妹に撃たれない方法   作:Brooks

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第61話 見られる日

 時間が経つのは、思っていたよりずっと早かった。

 

 テキサス・コロニーに季節はない。朝は定められた時刻に明るくなり、夜は決められた順序で静かになる。けれど、それでも私は、ここへ来てからの数か月を、はっきりと別の時間として覚えている。

 

 最初の頃は、何もかもが借り物みたいだった。

 

 部屋も、制服も、教科書も、名前も。

 

 兄さまは学校ではエドワウで、私はセイラだった。先生も、同級生も、使用人も、みんなその名前で私たちを呼んだ。最初はそのたびに、薄い膜の向こう側へ押しやられるような気がしたけれど、毎日同じ名で呼ばれていると、今度はその借り物の名前の方からこちらへ重みを持って近づいてくる。

 

 その重みを、兄さまは私より早く使い始めた。

 

 ここへ来てから兄さまは、前より静かになった。

 

 ただ黙ることが増えたわけではない。言葉を口にする前に、一度深く沈めるようになったのだと思う。学園では修辞学の授業があって、言葉の並べ方、沈黙の置き方、問いを受けた時に相手の逃げ道を残したまま自分の言いたいところへ運ぶやり方まで教わる。

 

 兄さまはそれを、たぶん誰より真剣に学んでいた。

 

 前ならそのまま突き立てていた言葉を、今は少しだけ角度を変えて置く。鋭さは消さないのに、刃の先だけを見せないようになった。私はそれを見て、安心する時もあったし、前より怖いと思う時もあった。

 

 学園の空気にも、もう慣れた。

 

 ここは表向きには財団や企業や行政に関わる家の子女たちに教養を授ける場所ということになっているけれど、本当はそれだけではない。語学や歴史や礼法と同じ顔で、法や経済や統治の初歩が並んでいる。授業の中で先生たちはめったに露骨なことは言わないけれど、学んでいるうちに分かってくる。

 

 ここは、将来のために知識を与える場所であると同時に、誰が前へ出る者で、誰がその横や後ろにつく者かを、早いうちに見分ける場所でもあるのだと。

 

 そのことを、最初にはっきり言葉にしたのはアンナ・リンクスだった。

 

 アンナは、私がここで最初にできた友人だった。

 

 柔らかく笑うのに、何も見落とさない子だ。相手を安心させるために笑うことを知っているけれど、その笑みの奥で、人の声色や目の揺れをきちんと拾っている。リンクス家の娘らしく、財団に近い空気にも慣れているのに、そこへ身を預けきっていない冷たさが少しだけある。

 

 私が兄さまのことを話すと、アンナは前にこう言った。

 

 助けてくれることと、持ち主になることは、同じじゃないのよ。

 

 その言葉の意味が、私は日を追うごとによく分かるようになっていた。

 

 その日、学園では小さな討論会が開かれた。

 

 小さい、と言っても、教室の中だけで済むものではない。成績や素行や見込みで選ばれた生徒が数名呼ばれ、教師たちだけでなく、後援側の人間や上級生の前で話をさせられる。名目は教育の一環。けれど、実際には見られるための場だと、私でも分かるようになっていた。

 

 見学席へ向かう途中、アンナが私の隣で小さく言った。

 

「今日は見世物の日ね」

 

 私は思わず顔を向けた。

 

「そんな言い方」

 

「でも本当でしょう?」

 

 私は否定できなかった。

 

 会場は、普段は講堂として使われる広間の一角だった。段差のある席に生徒が控えめに座り、その前に小さな壇が設えられている。先生方の席のさらに奥には、後援団体の関係者と思われる大人たちが並んでいた。数は多くない。けれど少ないからこそ、その視線ははっきりと感じられた。

 

 兄さまは壇上にいた。

 

 他にも数人、生徒が並んでいる。財団寄りの家の子、行政官の息子、企業家の娘。どれも学園では目立つ顔ぶれだった。その中に、兄さまは混ざっているようでいて、どこか混ざっていなかった。

 

 議題は、コロニー自治における秩序と公益だった。

 

 最初の数人は、よく整った答えをした。秩序は安定のために必要であり、公益は個々の利害を超えて守られるべきであり、自治は連邦との調和の上で成熟すべきだ、と。間違ってはいない。むしろ模範的だった。

 

 兄さまの番が来た時、私は無意識に背を伸ばしていた。

 

「秩序が必要だという点に異論はありません」

 

 兄さまは、静かにそう言った。

 

 以前なら最初の一言から相手の喉元へ行っていたかもしれない。けれど今は違う。まず相手の言葉を受ける。否定から入らない。修辞学の授業で叩き込まれた通りの始め方だった。

 

「ただ、その秩序が誰の負担の上に立っているのかを曖昧にしたまま公益を語ると、言葉だけが先に綺麗になります」

 

 広間の空気がほんの少しだけ静かになる。

 

