ズムシティの夜は静かだった。
昼のあいだ政庁を満たしていた靴音も、扉の開閉も、通信士たちの短い声も引き、残っているのは遅くまで消えない執務室の灯だけだ。
その灯の下で、ギレンは珍しく書類を前にして手を止めていた。
机の上に広げられているのは、若年士官教育課程の見直し案と、候補者配置の草案、その中でもひときわ目立つ一行――ガルマ・ザビの名前である。
ギレンはその名を見て、深く息を吐いた。
そのため息を聞きつけたように、控えめなノックのあと、セシリアが入ってくる。
「まだお仕事でしたか」
「仕事だ」
ギレンはそう言ってから、少し考えた。
「……いや、仕事の形をした頭痛の種だな」
セシリアは机の前まで来て、書類を見た。すぐ事情を察したらしい。目元が少し和らぐ。
「ガルマ様ですか」
「そうだ」
「それは、おめでたい話ではありませんの」
「素直にそう言えれば楽だった」
セシリアの口元が少しだけ緩む。
「何がご心配なのです?」
ギレンは椅子の背に寄りかかり、天井を見た。
「あれは見栄がある」
「はい」
「素直だ」
「はい」
「人の期待に応えたがる」
「はい」
「しかも顔がいい」
セシリアが口元を押さえた。
「笑うな」
「まだ笑っておりません」
「その言い方は信用ならん」
「では、少しだけです」
ギレンは深く息を吐いた。
「軍というのは、ああいう若いのを妙に持ち上げたがる。姿がいい、受け答えがいい、家柄がいい、しかも素直だ。放っておけば、周囲が勝手に飾り立てる」
「なるほど……」
「そして本人も、“そう見られているなら応えねば”と思う」
セシリアは小さく吹き出した。
「それは……確かに少し危ういですね」
「少しではない。かなりだ」
ギレンは書類の一枚を指で叩く。
「このまま軍へ入れれば、周りの連中は必ず言うぞ。“さすがはザビ家の御曹司”“若き獅子”“将来の柱石”――あの手の言葉を浴びせられて、あれが真顔で胸を張る姿が目に浮かぶ」
セシリアは肩を震わせた。
「目に浮かびます」
「だろう」
そこで扉が開いた。
「何がそんなに目に浮かぶのかしら、兄上」
キシリアだった。入ってくるなり机上の紙を一瞥し、ギレンの顔とセシリアの笑いを飲み込んだ表情を見て、すぐに分かったらしい。
「ああ、ガルマね」
「お前も笑うな」
「まだ笑っていないわ」
「お前たち、示し合わせているのか」
キシリアは一枚紙を取って眺め、実に楽しそうに言った。
「でも分かるもの。兄上が何を嫌がっているのか」
「聞こう」
「軍で変におだてられて、妙な方向に張り切ること」
ギレンは真顔で頷いた。
「その通りだ」
「あるでしょうね」
「ある」
「かなり」
「かなりだ」
セシリアが静かに口を開く。
「でも、どうなさるおつもりですか。軍へ入れないわけにも参りませんし」
「入れぬわけにはいかん」
ギレンは紙を指で押さえた。
「だが、いきなり花形へ置くのは危険すぎる」
「なら簡単よ」
キシリアが即答した。
「最初から、格好をつける暇のないところへやればいい」
「例えば?」
「ランバ・ラル」
ギレンの視線が少しだけ上がる。
「ラルか」
「ええ。現場、規律、部下を連れて帰る責任、見栄より先に身体を動かすこと。あの男なら、そういうものを先に叩き込むでしょう」
ギレンは少し考えた。
確かに悪くない。
ラルは現場を知っている。骨もある。若い者を折るために怒鳴る男ではなく、立たせるために叱る男だ。
「……そのあとマ・クベだな」
ギレンが言うと、キシリアが頷いた。
「前を見たあとに後ろを見せる。兵站、補給、資源、管理。軍は前だけで回っているわけじゃないと分からせるのね」
「そうだ」
セシリアも小さく頷いた。
「それなら、格好よさより先に、重さを覚えます」
ギレンは少しだけ肩の力を抜いた。
「まずはラルか」
「ちょうど良い時期でもあるわ」とキシリアが言う。
「何がだ」
「ラルの方も」
キシリアの目が少しだけいたずらっぽくなる。
「今、かなり浮き足立っているでしょうから」
「……何の話だ」
「兄上、知らないの?」
ギレンが眉をひそめると、キシリアはふっと笑った。
「クラウレとまとまるわよ、あの男」
セシリアが目を丸くした。
「まあ」
ギレンも一瞬言葉を失った。
