妹に撃たれない方法   作:Brooks

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おまたせガルマくんSSです


第72話 SS マ・クベ憔悴

 

 ズムシティの軍需調整局は、戦場とは別の意味で緊張感のある場所だった。

 

 銃声はない。怒号も少ない。泥にまみれた兵もいない。あるのは磨かれた床、音を吸う厚い壁、香を焚きすぎない程度に整えられた空気、そして何千何万という物資の名が並ぶ帳簿である。

 

 前線で人を殺すのは弾だが、後方で人を殺すのは数字だ。

 

 その数字を、美しく、遅滞なく、無駄なく流すことこそが軍の内臓を守る。マ・クベはそう考えていたし、そう考える自分をかなり気に入っていた。

 

 その日も彼は、執務室の長椅子に浅く腰かけ、細い指先で報告書をめくっていた。卓上には整えられた書類、白磁のカップ、よく磨かれた金属のペーパーナイフ、壁際には古い壺が一つ。壺は本物であり、値打ちもある。値打ちのあるものを側に置くと、頭の回転が少しだけ上品になると彼は信じていた。

 

 窓の外には、ズムシティの内壁に沿って走る輸送幹線が見える。朝の便は既に一巡し、昼前の便が細く光る虫のように走っていた。どの便が何を積み、どの工区へ入り、どこで滞るか。マ・クベはおおよその流れを頭の中で描ける。そういうことに快感を覚える人間だった。

 

 だから、若いガルマ・ザビが研修に来ると聞いた時も、最初は少しばかり面倒だと思ったのである。

 

 若い。家柄がある。顔がよい。人当たりもよい。しかもドズルの弟だ。これはたいてい厄介だ。前線ならともかく、ここは補給と管理と帳簿の世界である。華やかさとは縁が薄い。そういう場所へ、いかにも目立ちそうな若者が来る。

 

 正直に言えば、少しだけ気が重かった。

 

 だが、実際に現れたガルマは、彼の予想と少し違っていた。

 

 日に焼けていた。以前より少し痩せてもいる。立ち方も、前より余計な柔らかさが抜けている。なにより、視線が変わっていた。前だけでなく、部屋の奥、棚、出入口、帳簿、給仕の手元まで、さりげなく見ている。

 

 ラルのところで絞られたな、とマ・クベは一目で思った。

 

 それは好ましい変化だった。好ましいが、少し嫌な予感もした。若者が鍛えられてくると、たいてい余計なものまで見始める。

 

「ようこそ、ガルマ様」

 

 そう言って迎えた時、ガルマはまっすぐに頭を下げた。

 

「本日よりお世話になります」

 

 声の張りは良い。だが、以前のように“良く聞こえよう”としていない。訓練というものは、声の響き方まで変えるのだなと、マ・クベは少し面白く思った。

 

「ラル大尉のところで、ずいぶん絞られたようですな」

 

 軽くそう振ると、ガルマは一瞬だけ困った顔になった。

 

「はい……かなり」

 

 その間が、実に正直だった。

 

 マ・クベは薄く笑った。

 

「結構」

 

 そして、卓上の帳簿をそっと押して見せる。

 

「軍は前だけでは回りません。前が顔なら、こちらは内臓です」

 

 ガルマが視線を落とす。革表紙の分厚い帳簿、整然とした出納表、倉庫記録、稼働率一覧。その数字の美しさを、彼はまだ“美しい”とは感じていないらしかった。だが、無意味とも思っていない顔だった。

 

「補給とは芸術なのです」

 

 マ・クベはゆっくりと言う。

 

「必要な物を、必要な場所へ、必要な量だけ、必要な時刻に流す」

 

 一拍置いた。

 

「一つずれれば、美しさが失われる」

 

 ガルマはきちんと頷いた。

 

「はい」

 

 この返事が、少しばかり厄介だった。理解していない若者の返事ではない。理解しようとしている若者の返事だ。

 

 さて困った、とマ・クベは内心で思う。

 

 こういう手合いは伸びる。伸びる若者は、だいたい面倒だ。

 

 研修は数日にわたった。

 

 燃料管理、部品補給、水・食料備蓄、運搬計画、倉庫運営、各部隊への割当。ガルマは表向き素直に学んだ。よく聞き、よく見、無駄に偉ぶらず、分からぬところはきちんと聞く。こういうところはザビ家の末弟らしくない、と言えば失礼だろうか。少なくとも、ただ甘やかされてきた若様ではなかった。

 

 だが三日目あたりから、マ・クベはほんの少しだけ落ち着かない気分になってきた。

 

 視線が多いのである。

 

