妹に撃たれない方法   作:Brooks

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ジャミトフ側の視点


第66話 抑えられた刃

 

 連邦宇宙軍司令部の廊下は、夜になると昼よりも広く見えた。

 

 昼間は伝令、参謀、整備担当、監察、補給、出入りする士官たちの靴音で埋まる通路が、この時間には不必要な音だけを削ぎ落とされている。一定間隔で並ぶ白い照明は均一で、壁も床も同じ温度の灰色だった。意匠と呼べるものはほとんどない。艦隊配置図、宙域図、輸送路を示す発光板、非常時の封鎖区画表示。ここは人に好かれるための場所ではなく、遅れず決めるための場所だった。

 

 ジャミトフ・ハイマンは、その廊下を一定の歩幅で歩いていた。

 

 背は高い。肩幅はあるが、厚みで押す体格ではない。痩せて見えるのに弱くは見えないのは、無駄を削った身体の使い方をしているからだろう。制服の襟も袖も乱れがなく、歩くたびに長靴の音が規則正しく返る。髪はきっちり撫でつけられ、こめかみのあたりには年齢に似合わない白いものが早くも混じっていた。三十代も終わりに近い。若くはない。だが、上へ行くには十分すぎるほど若い。

 

 その若さが、廊下ですれ違う者たちの敬礼に微妙な差を生んでいた。

 

 立ち止まって敬礼する若い士官。歩調を緩めるだけの中堅。顔を上げることなく道を譲る軍属。そこにあるのは単純な階級差ではなく、この男がどこまで上がるかを見積もる視線だった。

 

 前方から副官が小走りに近づいてきて、二歩手前で止まり敬礼した。

 

「ハイマン大佐、コリニー中将がお呼びです」

 

 ジャミトフは足を止めた。

 

「今か」

 

「はい。コーウェン准将もお見えです」

 

 ほんのわずか、右の眉が動いた。それだけだった。

 

「……そうか」

 

 副官はそれ以上何も言わずに一礼し、横へ下がった。用件は伝えた。あとは自分で読め、ということだ。

 

 ジャミトフは歩き出した。

 

 昨夜の会食が頭のどこかにまだ残っている。テキサス上層のクラブ。議会、官僚、軍、資本。誰も声を荒げず、誰も本音をそのままは言わなかった。だが、サイド3という語が卓上に出るたび、空気の温度だけが少しずつ変わっていった。

 

 政治家は軽く見ていた。官僚は数字で締められると思っていた。資本家は利益を見ていた。コーウェンは現場の匂いを嗅いでいた。コリニーは何も急がず、全員の話を聞いていた。

 

 あの場の続きだ、とジャミトフは思った。

 

 扉の前で立哨の兵が脇へ退く。副官が静かに扉を開く。

 

「ハイマン大佐、入ります」

 

 ジャミトフは一歩中へ入り、敬礼した。

 

「失礼します」

 

 執務室は広かったが、豪華ではなかった。机、会議用の低いテーブル、壁面モニタ、宙域図、補給表、艦隊番号一覧。窓の外には宇宙港の灯りが見える。ドックの作業灯、移動する作業艇の微かな光、艦の外殻に反射する規則的な照明。それらは美しさより機能で配置されていた。

 

 ジーン・コリニー中将は机の奥に座っていた。五十代半ば。白髪は目立つが、老け込んだ印象はない。顔の皺は、衰えというより考えた時間の深さに見える。怒鳴る必要のない立場に長くいた男の静けさがあった。

 

 ジョン・コーウェン准将は窓際に立ち、片手を背へ回していた。こちらは軍人らしい厚みのある体格で、艦橋の手すりの方が似合いそうな男だった。政治の匂いがする部屋に立っていること自体が少し不自然で、その不自然さが逆に信用できる気配を作っていた。

 

「楽にしろ」

 

 コリニーの声は低く、無駄がない。

 

 ジャミトフが手を下ろすと、コーウェンが振り向きだけで挨拶をした。

 

「大佐」

 

「准将」

 

 それだけで十分だった。昨夜の会食から地続きの空気がある。紹介をやり直す必要はない。すでに互いを見ている。

 

 コリニーは机上の報告書の一束を指先で整えた。

 

「読んだな」

 

「はい」

 

「どう見る」

 