「本当か」
「ええ。ほとんど決まりみたいなもの」
キシリアは肩をすくめる。
「最近のあの男、気を抜くと顔に出ているもの」
ギレンは少しだけ考え込んだ。
なるほど。ならば確かに、妙に張り切るはずだ。ようやく結ばれ、家も持つ。そのうえ若い教育対象まで来る。面倒なほど燃える条件が揃っている。
「……嫌な予感しかしないな」
「私は少し楽しみだけれど」
「私も、少し」
セシリアまでそう言う。
「お前たち、他人事だな」
「他人事ですもの」
キシリアは実にあっさり言った。
数日後、ラルの駐屯区画は、いつになく明るかった。
士官向け宿舎の食堂兼居間は、丈夫な机と椅子、磨かれた食器、窓の外に見える訓練場の灯という、質実な整い方をしている。派手ではないが、きちんと暮らす者の匂いがある。
その卓に、ラルとクラウレが向かい合っていた。
クラウレは落ち着いた色のワンピースを着て、背筋をきちんと伸ばして座っている。仕草は柔らかく、言葉遣いには育ちの良さがある。だが、ただ上品なだけではなく、相手が浮かれていれば浮かれているほど落ち着いて見える種類の女だった。
「そんなに嬉しいのですか」
クラウレが、笑みを含んだ声で言う。
ラルは咳払いしたが、隠しきれない。
「嬉しい」
「まあ、正直ですこと」
「誤魔化すことでもない」
「それはそうですわね」
クラウレは上品にグラスを置いた。
「では、私も嬉しいと申し上げておきます」
ラルは一瞬だけ目を見開き、それから不器用に笑った。
「……ああ」
その時、扉が勢いよく開いた。
「大尉殿!」
野太い声と一緒に、数人の海兵隊員が雪崩れ込んでくる。その先頭にいた女が、腕を組んで部屋を見回した。
シーマ・ガラハウだった。
まだ若い。だが、目つきと口の速さだけなら誰にも負けない。海兵隊の連中も、その後ろで露骨ににやにやしている。
「おめでとうございますって言いに来ましたよ」
ラルが眉を上げる。
「礼儀は覚えたか、シーマ」
「こういう時だけはあります」
シーマはまったく悪びれない。
「だって、こんなにめでたい話ですもの」
クラウレは静かに微笑んだ。
「ありがとうございます」
その一言で、海兵隊の連中も少し姿勢を正す。クラウレには、そうさせる落ち着きがあった。
シーマは敬礼してから、少し身を乗り出した。
「それで、大尉殿。次は若様の件ですね」
ラルの目が、本気の色になる。
「ああ」
「やる気でしょう?」
「当然だ」
ラルは胸を張った。
「ようやく張り合いが来た。素直で、見栄があって、負けず嫌いだ。ああいうのは鍛え甲斐がある」
シーマが後ろを振り返る。
「始まった」
海兵隊の一人が呟く。
「始まりましたねえ」
別の男が頷いた。
クラウレが、少し可笑しそうにラルを見る。
「そんなに楽しみなのですか」
「楽しみだとも」
ラルは隠そうともしない。
「良い若いのを預かるなら、半端にはせん」
「それで、どうなさるおつもりですの?」
クラウレの問いかけに、ラルは待ってましたとばかりに指を折り始めた。
「まず走らせる」
「はい」
「転ばせる」
「はい」
「起き方を覚えさせる」
「はい」
「格闘もやる。組みつき、崩し、体格差の潰し方、武器を失った時の距離の取り方」
ラルの声には熱がこもっていた。
「それから、夜営、退却、斥候、待ち伏せ、地形利用――」
「少しお待ちくださいませ」
クラウレが穏やかに割って入る。
「それを全部、最初からなさるおつもりですか」
「最初からやる」
ラルは真顔だ。
「見栄だけで立つ若いのには、まず土の臭いを覚えさせる」
シーマが横から口を挟む。
「じゃあ、あたしらも付き合いますよ」
ラルが目を向ける。
「海兵隊までか」
「せっかくの若様教育でしょう?」
シーマはにやりとした。
「格闘は大尉殿。こっちはゲリラと嫌らしい現場仕事を教えます」
「嫌らしい現場仕事とは何だ」
「潜み方、抜け方、追われた時の逃げ方、見つかった後のごまかし方、夜の動き方、街中で撃たれた時に生き残る勘」
海兵隊の連中がうんうんと頷く。
「あと泥の中で飯を食うのも慣れないと」
「寝起き五分で装備整列とか」
「雨でも歩く」
「腹減ってても歩く」
ラルは腕を組み、満足そうに頷いた。
「よし」