 ガルマは帳簿を見る。そこまではよい。だが帳簿を見たあと、人の靴を見る。倉庫番の爪の汚れを見る。工具の減り方を見る。補給票だけでなく、受領印の濃さまで見ている。

 

 何なのだ、この若者は。

 

 いや、答えは半分分かっている。ラルだ。さらに半分は、あの海兵隊の女である。シーマ・ガラハウ。あれは前線で学ぶべきことと、学ばない方が幸せなことの境目を平気で踏み越える女だ。

 

 碌なことを教えていない。

 

 そう思いながらも、マ・クベは表面上は涼しい顔を崩さなかった。崩してなるものか。ここは彼の庭である。庭の主が落ち着きを失えば、芝生まで騒がしく見える。

 

「どうです」

 

 四日目の午後、彼は視察区画の通路でガルマに訊いた。

 

「こちらの仕事は、前線と比べて退屈ですかな」

 

 少し揶揄を込めたつもりだった。

 

 ガルマはすぐには答えず、補給記録の束を閉じてから顔を上げた。

 

「いえ」

 

 真面目な顔だった。

 

「むしろ、前線より怖いです」

 

 マ・クベは少し眉を動かした。

 

「ほう」

 

「前線では、何が起きたか見えます」

 

 ガルマは言う。

 

「ですが、ここでは数字が一つずれただけで、どこで誰が困るのかすぐには見えません」

 

 その答えは、なかなか気が利いていた。

 

 なるほど。ラルが泥を叩き込み、自分が帳簿の重さを見せる。順番としては悪くない。ギレンがそう考えたのだとすれば、やはりあの兄は嫌なところまでよく考える。

 

「結構」

 

 マ・クベは頷いた。

 

「見えぬ損害ほど大きいのですよ」

 

 だが、その直後にガルマが続けた。

 

「だから、一つ分からないことがあります」

 

 この「だから」がいけない。

 

 マ・クベは、後になってからそう思った。若者の「だから」は信用してはいけない。たいてい、そこから面倒な話になる。

 

「何ですかな」

 

 できるだけ優雅に返す。

 

「この部門の交換部品出庫量が多すぎます」

 

 マ・クベは一瞬、瞬きを忘れた。

 

 だが、そこはマ・クベである。忘れても顔には出さない。

 

「多すぎる?」

 

「はい」

 

 ガルマは帳簿をめくる。付箋まで打ってある。いつの間に。

 

「この整備大隊、故障率は低いです。稼働時間も大きく増えていません。ですが、補修部品だけが多い」

 

 マ・クベは静かに帳簿を受け取った。

 

「予備という可能性もあります」

 

 ごく当然の答えを返す。

 

 ガルマは頷いた。

 

「最初はそう思いました」

 

 嫌な返し方をするようになった。

 

「ですが予備にしては、補給回数が多いんです」

 

「念のためということもあります」

 

「そうかもしれません」

 

 ガルマは素直に肯定し、次の紙を出した。

 

「でも、念のため、で受領印が二種類になるでしょうか」

 

 マ・クベは紙を見た。

 

 受領印の押し方が違う。濃さも違う。日付の癖も違う。

 

 ああ、と思った。

 

 嫌な方向でああ、と思った。

 

「帳簿はきれいでした」

 

 ガルマは、ひどく真面目な顔で言う。

 

「でも、現場の靴の減り方と合っていない」

 

 マ・クベは静かに目を閉じたくなった。

 

 靴。

 

 靴で来たか。

 

 どこの教育だ。いや分かる。ラルだ。シーマだ。あの類の人間は、帳簿より靴底を信じる。部隊が本当に動いているか、倉庫番が本当に現場へ行っているか、運搬係が記録どおりの距離を歩いているか。そういうことを、あの連中は靴の減り方で見る。

 

 なんという泥臭い発想だ。

 

 そして、なんという正しさだ。

 

 マ・クベは腹の底で呻いた。

 

 自分は不正などしていない。していないが、部門の一つに小賢しい虫が入り込んでいたことまでは否定できぬ。人は完璧に帳簿を作ろうとすると、たいてい別のところで雑になる。そこを、よりにもよってザビ家の末弟が、靴で見つけるとは。

 

「つまり」

 

 ガルマは言った。

 

「故障率の改ざんか、過剰請求だと思います」 「余剰分は外へ流れていたか、少なくとも部門内で囲われています」

 

 そして、もっとも残酷な一言を続けた。

 

「僕、何か間違っておりますか?」

 

 何とも間の悪い問い方だった。

 

 間違っていない。

 

 それが一番困る。

 

