士官学校へ向かう朝、ガルマは鏡の前で襟を直したまま、しばらく動かなかった。
新しい制服は仕立てがよく、肩にかかる布は軽いのに、妙に重く感じる。胸元の徽章もまだ新しく、磨きすぎた金属のように落ち着かなかった。
以前の自分なら、そこに映る姿を少し誇らしく思っただろう。ザビ家の末弟、士官学校入学。その響きだけで胸が高鳴ったはずだ。
だが今は違う。
立ち方ひとつ、肩の力の抜き方ひとつが、以前のままではどうにも落ち着かない。
ラルの訓練場の赤土。
シーマたちの乾いた笑い声。
マ・クベの執務室の静けさと、綺麗すぎた帳簿。
入学前にああいう場を回らされたのは、自分だけだった。兄たちは何も言わなかったが、その意味くらいはガルマにも分かる。ザビ家の名を背負って列に立つ以上、中身が空では困る。飾りだけの士官候補生など、家にも軍にもいらない。そういうことだった。
そして、それを嫌だったと思うほど、自分ももう子供ではなかった。
控室の外から、軍楽隊の調律する低い音が聞こえてきた。短く、よく響く金管の音。革靴の硬い足音。扉の向こうで、式典の空気が少しずつ固まり始めている。
ガルマはもう一度だけ鏡を見た。
映っているのはザビ家の息子だった。けれど、それだけではない気もした。まだ名前のつかない、何か別のものが、背筋のあたりへ静かに入っている。
控室を出ると、人工の朝の光が広い廊下へ均一に落ちていた。士官学校の建物は白く新しく、どこもよく磨かれている。だが学園の白さとは違う。こちらには若い汗と金属と乾いた布の匂いがある。未来の軍人を詰め込むための建物の匂いだった。
正面広場へ出た瞬間、ガルマは思わず息を飲んだ。
高く掲げられた旗。
整列する新入生の列。
来賓席を囲む濃色の幕。
軍楽隊、記録係、報道関係者。
士官学校の入学式というより、小さな国家儀式のようだった。
ここまで大きな場になるとは思っていなかった。
新入生たちはすでに列へ並び始めている。誰もが真新しい制服にまだ少し着られている。緊張を隠そうとして余計に固くなっている者、家族へ最後まで手を振っている者、逆に平静を装っている者。若い顔ばかりだ。だが、その若さの上から、もう公国の色が薄く塗られ始めている。
ガルマが自分の位置へ入ると、周囲の空気が少しだけ変わった。
「あれがガルマ・ザビか」
「校長閣下の弟だろ」
「本当に新入生なのか」
小声は思った以上によく届く。
以前の自分なら、少し得意になったかもしれない。だが今は、その視線があまり嬉しくなかった。見られることは、前へ出されることだ。前へ出れば、それだけ余計なものまで見られる。土の上でも、海兵隊の雑な寝床でも、マ・クベの静かな部屋でも、それは同じだった。
ラルなら言うだろう。見られて浮つくな、と。
シーマなら笑うだろう。目立つのは前で十分だよ、坊や、と。
ガルマは前を向いたまま、靴先の位置だけを少し直した。
その時、少し離れた列の中に、一人だけ妙に目を引く新入生がいた。
姿勢がいい。制服の着こなしも整っている。だが、どこか見せるために整えているようにも見えた。緊張しているはずなのに、それを少しでも格好よく見せようとしているのが分かる。
見栄っ張りだな、とガルマは思う。
だが、ザビ家の空気でも軍人家系の匂いでもない。もっと街の明るさが残っている。人前で喋るのが苦にならず、たぶん女性にももてるだろう。そんな種類の若者だった。
相手もこちらを一瞬だけ見た気がしたが、すぐ正面へ戻った。
やがて来賓が到着する。
最初に前へ出たのは、校長としてのドズル兄上だった。
軍楽隊の一節が止み、広場の空気が一段重くなる。大きな体。顔の傷。重い軍靴。教官たちが一斉に敬礼し、新入生たちも慌ててそれに倣う。
兄上はいつも大きかった。
だが今日の兄上は、家の中で見上げた時より、ずっと遠く大きく見えた。
校長として前へ立つ兄の姿に、ガルマは自分でも意外なほど緊張した。兄弟であることと、校長であることは別なのだと、体が先に教えられる。
