妹に撃たれない方法   作:Brooks

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第64話 妹たちの距離

 

 兄さまがあの人と会って帰ってきた夜、私は結局、何も聞けなかった。

 

 部屋の前まで行った。灯りはついていたし、人の気配もした。けれど扉の向こうにいた兄さまは、私が声をかければいつも通り返してくれる兄さまではなく、どこか別の場所を見ている人のような気がして、そのまま踵を返した。

 

 翌朝、食卓で顔を合わせても、兄さまは普段と変わらない声で「よく眠れたか」と聞いた。私も「ええ」と答えた。嘘だった。たぶん兄さまも同じだったのだと思う。

 

 でも、変わっていないわけではなかった。

 

 こういうことは、言葉にしなくても分かる。

 

 兄さまは前から、何かを見つめる時に少しだけ視線が遠くなる人だった。けれど、あの夜のあとからは、その遠さに重みが加わっていた。ただ考えているのではなく、見てしまったものを、自分の中のどこへ置くか決めかねているような沈み方だった。

 

 私はその顔を見て、少し怖くなった。

 

 置いていかれる、と思ったのではない。むしろ逆だった。兄さまはたぶん、私を置いていくつもりはない。置いていかないと決めたまま、それでも先へ行ってしまう人なのだと、前よりはっきり分かってしまったのだ。

 

 学園へ向かう車の中でも、兄さまはほとんど喋らなかった。

 

 窓の外にはテキサス・コロニーの朝の街が流れていく。人工の朝は地球の朝より少し均一で、どこか洗い立ての布のような光をしている。上層の居住区を抜けると、通学路の途中からは企業棟が見えてくる。磨かれたガラス、連絡橋、輸送レーン、早い時間から動く搬送車。テキサスはいつ見ても、人が暮らす街というより、人と物と金を遅れず流すために出来ている街に見えた。

 

 兄さまはその景色を見ていた。けれど見ている先は窓の外ではなく、そのもっと外側のように見えた。

 

「兄さま」

 

「ん?」

 

「昨日、遅かったわね」

 

「そうだな」

 

「難しいお話だったの?」

 

 兄さまは少しだけ口元を動かした。

 

「難しくない話など、ああいう人はしない」

 

 それだけだった。

 

 でも、私には十分だった。ああ、やっぱりそうなのだと思う。難しい話だったのではない。難しくしないと話せない種類のことを聞いてきたのだ。

 

 その日の授業は、朝から妙に長く感じられた。

 

 先生方の声音も、同級生たちの笑い声もいつもと変わらない。なのに、私の方が少し変わってしまったせいで、全部が昨日までと同じには聞こえない。兄さまは教室の向こう側に座り、講師の問いに落ち着いて答えていた。前なら少し尖って見えた言い回しも、最近は角を隠すのが上手くなっている。修辞学の授業で学んでいることが、そのまま言葉の置き方に出ていた。

 

 鋭いのに、まっすぐ刺さない。

 

 相手が受け取りやすい形にしてから渡す。

 

 それが前より怖かった。

 

 昼休み、私はアンナを探して温室へ行った。

 

 ここはもう、私たちの場所になりつつあった。図書室ほど静かすぎず、食堂ほど騒がしくなく、外へ面したガラスの向こうに植栽が重なって見える。水やりを終えたばかりなのか、空気には少しだけ湿り気があった。人工の陽光を受けて、葉の先に丸い雫がいくつも光っている。

 

 アンナはすでに来ていた。背の高い鉢植えの陰に立って、何か考え事をしているようだった。

 

「いたのね」

 

 私が声をかけると、アンナは振り向いて微笑んだ。

 

「セイラの顔を見れば分かるわ。今日は、ただおしゃべりをしに来た顔じゃないもの」

 

「そんなに分かりやすい?」

 

「ええ、少しね」

 

 私は隣に立ち、しばらく一緒に葉の揺れを見た。ここでは言葉を急がなくていい。それがアンナと一緒にいる時のいちばん楽なところだった。

 

「兄さまが、少し変わった気がするの」

 

 私がそう言うと、アンナはすぐに頷かなかった。

 

「どんなふうに?」

 

