その日の夕方、テアボロに呼ばれたとき、キャスバルは扉を開ける前から、ただの用向きではないと分かっていた。
別邸の応接室は、昼間よりも少し暗い色をしていた。壁際の照明だけが落ち着いた金色を作り、磨かれた木の机の縁に細い光を引いている。テキサス・コロニーの夜は、地球の夜のように外から闇が押し寄せてくるわけではない。天井光が静かに弱まり、街路の照明が一つずつ役目を引き継いでいく。だから窓の外に見える景色にも、夜の不意打ちはない。ただ、規則正しく灯りの階調が移り変わるだけだ。
それでも、今日はその秩序だった光の移り方さえ、何かの合図のように思えた。
テアボロは椅子に深く腰かけ、片手に薄い紙束を持っていた。いつものように疲れを隠してはいたが、目の周りだけに微かな影が差している。今日一日の仕事が終わった顔というより、まだ終わっていない仕事を目の前に置いた顔だった。
「座りなさい、エドワウ」
呼ばれた名に従い、キャスバルは腰を下ろした。
テアボロはすぐには話し出さない。紙束を机に置き、指先で軽く揃えてから、ようやくこちらを見る。その慎重さが、かえって言葉の内容の重さを知らせていた。
「ビスト氏がお前と改めて話したがっている」
予想していなかったわけではない。
討論会があり、茶会があり、その場その場で見られていることは分かっていた。見られているなら、その先がある。そう考えるのは自然だ。だが、こうして名指しで告げられると、胸の奥のどこかがひとつ沈む。
キャスバルはそれを顔に出さないようにしながら言った。
「今度は、どのような意味でですか」
テアボロの口元が、ほんの少しだけ動いた。笑ったのではない。こちらの聞き方を値踏みしたような、そんな微かな変化だった。
「前回ほど露骨な値踏みではないだろう」
テアボロは静かに言った。
「少なくとも、顔を見て器を測るだけの段階は過ぎた。お前の言葉を聞いたうえで、もう一度話す気になったのだ」
「それは、良いことなんですか」
「さあな」
すぐに返った答えは、正直だった。
「相手が誰かによる。だが、避けて済む話ではない」
その通りだった。ここで怖じて引けば、その引き方まで見られるだけだ。見られているという事実そのものは、もう消せない。
テアボロは少しだけ背を預け、低い声で続けた。
「一つだけ言っておく」
キャスバルは顔を上げる。
「父君を語るな、とは言わん。だが、父君の言葉だけで済ませるな」
その一言は短かったが、重く胸に落ちた。
ジオン・ダイクンの言葉は、今でも自分の内側のどこかを支えている。それは消えていない。消すつもりもない。だが、それだけで届かない場所があることも、もう知り始めていた。
テアボロの目には、同情も、慰めもなかった。ただ現実を見ろと言っていた。その現実の冷たさが、かえって信頼に近いものにも思えた。
「分かっています」
そう答えると、テアボロは頷いた。
「ならいい。車はすでに回してある」
管理区画へ向かう車の後部座席で、キャスバルは窓の外を見ていた。
別邸のある上層居住区は、いつ見ても整いすぎている。街路樹の高さまで揃い、歩道の曲がり方にまで品がある。そこを抜けて幹線へ入ると、テキサス・コロニーの別の顔が見えてくる。高層棟群の窓明かり、空中輸送路を滑る搬送車の光、金融区画の冷たいガラス壁面に映る情報表示の青白さ。人が暮らす街でありながら、同時に人を動かすための機構でもある街だった。
来たばかりの頃は、この光景をただ人工的だと思っていた。今は違う。
あの一つ一つの建物の中で、契約が結ばれ、資金が動き、保険が組まれ、輸送が決まり、工場が回り、法が使われる。国家が命じる前に、命じたものが実際に動く形を先に整えている者たちがいる。
父は人に夢を語った。
ギレンは国家の器を作ろうとしている。
カーディアスは、その器の外側を、見えないまま支えている。
では自分はどこに立つのか。
その問いは、ここ数日で何度も頭に浮かんだ。けれど、答えはまだなかった。ただ、問わずに済む場所へはもう戻れないという感覚だけが、日ごとにはっきりしていく。
高層棟の上層階。前回と同じ建物だった。
だが、今回通された部屋は少し違っていた。前は会見のために整えられた一室という印象だったが、今日はもっと実務の匂いがある。広い窓の外に金融区画の夜景が見え、手前には低い書棚と簡素な机、数点の資料端末。余計な装飾はなく、代わりに使い込まれた気配がある。人に見せるためではなく、ここで決め、ここで考えるための部屋だった。
カーディアス・ビストは窓際ではなく、テーブルの横に立っていた。
前回と同じく落ち着いた色のスーツ。髪にはきっちりと年齢が見えるのに、動作には少しも淀みがない。顔立ちは整っているが、それよりも印象に残るのは視線の静かさだった。必要以上に威圧せず、かといって一歩も退かない。人を押し潰す種類の強さではなく、人が自分から立ち位置を決めざるを得なくなる種類の強さだと、キャスバルは思う。
「久しぶりだね、エドワウ君」
「お招きありがとうございます」
