朝は、やはり人工の朝だった。
テキサス・コロニーの天井光は、規則に従って少しずつ白さを増していく。夜のあいだ鈍く沈んでいた街路の輪郭が、窓越しにゆるやかに浮かび上がり、遠くの通路を行き交う搬送車の灯が一本、また一本と消えていく。地球の朝のように、雲の切れ間から陽が差し込むことはない。だが、その均質な明るさの底に、人が作った秩序の気配がある。
キャスバルは、寝台から起き上がったまましばらく動かなかった。
眠れなかったわけではない。眠りはした。だが、眠りの底まで、昨日の会話が沈んでいた。
高層棟の上階。静かな室内。整いすぎた調度。落ち着いた声。
独立とは感情か、採算か。
国家が決める前に、何を決定可能なものとして差し出すかを決める者がいる。
血筋は、本人の意思と関係なく価値を持つ。
昨夜――いや、昨日の会見のあいだ、カーディアス・ビストは一度も声を荒らげなかった。こちらを追い詰めるような問いを投げかけながら、最後まで穏やかで、上品で、礼を失わなかった。だからこそ、逆に怖かった。
為政者は決める者だ。
そう思っていた。
父は人を動かした。言葉で。夢で。未来で。
デギンは現実を背負った。重さを知り、重さのままに立っていた。
ギレンは国家を動かそうとしていた。人と制度と力を、一つの形に積み上げるように。
だが、カーディアス・ビストは違った。
あの男は、国家を動かす者を盤に並べる側にいる。
その認識は、昨夜のうちに形になりかけていた。だが一晩経っても、薄れなかった。むしろ、冷えた刃のように輪郭を増していた。
窓辺へ歩み寄ると、ガラスの向こうに整えられた街路樹が見えた。人工の風が、葉の向きを揃えるように撫でていく。行き交う人影はまだ少ない。富裕層居住区らしく、朝の音まで抑えられている。
ここもまた、作られた世界だった。
その背後にある金と契約と輸送の流れまで含めて、このコロニー全体が巨大な意思の産物なのだと、昨日より少しだけよく分かる。
「兄さま」
振り向くと、戸口にアルテイシアが立っていた。起きたばかりなのだろう、髪が少しだけ乱れている。けれど、その瞳は眠気よりも先に兄の表情を映していた。
「早いな」
「兄さまのところ、明かりがついていたから」
そう言って中へ入ってくる。遠慮のない足取りだった。
キャスバルは小さく息を吐いた。こういうところは、まだ年相応だと思う。だが、彼女はもう以前のように何も考えずに甘えてくるばかりではない。こちらの顔色を見て、言葉の選び方を覚え始めている。
アルテイシアは窓辺まで来ると、外ではなく兄を見上げた。
「昨日の人のことを考えているの」
問いではなく、確かめるような言い方だった。
「少しな」
「こわい人だった?」
「怒鳴るような人ではなかった」
「じゃあ、こわくないでしょう」
「そういう怖さじゃない」
アルテイシアは首を傾げた。
キャスバルは少し考えてから、言った。
「人のことを見ているのに、その人が何を好きかとか、何を嫌うかとか、そういう見方じゃなかった」
「どういうこと?」
「何に使えるかを見ていた」
口にすると、昨日の感覚がまた鮮やかによみがえる。
アルテイシアは全部は分からないだろう。だが、それが兄にとって嫌な感触だったことだけは察したらしい。少し黙ったあと、ぽつりと言った。
「また会うの?」
「わからない」
「でも、何か決まるのでしょう」
キャスバルは答えなかった。
答えられなかった、という方が近い。
昨日の会見で、世界の一端を見せられた。それだけで終わるとは思えない。テアボロが、あれをただの顔見せで済ませるはずがなかった。
アルテイシアは兄の沈黙を見て、唇をきゅっと結んだ。
「兄さま、どこかへ行くの」
「今すぐじゃない」
「でも、行くかもしれないのね」
子供の直感は、時にひどく真っ直ぐだ。
キャスバルはしゃがみ込み、妹と目の高さを合わせた。
「まだ何も決まっていない」
「ほんとう?」
「ああ」
「約束?」
その言葉に、一瞬だけ迷いが走る。
約束できることと、できないことがある。だが、ここで曖昧に笑えば、この子はもっと不安になる。
「……決めるにしても、お前を置いたままにはしない」
アルテイシアは、少し目を見開いた。
「ほんとうに?」
「本当だ」