「遠くなったわけじゃないの。でも……何かを見た人の顔になってる」

 

 アンナは少しだけ目を細めた。

 

「見たんでしょうね」

 

「何を?」

 

「ここよりもっと外側のものを」

 

 答えになっているような、なっていないような返事だった。でも、私にはそれが妙にしっくりきた。

 

「怖い?」

 

 アンナに聞かれて、私は少し考えた。

 

「怖い時もあるわ。でも、兄さまが遠くへ行くのが怖いんじゃないの」

 

「じゃあ何が怖いの」

 

「兄さまが、遠くへ行く理由をちゃんと持ち始めてる気がして」

 

 自分で言ってから、その言葉の意味が少しだけ胸に刺さった。理由を持って進む人は、ただ迷って離れていく人より止めにくい。

 

 アンナは何も慰めることを言わなかった。それがありがたかった。

 

「マーサ先輩、今日来るわよ」

 

 少し間を置いてから、アンナが言った。

 

「また茶会?」

 

「小さいのが一つ。後援者の人も来るみたい」

 

 私は顔をしかめた。

 

「最近、そういうのが多いわね」

 

「見られてるのよ」

 

「分かってる」

 

「分かってる顔じゃないわ」

 

 アンナが少しだけ笑う。

 

「セイラ、あなた、まだ“嫌だ”の方が先に出るもの」

 

「嫌よ。見られるのなんて」

 

「ええ。でも見られないより、見られた方が選べることもある」

 

 その言い方が少しマーサ先輩に似ていて、私は黙った。

 

 午後の授業が終わる頃には、学園の空気まで少しよそゆきになっていた。招待される者とされない者がいる。それだけで人の目は変わる。同じ制服を着ていても、同じ席に座っていても、もう皆が同じではないのだと、こういう時に分かる。

 

 茶会の会場は学園の本館ではなく、上層区にある後援者サロンだった。

 

 前にも一度だけ使われたことのある場所だ。高い天井、厚い絨毯、壁際に置かれた細身の花器、柔らかな照明。贅沢なのに、贅沢を誇るようには出来ていない。ここに出入りすること自体が選別で、飾り立てる必要がないからだろう。

 

 入口で兄さまと目が合った。兄さまは表向きの名を着ている時の顔をしていた。エドワウ・マスとして、ここに立っている顔。私も同じだ。アルテイシアではなく、セイラとして、この空間に入る。

 

 中へ入ると、人の輪は自然に分かれていった。

 

 兄さまの周りには教師と年長の男子生徒、それに後援者の男たちが集まる。私はアンナの隣へ入り、その向こうにいる何人かの年上の女子生徒たちへ挨拶を返した。

 

 そして、その中心に、マーサ先輩がいた。

 

 やっぱり、あの人だけ少し違って見える。

 

 同じ年頃のはずなのに、同級生たちが身につけている軽さが最初からない。笑うし、穏やかに喋るし、相手に恥をかかせたりもしない。けれど、周囲が無意識に一歩だけ場所を譲っている。最初から“誰かの娘”ではなく、“家の一部”として扱われることに慣れている人なのだと、その立ち方だけで分かる。

 

「セイラ・マスさん」

 

 柔らかな声で呼ばれ、私は姿勢を正した。

 

「はい」

 

「この前はゆっくり話せなかったわね」

 

 マーサ先輩の微笑みはきれいだった。でも、アンナの言う通り、優しいだけの笑みではなかった。相手を安心させるために少しだけ柔らかくしている、そういう笑い方だった。

 

「今日はお兄さまと一緒ではないのね」

 

「兄は、あちらに」

 

 視線を向けると、兄さまはすでに二人の年長者に何か問われていた。表情は穏やかだが、あれは気を抜いている顔ではない。むしろ逆だ。前より丁寧に刃を隠すことを覚えた人の顔だった。

 

「あなたは、お兄さまをよく見ているのね」

 

 マーサ先輩がそう言って、私を見た。

 

 前にも似たことを言われた気がする。ここへ来てから、同じことを何度も思い知らされる。私はただ妹でいるだけでは足りないのだと。

 

「見ていないと、置いていかれそうですから」

 

 そう答えると、マーサ先輩は少しだけ目を細めた。

 

