静かな話ほど、ろくでもない。
それは長く生きていれば誰でも学ぶ。怒鳴り声のある問題はまだ親切だ。通路の向こうから近づいてくるし、手すりを叩く音もする。だが静かな問題は違う。帳簿の隙間、輸送名目の書類、あるいは「安全な退避先」という上品な言葉の中に潜る。
夕食会の翌朝、私の机の上に置かれていた封筒は、その典型だった。
差出記録は月面経由の商業連絡便。
中身は二枚。
一枚は輸送ルート表。
もう一枚は、妙にきれいな字で書かれた短い報告だった。
**ダイクン家遺児移送の受け皿、グラナダ方面で調整の動きあり。表向きは療養。裏名目は保全。関係者にラル家周辺の名が見える。**
私はそれを読んで、まずコーヒーを一口飲んだ。
ひどくまずかった。
まずいコーヒーは、たいてい情報のせいだ。
月面グラナダ。
静かで、遠くて、しかも表向きはいくらでも用途を作れる。療養。教育。保護。悲劇の遺児に必要そうな言葉は、たいてい全部そろっている。問題は、そのどれもが逃亡経路の別名として使いやすいことだ。
私はもう一度報告書を読んだ。
ジンバ・ラルが動いている可能性は高い。
キャスバルとアルテイシアをここから出す。
それ自体は理解できる。むしろ自然だ。
この家に近い場所は、たいてい誰にとっても健康に悪い。
だが、出し方が問題だった。
露骨に追えば殉教が生まれる。
見逃せば、今度は月面で「失われた正統」の神話が育つ。
政治というのは本当に面倒だ。人を殺すより、生かしたまま物語を減らす方がずっと難しい。
ノックがして、キシリアが入ってきた。
もちろん返事は待たなかった。
「兄上、顔が“月面”になってる」
「どういう顔だ」
「遠くて、冷たくて、少しだけ信用できない顔」
「鏡を見た感想か」
「朝から失礼ね」
私は封筒を投げた。
彼女は受け取り、立ったまま目を通した。
「なるほど」と彼女は言った。
「静かな面倒」
「お前の予言は当たると腹が立つ」
「兄上のよりは可愛げがあるでしょう」
「内容に可愛げがない」
キシリアは窓辺へ歩き、紙を軽く振った。
「ラル家らしいといえばらしいわ。真正面から撃てないなら、正しさを抱えて連れ出す」
「ジンバ・ラルはそうするだろうな」
「で、兄上はどうするの」
私は少し考えた。
既に答えは半分出ていた。考えるというより、認めるのに時間がかかっただけだ。
「止める」と言った。
「殺す?」
「いや」
彼女はそこで私を見た。
「へえ」
「今ここで潰せば、キャスバルの中で話が完成する。
“ザビ家は父を奪い、逃げ道も奪った”と」
「間違ってはいないわね」
「正確さは物語にとって一番厄介だ」
キシリアは少しだけ笑った。
「じゃあ、どうやって止めるの」
「ルートを変える。
月面へは出さない。
だが、逃がす気があると思わせたまま、こちらの目の届く場所にずらす」
「性格が悪い」
「家系だろう」
「それもそうね」
私は机の上の別の書類を引き寄せた。
月面ルートに出入りする商船名簿。
その中に、一隻だけ最近不自然に荷が軽い船がある。医療物資名目でサイド3に入り、戻り荷が少なすぎる。空荷の商船ほど怪しいものはない。商人はたいてい、理想より容積を信じる。
「これを使う」と私は言った。
キシリアは名簿を覗き込み、すぐに意図を理解した。
「偽の受け皿」
「そうだ」
「兄上、あなた最近ますます上手ね」
「誉めるな」
「褒めてないわ。感想よ」
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その日の午後、私はランバ・ラルを呼んだ。
彼はいつものように、無駄のない動きで入ってきた。
軍服に皺がなく、だが鏡ばかり見て整えた感じもしない。実務家として理想的だ。そういう人間ほど、理想家の家に生まれると苦労する。
「閣下」
「座れ」
彼は座った。
私は月面ルートの報告をそのまま見せはしなかった。見せるべきではない情報を全部見せるほど、私は親切ではない。少なくとも職務上は。
「ラル家周辺の動きについて、ひとつ確認したい」
ランバ・ラルの目が少しだけ細くなった。
それだけで十分だった。彼は何かを知っている。だが、ジンバ・ラルほど雑には動いていない。
「どの件でしょう」
「子どもたちの安全だ」
彼は沈黙した。
沈黙の長さは嘘の質を教える。
彼はあまり長く黙らなかった。完全な隠蔽をする気ではないのだ。
「守りたいと考える者は多いでしょう」と彼は言った。
「それは答えになっていない」
「答えない方がいい場合もあります」
「君は誠実だな」
「そう見えるなら幸いです」
「いや、困る」
そこで彼はわずかに口元を動かした。
この男は笑うと、少しだけ年相応に見える。
「率直に言おう」と私は言った。
「月面へ出すな」
彼の目が変わった。
真正面から来た言葉に対する、軍人の目だった。
