テアボロが「今夜は少し大人の食卓だ」と言った時点で、キャスバルはそれがただの会食ではないと分かっていた。
別邸の夕刻は静かだった。人工の夕暮れが窓の外の街路を薄い琥珀色に染め、上層居住区の植栽は、地球の庭園を模した落ち着いた影を長く引いている。テキサス・コロニーの時間は、いつもどこか美しすぎる。朝も夜も、空の色も風の加減も、人の都合のために調整されている。そのことを知ってしまうと、景色が景色のままでは見えなくなる。
応接室に通されると、テアボロはすでに着替えを済ませていた。濃紺の上着に灰色のベスト、胸元の布も控えめで、商会の主でありながら、今夜はあくまで招待客の一人として振る舞うつもりなのだと分かる装いだった。
「座りなさい、エドワウ」
表向きの名で呼ばれ、キャスバルは向かいへ腰を下ろした。
テアボロはすぐには話し始めなかった。机の上に置いた白手袋を揃え、指先で軽く叩いてから、ようやく口を開く。
「今夜の会は、学園後援者の集まりという形を取っている。だが、実際はそれだけではない」
「はい」
「議会に近い者、宇宙行政の人間、軍の将官、それに資本側の人間が顔を出す」
キャスバルは何も言わなかった。言葉を挟めば、それだけで自分がどういう種類の緊張をしているか見抜かれる気がした。
「お前は同席しろ。話せと言われるまでは聞いていればいい」
そこでテアボロは、ほんのわずかに目を細めた。
「だが、聞いている顔はするな」
キャスバルはその意味を一度胸の中で転がした。
露骨に耳をそばだてれば子供だと思われる。逆に何も分かっていない顔をしても、置物だと値踏みされる。聞いていないふりをしながら、聞いている。それが今夜求められる立ち位置なのだと理解した。
「お前がこれまで見てきたのは、宇宙から見た連邦だ」
テアボロは低く言う。
「今夜見るのは、連邦が自分自身をどう見ているかだ」
その一言で、胸の奥が少しだけ冷たくなった。
父の敵を知りたいと思ってきた。けれど、自分はこれまでずっと、敵を“外から見える形”でしか捉えていなかったのかもしれない。議会、軍、駐留部隊、官僚。だが連邦自身が、自分をどういうものだと思っているのか。それを知らなければ、結局いつまでも相手の輪郭はぼやけたままだ。
別邸を出ると、上層の街路にはすでに夜の照明が落ちていた。テキサス・コロニーの夜景は、ズムシティのそれより柔らかい。政治や軍の中心というより、金と情報の流れがそのまま灯りになったような夜だ。空中輸送路を滑る搬送車の光が交差し、高層棟の窓は規則正しく明滅し、その一つ一つが誰かの判断と契約の結果なのだと、今では分かる。
車は別邸の静かな通りを離れ、管理区画寄りの上層道路へ入った。窓の外に見える建物の表情も変わっていく。住宅区の柔らかな丸みを帯びた外装から、鋭い直線を多用した企業棟の群れへ。壁面の案内表示は、居住者向けの親切な文字から、取引先と関係者だけを相手にした簡潔な記号へ変わる。
ここは人が住む場所というより、人を動かすための場所だ、とキャスバルは思った。
会場となるクラブは、上層区の中でもさらに一段奥まった区画にあった。会員制の迎賓施設らしく、外観は驚くほど控えめだった。大きな看板もない。低い照明に照らされた石張りのエントランスと、無駄のない車寄せ。金をかけているのは明らかなのに、それを見せびらかさない。見せびらかさなくても分かる者だけが来ればよいという態度だった。
中へ入ると、空気が違った。
香りがまず違う。花ではなく、薄く磨かれた木と酒と、上質な布の匂い。足元の絨毯は厚いのに沈みすぎず、歩く音を消しながら歩幅を乱さない。照明も柔らかいのに顔色を曇らせない絶妙な高さに落ちている。ここにいる人間たちは、こういう場所を特別とは思わないのだろう。持つことを当然としている者たちの場所だった。