「可愛らしい理由ね」

 

 その言い方にからかう響きはなかった。

 

「でも、悪くないわ。置いていかれたくないと思う人は、自分で歩くことを覚えるもの」

 

 私は、そこで聞いてしまった。

 

「マーサ先輩は……違うんですか」

 

 先輩はすぐには答えなかった。手にしていたカップを少しだけ持ち替え、目線を私から外さずに、一拍だけ沈黙を置く。その沈黙が、妙に大人びて見えた。

 

「私はね」

 

 静かな声だった。

 

「歩く道を選ぶ前に、どこへ続く道なのかを知らされる方よ」

 

 私は意味を取りかねて、少しだけ首を傾げた。

 

「どういう意味ですか」

 

「兄妹でも、同じ場所に立てるとは限らないの」

 

 先輩の横顔は穏やかなままだった。

 

「兄が家の中に残るなら、妹は家の外へ出ることもある。別の家へ入り、その先で元の家を支えることもあるわ」

 

 言われてから理解するまでに、ほんの少し時間がかかった。

 

 結婚のことだ。

 

 ただの結婚ではない。好きになった相手と、という話ではない。家と家のあいだで、最初から意味を持たされている結びつきのことだ。

 

「それは……自分で決めるんですか」

 

 私がそう聞くと、マーサ先輩は笑った。きれいで、でも少しだけ冷たい笑いだった。

 

「家の人間は、自分の人生を決める前に、家の行き先が決まることがあるの」

 

「嫌ではないんですか」

 

 聞いてから、踏み込みすぎたかもしれないと思った。

 

 けれど先輩は怒らなかった。ただ、ほんの少しだけ、笑みの形が変わった。前より静かなものになった。

 

「嫌かどうかで変わることなら、もっと楽だったでしょうね」

 

 その一言だけで、胸が詰まった。

 

 この人はもう知っているのだ。自分がどこかへ渡され、その先で家を支えることになると。しかもそれを、まだ遠い未来の話としてではなく、もう決まったこととして知っている。

 

「家はね」とマーサ先輩は言った。「人を大事にすることがあるわ。でも、それは守るためとは限らないの。正しく使うために、大事にすることもある」

 

 私は何も言えなかった。

 

 自分の未来に値段がついていることを知っていて、こうして立っていられる人を、私はまだ見たことがなかった。美しいとは思えなかった。でも、弱いとも思えなかった。

 

 この人は、たぶん私よりずっと早く、家の重さを知ってしまったのだ。

 

 その時、少し離れたところから兄さまの声が聞こえた。

 

「必要な沈黙はあると思います。ただ、それが長く保たれるためには、沈黙を求める側が何を守ろうとしているのかを示さなければなりません」

 

 思わず視線を向ける。

 

 兄さまは、教師と後援者に囲まれながら、少しも気後れしていないように見えた。昔ならもっとあからさまに刺しただろう言葉を、今は一度柔らかく包んでから出している。けれど中身は変わっていない。いや、変わっていないまま届くようになっているぶん、前より厄介なのかもしれない。

 

 マーサ先輩もその方を見た。

 

「前より上手になったわね」

 

 私が答えに困っていると、先輩は少しだけ笑う。

 

「前は、思ったことをそのまま出していた。今は、出し方を覚えている」

 

 その言葉が終わらないうちに、先輩は兄さまの方へ歩いていった。

 

 私とアンナは少し離れた位置から、そのやり取りを見ていた。

 

「あなたは前より厄介になったわね」

 

 マーサ先輩が言う。

 

 兄さまは少しだけ肩をすくめた。

 

「そうでしょうか」

 

「ええ。前はただ鋭かった。でも今は、鋭いまま届く形を知っているもの」

 

「届かなければ、考えられませんから」

 

 その返しに、先輩は頷いた。

 

「でも、届く言葉の方が危険なこともあるのよ」

 

 そこで一拍置く。

 

「家は言葉だけで守れるものではないわ。守るためには、差し出すものを決めなければならない時もある」

 

 その言葉の意味を、兄さまが全部知っているわけではないだろう。けれど、重さだけは受け取ったのだと思う。少しだけ目を細めてから、静かに言った。

 

