妹に撃たれない方法   作:Brooks

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第62話 妹たちの距離

 討論会から数日が過ぎただけなのに、学園の空気ははっきりと変わっていた。

 

 誰かが露骨に態度を変えたわけではない。教師たちはいつも通り穏やかに授業を進め、廊下ですれ違う上級生も丁寧に会釈を返す。けれど、問いの向け方が変わった。兄さま――学園ではエドワウ――に投げられる質問は、答えを知っているかどうかを確かめるものではなくなっていた。どう考えるのか。どこで言葉を止めるのか。相手の顔を立てながら、どこまで自分の意見を通せるのか。そういうものへ変わっていた。

 

 そして、兄さまの妹である私にも、視線が集まり始めていた。

 

 前までは、兄のそばにいる小さな影でいればよかった。今は違う。兄のそばにいることそのものが、私を一枚の札に変えている。兄をどう見るのか。兄にどう口を挟むのか。兄の周りにいる人間をどう見ているのか。そういうものまで見られているのだと、もう分かるようになっていた。

 

 その朝、テアボロ様に呼ばれた時点で、私はたぶんそれを予感していた。

 

 別邸の応接室で、テアボロ様は書類を机に置いたまま、私たちを順に見た。

 

「エドワウ、セイラ。今夜、学園後援者の小さな茶会に出てもらう」

 

 兄さまはすぐに「はい」と答えた。私は一拍遅れて頷く。

 

「討論会に出た生徒と、その近しい者を呼ぶ会だ。表向きは慰労と親睦だが――」

 

 そこでテアボロ様は小さく息を吐いた。

 

「褒めるためだけの場ではない。教室の外で、もう一度見られる場だと思いなさい」

 

 兄さまの瞳が、ほんのわずかに細くなる。もう分かっている顔だった。

 

「答えるべき時だけ答えろ。黙っていて済む時は、黙っていて構わん」

 

 テアボロ様は兄さまにそう言い、それから私を見る。

 

「セイラも同じだ。黙っていれば安全というわけではない。だが、全部答える必要もない」

 

「はい」

 

「聞かれていることを、そのまま聞いているとは限らん。返事の前に一度だけ息を置きなさい」

 

 私は素直に頷いた。そういうことを、私はまだ十分に出来ない。兄さまは修辞学の授業で、言葉の置き方も、沈黙の使い方も、もうかなり覚えている。私はまだ、思ったことが顔に出る。

 

 応接室を出たあと、兄さまが歩きながら小さく言った。

 

「怖いか」

 

「少し」

 

「そうだろうな」

 

「兄さまは?」

 

「少しだ」

 

 少し、と言った兄さまの横顔は、少しには見えなかった。たぶん、もう別のことを考えている。誰がいるか。何を聞かれるか。どこまで答えるか。その先まで。

 

 昼休み、私はアンナを探して温室へ行った。

 

 図書室ほど静かすぎず、食堂ほど人目が多くない。ここは私たちが話すのにちょうどよかった。ガラス越しの光が葉の上で砕けて、薄い水気の匂いがしている。

 

 アンナはすぐに来た。私の顔を見るなり、少しだけ眉を上げる。

 

「何かあったのね」

 

「今夜、茶会に呼ばれたの」

 

 アンナはすぐに理解したようだった。

 

「ああ。ご褒美じゃないわね」

 

「やっぱり」

 

「ええ。今度は教室の外で見るのよ」

 

 私は温室の中央にある長椅子へ腰掛けた。アンナはその隣に座る。

 

「教室では、まだ先生が場を守ってくれるでしょう」とアンナが言う。「でも、ああいう場では誰も守ってくれない。見られるのは答えそのものより、答え方と、黙り方と、誰を見ているかよ」

 

「何も言わない方がいいのかしら」

 

「場合によるわ。全部答えないのは大事。でも、黙りすぎても“何もない子”だと思われる」

 

「難しいわね」

 

「難しいもの」

 

 アンナは苦笑した。

 

「相手の言葉を一度受けて、それから少しずらして返すの。すぐに否定しない。沈黙は逃げじゃなくて選び方だと思えばいい」

 

 私はその言葉を頭の中で繰り返した。

 

「マーサ先輩も来ると思う」

 

 アンナが、ふと思い出したように付け足した。

 

「マーサ先輩?」

 

「ええ。財団本流の方の」

 

 私は少し身を固くした。名前はよく聞いていた。同年代の女子生徒たちの中にあって、ひとりだけ時間の進み方が違うように見える人。兄カーディアスの名と、ビスト財団の重みが、そのまま立ち姿に入っているような人。

 

 アンナは少しだけ目を細めた。

 

