議員会館の奥にある私室は、表の会議室より少しだけ天井が低かった。
そのせいで、部屋の中に溜まった葉巻の煙が逃げず、灯りの下に薄く漂っている。壁際には濃い色の木棚が並び、窓には重たい布地のカーテンが垂れていた。卓は長く、磨かれているが、酒瓶と灰皿が置かれた時点で、この場に議事録の類が要らぬことは知れる。表向きは懇談。だが、ここで交わされるのは懇談の言葉ではない。
ジャミトフが入ると、室内の視線が一度だけ集まった。
窓側の席に座る白髪の議員が、わずかに顎を動かす。反対側には、丸い腹を卓に寄せた予算委員会筋の男。その隣に、月面選出で知られる痩せた議員が、長い指でグラスの脚をいじっている。入口寄りには軍務畑の議員が二人、肩を広げて座っていた。全員、表では柔らかい顔を作るのに慣れた連中だ。だが、扉が閉まれば、その柔らかさはすぐ薄れる。
ジャミトフは空いていた席に腰を下ろした。酒は勧められたが、断った。卓上の水差しからグラスに水を注ぐ。その間にも、視線だけは何本も自分へ向けられている。
誰が最初に切り出すかを待っているのだと、すぐ分かった。
「サイド3は、もう自治の顔をしておらんよ」
窓側の白髪の議員が、葉巻を灰皿の縁に当てながら言った。口調は穏やかだが、言い方に妙な粘りがある。昔から議場で人を追い込んできた声だ。
「士官学校もそうだ。名前は学校でも、中身は連邦の士官養成とは別物だ」
「顔をした別物、ですか」
予算委員会の男が鼻を鳴らした。
「私は数字しか見んがね。数字だけ見ても気味が悪い。教育費の伸び方、技術科目への配分、教官増員の速度、施設拡張。全部、目立たぬようにやっているが、続け方が嫌らしい」
月面選出の議員がグラスを置く。細い顔で笑う時、この男は目だけ笑わない。
「月でも似た話は出ている。技術者の往来だ。共同研究、交流、民間契約。名目はどれも穏当だが、出入りしている顔ぶれが偏りすぎている。企業が勝手に動いているのではない。後ろで誰かが揃えている」
軍務関係の議員が、そこで堪えきれずに口を挟んだ。
「ならば軍を見せればよい。自治だ教育だと言う前に、どちらが上か思い出させれば済む」
すぐ隣の男も乗った。
「そうだ。予算を締める。輸送を締める。監査を入れる。教育機関ごと連邦の基準へ戻させる」
白髪の議員が低く笑った。
「戻るかね。いまさら」
「戻らせるのだ」
「若い者が余計な夢を見る前にな」
言葉が重なり始める。誰も声を荒げてはいない。だが、卓の中央へ集まる苛立ちは見えた。
ジャミトフは黙っていた。
怒っている議員は珍しくない。だが怒りだけでここまで深い部屋は使わない。彼らが本当に恐れているのは、サイド3そのものより、サイド3が“自治の問題”で済まなくなることだ。票になる苛立ちと、票にならぬ危機感。その両方が混ざっている。
しかも厄介なのは、ここにいる連中が愚かではないことだった。愚かなら、もっと話は簡単だ。愚かな者はすぐに派手な手を打ちたがる。だが目の前の連中は、派手な手が相手を強くすることも、うすうす分かっている。
ただ、自分では言わない。
その役目を、いま自分に回している。
「大佐」
予算委員会の男が、ようやくジャミトフを真正面から見た。
「君はどう見る」
ジャミトフは水を一口だけ飲んだ。それからグラスを置く。
「今はお控えいただくべきです」
軍務関係の議員の眉が跳ねた。
「控える?」
言葉尻に、露骨な不満が乗る。
「このまま見ていろと言うのか」
「そうは申しておりません」
ジャミトフの声は低かった。押しつけるでもなく、引くでもない。
「今、正面から叩けば、向こうに理由を与えます」
白髪の議員が灰を落とした。
「理由?」
「ええ。軍事的圧力だ、内政干渉だ、若年層への弾圧だと、向こうが一つの言葉にまとめる理由です」
月面選出の議員が、そこで初めて少しだけ興味を見せた。
「ではどうする」
「見るのです」
短く答える。
予算委員会の男が、少し顎を引いた。続きを促す合図だった。
「人を追う。金を追う。制度を見る」
ジャミトフは卓上の紙の束を一瞥する。
「士官学校の予算、人事、教官の経歴、卒業後の配属。月とサイド5を通る技術者の移動。奨学金と研究交流の出所。輸送会社と保険会社の契約。共同開発会社の出資元。表の政治より先に、つなぎ目を押さえるべきです」
軍務関係の議員が鼻を鳴らした。
「回りくどいな」
「必要な順番です」
ジャミトフは言った。
「少なくとも今は」
そこで初めて、部屋の中に別の種類の静けさが落ちた。
皆、その“今は”の先を考えたからだ。
白髪の議員が、肘掛けに指を置いたまま言う。
「君は叩く気がないのではなく、順番を言っているわけだな」
ジャミトフは否定も肯定もしなかった。ただ視線を返す。
この老人は厭らしい。こちらが口にしなかったことを、口にした形へ変えたがる。言質を取っておけば、後でいくらでも使えるからだ。議場でも密室でも、生き残る者の癖だった。