「なぜです」
「遠すぎる。
遠い場所に出した子どもは、子どもではなく旗になる」
「では近くに置いて、監視する?」
「保護だ」
「言い換えは自由だ」
私は少しだけ感心した。
父に似たことを言うようになった。場数だろう。
「君も理解しているはずだ」と私は続けた。
「今ここで彼らを月面へ出せば、連邦も、残党も、理想家も、みな都合よく意味を足す」
ランバ・ラルはしばらく黙っていた。
やがて低い声で言った。
「ジンバ様は、あなた方を信用していません」
「当然だ」
「私も全面的には信用していません」
「健全だな」
「ですが」と彼は言った。
「月面はたしかに遠い。
そして遠いものほど、人は勝手に美しくする」
私はうなずいた。
彼は理解している。
少なくとも、理想をそのまま輸送してもろくなことにならないことは。
「協力しろとは言わない」と私は言った。
「ただ、止めろ。
子どもたちを今すぐ宇宙の外縁へ乗せるな」
「代わりに何をするつもりです」
「数日以内に、表向きの保護措置を強化する。
医療名目での移動は認める。だが行き先はこちらで決める」
「どこへ」
「まだ言えん」
彼は少しだけ眉を寄せた。
不満そうだったが、怒りではなかった。
計算している顔だ。
「キャスバル様は従わないかもしれません」
「知っている」
「アルテイシア様はもっと素直でしょうが、その分、逆に見抜くことがあります」
「それも知っている」
「では」とランバ・ラルは言った。
「なぜ私に話すのです」
私は答えた。
「君が、英雄になりたがっていないからだ」
彼は一瞬だけ黙り、それから小さく息を吐いた。
「買いかぶりです」
「そうかもしれん」
「ですが、閣下」
「何だ」
「買いかぶられる方が、軽く扱われるよりはましです」
それはたぶん本音だった。
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夕方、私はキャスバルを一人で呼んだ。
応接室ではなく、小さな書庫にした。
窓のない部屋で、古い紙の匂いがする。人は本棚の前だと少しだけ声を落とす。あれは不思議な習性だ。本はほとんど何も言わないのに、相手に沈黙を要求する。
キャスバルは定刻に来た。
時間を守る子どもは大人を油断させる。だが、彼の場合は逆だった。守るべき時間の価値を、必要以上によく知っているように見えた。
「何でしょう」と彼は言った。
「月面へ行くつもりか」
彼は瞬きもしなかった。
たいしたものだ。大人でもその一言で肩が動く。
「誰が言いました」
「それを訊く時点で、半分は認めている」
「認めてません」
「そうか」
私はそれ以上追わなかった。
追いつめると、正しさはすぐに防御の形を取る。
「月面はやめろ」と私は言った。
彼は黙っていた。
そして、ゆっくり訊いた。
「なぜ」
「遠いからだ」
「それだけ?」
「遠い場所は便利だ。
追手からも逃げられるし、記憶も育つ。
だが、育った記憶は大抵、持ち主を不幸にする」
「あなたは僕の記憶まで管理したいんですか」
「できればしたくない。面倒だからな」
彼は少しだけ唇を結んだ。
怒っている。だが、完全には閉じていない。
ここで変に優しさを出すと逆効果だ。私は知っている。子どもは見抜く。ましてこの子は。
「あなたたちは父上を奪った」と彼が言った。
私は答えなかった。
正確な反論がないとき、沈黙は便利だが、卑怯でもある。
「そして今度は逃げ道まで奪う」
「違う」
「では何です」
「近くに置く」
「監視するために」
「必要なら守るためにも」
彼はそこで笑った。
小さく、冷えた笑いだった。
「あなたは本当に危険だ」
「前にも言われた」
「たぶん前回よりも」
私はその言葉を聞いて、少しだけ背筋が冷えた。
前回。
彼はもちろんループの記憶など持っていないはずだ。
だが時々、人は自分でも知らない語彙を選ぶ。
時間は案外、綺麗に消えない。
「キャスバル」と私は言った。
「君はいずれ、私を憎むかもしれない」
「もう十分に」
「そうだろうな。
だが、今ここで月面へ出れば、その憎しみはたぶん綺麗になりすぎる。
私は綺麗な憎しみが嫌いだ。手がつけられなくなる」
彼はしばらく黙っていた。
それから、ひどく大人びた声で言った。
「あなたは、僕に何をさせたいんです」
難しい問いだった。
政治家なら、ここでたいてい嘘をつく。
自由に、とか。
自分で選べ、とか。
そういう種類の美しい嘘を。
私はあまり美しい人間ではなかった。
「生き延びろ」と言った。
「できれば、早まるな」
キャスバルは目を逸らさなかった。
「それは命令ですか」
「助言だ」
「ずいぶん支配的な助言ですね」
「性分だ」
そのとき、書庫の外で小さな足音がした。
アルテイシアだった。
ノックもせずに少しだけ扉を開け、顔だけ覗かせた。
「お兄さま、いた」