ドズルは壇上へ立つと、無駄な前置きを一切しなかった。
「諸君。入学を祝う」
短い一言が広場へ落ちる。
「ここは英雄を作る学校ではない」
最初の一言から、兄上らしかった。
「ここは、生きて帰る士官を作る学校だ。部下を無駄に死なせるな。見栄で前へ出るな。逃げる時は最後まで残れ。食うのは最後でいい。寝るのも最後でいい」
新入生の列に、わずかなざわめきが走る。ドズルは気にしない。
「死ぬなとは言わん。戦場では死ぬ時は死ぬ。だが、意味のない死に方だけはするな。自分一人が格好をつけて終わるような戦い方は、士官のやることではない」
その言葉は、ガルマの耳で聞くより先に体へ入ってきた。
ラルの訓練場で聞いた声に近かった。
前へ出るのは簡単だ。連れて帰るのが難しい。
兄上の言葉は荒い。けれど、その荒さの下にあるものは乱暴ではなかった。責任だ。背負うことだ。最後まで残ることだ。
ガルマは少しだけ背筋を伸ばした。
兄上は、戦場の側から語っている。
そのあと、連邦側来賓が前へ出た。
レビル将軍だった。
濃い色の制服、硬い肩章、無駄のない歩幅。敵というより、大きな連邦そのものがここへ来たような圧がある。
だが、その声は静かだった。
「本日ここに、サイド3士官学校の新入学生諸君を迎えることができることを、地球連邦軍を代表して喜ばしく思う」
低く、よく通る声だった。穏やかだが、軽くはない。大きな軍を背負ってきた男の声だ。
「宇宙へ進出した人類は、新しい時代へ入った。だが新しい時代とは、過去を捨てることではない。地球に住む者も、コロニーに住む者も、同じ人類であり、同じ歴史の上に立っている」
広場は静かだった。
「諸君らがこれから身につけるべきものは、単なる武勇ではない。力とは、秩序を守るためにこそ用いられるべきものだ。士官とは、己の誇りのために剣を振るう者ではなく、多くの民の平穏を乱さぬために最後まで責任を負う者である」
責任。
その言葉に、ガルマは少しだけ気を取られた。
兄上も、今さっき似たことを言ったばかりだった。向く先は違う。だが、責任という芯だけは同じだった。
「地球と宇宙は対立するものではない。互いに支え合い、秩序の内で共に発展するべきものである。諸君ら若き士官候補生には、その架け橋となることを期待したい」
架け橋。
それは優しい言葉だった。
だが優しいからこそ、何を秩序の内へ留めたいのかも透けて見える気がした。ガルマはそこまで明確に言葉にできない。けれど、連邦はサイド3をただ褒めに来たのではない、とは分かる。
「本日ここから始まる諸君らの歩みが、サイド3のみならず地球圏全体の安定と平和に資することを願っている。諸君らの前途に幸多からんことを」
祝辞が終わり、広場には礼儀正しい拍手が広がった。
ガルマは思う。
穏やかな祝辞だった。
だが穏やかなだけではない。
秩序を守る者になれ、と。
その言葉は、静かな檻にも似ていた。
その直後に立ったのが、ギレン兄上だった。
会場の空気が変わる。
兄上の立ち方はいつ見ても無駄がない。会場全体が静まるのを待ってから、ほんの僅かに視線を巡らせる。その一瞬だけで人を黙らせる。
「地球連邦軍総司令官レビル将軍閣下より、諸君に対して秩序と平和への期待が述べられた」
兄上の声はよく通る。だが、レビルのような穏やかな響きではなかった。もっと乾いていて、もっと骨に近い。
「その言葉に、私は一つ付け加えたい」
ガルマは思わず背筋を伸ばした。何故だか分からない。だが、ここから先は自分にも直接関わると、体が先に悟った。
「秩序とは、ただ与えられるものではない。支える意志を持つ者がいて、初めて成り立つものだ」
支える意志。
その言葉が胸へ落ちる。
「ここは、ただ命令に従う兵を育てる場ではない。国家を支える士官を育てる場である」
そこでガルマは気づく。
兄上はレビルの言葉を否定していない。だが、意味を少しずつ塗り替えている。
秩序。平和。士官。
同じ言葉のはずなのに、兄上の口から出ると重みが違う。
