妹に撃たれない方法   作:Brooks

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第78話 触れる手

 

月面の外縁共同開発監督部に設けられた合同会議室は、軍の作戦室よりも静かで、代わりに空気が乾いていた。

 

長机の上には艦隊配置図ではなく、航路図、保険引受の系統図、外縁共同開発網に連なる企業一覧、そしてサイド3士官学校周辺の人員交流記録が並んでいる。紙と端末の双方に同じ情報が置かれていたのは、机の向こうに座る者たちが、まだ紙の重みを信じているからだろう。

 

ジャミトフ・ハイマンは一番端に座り、指先で資料の端を揃えた。

 

「対象を広げる必要はない」

 

低い声だったが、それだけで室内の視線が集まる。

 

「絞る。士官学校周辺の若年層、技術交流に関わる若手技術者、外縁共同開発網に連なる民間物流、それに保険と再保険の引受実務。この四つだ」

 

監査官が眉を寄せた。

 

「学生まで見ますか」

 

「肩書きではなく、反応を見る」

 

ジャミトフは資料を一枚裏返した。

 

「若い層ほど、将来の色が出る。今の思想ではない。何に不満を抱き、何に誇りを感じ、どこまでなら譲るかだ」

 

輸送行政官が航路図を拡大表示した。

 

「物流は共同開発網にぶら下がる会社を洗えば、かなり掴めます。荷主、タグの手配、臨時の積替え、倉庫利用。どこかに偏りは出るはずです」

 

「会社は書類を整える」

 

ジャミトフは短く言った。

 

「崩れるのは現場だ。港、船員、保険担当、荷主、その線で見ろ」

 

若い保険監督官が手元の端末を覗き込みながら口を開く。

 

「引受条件の見直しをかければ、かなりの実態が見えます。どの会社が危険を飲み、どの会社が引くか。信用の線も洗えます」

 

「効かせるためにやるのではない。実態を知るためにやる」

 

ジャミトフの声は変わらなかった。

 

だが、その場にいる誰もが、その言葉をそのままの意味で聞いてはいなかった。

 

沈黙のあと、情報局の現場主任が椅子に浅く腰掛け直した。

 

「観察だけでは、向こうは仮面を外しません」

 

彼は言葉を選びながら、しかし選びすぎない調子で続けた。

 

「交流事業、研究支援、制度照会。その範囲で、こちらから多少触れた方が早いでしょう。揺れる者は、触れれば分かる」

 

監査官が視線を上げた。

 

「やりすぎれば政治問題になります」

 

「露骨なことはするな」

 

ジャミトフがそこで口を挟んだ。

 

「行政と交流の範囲で済ませろ。痕を残すな」

 

現場主任はわずかに口元を動かした。笑ったのではない。了解した、というだけの顔だ。

 

「では、反応の出た先から重点をかけます」

 

「結果を持って来い」

 

ジャミトフはそう言って資料を閉じた。

 

それで会議は終わった。

 

廊下に出た後も、ジャミトフの歩幅は変わらなかった。硝子越しに見える月面の施設群は白く、遠く、整然としている。

 

レビル閣下は止めたいのだろう、と彼は思う。戦争になる前に、何を相手が作ろうとしているのかを見極め、歯止めをかけたい。その危機感は正しい。

 

だが、見るだけで止まる相手ではない。

 

そう判断している時点で、自分もまた別の段階に足を踏み入れていることを、ジャミトフは自覚していた。

 

それでも歩みは止めない。止めるべき理由がまだないからだ。

 

ズムシティ近郊、士官学校の門から少し離れた通りには、夕刻になると学生向けの食堂や書店に人が集まる。

 

訓練帰りの制服姿が目立ち、まだ声変わりの抜けきらない少年たちと、肩つきの固まり始めた上級生たちが同じ空間で食事を取っている。窓際には湯気の立つ煮込み皿が並び、店員が金属盆を鳴らしながら行き来していた。

 

ガルマは同級生二人と卓を囲んでいた。背筋を崩しきれないのは癖だが、兄たちの前ではないぶん、表情は公邸にいる時より柔らかい。

 

「午後の射撃、また風見が外れたな」

 

向かいの同級生が笑うと、ガルマも小さく口元を緩めた。

 

「言わないで下さい。あれは、最後の一枚だけです」

 

「最後の一枚が一番大事なんだろう」

 

