妹に撃たれない方法   作:Brooks

77 / 226
第77話 沈黙の扉

 議員会館の奥にある私室は、表の会議室より少しだけ天井が低かった。

 

 そのせいで、部屋の中に溜まった葉巻の煙が逃げず、灯りの下に薄く漂っている。壁際には濃い色の木棚が並び、窓には重たい布地のカーテンが垂れていた。卓は長く、磨かれているが、酒瓶と灰皿が置かれた時点で、この場に議事録の類が要らぬことは知れる。表向きは懇談。だが、ここで交わされるのは懇談の言葉ではない。

 

 ジャミトフが入ると、室内の視線が一度だけ集まった。

 

 窓側の席に座る白髪の議員が、わずかに顎を動かす。反対側には、丸い腹を卓に寄せた予算委員会筋の男。その隣に、月面選出で知られる痩せた議員が、長い指でグラスの脚をいじっている。入口寄りには軍務畑の議員が二人、肩を広げて座っていた。全員、表では柔らかい顔を作るのに慣れた連中だ。だが、扉が閉まれば、その柔らかさはすぐ薄れる。

 

 ジャミトフは空いていた席に腰を下ろした。酒は勧められたが、断った。卓上の水差しからグラスに水を注ぐ。その間にも、視線だけは何本も自分へ向けられている。

 

 誰が最初に切り出すかを待っているのだと、すぐ分かった。

 

「サイド3は、もう自治の顔をしておらんよ」

 

 窓側の白髪の議員が、葉巻を灰皿の縁に当てながら言った。口調は穏やかだが、言い方に妙な粘りがある。昔から議場で人を追い込んできた声だ。

 

「士官学校もそうだ。名前は学校でも、中身は連邦の士官養成とは別物だ」

 

「顔をした別物、ですか」

 

 予算委員会の男が鼻を鳴らした。

 

「私は数字しか見んがね。数字だけ見ても気味が悪い。教育費の伸び方、技術科目への配分、教官増員の速度、施設拡張。全部、目立たぬようにやっているが、続け方が嫌らしい」

 

 月面選出の議員がグラスを置く。細い顔で笑う時、この男は目だけ笑わない。

 

「月でも似た話は出ている。技術者の往来だ。共同研究、交流、民間契約。名目はどれも穏当だが、出入りしている顔ぶれが偏りすぎている。企業が勝手に動いているのではない。後ろで誰かが揃えている」

 

 軍務関係の議員が、そこで堪えきれずに口を挟んだ。

 

「ならば軍を見せればよい。自治だ教育だと言う前に、どちらが上か思い出させれば済む」

 

 すぐ隣の男も乗った。

 

「そうだ。予算を締める。輸送を締める。監査を入れる。教育機関ごと連邦の基準へ戻させる」

 

 白髪の議員が低く笑った。

 

「戻るかね。いまさら」

 

「戻らせるのだ」

 

「若い者が余計な夢を見る前にな」

 

 言葉が重なり始める。誰も声を荒げてはいない。だが、卓の中央へ集まる苛立ちは見えた。

 

 ジャミトフは黙っていた。

 

 怒っている議員は珍しくない。だが怒りだけでここまで深い部屋は使わない。彼らが本当に恐れているのは、サイド3そのものより、サイド3が“自治の問題”で済まなくなることだ。票になる苛立ちと、票にならぬ危機感。その両方が混ざっている。

 

 しかも厄介なのは、ここにいる連中が愚かではないことだった。愚かなら、もっと話は簡単だ。愚かな者はすぐに派手な手を打ちたがる。だが目の前の連中は、派手な手が相手を強くすることも、うすうす分かっている。

 

 ただ、自分では言わない。

 

 その役目を、いま自分に回している。

 

「大佐」

 

 予算委員会の男が、ようやくジャミトフを真正面から見た。

 

「君はどう見る」

 

