ズムシティの軍需調整局は、戦場とは別の意味で緊張感のある場所だった。
銃声はない。怒号も少ない。泥にまみれた兵もいない。あるのは磨かれた床、音を吸う厚い壁、香を焚きすぎない程度に整えられた空気、そして何千何万という物資の名が並ぶ帳簿である。
前線で人を殺すのは弾だが、後方で人を殺すのは数字だ。
その数字を、美しく、遅滞なく、無駄なく流すことこそが軍の内臓を守る。マ・クベはそう考えていたし、そう考える自分をかなり気に入っていた。
その日も彼は、執務室の長椅子に浅く腰かけ、細い指先で報告書をめくっていた。卓上には整えられた書類、白磁のカップ、よく磨かれた金属のペーパーナイフ、壁際には古い壺が一つ。壺は本物であり、値打ちもある。値打ちのあるものを側に置くと、頭の回転が少しだけ上品になると彼は信じていた。
窓の外には、ズムシティの内壁に沿って走る輸送幹線が見える。朝の便は既に一巡し、昼前の便が細く光る虫のように走っていた。どの便が何を積み、どの工区へ入り、どこで滞るか。マ・クベはおおよその流れを頭の中で描ける。そういうことに快感を覚える人間だった。
だから、若いガルマ・ザビが研修に来ると聞いた時も、最初は少しばかり面倒だと思ったのである。
若い。家柄がある。顔がよい。人当たりもよい。しかもドズルの弟だ。これはたいてい厄介だ。前線ならともかく、ここは補給と管理と帳簿の世界である。華やかさとは縁が薄い。そういう場所へ、いかにも目立ちそうな若者が来る。
正直に言えば、少しだけ気が重かった。
だが、実際に現れたガルマは、彼の予想と少し違っていた。
日に焼けていた。以前より少し痩せてもいる。立ち方も、前より余計な柔らかさが抜けている。なにより、視線が変わっていた。前だけでなく、部屋の奥、棚、出入口、帳簿、給仕の手元まで、さりげなく見ている。
ラルのところで絞られたな、とマ・クベは一目で思った。
それは好ましい変化だった。好ましいが、少し嫌な予感もした。若者が鍛えられてくると、たいてい余計なものまで見始める。
「ようこそ、ガルマ様」
そう言って迎えた時、ガルマはまっすぐに頭を下げた。
「本日よりお世話になります」
声の張りは良い。だが、以前のように“良く聞こえよう”としていない。訓練というものは、声の響き方まで変えるのだなと、マ・クベは少し面白く思った。
「ラル大尉のところで、ずいぶん絞られたようですな」
軽くそう振ると、ガルマは一瞬だけ困った顔になった。
「はい……かなり」
その間が、実に正直だった。
マ・クベは薄く笑った。
「結構」
そして、卓上の帳簿をそっと押して見せる。
「軍は前だけでは回りません。前が顔なら、こちらは内臓です」
ガルマが視線を落とす。革表紙の分厚い帳簿、整然とした出納表、倉庫記録、稼働率一覧。その数字の美しさを、彼はまだ“美しい”とは感じていないらしかった。だが、無意味とも思っていない顔だった。
「補給とは芸術なのです」
マ・クベはゆっくりと言う。
「必要な物を、必要な場所へ、必要な量だけ、必要な時刻に流す」
一拍置いた。
「一つずれれば、美しさが失われる」
ガルマはきちんと頷いた。
「はい」
この返事が、少しばかり厄介だった。理解していない若者の返事ではない。理解しようとしている若者の返事だ。
さて困った、とマ・クベは内心で思う。
こういう手合いは伸びる。伸びる若者は、だいたい面倒だ。
研修は数日にわたった。
燃料管理、部品補給、水・食料備蓄、運搬計画、倉庫運営、各部隊への割当。ガルマは表向き素直に学んだ。よく聞き、よく見、無駄に偉ぶらず、分からぬところはきちんと聞く。こういうところはザビ家の末弟らしくない、と言えば失礼だろうか。少なくとも、ただ甘やかされてきた若様ではなかった。
だが三日目あたりから、マ・クベはほんの少しだけ落ち着かない気分になってきた。