 兄さまは、そこで一拍置いた。

 

「秩序は守るべきものです。しかし守るべきものだと言うなら、それによって利益を受ける者と、沈黙を求められる者が誰なのかを、先に明らかにする必要があります」

 

 先生の一人が、椅子の背にもたれた姿勢のまま口を開いた。

 

「エドワウ。君の言葉は正しいが、少々鋭すぎるように聞こえるな」

 

 たしなめるようでいて、続きを促す声音だった。

 

 兄さまは目を伏せもせず、相手の逃げ道を残したまま返した。

 

「そのように聞こえたなら、言い方が足りませんでした」

 

 ここで私は、修辞学を学んだ兄さまがどう変わったかを、はっきりと見た気がした。

 

 謝ってはいない。引いてもいない。ただ、場に刃を押しつけすぎないように置き直しただけだった。

 

「秩序そのものを疑うのではなく、秩序を語る側の責任を明確にすべきだ、と申し上げたいのです。負担を引き受ける者に説明せず、ただ公益だからと言って従わせるなら、それは安定ではあっても信頼ではありません」

 

 さっきまで模範的な答えが続いていた壇上で、その言葉だけが異質に響いた。

 

 でも、異質でありながら、無礼ではない。正面から喧嘩を売るのではなく、相手の論理の中に残した穴を指でなぞるような言い方だった。

 

 先生は少しだけ微笑んだ。

 

「信頼まで必要だと?」

 

「長く保たせたい秩序なら、必要です」

 

 兄さまはそう答えた。

 

「恐れで維持される秩序は、恐れが緩んだ時に崩れます。利益だけで結ばれる秩序は、より大きな利益でほどけます。ならば、少なくとも負担を負う者に、自分が何を支えているのかを知らせるべきです」

 

 それを聞きながら、私は自分の指先が冷たくなるのを感じていた。

 

 兄さまは前より上手くなった。前より滑らかで、前より美しい。けれど、芯にあるものは少しも鈍っていない。むしろ鋭利な部分を抑えたことで、届く範囲が広くなってしまった。

 

 だからこそ、見ている側も前より分かるのだ。

 

 この子は危うい、と。

 

 討論が終わりに近づいた頃、私は一段上の席に座る一人の女性に気づいた。

 

 年長の生徒たちの中でも、その人の周囲だけ空気が違っていた。華やかというより、整いすぎている。誰かに敬われることに慣れている姿勢だった。

 

 マーサ・カーバインだった。

 

 名だけはすでに聞いていた。財団本流に近い家の令嬢であり、学園でも一目置かれる上級生。教師たちでさえ、彼女に向ける言葉の選び方が少し違う。

 

 そのマーサが、討論の終わりに短く評した。

 

「言葉の置き方がお上手ですこと」

 

 広間の視線が、また兄さまへ集まる。

 

「正面から刺しに行かず、相手に受け取れる形へ整えている。ですが、その分だけ中身は隠しようがないわね」

 

 柔らかな口調だった。けれど、私はその言葉に褒め言葉だけではないものを感じた。

 

「扱う側には厄介ですが、見ておく価値はありますわ」

 

 教師たちの何人かが、軽く目を伏せた。

 

 兄さまは礼を失わない程度に頭を下げた。

 

「ご評価、ありがとうございます」

 

 それだけだった。余計なことは言わない。

 

 けれど、その短い応答の間に、私は兄さまがまた一つ別の目に見つかったのだと理解していた。

 

 討論会が終わると、予想通り兄さまの周りには人が集まり始めた。

 

 教師、上級生、財団側の補助員。あからさまではない。けれど、それぞれが少しずつ違う角度から声をかけていく。私は席を立ったけれど、すぐには近づけなかった。

 

「今はやめた方がいいわ」

 

 アンナが私の袖を軽く引いた。

 

「でも」

 

「今のあなたは妹として行くでしょう。それだと、あの輪の中では弱いの」

 

 私は立ち止まった。

 

 悔しいと思った。けれど、間違っていないとも分かった。

 

 兄さまは今、ただの兄ではなく、見込みのある生徒として囲まれている。そこへ私が駆け寄れば、守られる妹の位置に戻される。

 

 それは嫌だった。

 

 温室へ向かったのは、ほとんど無意識だった。

 

 アンナも何も言わずについて来た。温室の中は昼の熱を少しだけ残していて、ガラス越しの光が柔らかく葉を照らしていた。

 

「あなたのお兄さま、隠れるのは下手ね」

 

 アンナが言う。

 

「知ってるわ」

 

「でも、今日は前より上手だった」

 

 私はその言葉に、少しだけ驚いた。

 

「そう思うの?」

 

「ええ。前ならもっと正面から折りにいったでしょう」

 

 思わず笑いそうになった。アンナは兄さまのことをよく見ている。

 

「修辞学の先生に、何度か手を入れられていたもの」

 