 ジャミトフは水を一口だけ飲んだ。それからグラスを置く。

 

「今はお控えいただくべきです」

 

 軍務関係の議員の眉が跳ねた。

 

「控える?」

 

 言葉尻に、露骨な不満が乗る。

 

「このまま見ていろと言うのか」

 

「そうは申しておりません」

 

 ジャミトフの声は低かった。押しつけるでもなく、引くでもない。

 

「今、正面から叩けば、向こうに理由を与えます」

 

 白髪の議員が灰を落とした。

 

「理由?」

 

「ええ。軍事的圧力だ、内政干渉だ、若年層への弾圧だと、向こうが一つの言葉にまとめる理由です」

 

 月面選出の議員が、そこで初めて少しだけ興味を見せた。

 

「ではどうする」

 

「見るのです」

 

 短く答える。

 

 予算委員会の男が、少し顎を引いた。続きを促す合図だった。

 

「人を追う。金を追う。制度を見る」

 

 ジャミトフは卓上の紙の束を一瞥する。

 

「士官学校の予算、人事、教官の経歴、卒業後の配属。月とサイド5を通る技術者の移動。奨学金と研究交流の出所。輸送会社と保険会社の契約。共同開発会社の出資元。表の政治より先に、つなぎ目を押さえるべきです」

 

 軍務関係の議員が鼻を鳴らした。

 

「回りくどいな」

 

「必要な順番です」

 

 ジャミトフは言った。

 

「少なくとも今は」

 

 そこで初めて、部屋の中に別の種類の静けさが落ちた。

 皆、その“今は”の先を考えたからだ。

 

 白髪の議員が、肘掛けに指を置いたまま言う。

 

「君は叩く気がないのではなく、順番を言っているわけだな」

 

 ジャミトフは否定も肯定もしなかった。ただ視線を返す。

 

 この老人は厭らしい。こちらが口にしなかったことを、口にした形へ変えたがる。言質を取っておけば、後でいくらでも使えるからだ。議場でも密室でも、生き残る者の癖だった。

 

「必要なのは、まず相手の形です」

 

 ジャミトフは言った。

 

「どこに人が集まり、どこで金が動き、誰がその間をつないでいるか。それを見誤ったまま動けば、こちらが先に相手を固める」

 

 軍務議員の一人が面白くなさそうに肩を揺らした。

 

「軍人らしくない言い方だな」

 

「軍人だからです」

 

 ジャミトフは相手の顔を見た。

 

「正面から撃って済む相手なら、もっと話は早い」

 

 その返しに、わずかな沈黙が走る。

 

 若い頃、前線で見た。

 声の大きい命令が、部隊の動きを鈍らせるところを。

 上が怒鳴り、下が慌て、結局は相手に時間をやるだけの失敗を。

 国家も同じだ、とジャミトフは思っている。

 怒鳴る者は多い。手順を組む者は少ない。

 最後に形になるのは、怒鳴り声ではなく手順の方だ。

 

 予算委員会の男が、指先で書類の端を揃え始めた。

 

「具体的には」

 

 そこから、話は変わった。

 

 誰がどこを洗うか。どの委員会から入るか。監査の名目を何にするか。技術交流枠の見直しはどの省庁を噛ませるか。議員たちの言葉は、強硬論から手順へ移っていく。

 

 白髪の議員は教育と予算を。

 月面選出の議員は企業と研究交流を。

 軍務関係の議員は卒業後の配属先と軍務局からの照会を。

 予算委員会の男は、保険と輸送を洗うための監査ルートを口にした。

 

 最初は怒っていた連中が、気づけば机に肘をつき、紙に線を引いている。

 人間は面白い。大きな言葉を吐いている時より、小さな手順を与えられた時の方がよく働く。

 

「それは情報局の仕事でもあるな」

 

 月面選出の議員が言った。

 

「ええ」

 

 ジャミトフは頷く。

 