「それはそうですけど」

 

言い返しながらも、ガルマは水の入ったコップに手を伸ばした。

 

その時、少し離れた卓で会話の流れが変わるのが耳に入った。

 

「工学科の方ですよね」

 

若い女の声だった。明るく、丁寧で、通りのよい声だ。

 

ガルマが視線を向けると、技術科の上級生と思しき青年に、見慣れない男女が名刺を差し出していた。服装は地味だが仕立ては悪くない。研究施設か民間企業の若い職員、と言われればそう見える。

 

「月面の研究施設で、若年交流枠を広げているんです。短期見学や支援の相談もできます」

 

青年は戸惑った顔で名刺を受け取り、裏表を確かめた。

 

「自分に、ですか」

 

「ええ。優秀な方ほど、早く外を見た方がいいですから」

 

傍らの男が穏やかに続ける。

 

「設備の差は、将来の差になります。サイド3は勢いがありますが、研究環境だけ見れば、外にも学ぶべきものは多い」

 

それだけなら、よくある勧誘に聞こえた。

 

だが次の一言が、ガルマの耳に引っかかった。

 

「若い才能が、政治の近くに置かれすぎるのは惜しいですし」

 

青年の顔が曇る。

 

「政治の近く、とは」

 

女は微笑みを崩さない。

 

「誤解しないで下さい。研究は研究として守られるべきだ、と言いたいだけです」

 

同席していたガルマの同級生も、箸を止めてそちらを見た。周囲の卓でも、聞こえないふりをして耳だけが向いている。

 

男はさらに言葉を継いだ。

 

「優秀な方ほど、国家の都合に近いところへ引っ張られる。若いうちは、もっと自由に考えてよいのではないでしょうか」

 

ガルマはそこで口を開いた。

 

「でも、国のことと無関係ではいられないでしょう」

 

三人の視線が一度にこちらを向いた。

 

女は一拍遅れて、丁寧に頷く。

 

「もちろんです。ただ、若い方にはもっと自由な道もあるかと」

 

「自由でも、誰かが国のことを背負わなければ困ります」

 

ガルマはそう言って、言い過ぎではなかったかと一瞬だけ考えた。だが、口を閉じて見過ごすのはもっと嫌だった。

 

女は名刺入れを閉じた。

 

「……失礼。あなたも士官学校の方でしたか」

 

「ええ」

 

「そうでしたか。では、こちらの話はまた別の機会に」

 

男も軽く会釈し、深追いせずに退いた。

 

そこが余計に嫌だった。ただの勧誘なら、もう少し押す。だが二人は、引くべき線を知っていた。

 

去っていく背中を見送りながら、技術科の上級生が小さく息を吐いた。

 

「感じは悪くないんですが」

 

「悪くないからでしょう」

 

ガルマは名刺の裏に書かれた月面施設の名を見た。

 

聞き覚えのある施設名ではある。だからこそ始末が悪い。

 

「研究の話だけなら、あんな言い方にはならない」

 

同級生が声を潜める。

 

「先輩を見ていたというより、反応を見ていた気がします」

 

上級生も頷いた。

 

「そうだな。答えた言葉そのものより、答えるまでの間を見られていた感じがした」

 

ガルマは名刺を卓の上に置いた。

 

兄上たちがやっている国家建設は、外から見ればこういう形で測られるのか。

 

そう思うと、少しだけ胸の内側がざらついた。誇らしさと、不快さが同じ場所に並ぶ。気分のよいものではない。

 

だが、それが現実なのだろうとも思う。

 

「これは」

 

ガルマは名刺を指先で押さえた。

 

「兄上に報告した方がよさそうです」

 

上級生は少し驚いた顔をしたが、すぐに真面目な目になった。

 

「自分の方からも、生活指導の方に伝えます」

 

「そうして下さい」

 

ガルマはそう言いながら、店の出入口へ視線を向けた。

 

あの二人はもう見えない。だが、消えたからといって終わったわけではないのが分かる。そのことが、かえって気にかかった。

 

ズムシティの一角、情報局の執務棟で、キシリアは報告書をめくっていた。

 

机の上には、学生同士の口論や食堂の騒ぎを記した雑多な記録とは別に、似た形式の接触事例だけを抜き出した薄い束が置かれている。厚くはない。だが薄いから軽いとは限らない。

 