カーディアスは椅子を示した。
「学園には慣れたか」
「少しずつ」
「討論会では、ずいぶん聞かせてくれたそうだ」
「聞かせるつもりはありませんでした」
「だが、届いた」
短いやり取りの間にも、カーディアスの表情はほとんど変わらない。だが、変わらないことそのものが、この男の関心の向け方を示していた。余計な愛想を挟まず、もう本題に入ってよいと判断しているのだ。
勧められるまま腰を下ろすと、カーディアスは向かいに座り、両手を軽く組んだ。
「君は国家をどう見ている」
前回より、問いが大きい。
大きいが、唐突とは感じなかった。あの男が次にどの階段を用意しているか、完全ではないにせよ、少しは読めるようになっていたからだ。
キャスバルはすぐには答えず、一度だけ息を置いた。修辞学で学んだことが、こういう時にも身体に残っている。問いを受けてすぐ返すのではなく、自分の言葉がどこへ落ちるかを先に見る。
「人を守るための器だと思っています」
そう言った時、カーディアスの眉が本当にわずかに動いた。続きを待つ顔だった。
「ただし、その器は、ときどき器そのもののために大きくなろうとする」
「器そのもののために」
「はい。人を守るために必要だったはずのものが、いつの間にか人を収めることそれ自体を目的にし始める。そうなると、守るはずのものが、人に重くのしかかる」
言いながら、キャスバルは自分の中に父とギレンの両方の影を感じていた。父ならもっと高く語るだろう。ギレンならもっと冷たく言い切るだろう。今ここで口にしているのは、そのどちらにもなりきれない自分の言葉だった。
カーディアスは椅子の背にもたれずに言った。
「国家は器である前に、分配と暴力の独占だ」
あまりに冷たい定義だった。だが、反論できるほど嘘でもない。
「守るという言葉は、そのあとに来る説明にすぎない」
キャスバルは目を逸らさない。逸らせば、この言葉がそのまま真実になってしまう気がした。
「君の父は、器の中にいる者たちに新しい夢を語った」
その瞬間、胸の奥が小さく軋んだ。父のことをこういう文脈で口にされるのは、慣れない。
「ギレン・ザビは、おそらく器そのものを強くしようとしている。だが、器の外から見れば、その違いは管理の方法の差にすぎぬことがある」
「父上を、管理の方法の違いで片づけるつもりですか」
声が低くなるのを止められなかった。
カーディアスの顔は変わらない。だが、目だけが少し深くなった。怒らせたとも、試したとも違う。こちらの感情の置きどころを確認している顔だった。
「片づけてはいない」
その答えはゆっくりだった。
「影響は本物だった。今でも消えてはいない。だが、本物の影響が、そのまま本物の統治になるとは限らない」
キャスバルは一瞬、言葉を探した。
父の言葉は多くの人の胸を打った。今でも残っている。だが、その言葉がそのまま工場を動かし、配給を回し、輸送船を飛ばし、軍を維持できるかと言われれば、答えに詰まる。
悔しい、とまず思った。父を守りたいという感情が先に立つ。だが、そこで父の言葉をそのまま繰り返すのは違うと、今はもう分かる。
「それでも、人は意味なしには耐えられません」
口を開くと、自分の声は思ったより落ち着いていた。
「生きるだけでは、人は従い続けられない」
カーディアスの口元に、ほんのわずかに笑みが差した。前回のような社交の微笑ではない。何かを見つけた時の、もっと内側の変化だった。
「そうだ」
頷きながら言う。
「だから思想はいる。夢も、理念も、旗も必要だ」
そこで彼は一拍置く。
「だが思想は、飢えない仕組みの上に乗って初めて長く働く」
父が残したのは意味だ。ギレンが作ろうとしているのは器だ。ではこの男が見ているのは何か。
「国家は命令できる。企業は作れる」
カーディアスは窓の外を示すように視線を動かした。
「だが、何を“決まったもの”として扱わせるかは、もっと別の層で決まる」
「別の層」
「法、契約、教育、物流、金融、軍需」
一つ一つの語が、街の灯りのように並んだ。
「国家が命じたことが、現実に動ける形へなるための条件だ。人はそれを国家の力だと思いたがる。だが、その国家が動ける床を先に敷いているものがある」
キャスバルは、そこで初めて本当に理解した気がした。
テアボロの執務室。学園の授業。後援者のサロン。企業家たちの茶会。全部が別々のものではない。人が選ぶ前に、選べる形が先に決められている世界がある。
「だから、あなたは国家を持たないのに国家を動かせる」
その言葉を口にした瞬間、カーディアスの表情がかすかに変わった。
初めて、ほんの少しだけ、笑いとも警戒ともつかないものが目元に浮かぶ。
「動かしているのではない」
否定はしたが、冷ややかではなかった。
「動ける形を先に作っているだけだ」
「それは支配ではないのですか」
カーディアスは、今度は迷いなく頷いた。
「そうだ」
即答だった。
「だが、支配は暴力だけではない。人に選ばせる形を先に決めることも支配だ」
その一言で、キャスバルの中でいくつもの線がつながった。
