

 

 カーディアスは水差しへ手を伸ばした。

 

「巨大で、腐敗し、硬直している。だが巨大である以上、利用価値がある。器が大きいというのは、それだけで寄生の余地があるということです」

 

 その表現に、エドワウはぞっとした。

 

 デギンは連邦を恐れ、憎み、しかし背負うべき現実として見ていた。ギレンは打倒すべき敵として見ている。だがカーディアスは違う。敵ですらない。利用価値のある器だと言い切る。

 

「あなたは、どちらの側に立つんです」

 

 問いというより、ほとんど反射だった。

 

 カーディアスは答える前に、ほんの少しだけ首を傾けた。

 

「立つ必要があるでしょうか」

 

 柔らかな声音だった。

 

「どちらか一方にのみ立つのは、往々にして視野を狭めます。とりわけ、不安定な時代には」

 

 そこまで言って、カーディアスはエドワウの顔を静かに見た。

 

「血筋というものは、本人の意思とは関係なく価値を持つことがあります」

 

 やわらかい声音のまま、言葉だけが冷たい。

 

「特に、正統性が不足している時代には」

 

 エドワウの背筋に冷たいものが走った。

 

 ギレンは自分に役目を与えようとした。橋になれと。国家の中で使おうとした。だがこの男は違う。自分を役目としてではなく、価値として見ている。もっと前の段階で、まだ人間になる前の札として見ている。

 

 その違いが、たまらなく気味が悪かった。

 

 会談はそれ以上、深入りしなかった。カーディアスは自然に話題を教育支援と工業研究へ戻し、テアボロとの間でいくつかの数字を確認した。最後まで礼儀は崩れず、笑みも崩れなかった。

 

 席を立つ時、カーディアスはエドワウへ向かって言った。

 

「またいらっしゃるといい」

 

 その言葉は親切に聞こえる。だが実際には、もっと別の意味を帯びていた。この男は、自分を手元へ置けた時の価値まで計算している。そう感じた。

 

 廊下へ出て、扉が閉まると、エドワウはようやく息を吐いた。

 

 エレベーターへ向かう間、テアボロはしばらく何も言わなかった。管理棟の窓からは、研究区画へ人が流れていくのが見える。学生らしい若者もいれば、企業の腕章をつけた技術者もいる。軍服はない。だが、ここで作られるものが、やがてどこかの軍港へ流れるのだろう。

 

「どうだった」

 

 やがてテアボロが訊いた。

 

 エドワウはすぐには答えられなかった。窓に映った自分の顔が、少し強張っている。

 

「……薄気味が悪い」

 

 やっと絞り出した言葉に、テアボロは短く笑った。

 

「そうだろうな」

 

「あなたは、ああいう男と付き合っているんですか」

 

「付き合っている」

 

 否定しない。

 

「好きか嫌いかは別だ」

 

 その答えが、いかにもテアボロらしかった。

 

「国を憎むのは簡単だ」

 

 エレベーターの中で、テアボロは前を見たまま言う。

 

「だが、国を動かしているものを知らずに憎んでも届かん」

 

 その言葉は、サイド3の夜に聞いた時よりも重かった。

 

 屋敷へ戻ると、アルテイシアは食堂の窓際に座っていた。テーブルの上には、クラウレから送られてきたらしい小さな包みが置かれている。母の遺品の一部だろうか。

 

「おかえり」

 

「ただいま」

 

 エドワウが向かいに座ると、アルテイシアはじっと兄の顔を見た。

 

「疲れてる」

 

「そう見えるか」

 

「うん」

 

 少し迷ってから、彼女は続けた。

 

「嫌な人に会ったの」

 

 エドワウは思わず苦笑した。

 

「嫌な人、か」

 

「違う?」

 

 違わない。だが、嫌な人というだけでもない。善意がないわけではないのかもしれない。むしろ彼なりの誠実さすらあるのかもしれない。だからこそ気味が悪い。

 

「……分からない」

 

 そう答えると、アルテイシアはそれ以上訊かなかった。兄が言葉に出来ない時に、無理に口を開かせても意味がないと知っている顔だった。

 

 夜、自室の窓の前に立つ。

 

 テキサスの人工夜景は整いすぎていて、時々現実味を失う。一定間隔で並ぶ灯り、遠くを流れる搬送車の光、規則正しく点滅する港湾誘導灯。そのどれもが、誰かの設計の中にある。

 

 父を思う。

 

 ジオン・ズム・ダイクンは未来を信じていた。人が宇宙へ出れば変われると、ニュータイプになれると、本気で思っていた。少なくとも、そう語る時の父は偽ってはいなかった。

 

 デギンを思う。

 

 あの老人は理想を捨てたのではない。理想だけでは守れないものがあると知っていた。背負っていた。国を、民を、現実を。汚れも含めて。

 

 ギレンを思う。

 

 冷たい。傲慢だ。だが国家を作ろうとしている。国家という巨大なものの中へ、自分も敵も味方も配置しようとしていた。少なくとも盤の中に、自分もいる。

 

 テアボロを思う。

 

 商人だ。数字を信じ、流れを見る。だが人間を見失ってはいない。だからアルテイシアを放っておけないし、自分を誰かに売り渡しもしない。

 

 そして、今日会った男を思う。

 

 カーディアス・ビスト。

 

 あの男は、盤の中に立っていなかった。

 

 国家も、理想も、現実も、戦争も、全部を外から見ていた。いや、見ているだけではない。必要な時に傾けられるものとして触っていた。

 

 為政者ではない。

 

 為政者を使う側の人間だった。

 

 窓へ映る自分の顔を見ながら、エドワウはゆっくり目を閉じた。

 

 世界を動かしているのは、王でも将軍でも政治家でもないのかもしれない。

 

 それらを動かしている者が、別の場所にいるのかもしれない。

 

 そう思った時、父を奪ったものの輪郭が、また少しだけ大きくなった気がした。

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