 問いは簡潔だった。だが、その簡潔さの中に、長く喋るなという意味と、余計な飾りを付けるなという意味の両方が入っている。

 

 ジャミトフは報告書に視線を落とし直さず、そのまま答えた。

 

「工業出力、建設速度、輸送量、人口流入。いずれも地方自治体の自然成長としては異常です」

 

 コーウェンが窓の外を見たまま言う。

 

「“異常”という言葉は便利だな」

 

 嫌味には聞こえなかった。確認の声だった。どこから先を危険と見ているのか、その基準を見たいのだ。

 

「便利ではなく正確です」

 

 ジャミトフは答える。

 

「どの数字を境にそう見ている」とコーウェンが返した。

 

「単独の数字ではありません」

 

 ジャミトフは一つずつ切った。

 

「輸送量の伸び。重機材搬入の偏り。エネルギー消費の増加。建設速度の均一化。それに民間名義の資金流入」

 

 言いながら、昨夜の資本家の顔が一瞬浮かぶ。利益だの市場だのと柔らかく言いながら、あの男はすでに数字の匂いを知っていたはずだ。知った上で投資価値を語った。

 

「どれか一つなら商業発展で説明できます」

 

 ジャミトフは続ける。

 

「ですが、全部が同時に伸びている。少なくとも三つ以上の意思が同じ方向で働いています」

 

 コリニーは何も言わない。頷きもしない。ただ聞いている。その沈黙は、もっと先まで言えという促しでもあった。

 

「軍備そのものは、まだ脅威ではありません」

 

 そこを口にする時、ジャミトフは意識的に少しだけ言葉を落とした。脅威ではない、と先に認めておく方が、次の一文が重くなる。

 

「ですが、軍備に転用可能な基盤は揃いつつあります」

 

 コーウェンが振り向いた。

 

「つまり」

 

「今のうちに監督権限を強化すべきです」

 

 ジャミトフは迷わず言い切った。

 

「エネルギー配分、建設許可、輸送保険、治安監察。この四点に連邦の再承認手続きを設けるべきです」

 

「締めるのか」

 

 コーウェンの声は低かった。責める調子ではない。言葉をそのまま受け取った確認だ。

 

「秩序維持です」

 

「現場では、それを締めると言う」

 

 ジャミトフは少しだけ視線をコーウェンへ向けた。

 

「現場の言い換えに付き合う必要はありません」

 

 その返答のあと、部屋の空気が薄く張るのを感じた。わずかだが、確かに。

 

「いや、言葉の問題だ」

 

 コリニーがそこで口を挟んだ。

 

 大きな声ではない。だが、場の中心がどこにあるかを一瞬で思い出させる声だった。

 

 ジャミトフは上官を見た。

 

「押さえ込むのと、逸脱させないのは違う」

 

 コリニーは静かに言った。

 

「結果が同じなら同じです」

 

 口に出した瞬間、自分でも少し早いと分かった。だが引っ込める気はなかった。

 

「違う」

 

 今度はコリニーが間を置かずに返した。

 

「その差を忘れた時、国家は管理装置になる」

 

 管理装置。

 

 ジャミトフの内心で、古い言葉だ、という感覚が走る。

 

 管理でも監督でも本質は同じだ。人を枠の中へ留め置くために制度を使う。ならば、言い換えに何の意味がある。

 

 だが、その考えを今この場でそのまま口にするほど、彼は無謀ではなかった。

 

 昨夜の会食を思い出す。政治家は軽く見ていた。官僚は数字で押さえるつもりだった。ローヴェルは市場と言い、バクスターは配分と言い、グラスマンは地方感情と呼んだ。皆、違う語を使う。だが、違う語を使うことで自分の手を清潔に見せているだけではないのか。

 

 コリニーはその違いを本気で違いだと思っている。そこが、この男の強さでもあり、古さでもある。

 

「仮に締めるとして、こちらの補給線はどうする」

 

 コーウェンが話を引き戻した。

 

 実務の人間らしい切り方だった。理念も言葉も、最後は港と燃料と船の数に戻る。

 

「サイド3の輸送を絞れば、こちらの負担も制御しやすくなります」

 

「“絞れば”で済むなら苦労しない」

 

「済ませるよう制度を組むべきです」

 

「制度で人間が止まるなら、戦争は起きん」

 

「制度が甘いから戦争になるのです」

 