「国家とは夢だけで立つものではない。人が働き、物が流れ、規律が保たれて、初めて国家である」
その言葉に、ラルの訓練場の赤土が不意に蘇る。
遅れた水袋。
足りない燃料筒。
シーマたちの笑い声。
マ・クベの綺麗すぎた帳簿。
ばらばらだったものが、そこで一本に繋がった気がした。
前だけ見ていてはいけない。
後ろが崩れれば全部が死ぬ。
綺麗な帳簿ほど臭いことがある。
軍は前だけでは回らない。
全部、同じところへ向いていたのか。
「諸君は、その骨となる」
兄上の声は高くならない。若い胸を熱くさせるより先に、肩へ重みを置いてくる声だった。
「若い諸君に、私は軽々しく栄光を約束しない。諸君に先に渡されるのは、栄光ではなく責任である」
そこで広場の空気が変わる。興奮した者もいるだろう。だがそれより先に、肩へ何かを置かれたような感覚があった。
「誇る前に負え。名乗る前に支えよ。先に受け、最後まで残れ」
その言葉は、兄上から叱られているようにも聞こえた。
同時に、ここへ来る前の自分では、その重さが分からなかっただろうとも思う。
今なら、少しだけ分かる。
完全ではない。だが少しだけなら。
来賓席へ目をやると、父は動かずに聞いていた。キシリア姉上も微動だにしない。だが連邦側の席にいるレビルの視線だけが、ほんの少し鋭くなったように見えた。
気のせいかもしれない。
だが、こういう場での気のせいが、気のせいだけで終わることは少ない。
ギレンの祝辞が終わると、広場に短い静寂が落ちた。
そして新入生たちが動き出す。
式が終わり、緊張が解けた空気の中で、あちこちから声が上がった。
「校長、怖かったな」
「レビル将軍って、思ったより静かな人だな」
「ギレン閣下の祝辞、重かった」
「国家の骨って何だよ……」
ざわめきは若い。重い言葉を受け取っても、すぐに自分たちの言葉へ崩してしまう。
その途中で、さっきから目を引いていた新入生がガルマの横へ並んだ。
「君がガルマ・ザビか」
まるで前から知っていたような言い方だった。
「そうだが」
「シャア・アズナブルだ」
名乗り方に迷いがない。
聞き慣れない名前だったが、本人は少しも気後れしていない。
「よろしく」
「ああ」
少し沈黙があった。
シャアは周囲を見回してから、小さく笑った。
「思ったより、大げさな入学式だったな」
「国家の学校だからな」
「なるほど。学校というより、軍の入口というわけか」
妙に納得したように頷く。
やはり少し格好をつける癖がある。だが嫌味ではない。むしろ、自分をどう見せるかをよく分かっているような態度だった。
「君は落ち着いているな」
シャアが言う。
「ザビ家だから緊張しないのか?」
「逆だ。ザビ家だから緊張する」
シャアは少し目を細めた。
「なるほど。面白いな」
面白い、という言い方が自然だった。
この男は人を上下ではなく、興味で見ている。ガルマはそう感じた。
「君はどこから来た?」
「テキサス・コロニーだ」
シャアはあっさり答えた。
「家では、移住者相手の案内みたいなことをやっている。母は食堂を切り回してる。軍人の家じゃない」
その明るさが、先ほどの印象とぴたりと重なった。
なるほど、とガルマは思う。
街の明るさが残っているのは、そのせいか。
「なのに士官学校か」
「だから来た」
シャアは笑う。
「ギレン閣下の演説を聞いたことがある。ああいう言葉を聞くと、自分も前へ出てみたくなる」
流行に熱しやすいのだろう、とガルマは思った。
だが、その軽さだけでここへ来たわけでもない顔をしている。
「校長殿に似ている」
シャアが言った。
ガルマは少しだけ困る。
「そう言われるのは、少し複雑だ」
「私なら少し誇らしいが」
やはり見栄っ張りだ。だが不快ではなかった。
「そのうち、そう思えるようになるかもしれない」
そう返したところで、背後から女の声がした。
「ガルマ」
振り向く。
「……姉上?」
キシリアだった。
式典の場だからか、口元には笑みがある。だがその笑みは、柔らかさよりも観察の色が強い。ガルマはそれを知っている。