視線が多いのである。
ガルマは帳簿を見る。そこまではよい。だが帳簿を見たあと、人の靴を見る。倉庫番の爪の汚れを見る。工具の減り方を見る。補給票だけでなく、受領印の濃さまで見ている。
何なのだ、この若者は。
いや、答えは半分分かっている。ラルだ。さらに半分は、あの海兵隊の女である。シーマ・ガラハウ。あれは前線で学ぶべきことと、学ばない方が幸せなことの境目を平気で踏み越える女だ。
碌なことを教えていない。
そう思いながらも、マ・クベは表面上は涼しい顔を崩さなかった。崩してなるものか。ここは彼の庭である。庭の主が落ち着きを失えば、芝生まで騒がしく見える。
「どうです」
四日目の午後、彼は視察区画の通路でガルマに訊いた。
「こちらの仕事は、前線と比べて退屈ですかな」
少し揶揄を込めたつもりだった。
ガルマはすぐには答えず、補給記録の束を閉じてから顔を上げた。
「いえ」
真面目な顔だった。
「むしろ、前線より怖いです」
マ・クベは少し眉を動かした。
「ほう」
「前線では、何が起きたか見えます」
ガルマは言う。
「ですが、ここでは数字が一つずれただけで、どこで誰が困るのかすぐには見えません」
その答えは、なかなか気が利いていた。
なるほど。ラルが泥を叩き込み、自分が帳簿の重さを見せる。順番としては悪くない。ギレンがそう考えたのだとすれば、やはりあの兄は嫌なところまでよく考える。
「結構」
マ・クベは頷いた。
「見えぬ損害ほど大きいのですよ」
だが、その直後にガルマが続けた。
「だから、一つ分からないことがあります」
この「だから」がいけない。
マ・クベは、後になってからそう思った。若者の「だから」は信用してはいけない。たいてい、そこから面倒な話になる。
「何ですかな」
できるだけ優雅に返す。
「この部門の交換部品出庫量が多すぎます」
マ・クベは一瞬、瞬きを忘れた。
だが、そこはマ・クベである。忘れても顔には出さない。
「多すぎる?」
「はい」
ガルマは帳簿をめくる。付箋まで打ってある。いつの間に。
「この整備大隊、故障率は低いです。稼働時間も大きく増えていません。ですが、補修部品だけが多い」
マ・クベは静かに帳簿を受け取った。
「予備という可能性もあります」
ごく当然の答えを返す。
ガルマは頷いた。
「最初はそう思いました」
嫌な返し方をするようになった。
「ですが予備にしては、補給回数が多いんです」
「念のためということもあります」
「そうかもしれません」
ガルマは素直に肯定し、次の紙を出した。
「でも、念のため、で受領印が二種類になるでしょうか」
マ・クベは紙を見た。
受領印の押し方が違う。濃さも違う。日付の癖も違う。
ああ、と思った。
嫌な方向でああ、と思った。
「帳簿はきれいでした」
ガルマは、ひどく真面目な顔で言う。
「でも、現場の靴の減り方と合っていない」
マ・クベは静かに目を閉じたくなった。
靴。
靴で来たか。
どこの教育だ。いや分かる。ラルだ。シーマだ。あの類の人間は、帳簿より靴底を信じる。部隊が本当に動いているか、倉庫番が本当に現場へ行っているか、運搬係が記録どおりの距離を歩いているか。そういうことを、あの連中は靴の減り方で見る。
なんという泥臭い発想だ。
そして、なんという正しさだ。
マ・クベは腹の底で呻いた。
自分は不正などしていない。していないが、部門の一つに小賢しい虫が入り込んでいたことまでは否定できぬ。人は完璧に帳簿を作ろうとすると、たいてい別のところで雑になる。そこを、よりにもよってザビ家の末弟が、靴で見つけるとは。
「つまり」
ガルマは言った。
「故障率の改ざんか、過剰請求だと思います」 「余剰分は外へ流れていたか、少なくとも部門内で囲われています」
そして、もっとも残酷な一言を続けた。
「僕、何か間違っておりますか?」
何とも間の悪い問い方だった。