案内された会食室には、すでに何人かが集まっていた。
最初に目についたのは、丸みのある肩を上質な上着に包み、穏やかな微笑を浮かべている初老の男だった。ハワード・グラスマン。議会予算委員会の有力者だとテアボロに教えられていた。笑顔は柔らかいが、目だけが少しも弛んでいない。何かを慈しむ目ではなく、何をどこまで認めるかを常に量っている目だった。
その少し後ろに立っていた痩せた男は、頬の線まで細く、背広の皺一つが気になるほど神経質に見えた。ローレンス・バクスター。宇宙移民監督部門の官僚。紙と数字で人を締める類いの男だと、顔を見ただけで分かる。視線が人の表情ではなく、立場と利害の位置を見ていた。
軍人は三人いた。
一人は髪に白いものの混じり始めた壮年で、立っているだけで周囲の空気が少し整う。ジーン・コリニー中将。表情は静かで、声を荒げる人間には見えない。だが、荒げる必要がない種類の権限を持つ者の落ち着きがある。軍服の着方にも、飾りではなく長年の習慣が滲んでいた。
その少し後ろに、まだ若い男が控えていた。ジャミトフ・ハイマン大佐。年齢の若さを隠すように、姿勢が妙に完成されている。顎の角度も視線の置き方も、訓練というより意思で作り上げたものだ。何かを押さえ込んでいる人間の静けさだった。
もう一人は、他の二人より少し肩の力が抜けて見える実務肌の将官だった。ジョン・コーウェン准将。軍服は同じでも、コリニーやジャミトフのような政治の匂いが薄い。艦橋と港と補給記録の方が似合う顔をしている。目だけはよく動いていて、部屋の人数より、入口の位置や給仕の流れまで見ているようだった。
そして最後に、すぐには資本家と分からない男がいた。アンセルム・ローヴェル。年齢は五十を過ぎているはずなのに、身体に余分な重さがない。声も柔らかく、表向きには最も感じがいい。だが、感じのよさというものが、ここまで計算で作られていると逆に寒い。誰より人当たりがよく、誰より人を値で見ているような顔だった。
テアボロはキャスバルを伴ってその輪へ近づいた。
「遅れて申し訳ありません」
そう言って一人一人に挨拶を重ねる。キャスバルも合わせて頭を下げたが、子供として扱われると思った予想は半分だけ外れた。確かに最初の視線は「若い同伴者」へ向けるそれだった。だが名前が出た瞬間、何人かの目が少しだけ止まった。
討論会の余波だと分かった。
席につくと、給仕が静かに料理を運び始めた。地球風のコースでありながら、素材は宇宙圏のものも混じっている。あくまで“宇宙にも理解のある地球文化”を演出した皿だった。こういう細部にも連邦の気分が出るのかと、キャスバルは妙に冷めた目で見た。
会話は最初、天候制御設備や新しい輸送保険制度、最近の学園の研究発表など、誰も傷つけない話題から始まった。だが、そういう穏やかな水面が長く続くはずもない。グラスマン議員がワインを揺らしながら、ことさら軽い調子で言った。
「宇宙の若い方々は、最近ずいぶん自治に熱心だそうですな」
笑っている。だが、その言い方にはすでに距離がある。自分の庭の端で少し騒がしい町ができた、くらいの温度で話している。
テアボロが微笑みを崩さず受けた。
「熱心というより、生活に近い問題だからでしょう。自治は理念でなく、配分の話になりますので」
その一言で、空気が少しだけ変わった。
バクスターがすぐに口を開く。
「配分は感情で決めるものではありません。供給、需要、安全保障、全体最適。特にエネルギーに関しては、地方感情を優先する余地はない」