「それでも、差し出される側に理由は届くべきです」

 

 マーサ先輩は、そこでほんの少しだけ笑った。

 

「ええ。だからあなたは厄介なの」

 

 その短いやり取りが終わっても、私はしばらく息を吐けなかった。

 

 アンナが隣で小さく言う。

 

「見たでしょう」

 

「ええ」

 

「先輩は優しいわ。でも、優しいだけではいられないの」

 

「……分かる」

 

「ビストの家の人たちは、人を嫌って測るんじゃない。家のために、役目のために、どこへ置くかを見るのよ」

 

 私は頷いた。

 

 兄さまが国家のことを考え始めているのだとしたら、マーサ先輩はもうずっと前から家の中でそういうものを見てきたのだ。私は、そのどちらにもまだついていけていない。

 

 夜、別邸へ戻ってから、私は兄さまの部屋を訪ねた。

 

「マーサ先輩に会ったわ」

 

 兄さまは本を閉じてこちらを見る。

 

「どういう人だった」

 

「兄さまみたいに前へ出る人ではないの。でも、兄さまと同じで、人を見て逃がさない人」

 

 兄さまの口元が少しだけ歪んだ。

 

「それは、あまり嬉しくない似方だな」

 

「でも、私たちとは違った」

 

「どう違う」

 

「私たちは並ぼうとしてる。でも、あの人たちは違う場所から同じ家を支えてるみたいだった」

 

 兄さまは何も言わなかった。

 

「たぶん、ずっと前から知ってるのよ」と私は続けた。「自分がどこかへ渡されて、その先で兄の家を支えるんだって」

 

 兄さまは低く息を吐いた。

 

「……そういう兄妹もいる」

 

「兄さまは、ああいうの、嫌でしょう」

 

「嫌だな」

 

 即答だった。

 

 その短さが、かえって本気に聞こえた。

 

 部屋を出たあと、廊下の窓から夜景を見た。

 

 兄さまと私は、並んで歩こうとしている。置いていかれないために。

 でも、マーサ先輩たちは違う。兄と妹なのに、同じ場所に立とうとしているようには見えなかった。もっと遠くて、もっと動かしにくい何かを、それぞれ別の場所から支えているように見えた。

 

 同じ兄妹でも、こんなにも違う。

 私はまだ、その違いをうまく言葉にできなかった。

 

 ただ、兄さまの後ろではなく、兄さまの隣を歩きたいという気持ちだけは、前よりずっとはっきりしていた。

 

 

 場面は変わり、サイド3。

 

 ズムシティの執務区は、夜になると静かになる。昼間は人と書類と通信の波で満ちている廊下も、この時間になると足音がよく響く。窓の外には、照明に縁取られたバンチの曲面と、ゆっくり回転する鏡面の反射光が浮かんでいた。

 

 ギレンの執務室の扉が、控えめに叩かれる。

 

「入れ」

 

 短い返事のあと、扉が開き、キシリアが入ってきた。

 

 軍服ではなく、濃い色の簡素な上着を着ている。だがその立ち方は、いつも通り隙がない。部屋の奥にいる兄の姿を一瞬で捉え、机の上の書類の量、窓の外の時間帯、室内の灯りの明るさまで視界に入れてから歩き出す。

 

「まだ起きていたのね、兄上」

 

「お前もだろう」

 

 ギレンは書類から目を上げずに答えた。

 

 机の上には開発計画、輸送量の報告、資源採掘の試算、人口増加の予測表、いくつもの数字と地図が並んでいる。どれも国家の形を決める紙だ。

 

 キシリアは机の前まで来て、書類の束の一つに目を落とした。

 

「移民申請、また増えているわね」

 

「ああ」

 

「連邦が締めるほど、こちらに流れてくる」

 

「締めているのは連邦のつもりだ。だが、締めるということは、どこかへ押し出すということでもある」

 

 ギレンはそこでようやく顔を上げた。

 

「押し出された人間は、流れ着いた場所を選ぶ。今はそれがサイド3だ」

 

 キシリアは椅子に腰を下ろした。

 

「ずいぶんと都合のいい流れね」

 

「流れは作るものだ」

 

 ギレンは淡々と言う。

 