 マ・クベは、若い頃から滅多に味わったことのない種類の疲労を覚えた。自分の不正ではない。自分の失態でもない。だが、自分の管轄である以上、完全に自分の問題である。しかもそれを指摘してきたのが、純粋な悪意でも政治的な揺さぶりでもなく、ただ真っ直ぐな確認の形で来た。

 

 これがいちばんきつい。

 

「いえ」

 

 マ・クベは言った。

 

「間違っては……おりません」

 

 ガルマの顔がぱっと明るくなる。

 

「そうですか。よかった」

 

 よくない。

 

 まったくよくない。

 

 だが、マ・クベはその言葉を飲み込んだ。ここで取り乱せば、美学が死ぬ。美学が死ねば、彼の仕事は半分終わる。

 

「この件は私が預かります」

 

「はい」

 

「……それにしても、よく気づかれましたね」

 

 ガルマは少しだけ首を傾げ、考えてから答えた。

 

「ラル大尉に、前だけ見ていてはいけないと教わりました」

 

 やはりラルだ。

 

「シーマ軍曹には、綺麗な帳簿ほど臭いことがあると」

 

 やはりシーマだ。

 

 マ・クベは、ごく静かに息を吸った。

 

 あの二人は、若い貴公子をどう育てているのだ。いや、どう壊しているのだ。いや、違う。たぶん育てている。だがその育ち方が、こちらにしわ寄せを寄越す。

 

「役に立ちました」

 

 ガルマは言う。

 

「……それは結構」

 

 マ・クベはそう返すしかなかった。

 

 その後の数日は、実に慌ただしかった。

 

 当該部門の帳簿洗い直し。受領経路の追跡。予備在庫の実査。中間管理職の聴取。書類をめくる音、靴音、押し殺した怒声。軍需調整局の廊下は普段静かなだけに、少し空気が騒ぐとすぐ分かる。

 

 マ・クベはそれを、表向きは冷静に指揮した。

 

 内心では、実に疲れた。

 

 何が疲れるかといって、後ろからついてくるガルマの真っ直ぐな目が疲れる。部門の整理に同行させれば、いちいち「ここはどうなっているのですか」と聞いてくる。答えれば納得する。納得した上で、また別の綻びを見つける。犬か。いや犬の方がまだ可愛げがある。こっちは妙に礼儀正しい。

 

 しかも時々、素直に感心した顔をするのである。

 

「なるほど、ここで在庫を二重化していたのですか」 「帳簿の見え方はきれいですが、現場は混乱しますね」 「うまいやり方です。悪い意味で」

 

 最後の一言で、マ・クベは机に額を打ちつけたくなった。

 

 うまいやり方です、悪い意味で。

 

 何だその評価は。

 

 褒めているのか叱っているのか、もう少し曖昧にしてくれないか。

 

 だがガルマは心底素直なのだ。悪意がない。だから腹が立ちにくい。その代わり、疲れる。

 

 結局、不正部門は整理された。担当者は更迭。囲われていた余剰部品は回収され、補給経路は修正された。損害そのものは致命的ではない。だが、放っておけば現場の信用を確実に腐らせていく類の綻びだった。

 

 そして研修最終日。

 

 マ・クベはいつものように髪を整え、上着の皺を払った。憔悴はしていない。していないつもりでいた。鏡の中の自分はまだ十分に優雅だった。目の下がほんの少し深いのは、気のせいである。気のせいということにした。

 

 ガルマを執務室へ呼び入れる。

 

 窓の外には人工の午後。静かな輸送幹線。磨かれた壺。整えられた書類。いつもの景色だ。だが、そのいつもどおりを維持するために、ここ数日はまったくいつもどおりではなかった。

 

「ガルマ様」

 

「はい」

 

「研修は本日で修了です」

 

 ガルマの顔が少し引き締まる。嬉しいのか寂しいのか、その両方らしい顔だった。

 

「最初は、若い指揮官候補が現場を見に来る程度の話かと思っておりました」

 

「……はい」

 

 実に正直な返事をする。

 

「ですが、見くびっていたのはこちらでした」

 

 ガルマが少し驚いた顔になる。

 

 そういうところだ、とマ・クベは思う。こういう顔をされると、こちらが少し照れるではないか。

 

「前線を見て、泥を知り、それでいて帳簿の綻びも見つける」

 

 マ・クベは静かに言った。

 

「大したものです」

 

「ありがとうございます」

 

 ガルマは素直に頭を下げた。

 

「ただし」

 

 そこで少し間を取る。

 

「次からは、もう少し手加減を覚えられるとよろしい」

 