間違っていない。
それが一番困る。
マ・クベは、若い頃から滅多に味わったことのない種類の疲労を覚えた。自分の不正ではない。自分の失態でもない。だが、自分の管轄である以上、完全に自分の問題である。しかもそれを指摘してきたのが、純粋な悪意でも政治的な揺さぶりでもなく、ただ真っ直ぐな確認の形で来た。
これがいちばんきつい。
「いえ」
マ・クベは言った。
「間違っては……おりません」
ガルマの顔がぱっと明るくなる。
「そうですか。よかった」
よくない。
まったくよくない。
だが、マ・クベはその言葉を飲み込んだ。ここで取り乱せば、美学が死ぬ。美学が死ねば、彼の仕事は半分終わる。
「この件は私が預かります」
「はい」
「……それにしても、よく気づかれましたね」
ガルマは少しだけ首を傾げ、考えてから答えた。
「ラル大尉に、前だけ見ていてはいけないと教わりました」
やはりラルだ。
「シーマ軍曹には、綺麗な帳簿ほど臭いことがあると」
やはりシーマだ。
マ・クベは、ごく静かに息を吸った。
あの二人は、若い貴公子をどう育てているのだ。いや、どう壊しているのだ。いや、違う。たぶん育てている。だがその育ち方が、こちらにしわ寄せを寄越す。
「役に立ちました」
ガルマは言う。
「……それは結構」
マ・クベはそう返すしかなかった。
その後の数日は、実に慌ただしかった。
当該部門の帳簿洗い直し。受領経路の追跡。予備在庫の実査。中間管理職の聴取。書類をめくる音、靴音、押し殺した怒声。軍需調整局の廊下は普段静かなだけに、少し空気が騒ぐとすぐ分かる。
マ・クベはそれを、表向きは冷静に指揮した。
内心では、実に疲れた。
何が疲れるかといって、後ろからついてくるガルマの真っ直ぐな目が疲れる。部門の整理に同行させれば、いちいち「ここはどうなっているのですか」と聞いてくる。答えれば納得する。納得した上で、また別の綻びを見つける。犬か。いや犬の方がまだ可愛げがある。こっちは妙に礼儀正しい。
しかも時々、素直に感心した顔をするのである。
「なるほど、ここで在庫を二重化していたのですか」 「帳簿の見え方はきれいですが、現場は混乱しますね」 「うまいやり方です。悪い意味で」
最後の一言で、マ・クベは机に額を打ちつけたくなった。
うまいやり方です、悪い意味で。
何だその評価は。
褒めているのか叱っているのか、もう少し曖昧にしてくれないか。
だがガルマは心底素直なのだ。悪意がない。だから腹が立ちにくい。その代わり、疲れる。
結局、不正部門は整理された。担当者は更迭。囲われていた余剰部品は回収され、補給経路は修正された。損害そのものは致命的ではない。だが、放っておけば現場の信用を確実に腐らせていく類の綻びだった。
そして研修最終日。
マ・クベはいつものように髪を整え、上着の皺を払った。憔悴はしていない。していないつもりでいた。鏡の中の自分はまだ十分に優雅だった。目の下がほんの少し深いのは、気のせいである。気のせいということにした。
ガルマを執務室へ呼び入れる。
窓の外には人工の午後。静かな輸送幹線。磨かれた壺。整えられた書類。いつもの景色だ。だが、そのいつもどおりを維持するために、ここ数日はまったくいつもどおりではなかった。
「ガルマ様」
「はい」
「研修は本日で修了です」
ガルマの顔が少し引き締まる。嬉しいのか寂しいのか、その両方らしい顔だった。
「最初は、若い指揮官候補が現場を見に来る程度の話かと思っておりました」
「……はい」
実に正直な返事をする。
「ですが、見くびっていたのはこちらでした」
ガルマが少し驚いた顔になる。
そういうところだ、とマ・クベは思う。こういう顔をされると、こちらが少し照れるではないか。
「前線を見て、泥を知り、それでいて帳簿の綻びも見つける」
マ・クベは静かに言った。
「大したものです」
「ありがとうございます」