「必要なのは、まず相手の形です」
ジャミトフは言った。
「どこに人が集まり、どこで金が動き、誰がその間をつないでいるか。それを見誤ったまま動けば、こちらが先に相手を固める」
軍務議員の一人が面白くなさそうに肩を揺らした。
「軍人らしくない言い方だな」
「軍人だからです」
ジャミトフは相手の顔を見た。
「正面から撃って済む相手なら、もっと話は早い」
その返しに、わずかな沈黙が走る。
若い頃、前線で見た。
声の大きい命令が、部隊の動きを鈍らせるところを。
上が怒鳴り、下が慌て、結局は相手に時間をやるだけの失敗を。
国家も同じだ、とジャミトフは思っている。
怒鳴る者は多い。手順を組む者は少ない。
最後に形になるのは、怒鳴り声ではなく手順の方だ。
予算委員会の男が、指先で書類の端を揃え始めた。
「具体的には」
そこから、話は変わった。
誰がどこを洗うか。どの委員会から入るか。監査の名目を何にするか。技術交流枠の見直しはどの省庁を噛ませるか。議員たちの言葉は、強硬論から手順へ移っていく。
白髪の議員は教育と予算を。
月面選出の議員は企業と研究交流を。
軍務関係の議員は卒業後の配属先と軍務局からの照会を。
予算委員会の男は、保険と輸送を洗うための監査ルートを口にした。
最初は怒っていた連中が、気づけば机に肘をつき、紙に線を引いている。
人間は面白い。大きな言葉を吐いている時より、小さな手順を与えられた時の方がよく働く。
「それは情報局の仕事でもあるな」
月面選出の議員が言った。
「ええ」
ジャミトフは頷く。
「そちらは私が話をつけます」
その言葉で、この会合は終わったも同然だった。
議員たちはそれぞれ、自分の手持ちの権限を頭の中で数え始めている。今夜この場で“何を言ったか”は、もう重要ではない。“明日何を動かせるか”に変わっていた。
会合が終わる頃には、葉巻の先は短くなり、酒もだいぶ減っていた。
白髪の議員は最後まで人の顔を見ず、軍務議員は最後まで不満げだった。だが誰も席を蹴らない。不満がある時ほど、人はその場に残る。得るものがあると知っているからだ。
全員が出て行ったあと、ジャミトフはようやく椅子へ深く座り直した。
卓の上には空のグラスと、まだ半分ほど残った水。彼はそちらを選ぶ。冷えた水が喉を落ちる。
酒を飲む場で、水だけを飲む男は二種類いる。
本当に弱い者と、最後まで自分の舌を鈍らせたくない者。
ジャミトフは後者だった。
議員会館の別棟にある執務区画は、先ほどの私室とはまるで違っていた。飾り気がない。壁も机も薄い色で、照明は白く、床の艶も冷たい。人を長居させるための場所ではなく、決めたことをそのまま処理へ流すための部屋だった。
情報局の実務担当者は、すでに席に着いていた。
痩せた男だった。制服は整い、髪も撫でつけられている。机の上には端末と紙の束、鉛筆が一本だけ横に置かれていた。左手の人差し指に、薄い紙で切ったような細い傷が見える。書類を追いすぎる手だ、とジャミトフは思った。
男は立ち上がらなかった。ただ軽く会釈する。
ジャミトフも挨拶を省いた。
「破壊は要らない」
男は黙って聞く。
「監査。聞き取り。接触。勧誘。観察。記録。合法の範囲で近づけ」
男は少し考えてから言った。
「対象は」
「士官学校。若年層。技術者。輸送。保険。共同開発。月とサイド5との接点」
「露骨にやれば反発が出ます」
「露骨にはやらん」
ジャミトフは机の木目へ目を落とした。端のところに浅い傷が何本もある。長年、誰かが爪やペン先でつけたのだろう。
「表から触るな」
一拍置く。
「先に中を調べろ」
男はその言葉を繰り返さなかった。繰り返す必要がないからだ。意味が分かる人間にだけ話している。
「どの程度まで」
「嫌がる程度でいい」
「協力者は」
「急ぐな。先に流れを掴め」
男は短く頷き、ようやく鉛筆を持った。
そこまでで十分だった。
長い説明は、理解していない相手にするものだ。
実務屋は、命じられた範囲より、命じられなかった部分で何を求められているかを読む。そうでなければ、この部屋に座ってはいない。
話が終わると、ジャミトフはすぐに立った。
廊下は静かだった。夜勤の事務官が箱を抱えて向こうを横切る。壁際の灯りが一定の間隔で床に落ちている。昼間よりも音が少ないぶん、自分の靴音が妙にはっきり聞こえた。
正面から叩けば、向こうはまとまる。
大きく動けば、相手も大きく構える。
だから先に見る。人。金。制度。そこが見えれば、次に何をすればいいかは自ずと決まる。
窓の前で、ジャミトフは一度だけ足を止めた。
黒いガラスの向こうに、夜の灯りがいくつか滲んでいる。
「表から触るな」
声は低かった。
「先に中を調べろ」
それだけ言って、また歩き出す。
背後では、さっきの実務室の扉が静かに閉じた。
音はほとんどしなかった。
それでも、その小さな音が今夜いちばん確かなもののように、ジャミトフには聞こえた。