地方感情。
サイド3に暮らす人々の生活を、そう呼ぶのかとキャスバルは思った。怒りはあったが、表には出さない。ここで感情を浮かべれば、この男は“やはり宇宙の子供は感情で語る”と結論づけるだけだ。
グラスマンは「もちろんもちろん」と頷きながら、あくまで穏やかだ。
「だからこそ連邦が全体を見てやらねばならんわけです。若いコロニーはすぐ自分の持ち分ばかりを見る」
その言葉を聞きながら、キャスバルは内心で考えていた。
父の言葉を信じない者たち、ではない。
父の言葉を、最初から別の棚に置いている者たちだ。
夢や理想を否定するのではない。そもそも、それを配分表と同じ場所に乗せない。そこに、暴力とは違う強さがある。
コーウェンが、ようやく口を開いた。
「地方問題で済ませるには、サイド3の輸送能力は伸びすぎています」
それまでの滑らかな空気が、その一言で少しだけ硬くなった。
グラスマンの眉がわずかに寄る。バクスターは不快そうではないが、明らかに反論の準備をしている。
「輸送能力の増加は商業規模の拡大とも読めます」とバクスターが言う。「むしろ適切な監督の下に置けば、全体の利益になる」
そこへ、今までほとんど声を出していなかったジャミトフが静かに言った。
「商業規模の拡大は、そのまま自治能力の拡大にもつながります」
全員が一度だけ彼を見る。若い大佐の発言としては、場を切りすぎていた。
「宇宙移民は、自由を与えれば自立を望みます。管理の問題として考えるべきです」
管理。
その言葉には冷たさがあった。バクスターの制度的な冷たさとも違う、もっと直接的な、人を上から見下ろす種類の冷たさだ。
コリニーがすぐに抑えた。
「大佐、言葉を選べ」
穏やかだが、場の空気を戻すには十分な声だった。
「管理ではなく、監督だ」
ジャミトフは一瞬だけ黙り、すぐに「失礼しました」と言った。顔色も声音も変わらない。だがキャスバルは、その従順さの薄さを見逃さなかった。従っているのではない。今は抑えられているから引いただけだ。
この男は、今はまだ上官に頭を押さえられている。
だが、押さえる手が外れれば厄介だ。
そう感じた時点で、ジャミトフの顔はもうただの若い将校ではなくなっていた。
アンセルム・ローヴェルが、空気を軽くするような声で言った。
「しかし、サイド3の膨張を全部悪いことのように言うのは早計では?」
その声音の柔らかさが、逆に場の緊張を際立たせる。
「開発が進めば市場が生まれる。市場が生まれれば秩序もまた必要になる。投資先として見れば、今のサイド3はむしろ魅力的です」
グラスマンが少しだけ鼻を鳴らした。
「企業はすぐ儲けの話にする」
「儲けがなければ、コロニーも船も保険も回りません」
ローヴェルは笑ったままだった。
「議会が理念を語り、官僚が数字を揃え、軍が脅威を語る。そのどれも大事でしょう。ですが、結局は誰かが実際に流して、作って、支払わなければ何も動かない」
その言葉を聞いて、キャスバルは理解した。
連邦は一つの意思で動いていない。
議会は軽く見る。
官僚は制度で締める。
軍は危険を嗅ぎ取る。
資本はその間で利益を計る。
巨大であるがゆえに、一枚岩である必要がない。
だがその分、反応は遅くなる。
それが弱さなのか、強さなのかはまだ分からなかった。けれど、単純な悪意でできた相手ではないことだけははっきりした。
その時、コリニーがゆっくりと視線をこちらへ向けた。
「エドワウ君はどう思う」
全員の目が、音もなく集まる。
若い同伴者に場を譲る親切さではない。今この食卓で、何をどう返せるかを見るための問いだった。