「そちらは私が話をつけます」

 

 その言葉で、この会合は終わったも同然だった。

 議員たちはそれぞれ、自分の手持ちの権限を頭の中で数え始めている。今夜この場で“何を言ったか”は、もう重要ではない。“明日何を動かせるか”に変わっていた。

 

 会合が終わる頃には、葉巻の先は短くなり、酒もだいぶ減っていた。

 白髪の議員は最後まで人の顔を見ず、軍務議員は最後まで不満げだった。だが誰も席を蹴らない。不満がある時ほど、人はその場に残る。得るものがあると知っているからだ。

 

 全員が出て行ったあと、ジャミトフはようやく椅子へ深く座り直した。

 卓の上には空のグラスと、まだ半分ほど残った水。彼はそちらを選ぶ。冷えた水が喉を落ちる。

 

 酒を飲む場で、水だけを飲む男は二種類いる。

 本当に弱い者と、最後まで自分の舌を鈍らせたくない者。

 ジャミトフは後者だった。

 

 議員会館の別棟にある執務区画は、先ほどの私室とはまるで違っていた。飾り気がない。壁も机も薄い色で、照明は白く、床の艶も冷たい。人を長居させるための場所ではなく、決めたことをそのまま処理へ流すための部屋だった。

 

 情報局の実務担当者は、すでに席に着いていた。

 

 痩せた男だった。制服は整い、髪も撫でつけられている。机の上には端末と紙の束、鉛筆が一本だけ横に置かれていた。左手の人差し指に、薄い紙で切ったような細い傷が見える。書類を追いすぎる手だ、とジャミトフは思った。

 

 男は立ち上がらなかった。ただ軽く会釈する。

 

 ジャミトフも挨拶を省いた。

 

「破壊は要らない」

 

 男は黙って聞く。

 

「監査。聞き取り。接触。勧誘。観察。記録。合法の範囲で近づけ」

 

 男は少し考えてから言った。

 

「対象は」

 

「士官学校。若年層。技術者。輸送。保険。共同開発。月とサイド5との接点」

 

「露骨にやれば反発が出ます」

 

「露骨にはやらん」

 

 ジャミトフは机の木目へ目を落とした。端のところに浅い傷が何本もある。長年、誰かが爪やペン先でつけたのだろう。

 

「表から触るな」

 

 一拍置く。

 

「先に中を調べろ」

 

 男はその言葉を繰り返さなかった。繰り返す必要がないからだ。意味が分かる人間にだけ話している。

 

「どの程度まで」

 

「嫌がる程度でいい」

 

「協力者は」

 

「急ぐな。先に流れを掴め」

 

 男は短く頷き、ようやく鉛筆を持った。

 

 そこまでで十分だった。

 長い説明は、理解していない相手にするものだ。

 実務屋は、命じられた範囲より、命じられなかった部分で何を求められているかを読む。そうでなければ、この部屋に座ってはいない。

 

 話が終わると、ジャミトフはすぐに立った。

 

 廊下は静かだった。夜勤の事務官が箱を抱えて向こうを横切る。壁際の灯りが一定の間隔で床に落ちている。昼間よりも音が少ないぶん、自分の靴音が妙にはっきり聞こえた。

 

 正面から叩けば、向こうはまとまる。

 大きく動けば、相手も大きく構える。

 だから先に見る。人。金。制度。そこが見えれば、次に何をすればいいかは自ずと決まる。

 

 窓の前で、ジャミトフは一度だけ足を止めた。

 黒いガラスの向こうに、夜の灯りがいくつか滲んでいる。

 

「表から触るな」

 

 声は低かった。

 

「先に中を調べろ」

 

 それだけ言って、また歩き出す。

 

 背後では、さっきの実務室の扉が静かに閉じた。

 音はほとんどしなかった。

 それでも、その小さな音が今夜いちばん確かなもののように、ジャミトフには聞こえた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。