「優しい人よ。でも、優しいだけではない」

 

 それ以上は言わなかった。その沈黙の中に、説明よりも強いものがあった。

 

 夜の茶会は、学園本館ではなく、上層区の後援者サロンで開かれた。

 

 柔らかな照明、低く抑えた音楽、艶を落とした木の壁。贅沢なのに、派手ではない。ここにいる人たちは、見せびらかす必要のないものを持っているのだと、その空気だけで分かる場所だった。

 

 中へ入ると、兄さまと私はすぐに別の輪へ分かれた。

 

 兄さまの方には教師と後援者、それに年長の男子生徒が集まる。私はアンナに手で招かれ、女子の輪へ入った。そこには噂通り、マーサ・ビストがいた。

 

 近くで見ると、やはり年齢より少し大人に見えた。背が高いわけではない。声も強くない。けれど、周囲が自然に少しだけ場所を空けている。中心に立とうとしなくても、重心がそちらへ寄る人だった。

 

 マーサ先輩は、私を見ると柔らかく微笑んだ。

 

「セイラ・マスさんね」

 

「はい」

 

「先日の討論会、拝見していたわ。あなたはお兄さまの発言より、聞いている人たちの顔を見ていたのね」

 

 私は驚いてしまった。そんなことまで見られていたとは思わなかった。

 

「……そう見えましたか」

 

「ええ。話している人より、聞いている人を見る子は、後から効いてくるの」

 

 褒め言葉のようでいて、どこか評価票の一行みたいな響きがあった。

 

 マーサ先輩はグラスを持ち替えながら、私の目をまっすぐ見た。

 

「あなたは、お兄さまを守りたいの?」

 

 その問いは、思っていたよりずっと深く胸に入った。守りたいのか。そうかもしれない。でも、それだけではない。

 

「置いていかれたくないのだと思います」

 

 正直にそう答えると、マーサ先輩は少しだけ笑った。

 

「可愛らしい答えね。でも、悪くないわ。置いていかれたくないと思う人は、自分で歩くことを覚えるもの」

 

 私はそこで、少しだけ踏み込んでしまった。

 

「マーサ先輩は……違うんですか」

 

 先輩はすぐには答えなかった。薄い笑みを消しもしないまま、ほんの短い沈黙を置く。その沈黙の使い方だけでも、この人が修辞学など必要としない環境で育ってきたのだと分かる。

 

「私はね」と彼女は言った。「歩く道を選ぶ前に、どこへ続く道なのかを知らされる方よ」

 

「どういう意味ですか」

 

「兄妹でも、同じ場所に立てるとは限らないの。兄が家の中に残るなら、妹は家の外へ出ることもある。別の家へ入り、その先で元の家を支えることもあるわ」

 

 私はその言葉の意味を、すぐに理解してしまった。

 

 結婚だ。

 

 しかも、自分の気持ちで選ぶ結婚ではない。家と家を繋ぐための、最初から値のついた結婚。

 

「それは……自分で決めるんですか」

 

 そう聞いた時、マーサ先輩の表情はほとんど変わらなかった。ただ、目の奥だけが少し冷えた。

 

「家の人間は、自分の人生を決める前に、家の行き先が決まることがあるのよ」

 

「嫌ではないんですか」

 

 私の問いに、先輩は薄く笑った。

 

「嫌かどうかで変わることなら、もっと楽だったでしょうね」

 

 その一言で十分だった。ああ、この人は、もう知っているのだ。自分が将来どこかへ渡され、その先で家を支える役になることを。しかも、その相手がただの男ではなく、家と企業を結ぶ巨大な名になることまで、きっともう知っている。

 

「家はね、人を大事にすることがあるわ」とマーサ先輩は静かに続けた。「でも、それは守るためとは限らないの。正しく使うために、大事にすることもある」

 

 私は何も言えなかった。

 

 この人は、まだ若いのに、自分の未来に値がついていることを知っている。知った上で、こうして立っている。美しいとは思えなかった。けれど、目を逸らしたくもなかった。

 

 その時、少し離れた輪から兄さまの声が聞こえた。

 

「必要な沈黙はあると思います。ただ、それが長く保たれるためには、沈黙を求める側が何を守ろうとしているのかを示さなければなりません。説明なき沈黙は、安定より先に不信を積もらせます」

 

 私は思わずそちらを見る。

 

 後援者らしい男性が、興味深そうに兄さまを眺めていた。

 

「前回より丸くなったな、エドワウ」

 

「丸く聞こえるのなら、学園の教育がよろしいのでしょう」

 

 兄さまはそう返した。柔らかい。けれど中身は何も引いていない。

 