「でしょうね。でも、隠しきれてはいない」

 

 アンナはそこで私を見た。

 

「ここは賢い子を育てる場所じゃない。選ばれる子と、選ぶ子を分ける場所よ」

 

「前にも聞いたわ」

 

「今日は、あなたも少し見えたでしょう?」

 

 私は頷いた。

 

 今日までは、兄さまが見られているのを横で見ているだけだった。けれど、討論会が終わった後、私の方へ向けられた目もあったのだ。兄そのものではなく、その妹として、どう動くのかを見る目。

 

 そこへ、足音が近づいてきた。

 

 振り向くと、年上の女子生徒が二人、温室の入口に立っていた。どちらも財団本流に近い家の娘だと分かる装いと気配だった。先に口を開いたのは、そのうちの一人――マーサの近くにいたことのある顔だった。

 

「セイラ・マスさん」

 

 私は姿勢を正した。

 

「はい」

 

「少しだけお聞きしたいことがありますの」

 

 丁寧な声音だった。丁寧すぎて、逆に逃げ場がない。

 

「あなたは、お兄さまをお止めになれる?」

 

 あまりにも静かな問いで、私は一瞬だけ意味を取り損ねた。

 

「何を、でしょうか」

 

「言いすぎる時に、ですわ」

 

 相手は微笑んでいる。けれど、それは優しさの笑みではない。探りを入れる時の笑みだった。

 

 私は横のアンナが少しだけ身を硬くしたのを感じた。

 

 ここで曖昧に笑ってやり過ごすこともできたかもしれない。けれど、そんな返しをしたら、この人たちは私をその程度のものとして扱うだろう。

 

「兄は、止められて言葉を曲げる人ではありません」

 

 私はできるだけ静かに言った。

 

「ですが、誰に何をどう伝えるかは、自分で考える人です」

 

 相手の眉が、ほんのわずかに動いた。

 

「あなたは、よくご存じなのね」

 

「妹ですから」

 

 その返答に、相手はようやく少しだけ本気の笑みを見せた。

 

「そう」

 

 それだけ言って、彼女たちはそれ以上踏み込まずに去っていった。

 

 私は息を吐く。

 

 アンナが小さく囁いた。

 

「今の、上手だったわ」

 

「怖かった」

 

「分かるわ」

 

 本当に怖かった。けれど同時に、はっきりしたこともあった。

 

 兄さまだけが見られているわけではない。

 

 兄さまの妹である私もまた、どういう位置にいるのかを測られ始めている。

 

 夜、自室へ戻る前に、私は兄さまの部屋を訪ねた。

 

 兄さまは机に向かっていたが、私の顔を見るとすぐに本を閉じた。

 

「どうした」

 

「今日から、何か変わったでしょう」

 

 兄さまは少しだけ考えてから答えた。

 

「見てくる者の目が変わったな」

 

「わたしも見られたわ」

 

 兄さまの目が細くなる。

 

「何を言われた」

 

「お兄さまを止められるかって」

 

 兄さまは一瞬だけ黙り、それから低く息を吐いた。

 

「余計なことを」

 

「でも、答えたわ」

 

「何と」

 

「止められて曲げる人ではないけれど、自分で考える人だって」

 

 兄さまは私を見た。

 

 少し驚いて、それから、ほんの少しだけ表情を緩めた。

 

「……それは、助かる」

 

 その一言が、思っていたより嬉しかった。

 

 守られる妹ではなく、横に立つ者として言われた気がしたからだ。

 

「兄さま」

 

「なんだ」

 

「わたし、今日分かったの」

 

「何をだ」

 

「兄さまが見られるなら、わたしも見られるの。だから、見てるだけじゃ駄目なのね」

 

 兄さまは、すぐには答えなかった。

 

 けれど、やがて静かに頷いた。

 

「ああ」

 

「だったら、わたしは横を見るわ」

 

「横?」

 

「兄さまが前を見るなら、わたしは兄さまを見ている人たちを見る」

 

 口にすると、自分の中でも不思議なくらいしっくりきた。

 

「兄さまが見落とすものを、わたしが見ていればいい」

 

 兄さまは、それを冗談として流さなかった。

 

「それは、大事なことだ」

 

 それだけだった。

 

 でも、それで十分だった。

 

 部屋を出て、廊下の窓からテキサス・コロニーの夜景を見た。整えられた灯りは、今日もきれいだった。本物の星ではなく、人が並べた光だ。けれど、その光の下に、人の思惑があり、願いがあり、選択がある。

 

 兄さまだけが前へ進むのではない。

 

 私ももう、この場所で見られる側に立っている。

 

 だったら、ただ置いていかれないようにするだけでは足りない。

 

 見られながら、自分の場所を作る。

 

 そう決めた時、借り物だったセイラという名前が、初めてほんの少しだけ、自分の足で立ったような気がした。

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