父が敵にしたのは、連邦の役人だけではない。議会だけでもない。もっと外側で、もっと静かに、何を可能とし、何を不可能とするかを決めているもの全体だったのかもしれない。
「では、あなた方の秩序は、人が何を望むかより先に、人が何を選べるかを決めている」
自分の口から出た言葉に、自分で少し驚く。
カーディアスの視線が動かない。その静けさの中に、こちらをさらに先へ進ませようとする圧があった。
「それなら、父が敵にしたものは、連邦ではなく、その外側だったのかもしれません」
今度の沈黙は長かった。
部屋の外の遠い機械音まで聞こえそうなほど静かだった。カーディアスは少しも身じろぎしない。だが、その沈黙の長さ自体が、この言葉が的を射ていたことを示しているように思えた。
「そこまで見えるなら、君は危険だ」
声色は変わらない。だが、前よりずっと本気の言葉だった。
危険だ、と言われても、キャスバルの中で萎むものはなかった。むしろ、ここで怯めば今までの全てが他人の確認で終わる気がした。
「危険なのは、見えることではなく、見えるのに何も変えないことです」
言い切ったあと、自分の鼓動が少し速くなっているのに気づく。怒りではない。恐怖でもない。踏み越えてはならない線を一歩だけ越えた感覚に近い。
カーディアスの表情は動かなかった。
だが、眼差しの底にあった何かが、ほんの少しだけ深い場所へ沈んだのを、キャスバルは見た。試す者の顔ではない。相手の危険性を秤に載せている顔だ。
「君はこれから、国家にも、家にも、思想にも利用される」
カーディアスは静かにそう言った。
「どこに立つにせよ、利用されぬことはない」
その言葉に、キャスバルは思わず父とギレンと自分自身を同時に思った。父もまた人を動かした。ギレンも人を動かしている。ならば、利用されることと利用することの境目はどこにあるのか。
「だからせめて、自分が何を差し出しているかだけは見失うな」
提案ではない。誘いでもない。警告だった。
ここで、たとえば「こちらへ来い」と言われる方がまだ分かりやすかった。だがこの男はそうしない。自分の側へ招くのではなく、自分がどこへ立つにせよ見失うなと言う。それがかえって怖い。立場の選択そのものを相手に返すことで、責任まで含めて抱かせるやり方だからだ。
「見失わないために、学んでいるつもりです」
そう返すと、カーディアスはようやく小さく頷いた。
「なら、まだ間に合う」
その言葉で会話は終わった。
帰りの車の中で、キャスバルはずっと黙っていた。
窓の外を流れるテキサス・コロニーの夜景は、来る時と何も変わっていない。だが、見え方は明らかに違った。高層棟の灯りも、輸送路の光も、全部が誰かの意思で並べられている。人が何かを望む前に、何を望めるかが先に決まっている。それがこの街の美しさの正体かもしれなかった。
父は夢を語った。
ギレンは器を作ろうとしている。
カーディアスは、その器が立つ床を見ている。
では自分は何をするのか。
その問いはまだ答えを持たない。だが一つだけは、今夜はっきりした。
父の敵は、思っていたよりずっと大きい。
別邸へ戻り、自室の扉を閉めてからも、キャスバルはしばらく灯りを点けなかった。
薄暗い部屋の中で、窓から差し込む外の光だけが家具の輪郭を浮かべている。椅子に腰を下ろして目を閉じると、カーディアスの表情の変化が一つずつ浮かんできた。
父の話をした時の、動かない顔。
意味なしには耐えられないと言った時の、小さな頷き。
国家の外側だったのかもしれないと告げた時の、長い沈黙。
危険だと言った時の、少しだけ本気になった目。
あの男は、顔に出さないのではない。出す必要のあるものしか出さないのだと、今は分かる。あの沈黙も、あの一瞬の目の深さも、全部が計算されていたのかもしれない。そう考えると寒気がした。だが同時に、自分の言葉が確かにどこかへ届いたことも分かってしまう。
その事実は、恐ろしくもあり、嬉しくもあった。
嬉しいと感じること自体を、キャスバルは少し嫌悪した。
自分は、認められたいのか。試されたいのか。父の敵の大きさを知りたいのか。それとも、ギレンでも父でも届かなかった場所へ、自分の言葉で触れてみたいのか。
そのどれもかもしれない。どれでもないかもしれない。
扉の向こうで、小さく足音が止まった気配がした。アルテイシアかもしれないと思ったが、声はかからなかった。気配はしばらくして離れていく。
その足音を聞きながら、キャスバルはゆっくり目を開けた。
自分はまだ、誰の側にも立っていない。だがもう、どの側にも利用されうる。国家にも、家にも、思想にも。
ならばせめて、自分が何を差し出すのかだけは自分で決めねばならない。
テキサス・コロニーの人工夜景は、今日も整いすぎるほど整っていた。
その光の下で、キャスバルは静かに息を吐いた。
国家の外を知ったなら、次はその外を知ったまま、国家の中に立てるかどうかだ。
その問いから先は、もう子供のままでは進めないのだと、今夜の彼ははっきり知っていた。