キャスバルはすぐには答えなかった。グラスの縁に映る光を一瞬見てから、息を置く。すぐに反発しない。問いの形をまず受ける。修辞学で繰り返し叩き込まれたことが、身体の中で生きていた。
「サイド3の不満を理念だけで見るのは危険だと思います」
そう言うと、何人かの表情が少しだけ動いた。若者らしい理想論を始めるかと思われていたのかもしれない。
「ですが、利益だけで測るのも同じくらい危険でしょう」
キャスバルは続ける。
「人は、食べられれば黙るわけでも、意味があれば耐えられるわけでもありませんから」
言い終えたあと、場に短い静けさが落ちた。
自分でも分かる。これはうまくいったのではなく、届いてしまった種類の沈黙だ。
グラスマンは少しだけ目を細めた。若造にしては面倒だ、という顔。バクスターはむしろ警戒を強めた。制度では扱いにくい相手だと思っている。コリニーは表情を変えないが、興味の深さだけが増している。ジャミトフの目には、露骨ではない敵意が一瞬だけ浮かんだ。ローヴェルは楽しそうで、コーウェンだけが、少しだけ現実を見る顔をしていた。
キャスバルはその一人一人を胸の中に刻む。
父が見ていた敵は、議会の老人一人ではない。
官僚の数字でもない。
軍の銃でも、資本家の契約だけでもない。
全部が並んで初めて、連邦は連邦として重くなる。
会食が終わり、クラブの長い廊下をテアボロと並んで歩いた。窓の外に広がる夜景は、入る時と同じはずなのに、ずっと冷たく見える。
「どう見えた」
テアボロが聞いた。
キャスバルは少し考えてから答えた。
「連邦は大きい」
「それだけか」
「……一つの意思で動いていない」
テアボロは歩みを緩めなかった。
「それで?」
「敵意だけで出来ているなら、もっと分かりやすかったです」
自分の声が、いつのまにか少し低くなっていた。
「けれど、あれはそれぞれ別の理屈で同じものを押さえつけている」
テアボロはそこで初めて小さく頷いた。
「それが連邦だ」
その一言に、妙な重みがあった。諦めではない。長く見てきた者の確認だった。
別邸へ戻る車の中で、キャスバルはほとんど口を開かなかった。
窓の外を流れる光を眺めながら、さっきの会話を一つずつ反芻していた。
グラスマンの軽視。
バクスターの数字。
ジャミトフの統制。
コリニーの抑制。
コーウェンの現実。
ローヴェルの市場。
どれか一つならまだ分かりやすい。だが、それぞれが自分の理屈で動きながら、結果として同じ方向へサイド3を縛っている。
父は、こういう相手をどこまで見ていたのだろう。
ギレンは、これを国家としてどう読むのだろう。
自分は――何を見たのだろう。
自室へ戻っても、すぐには灯りをつけなかった。
薄暗い部屋の中で、窓の外の人工夜景だけが床に淡い線を落としている。椅子に腰を下ろし、指先を組む。身体は疲れているのに、頭の方だけが妙に冴えていた。
連邦は、思っていたより悪ではなかった。
だからこそ、思っていたより厄介だった。
悪だけでできた敵なら、憎めばいい。倒せばいい。だが、あの食卓にいた者たちは皆、自分なりの理屈を持っていた。大きなものを維持するための理屈。秩序のための理屈。利益のための理屈。現実のための理屈。
その理屈の集まりが、結果として宇宙の人間を押さえつけている。
では、何を壊せばいいのか。誰を倒せばいいのか。
そこまで考えて、キャスバルはようやく気づいた。
壊すという発想そのものが、まだ子供なのかもしれないと。
相手が一人ではないのなら、敵もまた構造だ。構造に届くには、怒りだけでは足りない。言葉も、仕組みも、流れも、もっと知らなければならない。
窓に映る自分の顔は、まだ若かった。
だがその若い顔の奥で、今夜また一つ、何かが古くなった気がした。