クラウレはその顔を見て、柔らかく微笑む。
「ずいぶん楽しそうですこと」
「楽しい」
ラルはまったく隠さない。
「軍人は、派手な死に方を覚える前に、生きて帰る技を覚えるべきだ」
シーマが、珍しく真面目な顔をした。
「それは、そうです」
ラルは続ける。
「勝つために前へ出ることと、見栄で前へ出ることは違う」
「部下を置いて進むのは勇ましさじゃない。置かずに進ませるのが指揮だ」
「戦場で格好をつけるな。格好をつけたくなった時ほど、隣を見ろ。誰が死ぬか考えろ」
部屋が少し静かになった。
海兵たちも、そこは茶化さない。
クラウレが、静かに言う。
「良いことをおっしゃいますのね」
ラルは少しだけ照れくさそうに鼻を鳴らした。
「当たり前のことだ」
「当たり前を、当たり前に教えられる方はそう多くありませんわ」
ラルはその言葉に、一瞬だけ黙った。
そこへまたシーマが口を挟む。
「じゃあ若様にも、最初にそれを叩き込むってことで」
「ああ」
ラルは頷いた。
「人生も同じだ。見栄で選ぶな。守るものを作れ。作ったなら、帰れ。帰る場所を持たん男は、戦場でも長くは持たん」
その言葉に、今度はクラウレがほんの少しだけ目を伏せた。
「……そうですわね」
シーマが、はっとした顔をしてラルとクラウレを見比べる。
何かに気づいたのだろう。次の瞬間には、顔いっぱいににやにやした笑みが広がる。
「なるほど、大尉殿。最近いいことばっか言うと思ったら、そういうことですか」
「何がだ」
「守るものができたってことですよ」
後ろの海兵たちが、おお、と露骨にうなずく。
クラウレは笑いながらも、声色を崩さない。
「あなた方、少しお静かになってくださいな」
その一言で、騒ぎが一段落する。
ラルは咳払いした。
「とにかく、ガルマ様には教える」
「走ることも、殴られることも、立ち上がることも、命令することも、帰ることもだ」
「いい顔で立つより、泥まみれで帰る方が軍人らしい」
シーマが手を上げる。
「はい、大尉殿」
「何だ」
「今の、若様に毎日言ってやっていいですか」
「言え」
「やった」
クラウレはそのやりとりを見ながら、穏やかに微笑んでいた。
その顔は、派手に笑いもしない代わりに、場がどれほど騒がしくてもきれいに収めてしまう。中流階級のよく躾けられた夫人のような落ち着きがあり、しかしラルがうっかり羽目を外せば、いちばん静かに、いちばん効く言葉で止めそうな気配もあった。
そしてその予感は、数日後には現実になった。
ガルマが送られてきてからの訓練は、早かった。
最初の三日で、ガルマは二度泣きかけ、一度本当に泣いた。
朝は早い。走る。転ぶ。起きる。走る。格闘訓練では容赦なく投げられる。海兵隊の連中は、若様だからといって手を抜かない。むしろ少し張り切っている。
「足を止めるな、若様!」
「息が苦しい時ほど顔を上げろ!」
「格好つける暇があったら踏み込め!」
「そこで泣くな、泣くなら動きながら泣け!」
ラルの声は太い。シーマの声は鋭い。海兵隊の野次はうるさい。
ガルマは泥だらけになり、汗だくになり、息を切らし、それでも歯を食いしばってついていった。
ラルは厳しかったが、理不尽ではなかった。投げる時は投げるが、立ち方も、足の置き方も、目線の運び方も、きちんと理由つきで教える。
「転ぶなとは言わん。転んだまま次の一手を考えるな」
「殴られたら痛い。それでいい。痛いと知っている奴の方が、人を無駄に前へ出さん」
「敵を見る前に味方を見ろ。お前の動きで、誰が死ぬかを先に考えろ」
「戦場では勇ましい声より、最後まで残る足の方が役に立つ」
ガルマは最初、そういう言葉を受けるたびに真面目な顔で頷いていた。
だが訓練が進むうち、その頷き方が変わっていく。褒められるためではなく、本当に自分の中へ落とそうとする顔になる。
一週間目の終わり、格闘訓練のあと。
ラルに三度投げられ、四度目でようやく足を残し、それでも最後はあっさり崩されて地面に転がったガルマが、とうとう涙を滲ませた。
「だ、駄目です……!」
「駄目で終わるな!」
ラルの声が飛ぶ。
「立て!」
「で、ですが……!」
「立て!」