その返答にようやく表情が緩みかけたところで、扉の外から控えめなノックが響いた。
「エドワウ様、旦那様がお呼びです」
使用人の声だった。
キャスバルは立ち上がる。アルテイシアもその声を聞いて、ほんの少し顔を強張らせた。
「行ってくる」
「……うん」
内と外で名前が違う。それが当たり前になりつつある自分たちに、ふいに薄い寒さを覚えた。
だが、その寒さに立ち止まっている余裕はない。
執務室へ向かう廊下は、朝の静けさを保っていた。
この邸は、豪奢ではあるが過剰ではない。壁の色も調度の質も、見せびらかすためではなく、持つ者の自信を示すように整えられている。テキサス・コロニーの上層が好む、実利と趣味の折衷だ。キャスバルはそれを好むわけではないが、無神経な成金趣味よりは遥かにましだと思っていた。
扉の前で一拍置き、入室を告げる。
「失礼します」
「入りたまえ、エドワウ」
テアボロは机の向こうで待っていた。
59話で見た通りの部屋だった。紙と数字の匂いがある。壁際には書棚だけでなく、航路図、資材一覧、保険契約の控え、価格表、入港予定表が整然と並んでいる。政治家の執務室ではない。軍人の作戦室でもない。だが、港を動かし、工場を動かし、人を動かすための部屋だった。
テアボロは座るように促し、自分も椅子に深く腰かけた。
すぐには話し出さない。
昨日からの流れをどう繋ぐか、言葉を選んでいるのだろう。その慎重さは、この男の長所でもあり、時に苛立たしくもある。
「昨日のことについて、曖昧なままにしておくのは良くないと思ってね」
「はい」
「君は、曖昧にされたことを、そのまま飲み下せる子ではない」
それは褒め言葉なのか、扱いづらさの確認なのか、少し分からない言い方だった。
「昨日の男を気に入れろとは言わん」
テアボロは、まっすぐに言った。
「だが、知らずに生きるより、知っておいた方がいいものがある」
キャスバルは黙って聞く。
「国家だけを見ていると、その外から国家を動かす者が見えなくなる。軍だけを見ていると、軍を動かしているものが見えなくなる。お前はザビ家を見た。ダイクンの家も知っている。ならば、それとは別の側も知らねばならん」
「それで、俺をあの人に会わせたんですか」
「そうだ」
テアボロは否定しなかった。
「俺を誰かに渡すためですか」
声が少し硬くなる。自分でも分かった。
だが、テアボロは表情を変えなかった。
「売るつもりなら、あんな会わせ方はせん」
「では、何のために」
「選べるだけの目を持たせるためだ」
短い答えだった。
だが、その一言が、かえって重かった。
「昨日、お前はあの場で、ただ怯えて黙ることもできた。耳障りのいいことだけを言うこともできた。だが、そうはしなかった」
テアボロは指先で机を軽く叩き、続ける。
「カーディアス・ビストがどういう男か、私はお前より長く知っている。あれは、使えぬ者に時間を割く男ではない」
「それは、価値があると見られた、ということですか」
「そういうことだろう」
あまりにも淡々とした言い方に、逆に現実味が増す。
価値。
昨日の会見で、あの男は血筋さえ価値だと言った。本人の意思と関係なく、札として意味を持つと。ならば今、自分に向けられているものも、その延長にあるのだろう。
キャスバルは少し目を伏せた。
「……あまり嬉しい言い方ではありませんね」
「嬉しくてどうする」
テアボロは小さく鼻を鳴らした。
「世の中は、嬉しい言葉で出来ておらん。特に、お前のような立場の子供の周りはな」
その声音には、諭すというより、もう何度もそれを見てきた者の疲れがあった。
「今のままでも、お前は学べる。私の手の届く範囲で、教師も用意できる。テキサスに留まって、穏当に育つ道もある。だが、それでは届かぬ場所がある」
「地球ですか」
「地球も含む。財団系の教育機関、企業の実務、制度を作る側の流儀、人脈。そういうものに触れられる場だ」
テアボロは、机の上の薄い書類を一枚、指で押さえた。
「昨日のことで、その道が見えた」
「ビスト財団ですか」
「名を出せばそうなるが、あそこ一つに限った話ではない。あの男の視界に入ったということは、別の扉も開く」
その言い方は、確約ではなく可能性だった。
だが、可能性というのは、時に確約よりも厄介だ。目の前に置かれれば、見なかったことにはできない。