 言い切った時、コーウェンの口元がわずかに歪んだ。笑ったというより、よく切れる刃物を見た時の表情だった。

 

「地図の上ではな」

 

 低い声だった。

 

「補給も輸送も、地図の上で動かすものです」

 

「違う」

 

 コーウェンはきっぱりと言った。

 

「地図の外で崩れるものを、地図の上で繋ぎ止めるのが補給だ」

 

 ジャミトフはわずかに唇を結ぶ。感覚論だ、と言いたくなる。だがこの男は感覚で喋っていない。現場を知っているからこそ、数字が現場に負ける瞬間を知っている。

 

「港を一つ止めれば、どこへ積み替える」

 

 コーウェンは窓の外のドックを見ながら続ける。

 

「保険を上げれば、誰が裏で払う。許可を一つ遅らせれば、どの民間船が違う名義で動く。お前は読めると思っている」

 

「読めるようにするのが参謀の仕事です」

 

「違う」

 

 コーウェンは振り返った。

 

「読めない誤差まで飲み込んで、最後に艦を動かせる状態にするのが軍人の仕事だ」

 

 正面からぶつかった。

 

 ジャミトフは、その瞬間だけ、この男が嫌いではないと感じた。面倒だし、古いし、政治に向かない。だが現場の現実を本当に知っている。だからこそ噛み合わない。

 

 自分は先回りしたい。コーウェンは誤差込みで備えると言う。どちらも連邦を守るための言葉だ。だが、片方は制度で未来を縛ろうとし、片方は未来の誤算まで補給に乗せようとしている。

 

 話が平行線に入りかけたところで、コリニーが手元の書類を閉じた。

 

「准将、今日はここまででいい」

 

 コーウェンは短く頷いた。

 

「了解しました」

 

 ジャミトフの横を通り過ぎる瞬間、一度だけ視線を残した。露骨な敵意ではない。頭は切れる。だが危うい。そういう現場屋の評価がそのまま目に出ていた。

 

 扉が閉まり、執務室に静けさが戻る。

 

 コリニーはすぐには話さなかった。窓の外の宇宙港を見たまま、しばらく黙っている。その沈黙が長すぎないあたり、この男は沈黙の使い方も知っている。

 

「お前の言っていることは分かる」

 

 やがてそう言った。

 

 ジャミトフは答えない。

 

 褒め言葉の次に来るものを、彼は知っている。

 

「では」

 

「だからこそ急ぐな」

 

 間を置かずに返った言葉に、ジャミトフはほんの少しだけ喉を固くした。

 

「サイド3は必ず問題になります」

 

「知っている」

 

「ならば」

 

「戦争にするな」

 

 それは命令に近かった。

 

 ジャミトフは息をひとつだけ吸う。

 

「戦争になる前に縛るべきです」

 

「その“縛る”が早い」

 

「自由を与えれば自立を望む。宇宙移民はそういうものです」

 

 そこで初めて、コリニーの目が鋭くなった。

 

「人を括るな」

 

 短く、強かった。

 

 その一言に、ジャミトフの中で小さな反発が走る。宇宙移民を一人一人の事情で見ていて間に合うものか。巨大な人口を相手にする以上、傾向を掴み、先に手を打つしかない。そう思う。

 

「宇宙移民だから危険なのではない」

 

 コリニーは続けた。

 

「追い詰められ、切り分けられ、見捨てられたと思った時に危険になる」

 

「感情の問題です」

 

「国家は感情で崩れる」

 

 ジャミトフは沈黙した。

 

 その言葉自体は否定できない。だが、感情を理由に手を緩めることが国家を弱くすると、彼は本気で思っている。

 

「何もしないとは言っていない」

 

 コリニーは机上の報告書を指で押さえた。

 

「だが、“今すぐ締める”しか答えがない参謀は危うい」

 

 ジャミトフは正面から上官を見る。

 

 この男は分かっている。現実も、戦争の匂いも、サイド3の危険性も。分かっていながら遅い。それが最も厄介だと、ジャミトフは思う。

 

「ハイマン大佐」

 

 階級と名を合わせて呼ばれた。その呼び方だけで、抑えの手がかかったのが分かる。

 

「お前は優秀だ」

 

 コリニーの声は落ち着いていた。

 

「だが、その優秀さを思想で汚すな」

 

「思想ではありません。危機管理です」

 