ガルマは本当に泣きながら立ち上がった。顔は泥と汗と涙でぐしゃぐしゃだ。海兵隊たちは黙って見ている。笑わない。その空気の重さを、ガルマももう分かり始めていた。
もう一度踏み込み、もう一度組みつき、もう一度転がされる。
その直後だった。
地面に膝をついたまま、ガルマが顔を上げた。涙で濡れた目のまま、真っ直ぐラルを見る。
「……うう……!」
言葉にならないまま、ラルの腰へしがみつくように抱きついた。
「く……悔しいです……!」
ラルは一瞬だけ固まった。
シーマが後ろで肩を震わせる。
ガルマは涙を拭きながら、必死に言う。
「今のは、残せたと思ったのに……!」
ラルは少しだけ目を細めた。
「そうだな」
ガルマが顔を上げる。
「残せていた。だが、その先で浮いた」
ラルは大きな手で、ガルマの後頭部を軽く叩いた。
「悔しいなら覚えろ。泣くなとは言わん。だが、泣いて終わるな」
「はい……!」
「今日負けたなら、明日一つ勝て。明日全部勝とうとするな。一つずつ取れ」
「……はい!」
「そして立て。お前はザビだから立つんじゃない。立たねば、次の手が打てんから立つんだ」
ガルマは涙をこすり、ぐしゃぐしゃの顔で、けれどはっきりと頷いた。
その瞬間、ラルの声が少しだけ柔らかくなる。
「いい目だ」
ガルマが息を呑む。
「その目を、見栄で曇らせるな」
しばらく見つめ合ったあと、ガルマは本当に自然に、その言葉を口にした。
「……師匠」
ラルが目を瞬いた。
ガルマは、今度は照れも見栄もなく、ただまっすぐ言った。
「ラル師匠……!」
そしてもう一度、今度はさっきよりもしっかりと抱きついた。
「師匠、次は勝ちます!」
一瞬、訓練場の空気が止まる。
次の瞬間、海兵隊の連中が腹を抱えた。
「出た!」
「師匠って言った!」
「若様、ほんとに言った!」
シーマは笑いすぎて膝を叩いている。
「だはははっ……! とうとう師匠だ!」
ラル本人は顔を赤くしながら、しかしどこか嬉しそうでもある、ひどく困った顔になった。
「お、お前たち、笑うな!」
「無理ですよ、大尉殿!」
シーマが涙を拭きながら言う。
「もう師匠じゃないですか!」
ガルマはまだ涙目のままラルを見上げる。
「お呼びしては、駄目ですか……?」
その顔があまりにも真剣で、ラルはついに観念したように大きく息を吐いた。
「……駄目ではない」
海兵隊がまた笑う。
シーマが横からすかさず言う。
「よし、決まりだ。今日から大尉殿はラル師匠!」
「お前は黙れ!」
その少し後ろで見ていたクラウレが、上品に、しかし肩を震わせながら微笑んでいた。
数日後、その報告はズムシティへ上がった。
ラル隊におけるガルマ・ザビ初期訓練経過報告。
軍務府から回ってきたそれを、ギレンは自室で読み、途中で完全に手を止めた。
キシリアが向かいに座っている。
「どうしたの、兄上」
ギレンは無言で報告書を差し出した。
キシリアが受け取り、読み進める。最初は真顔だったが、途中で口元が震え、最後にはとうとう顔を伏せた。
「……駄目」
「笑うな」
「無理よ」
キシリアは報告書の一行を指で叩いた。
「『訓練継続意思強固。教導担当ランバ・ラルを“師匠”と呼称』」
そこでついに吹き出した。
ギレンは目を閉じた。
「まさか本当にそうなるとは思わなかった」
「私は思っていなかったわ」
「私もだ」
「しかも泣きながら抱きついたそうよ」
ギレンは何とも言えない顔をした。
呆れ、疲れ、半分頭痛がして、半分だけ妙に納得している顔だった。
キシリアも似たような顔になっている。
「兄上」
「何だ」
「思ったより、ずいぶんしっくりきてしまったわね」
「……そうだな」
ギレンは低く答えた。
「そして、思った以上に絵になる」
キシリアはしばらく黙ったあと、小さく笑った。
「嫌な顔をしているくせに、少し安心してるでしょう」
「否定はせん」
ギレンはそう言って、もう一度報告書へ目を落とした。
そこに書かれているのは、国家戦略でも、鉱区の収量でも、連邦の動きでもない。
泥まみれになって泣きながら立ち上がる末弟と、思った以上に張り切っている男と、その周りで腹を抱えて笑っている海兵隊の記録だった。
ギレンとキシリアは、しばらくのあいだ、本当に何とも言えない顔のまま黙っていた。
あって欲しかった絵がここに。