「お前は、片側だけを見て生きられる立場ではない」
テアボロは昨日よりも少し強い口調で言った。
「知らずに憎むことはできる。だが、知らずに届くことはできん」
その言葉に、59話終盤で聞いた別の言葉が胸の底から浮かび上がる。
国を動かしているものを知らずに憎んでも届かん。
昨日は、その意味を頭で理解しただけだった。今日、それが自分の進路の形を取って目の前に置かれると、急に重さを持ちはじめる。
「俺に選べ、と言うんですね」
「そうだ」
「子供に」
「子供だからだ」
テアボロは一歩も引かなかった。
「大人になってからでは遅い。大人はもう、持っているものに縛られている。だが子供は、まだ道の形を選べる」
それは残酷な言い方でもあった。
選べる、ということは、選んだ結果の責任を背負え、ということでもある。
テアボロはしばらく待ち、返事を急かさなかった。
キャスバルは机の上の書類を見た。まだ触れていない。触れれば、何かが決まりそうだった。
だが、決める前に言わなければならないことがある。
「条件があります」
テアボロの眉が、ほんのわずかに動いた。
「聞こう」
キャスバルは顔を上げた。
「セイラも一緒でなければ受けません」
部屋の空気が、一瞬だけ止まったように感じられた。
テアボロはすぐには言葉を返さなかった。驚いているのが分かる。だが、それは怒りではなく、予想していなかったという驚きだった。
「……セイラのことか」
「そうです」
「自分の話だぞ、エドワウ」
「自分の話だからです」
言葉にすると、妙に静かだった。
「俺一人なら、どうにでもなります。どこへでも行けるし、何を学んでもいい。けれど、妹を置いていく話なら受けられない」
テアボロは黙っている。
キャスバルは続けた。
「俺の進路を決めるなら、あいつの安全と教育も一緒に決めてほしい。後から考える、では困ります」
「……野心ではなく、そこを条件に持ってくるか」
テアボロは、半ば呆れ、半ば感心したように呟いた。
「変ですか」
「変というより、お前らしい」
その答えが、少しだけ意外だった。
テアボロは椅子に背を預け、しばらく天井を見上げた。その沈黙は、軽く扱っていない証拠だった。
やがて視線を戻し、ゆっくりと言う。
「軽い約束にはできん」
「はい」
「だが、考慮する、では済ませぬ。整えよう」
キャスバルは息を詰めた。
「本当ですか」
「この場で口にした以上、そのままにはせん」
テアボロの声は低かったが、曖昧さはなかった。
「セイラの教育も、安全も、お前の条件として扱う。どこへ進ませるにせよ、それを外して話は進めん」
その言葉に、ようやく胸の内の強張りがわずかに緩む。
まだ何も決まってはいない。だが、少なくとも、この男は今の条件を無視して先へ進めようとはしなかった。
「ありがとうございます」
「礼は早い」
テアボロはすぐに言った。
「まだ道を並べただけだ。どれを選ぶかはこれからだし、選んだ先で何が待っているかも、お前が思うほど綺麗ではない」
「分かっています」
「いいや。分かっておらん」
そこでテアボロは、初めて少し苦い顔をした。
「だが、分かっておらんことを知っているだけ、まだましだ」
そう言って、彼は机の端に置いてあった書類を一つ、こちらへ滑らせた。
「急いで返事をせよとは言わん。だが、逃げるな」
紙を受け取る。そこには学校名も、財団名も、まだ書かれていない。代わりに、いくつかの経路と区分だけが記されていた。学問、実務、保護、推薦。
選択肢は、すでに形になっている。
昨日の会見は、やはりただの会見ではなかったのだ。
部屋を出た後、キャスバルはしばらく廊下を歩いた。
窓の外では、人工庭園の散水が始まっていた。一定の弧を描く水が、光を受けて細かく砕ける。あまりに整いすぎた風景は、ともすれば息苦しい。だが、その整いは、人の意思と金が作った結果でもある。
父は、こういう世界をどう見ただろう。
地球に魂を縛られた旧い秩序として断じただろうか。あるいは、宇宙に移った人類がなお地球の価値観を持ち込んでいる証として嘆いただろうか。
デギンなら、この整った噓の向こうにある数字を見ただろう。
ギレンなら――利用しただろう。
昨日より今日、今日より今、自分の中でギレンの輪郭が変わっていくのが嫌だった。理解したくない相手を理解し始めるのは、裏切りに似ている。