「その言い換えが一番危うい」

 

 ジャミトフは何も返さなかった。返さないというより、これ以上言えば本当に思想の話になると自分で分かっていた。

 

「お前は大佐だ」

 

 コリニーは続ける。

 

「大佐であるうちは、軍をお前の信条で動かすな」

 

 その言葉は丁寧だった。だが、内容は明確だった。お前はまだ上に行ける。だが、今はここで止まれ。そういう意味だ。

 

「……承知しました」

 

 自分でも、承知していない声音だと分かった。コリニーも当然分かっているだろう。それでもそれ以上は何も言わなかった。

 

 廊下へ出ると、さっきと同じ白い照明が並んでいた。人影は少なく、空調の低い音だけが規則的に続いている。ジャミトフは足を止めなかった。止めれば、今の会話への苛立ちがもっとはっきりした形になると分かっていたからだ。

 

 コリニーは有能だ。現実を知っている。コーウェンも同じだ。だから始末が悪い。

 

 無能なら切り捨てれば済む。だが有能な人間が、古い論理で国家を遅らせている。

 

 連邦は大きすぎる。

 

 大きい国家は反応が遅い。

 遅い国家は寛容になる。

 寛容は、自立の余地を残す。

 余地はやがて権利になる。

 権利は、いずれ武装を要求する。

 

 それが彼の中では一つの線として繋がっていた。

 

 ジャミトフにとって、秩序は自由より先にある。自由は、秩序の内側でだけ許されるべきものだ。そうしなければ国家は持たない。少なくとも、彼はそう信じている。

 

 窓のない区画へ入る手前で、一瞬だけ自分の靴音が不自然に大きく響いた。

 

 遅い。連邦は遅すぎる。

 

 彼の内側で、その考えが言葉になる。

 

 遅い国家は、自分の寛容さに殺される。

 

 同じ頃、コーウェンは宇宙港管制区画へ戻っていた。

 

 こちらの空気は執務室とは違う。通信音、機械音、遠くの整備ハッチの開閉、艦の電源系統が切り替わる低い振動。壁の表示板にはドック使用予定、補給遅延、保険料率の改定通知。現場は常に何かが足りず、常に何かを繋いでいた。

 

「准将」

 

 若い副官が端末を抱えて駆け寄る。

 

「サイド3方面の貨物保険料率がまた上がりました」

 

「当然だ」

 

 コーウェンは端末を受け取り、数字を一瞥した。

 

「上が数字で締め始めた」

 

「危険なんでしょうか」

 

 副官の問いは素朴だった。現場の人間は、危険なら危険、そうでないならそうでないと答えてほしがる。

 

「危険だ」

 

 コーウェンは答えた。

 

「だが、危険だからといって締めれば静かになるとは限らん」

 

「ハイマン大佐は、もっと強く押さえるべきだと」

 

 コーウェンは小さく鼻を鳴らした。

 

「あの男は頭が切れる」

 

「では正しいのでは」

 

「切れすぎる頭は、ときどき人間の重さを忘れる」

 

 端末を返しながら、コーウェンは補給表の一番下の数字を見る。燃料予備、交換部品、港湾作業員の不足。現場は理念で回らない。理念は、回っている現場の上でだけ綺麗に見える。

 

「戦争になった時、最初に壊れるのは理念じゃない」

 

 副官が黙る。

 

「補給線だ」

 

 それだけ言えば十分だった。

 

 コリニーの執務室では、部屋に静けさが戻っていた。

 

 中将は報告書を閉じ、机の上に置いたまましばらく動かなかった。窓の外では、宇宙港の灯りが規則正しく明滅している。艦隊、港、補給、人事、予算。国家はあまりにも多くのものの上に乗っている。ひとつ正しい手を打っても、その順番を誤れば全体が揺らぐ。

 

 サイド3は危険だ。

 ジャミトフもまた危険だ。

 

 危険だからといって急げば、それ自体が火種になる。

 遅すぎても手遅れになる。

 

 その間を読むのが、自分の仕事だった。

 

 コリニーは机の上の報告書にもう一度手を置いた。

 

 戦争を起こすのは怒りだけではない。

 正しい手を、間違った順番で打つこともまた戦争を呼ぶ。

 

 彼はそのことを知っていた。

 だからサイド3だけではなく、自分の部下の中にある刃にも、目を光らせ続けていた。

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