 マーサ先輩もその会話を聞いていたらしい。私の横を静かに離れ、兄さまの輪へ近づいた。

 

「あなたは前より厄介になったわね」

 

 その一言に、場の何人かが笑った。兄さまは表情を崩さずに答える。

 

「そうでしょうか」

 

「ええ。前はただ鋭かった。今は、鋭いまま届く形を知っているもの」

 

「届かなければ、考えられませんから」

 

 兄さまの返答に、マーサ先輩は頷いた。

 

「でも、届く言葉の方が危険なこともあるのよ。家は言葉だけで守れるものではないわ。守るためには、差し出すものを決めなければならない時もある」

 

 その言葉の重さは、さっき私に向けられたものと同じだった。

 

 兄さまは一拍だけ置いて言った。

 

「それでも、差し出される側に理由は届くべきです」

 

 マーサ先輩はそれを否定しなかった。

 

「ええ。だからあなたは厄介なの」

 

 その会話が終わったあとも、私はしばらく動けなかった。

 

 アンナが私の袖を軽く引く。

 

「見たでしょう」

 

「ええ」

 

「マーサ先輩は優しいけど、優しいままでいられる人じゃないの」

 

「分かるわ」

 

「ビストの人は、人を嫌いだから測るんじゃない。家のために、役目のために、どこへ置くかを見るのよ」

 

 私は小さく頷いた。

 

 その夜、ズムシティでも別の会話が交わされていた。

 

 ギレンの執務室には、テキサスから上がった報告が届いていた。討論会の余波、後援者サロンでの茶会、ビスト財団の妹マーサが兄妹へ接触したこと。

 

 キシリアは書類を一読すると、薄く笑った。

 

「向こうも兄妹で見ているのね」

 

「兄だけを見ても足りんということだ」

 

 ギレンはそう答え、報告書を机に戻した。

 

「便利なものよ。兄妹というのは。片方を見れば、もう片方の動きも量れると思いたがる」

 

「実際、量れることもある」

 

 キシリアは兄を見る。

 

「私たちもそう見られてきたわ」

 

「今もだ」

 

 即答だった。

 

 少しの沈黙のあと、キシリアが言う。

 

「ビストの方は、国ではなく家で兄妹を使うのね」

 

「使うというより、最初からその役目に置いているのだろう」

 

「キャスバルとアルテイシアは、まだそのどちらでもない」

 

 ギレンは椅子の背にもたれた。

 

「国家を背負う兄妹もいる。家を支えるために、違う場所へ置かれる兄妹もいる」

 

 キシリアが続ける。

 

「そして、並んで歩こうとする兄妹もいる」

 

「そうだ」

 

 ギレンは短く頷いた。

 

「だが、どれも同じことだ。片翼だけでは飛べん」

 

 キシリアはその言葉を聞いて、兄の顔を少しだけ見つめた。テキサスの兄妹のことだけを言っているのではないと分かったからだ。

 

 もう一度、場面はテキサスへ戻る。

 

 別邸へ帰ってから、私は兄さまの部屋を訪ねた。

 

「マーサ先輩に会ったわ」

 

 兄さまは本を閉じた。

 

「どういう人だった」

 

「兄さまみたいに前へ出る人ではないの。でも、兄さまと同じで、人を見て逃がさない人」

 

 兄さまは少しだけ顔をしかめた。

 

「それは、あまり嬉しくない似方だな」

 

「でも、私たちとは違った」

 

「どう違う」

 

「私たちは並ぼうとしてる。でも、あの人たちは違う場所から同じ家を支えてるみたいだった」

 

 兄さまはしばらく黙っていた。

 

「たぶん、ずっと前から知っているのよ」と私は続けた。「自分がどこかへ渡されて、その先で兄の家を支えるんだって」

 

 兄さまは低く息を吐いた。

 

「……そういう兄妹もいる」

 

「兄さまは、ああいうの、嫌でしょう」

 

「嫌だな」

 

 即答だった。その短さが、かえって本気に聞こえた。

 

 窓の外に、テキサス・コロニーの夜景が広がっていた。

 

 兄さまと私は、並んで歩こうとしている。置いていかれないために。

 でも、マーサ先輩たちは違う。兄と妹なのに、同じ場所に立とうとしているようには見えなかった。もっと遠くて、もっと動かしにくい何かを、それぞれ別の場所から支えているように見えた。

 

 同じ兄妹でも、こんなにも違う。

 私はまだ、その違いをうまく言葉にできなかった。

 

 ただ、兄さまの後ろではなく、兄さまの隣を歩きたいという気持ちだけは、前よりずっとはっきりしていた。




妹に撃たれそうな兄がもうひとり⋯
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