「連邦はエネルギーと輸送で締める。こちらは仕事と住む場所で受ける。それだけの話だ」

 

「その“それだけ”で、国の形が変わるのよ」

 

「分かっている」

 

 ギレンは静かに頷いた。

 

 キシリアは少しだけ兄の顔を見た。

 

「キャスバルは、どうしているのかしら」

 

 その名前が出た瞬間、部屋の空気がほんのわずかだけ変わった。

 

「テキサスで学んでいる」

 

 ギレンは短く答える。

 

「学園、財団、企業、連邦側の人間。いい場所だ。国家の外と内を同時に見られる」

 

「あなたがそういう場所に送ったのでしょう」

 

「そうだ」

 

 キシリアは机の上の地図を指でなぞった。サイド3のバンチ配置図から、連邦本土、各サイド、輸送航路まで描かれている。

 

「兄上、あの子をどうするつもり?」

 

 ギレンは少しだけ黙った。

 

 その沈黙は迷いではなく、言葉の選び方を測る沈黙だった。

 

「どうもしない」

 

「どうもしない?」

 

「自分でどこへ立つか決めさせる」

 

 キシリアは小さく笑った。

 

「ずいぶん優しいのね」

 

「違う」

 

 ギレンは静かに首を振る。

 

「自分で立つ場所を決めた人間の方が、長く持つ」

 

 キシリアはその言葉を聞いて、少しだけ目を細めた。

 

「あなたは昔からそうね。人を駒にするくせに、自分で歩いていると思わせる」

 

「思わせるのではない。歩かせる」

 

「同じよ」

 

「違う」

 

 ギレンの声は静かだったが、はっきりしていた。

 

「自分の足で立ったと思っている人間は、倒れにくい」

 

 キシリアはしばらく何も言わなかった。

 

 窓の外では、ゆっくりとバンチの光が移動している。あの光の下に何百万という人間が住み、働き、子供を育て、年を取っていく。その全部を、いずれ誰かが背負うことになる。

 

「兄上」

 

「何だ」

 

「あなたは国を背負う人ね」

 

 ギレンは少しだけ笑った。

 

「最初からそのつもりだ」

 

「私は軍を背負うわ」

 

「知っている」

 

 キシリアは椅子の背に寄りかかり、天井を少しだけ見上げた。

 

「じゃあ、キャスバルは何を背負うのかしらね」

 

 ギレンはすぐには答えなかった。

 

 窓の外の光を一度だけ見てから、ゆっくり言う。

 

「あれは――背負うものを選ぶ側だ」

 

 キシリアはその言葉を聞いて、静かに息を吐いた。

 

「厄介ね」

 

「厄介だな」

 

「でも、あの子らしいわ」

 

 短い沈黙のあと、キシリアが立ち上がる。

 

「セイラの方は?」

 

「兄をよく見ている」

 

「それも厄介ね」

 

「兄妹というのは、そういうものだ」

 

 キシリアは扉の前で振り返った。

 

「兄上」

 

「何だ」

 

「あなた、キャスバルを敵に回す気はないでしょうね」

 

 ギレンは少しだけ口元を動かした。

 

「味方にも敵にもするつもりはない」

 

「じゃあ何にするの」

 

 ギレンは静かに答えた。

 

「同じ時代を生きる人間だ」

 

 キシリアはそれを聞いて、ほんのわずかだけ笑った。

 

「それが一番厄介よ、兄上」

 

 扉が閉まり、部屋に静けさが戻る。

 

 ギレンは再び書類に目を落とした。人口、資源、輸送、艦船、工場、教育。国家は数字で出来ている。だが、その数字の外側で動く人間もいる。

 

 キャスバル。

 アルテイシア。

 そして自分とキシリア。

 

 同じ国を背負うために並んでいる者。

 違う場所から同じ家を支える者。

 どこにも立たず、自分の場所を選ぼうとする者。

 

 国家というものは、こういう人間たちの上に乗る。

 

 ギレンはペンを取り、書類の端に小さく印をつけた。

 

 サイド3の人口予測、上方修正。

 

 人が増える。

 国が重くなる。

 戦争が近づく。

 

 それでも、止める気はなかった。

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