キシリアはガルマではなく、その横に立つシャアをゆっくり見た。
顔立ち。
目元。
立ち方。
敬礼に入る直前の、ほんの僅かな癖。
そういうものを、一息で測るような視線だった。
「ふふ……君、名前は?」
シャアは一瞬だけ固まり、次の瞬間には反射的に背筋を伸ばして敬礼した。
「はっ、シャア・アズナブルであります!」
周囲がざわつく。
ザビ家のキシリアに直に声をかけられる新入生など、普通はいない。ましてや名前まで問われるなど。
キシリアは笑みを崩さない。
「そう。励みなさいな。ガルマと同じ組なら、よく見ていてちょうだい」
その言葉に、近くにいた新入生たちから妙な歓声が上がった。
「うぉー……」
「何だ今の」
「キシリア閣下に話しかけられたぞ」
「シャアってすげぇな」
シャア自身もまだ少し固まっている。
「は、はっ!」
声が半拍遅れた。
キシリアは満足したように笑って、ガルマへ軽く視線を投げると、そのまま去っていく。
その背中を見送りながら、ガルマは姉の表情の意味を少しだけ考えた。
確認したのだ。
何をかまでは分からない。だがキシリアは、あの青年を見て何かを確かめた。
そして、それで良しとした。
キシリアの胸中では、短い確認が終わっていた。
顔立ちは似ている。
だが違う。
立ち方も、目の置き方も、あの気配も違う。
少なくとも、自分が警戒していた“あの子”ではない。
それだけ確かめられれば、今は十分だった。
シャアはようやく敬礼を下ろし、小さく息を吐いた。
「……肝が冷えた」
「だろうな」
「今のは、名誉なのか」
「たぶん」
「たぶん、か」
そこで二人とも少しだけ笑った。
その笑いは軽い。けれど、さっきまでの緊張をほどくには十分だった。
やがて新入生たちは、教官の指示で校舎の中へ導かれ始めた。石床の上に靴音が揃って響く。門をくぐり、白い廊下の奥へ消えていく若い背中の列。
ガルマもその中にいた。
振り返れば、来賓席にはまだ父や兄たち、連邦の将軍たちが残っている。
だが今日の自分は、もうそちらへ戻るのではない。
士官学校の中へ入っていく側だ。
家族の背中を見送るのではなく、そこから離れて別の列へ入る。
それが少し寂しく、少し誇らしかった。
門をくぐる足取りはまだ軽くない。
けれど、もう戻る前の自分でもなかった。
そして今日、自分の隣に並んだのは、兄たちでも父でもない。見知らぬ同輩たちだった。
その中には、テキサスから来た、少し気取ったシャア・アズナブルという青年もいる。
士官学校の門をくぐったその日から、ガルマはザビ家の末弟である前に、サイド3の士官候補生となった。
その日の式が終わったあと、来賓席の奥の控室で、ギレンとキシリアは短く言葉を交わした。
「どうだった」
ギレンが問う。
キシリアは肩を竦める。
「思ったより普通の子だったわ」
「普通、か」
「ええ。少し気取り屋で、少し目立ちたがりで、でも悪くない。テキサスの空気をそのまま連れてきたみたいな子」
ギレンはそれだけで察したらしい。目を細める。
「違ったか」
「違うわ」
キシリアは即答した。
「似てはいるけれど、別物ね。安心していいと思う」
ギレンは短く息を吐いた。
「ならいい」
「ただ」
「何だ」
「ガルマは気に入るでしょうね、ああいう子」
キシリアの口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「明るくて、前へ出たがって、でも根はそう悪くない。うまくやれば、いい友人になるわ」
ギレンは少しだけ考えたあと、窓の外へ目を向けた。
「友人で済めばいいがな」
その言い方に、キシリアはくすりと笑った。
「兄上は心配性ね」
「そうかもしれん」
廊下の向こうでは、新入生たちの靴音がまだ続いていた。
若者たちは校舎の中へ吸い込まれていく。国家の未来というには、まだあまりにも若く、軽く、脆い背中だった。
だが、その軽さを抱えたまま、やがて彼らは軍服を本当の重さで着ることになる。
ギレンはその音を聞きながら、しばらく黙っていた。