ガルマは素直に頭を下げた。
「ただし」
そこで少し間を取る。
「次からは、もう少し手加減を覚えられるとよろしい」
ガルマが目を瞬かせる。
「手加減、ですか?」
「私の胃が痛む」
一拍。
ガルマの顔が、ひどく本気で曇った。
「申し訳ありません」
その反応が予想以上に真面目だったので、マ・クベは思わず口元を押さえた。
笑うところではない。だが少し笑いたくなる。いや、笑っている余裕が戻ったなら、それはそれで良いことかもしれない。
「褒めていますよ」
そう言うと、ガルマはようやく少しだけ安心した顔になった。
「はい」
「良い指揮官になられます」
マ・クベは椅子の背に軽く寄りかかった。
「前だけでなく、後ろの崩れ方も見える方ですから」
ガルマはそれを、ひどく大事なもののように受け止めた顔をした。
「ありがとうございます」
その返事を聞きながら、マ・クベは心の底で、ラルとシーマの顔を順番に思い浮かべた。
ラルのせいだ。
いや、半分はシーマのせいだ。
いや、待て。こうなってしまえば、結局はギレンのせいか。
面倒な教育方針を考えついたものだ。泥を踏ませ、汚れを嗅がせ、それから帳簿へ寄越す。そりゃ育つ。育つが、こちらの胃も削れる。
ガルマが去ったあと、執務室に一人残されたマ・クベは、しばらく本気で動かなかった。
卓上には整えられた帳簿。壁際には壺。窓の外には静かな輸送幹線。
どれも美しい。
だがその美しさの裏で、自分がここ数日どれほど走らされたかを思うと、壺を見てもあまり心が潤わない。
「……疲れた」
誰もいない部屋で、つい本音が漏れた。
その瞬間、ノックもなしに扉が少し開き、補佐官が顔だけを覗かせた。
「マ・クベ様、次の決裁書類を」
「置いていきたまえ」
「お加減でも」
「よい」
「ですがお顔色が」
「よいと言っている」
補佐官は慌てて引っ込んだ。
扉が閉まる。
沈黙。
マ・クベは、そっと額に手を当てた。
憔悴、というほどではない。ないはずだ。だが、たいへん疲れていることは否定しがたい。補給とは芸術である。芸術は繊細だ。そこへ泥の匂いを覚えた若者が土足で踏み込んでくると、思った以上に大変なのだ。
その頃、ズムシティ政庁では、研修報告がギレンの机へ届いていた。
キシリアが先に読んで、肩を震わせている。
「兄上」
「何だ」
「良かったわね」
「何がだ」
「ラルのところで前を覚えて、シーマたちに臭い帳簿の嗅ぎ方を仕込まれて、マ・クベのところで一部門を摘発」
キシリアは紙を揺らした。
「順調に育ってるじゃない」
ギレンは黙って報告書を受け取る。読み進めるうちに、表情が少しずつ難しくなっていく。
「……」
「何とも言えない顔ね」
「している自覚はある」
「喜ぶところでは?」
「喜んでいる」
少し間。
「だが、こちらの想定より早く育つのも、それはそれで不安だ」
キシリアはとうとう吹き出した。
「贅沢な悩みね」
「そうかもしれん」
ギレンは報告書を机へ置いた。
その脳裏には、泥だらけのガルマと、帳簿の綻びを真顔で指摘するガルマが、どうにも同じ顔で並んでいる。弟というものは、いつまでたっても幼い印象が抜けきらぬ。だが報告書の中のガルマは、もう誰かの後ろについて歩くだけの子供ではなかった。
前だけではなく、後ろを見る。
人と補給と組織を、まとめて考え始めている。
それは喜ばしい。喜ばしいが、ほんの少しだけ、兄としては気が重い。
キシリアは兄の横顔を見て、また少しだけ笑った。
「兄上」
「何だ」
「マ・クベの顔、見たかったわね」
ギレンはそこで、初めて少しだけ口元を動かした。
「……見たかったな」
二人の間に、珍しく同じ種類の笑いが落ちた。
窓の外では、ズムシティの輸送幹線が静かに光っている。
止まらない街。
止めてはならない国家。
その内臓の一つを、ガルマは確かに覗き込み、少しだけ掴み始めていた。