だが、理解しなければ届かない場所がある。
その現実だけは、否定できなかった。
知らずに憎むことはできる。
知らずに戦うこともできる。
だが、知らずに勝つことはできない。
その単純なことに気づくまで、自分は少し長く子供でいすぎたのかもしれない。
同じ頃、ズムシティでは別の紙が別の机に置かれていた。
ギレンは報告書を一読し、二読してから机の上に戻した。
内容は簡潔だった。テキサス・コロニー、テアボロ・マス、ビスト側との接触、少年同席。
短い文面の中に、必要な情報だけが収められている。
「随分と、向こうも目ざといわね」
窓辺に立っていたキシリアが言った。
「ビストが動くほどとなると、放置も危険ではなくて?」
「動いたというほどではない」
ギレンは椅子の背にもたれた。
「まだ、見ただけだ」
「見ただけで済む相手かしら」
「済まぬだろうな」
あっさりと認める。その上で、彼は報告書の端を指で押さえた。
「だからこそ、まだ触れるな」
キシリアは兄を見た。
「取り戻さないの?」
「取り戻す、という発想が早い」
ギレンの声は平坦だった。
「今は流れを見る。盤に手を出すのは、並び方が見えてからでいい」
「随分と慎重ね」
「性急に動いて形を崩すよりはましだ」
それは半分は理屈で、半分は自分への制御だった。
前世での結末を知っているからこそ、今世では早く動けばいいというものではないと分かる。近づきすぎれば、変えるべきものまで壊すかもしれない。
キシリアは軽く肩をすくめた。
「見失わないことね」
「ああ」
ギレンは短く頷いた。
見失いたくないのは、駒としての価値だけではない。だが、それを口にする気はなかった。
夜になっても、テキサス・コロニーの上層区は静かだった。
昼間よりも人の気配が薄れ、ガラス越しの人工夜景だけが整然と灯っている。地球の夜のように湿り気はない。遠くまで見通せるかわりに、どこか嘘のような透明さがある。
キャスバルはアルテイシアの部屋を訪ねた。
彼女は椅子に座って本を開いていたが、兄の顔を見るとすぐに閉じた。来るのを待っていたのかもしれない。
「兄さま」
「少しだけ話す」
そう言うと、アルテイシアは素直に頷いた。
キャスバルは彼女の向かいに腰を下ろす。
「今日、何か決まったの?」
「まだ全部じゃない」
「でも、何かは決まったのでしょう」
昼間と同じだ。もう、この子は何も知らないまま守られるだけの年齢ではないのだと、言葉の端々が示している。
「進む道を考える話になった」
「地球?」
「それもある」
アルテイシアの手が、本の端をきゅっと握った。
キャスバルは、それを見てから言った。
「すぐに離れるわけじゃない」
アルテイシアは顔を上げる。
「もし進むとしても、お前を置いてはいかない」
その一言に、彼女はしばらく何も言わなかった。
やがて小さく、しかしはっきりと頷く。
「……うん」
「信じられるか」
「兄さまがそう言うなら」
その返答は、無邪気というより、腹を括ったような静けさを帯びていた。
キャスバルは少しだけ目を伏せる。
この子を守りたい、と思う。それは本心だ。だが同時に、自分が守ると決めたことによって、この子もまた自分の選択に縛られていくのだと分かっていた。
守るというのは、綺麗な言葉だけでは済まない。
それでも、口にした以上は背負わねばならない。
「もう休め」
「兄さまも」
「ああ」
部屋を出ると、回廊の窓の向こうにコロニーの内壁が見えた。緩く湾曲した遠景に、無数の灯が散っている。地上の星空に似せて作られた夜景だが、本物の星とは違う。あれは人が並べた光だ。
昨日までは、それをただ人工的なものだと思っていた。
今は違う。
人が並べた光の一つ一つにも、意思がある。金がある。契約がある。誰かの都合がある。誰かの理想がある。そういうものの束として初めて、都市は光る。
父を奪った世界は、思っていたよりずっと広い。
そして、その広さを知らぬままでは、どこにも届かない。
選ばれるだけの札にはならない。
盤に上がるなら、自分で歩く。
窓に映る自分の顔は、まだ子供だった。
だが、その子供の顔の奥で、何かが昨日とは違う形に固まりつつあるのを、キャスバルははっきりと感じていた。