「どうした」とキャスバルが言うと、
「花がしおれた」
私は思わず息をついた。
世界の大きな問題が、時々そういう小さなものに負けるのが好きだ。
「ガルマにもらったやつ?」とキャスバル。
「うん」
「水を替えたか」
「かえた」
「じゃあ仕方ない」
アルテイシアは私を見た。
「ギレン、花って死ぬの早いね」
「そうだな」
「でも、もっかい咲くのもある」
私は答えに少し困った。
書庫で政治と逃亡経路の話をしていた人間に向けるには、ずいぶん正しい言葉だった。
「種類による」と私は言った。
「へんなの」と彼女は言った。
「人みたい」
それだけ言って、彼女は去った。
扉が閉まり、また本の匂いだけが残る。
キャスバルは、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
「あなた、子どもには弱いですね」
「そう見えるか」
「少なくとも、機械よりは」
「それはどうだろうな」
「でも、嫌いじゃない」と彼は言った。
「そういうところ」
私は返事をしなかった。
返事をすると、たぶんよくないことになる気がした。
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その夜、報告どおり、件の商船がサイド3外縁へ入った。
私は工廠のときとは別の種類の緊張を感じていた。
爆発はわかりやすい。
逃亡は静かだ。
静かなものほど、人は過去をのせる。
港湾監視室では、灯りを落としてモニターを見ていた。
キシリアもいた。白い手袋のまま、肘掛けに指を軽く置いている。ああいうときの彼女はだいたい機嫌がいい。ろくでもない前兆だ。
「兄上、ほんとに乗せないのね」
「乗せない」
「優しいのか、残酷なのかわからない」
「両方だろう」
「知ってた」
モニターの一つに、外縁ドックへ入る小型車列が映った。
医療搬送名目の車両。
その先頭に、見覚えのある男がいた。
ジンバ・ラルだった。
私は少しだけ肩の力を抜いた。
予想どおりに来ると、ろくでもない話でも少し安心する。
だが、その直後、別の車両が映った。
父の周辺書記官ではない。
軍政局の人間でもない。
見慣れない民間服の男が二人。動きが軽すぎる。商人にしては視線が鋭い。
「誰だ」と私は言った。
キシリアはすぐに答えなかった。
彼女はモニターに顔を近づけ、わずかに首を傾げた。
「連邦側の匂いがする」
「匂いで言うな」
「兄上は紙で言うでしょう。私は匂い」
私は通信を取った。
「ドック封鎖はするな。
ただし、ジンバ・ラルと民間服二名の接触だけは必ず押さえろ。
子どもたちはまだ動かすな」
「了解」
キシリアが言った。
「面白くなってきたわね」
「私は面白くない」
「兄上はいつもそう言うけど、一番奥まで見る」
それは否定しづらかった。
外縁ドックの監視映像では、ジンバ・ラルが誰かを待っていた。
月面へ逃がすだけなら、こんなに周辺が騒がしくなる必要はない。
つまりこれは単なる逃亡ではなく、接触だ。
連邦側か、連邦に近い商業筋か。
どちらにせよ、話が大きくなる。
「やっぱり月面は静かすぎる」と私は言った。
キシリアが横で笑った。
「そういう場所ほど、よく聞こえるのよ」
モニターの向こうで、ジンバ・ラルが民間服の男に近づいた。
その瞬間、私は理解した。
子どもたちは逃げるためだけではない。
誰かに“見せる”ために運ばれようとしている。
ダイクンの血を。
正統の残り香を。
そしてサイド3が、もう家の中の争いだけでは済まないところへ来ていることを。
私は立ち上がった。
「現場へ出る」と言った。
キシリアも同時に立った。
「私も」
「来るな」
「無理」
「邪魔だ」
「心外ね。兄上一人だと、たいてい話を難しくするでしょう」
それはたぶん事実だった。
私たちは監視室を出た。
夜の通路を歩きながら、私は少しだけ可笑しかった。
夕食会でプリンの話をしていた数時間後に、今度は外縁ドックで正統性の密売を止めに行く。
宇宙世紀という時代は、本当に落差の配分がおかしい。
エレベーターの扉が閉まる直前、キシリアが言った。
「兄上」
「何だ」
「今夜、誰を止めるつもり?」
私は少しだけ考えた。
ジンバ・ラルか。
連邦の手か。
逃亡か。
それとも、物語そのものか。
「全部だ」と私は言った。
キシリアは満足そうに微笑んだ。
「そういうところは嫌いじゃないわ」
エレベーターが下りはじめた。
ドックの灯りが近づいてくる。
静かな面倒は、ついに音を持ち始めていた。
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必要ならこのまま続けて、
**第八話「外縁ドックの静かな騒ぎ」**として、
ジンバ・ラル、連邦側の接触者、キャスバル移送計画の衝突までそのまま書けます。