 ガルマが目を瞬かせる。

 

「手加減、ですか?」

 

「私の胃が痛む」

 

 一拍。

 

 ガルマの顔が、ひどく本気で曇った。

 

「申し訳ありません」

 

 その反応が予想以上に真面目だったので、マ・クベは思わず口元を押さえた。

 

 笑うところではない。だが少し笑いたくなる。いや、笑っている余裕が戻ったなら、それはそれで良いことかもしれない。

 

「褒めていますよ」

 

 そう言うと、ガルマはようやく少しだけ安心した顔になった。

 

「はい」

 

「良い指揮官になられます」

 

 マ・クベは椅子の背に軽く寄りかかった。

 

「前だけでなく、後ろの崩れ方も見える方ですから」

 

 ガルマはそれを、ひどく大事なもののように受け止めた顔をした。

 

「ありがとうございます」

 

 その返事を聞きながら、マ・クベは心の底で、ラルとシーマの顔を順番に思い浮かべた。

 

 ラルのせいだ。

 

 いや、半分はシーマのせいだ。

 

 いや、待て。こうなってしまえば、結局はギレンのせいか。

 

 面倒な教育方針を考えついたものだ。泥を踏ませ、汚れを嗅がせ、それから帳簿へ寄越す。そりゃ育つ。育つが、こちらの胃も削れる。

 

 ガルマが去ったあと、執務室に一人残されたマ・クベは、しばらく本気で動かなかった。

 

 卓上には整えられた帳簿。壁際には壺。窓の外には静かな輸送幹線。

 

 どれも美しい。

 

 だがその美しさの裏で、自分がここ数日どれほど走らされたかを思うと、壺を見てもあまり心が潤わない。

 

「……疲れた」

 

 誰もいない部屋で、つい本音が漏れた。

 

 その瞬間、ノックもなしに扉が少し開き、補佐官が顔だけを覗かせた。

 

「マ・クベ様、次の決裁書類を」

 

「置いていきたまえ」

 

「お加減でも」

 

「よい」

 

「ですがお顔色が」

 

「よいと言っている」

 

 補佐官は慌てて引っ込んだ。

 

 扉が閉まる。

 

 沈黙。

 

 マ・クベは、そっと額に手を当てた。

 

 憔悴、というほどではない。ないはずだ。だが、たいへん疲れていることは否定しがたい。補給とは芸術である。芸術は繊細だ。そこへ泥の匂いを覚えた若者が土足で踏み込んでくると、思った以上に大変なのだ。

 

 その頃、ズムシティ政庁では、研修報告がギレンの机へ届いていた。

 

 キシリアが先に読んで、肩を震わせている。

 

「兄上」

 

「何だ」

 

「良かったわね」

 

「何がだ」

 

「ラルのところで前を覚えて、シーマたちに臭い帳簿の嗅ぎ方を仕込まれて、マ・クベのところで一部門を摘発」

 

 キシリアは紙を揺らした。

 

「順調に育ってるじゃない」

 

 ギレンは黙って報告書を受け取る。読み進めるうちに、表情が少しずつ難しくなっていく。

 

「……」

 

「何とも言えない顔ね」

 

「している自覚はある」

 

「喜ぶところでは?」

 

「喜んでいる」

 

 少し間。

 

「だが、こちらの想定より早く育つのも、それはそれで不安だ」

 

 キシリアはとうとう吹き出した。

 

「贅沢な悩みね」

 

「そうかもしれん」

 

 ギレンは報告書を机へ置いた。

 

 その脳裏には、泥だらけのガルマと、帳簿の綻びを真顔で指摘するガルマが、どうにも同じ顔で並んでいる。弟というものは、いつまでたっても幼い印象が抜けきらぬ。だが報告書の中のガルマは、もう誰かの後ろについて歩くだけの子供ではなかった。

 

 前だけではなく、後ろを見る。

 

 人と補給と組織を、まとめて考え始めている。

 

 それは喜ばしい。喜ばしいが、ほんの少しだけ、兄としては気が重い。

 

 キシリアは兄の横顔を見て、また少しだけ笑った。

 

「兄上」

 

「何だ」

 

「マ・クベの顔、見たかったわね」

 

 ギレンはそこで、初めて少しだけ口元を動かした。

 

「……見たかったな」

 

 二人の間に、珍しく同じ種類の笑いが落ちた。

 

 窓の外では、ズムシティの輸送幹線が静かに光っている。

 止まらない街。

 止めてはならない国家。

 

 その内臓の一つを、ガルマは確かに覗き込み、少しだけ掴み始めていた。

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