報告に立つ情報将校は背筋を伸ばしていた。

 

「ここ十日で同種の接触が六件です。名目は研究交流、奨学支援、短期研修。本日の件もその一つとして整理しました」

 

「六件で足りると思う?」

 

キシリアは紙から目を上げずに言った。

 

「いいえ」

 

「なら数えるな。線を追いなさい」

 

将校はすぐに答える。

 

「はい。宿、経費、接触先、移動経路の洗い出しを継続します」

 

壁際に控えていたベルナルド・ギリアムが手帳を閉じた。

 

「記事にしますか」

 

「まだ早いわ」

 

キシリアはそこでようやく顔を上げた。

 

「学生一人の証言では、向こうは交流事業だと言って逃げる。写真、金の流れ、肩書き、誰に何を言わせようとしたか。そこまで揃えてから」

 

ギリアムは頷く。

 

「では、『学生にまで手を入れた』と誰が見ても分かる形を先に整えておきます」

 

「ええ」

 

キシリアは淡々と言った。

 

「先に怒っても得はないの。効く形で出しなさい」

 

情報将校が次の紙を差し出した。

 

「それと、別線です。サイド5宙域の物流線、とくにテキサス寄港便で保険引受条件の一斉見直しが進んでいます。臨検下の待機、航路変更、補助曳航に関する条項が重くなっています」

 

キシリアの指先がわずかに止まる。

 

「学生だけではないのね」

 

その一言は小さかったが、室内の空気を変えるには十分だった。

 

ギリアムが訊く。

 

「公表はまだ」

 

「しないわ。こちらもまだ線が細い」

 

キシリアは報告書を重ね直した。

 

「でも覚えておきなさい。若い層に触れる手と、暮らしに触れる手は、同じ所から伸びている」

 

その言葉に、将校はただ頭を下げた。

 

キシリアは視線を窓の外へ向ける。ズムシティの夜景は整い始めていたが、まだ工事灯の多い都市だ。作られている最中の国には、完成した国とは違う脆さがある。

 

そこへ外から手を入れられるのは、想定のうちだ。

 

だが、触れ方には段階がある。

 

今の報告は、その段階が一つ進んだことを示していた。

 

テキサスコロニー港湾の管理室は、外の騒音に比べて狭く、静かだった。

 

硝子一枚の向こうでは古いモビルワーカーが荷役アームを動かし、警報音が短く鳴っている。資材コンテナを押すタグ車の振動が床まで伝わってくるのに、机の上では紙一枚が現場の危険を増やしていた。

 

テアボロ・マスは書類束を片手に戻ってきた。表情は険しいが、怒鳴る代わりに帽子を机へ置く。

 

「また差し替えだ」

 

セイラがすぐに椅子を引き、書類を受け取った。

 

「昨日通った条件が、今日から通らないのですか」

 

「そういうことだ」

 

キャスバルが眉をひそめる。

 

「昨日まで良かったものを、今日になって駄目だと言うのか」

 

「役所はそういうものだ。だが今回は、それだけじゃ済まん」

 

テアボロは壁際の端末を顎で示した。

 

「読み上げてみろ」

 

セイラは新しい証書を開き、目を走らせた。紙を追う速度が以前より速い。キャスバルはそれを見るたびに、妹がこの数か月で別人のように実務へ慣れていくのを感じていた。

 

「臨検下の待機については、保険者の責任を限定」

 

セイラの声が少し硬くなる。

 

「航路変更が発生した場合、追加危険負担は再審査。補助曳航は、事前申請の無い限り免責」

 

キャスバルが机を指で叩いた。

 

「止められた時ほど助けない、ということか」

 

「そう読めるわ」

 

「ふざけている」

 

テアボロは首を振った。

 

「ふざけてはいない。だから厄介なんだ」

 

キャスバルはその言葉に顔を向けた。

 

「何だと」

 

「連中は真面目な顔で書類を出してくる。安全のためだ、確認のためだ、規則を整えただけだ、とな」

 

テアボロはセイラの手元の紙を指で示した。

 

「だが現場じゃ、その一行で人が死ぬ」

 

管理室の外で、フォークリフト代わりの小型作業機が警告音を鳴らした。いつもと同じ音だ。だが今は、それが遠く聞こえる。

 

セイラはさらに頁を繰った。

 

「ここもです。臨検による遅延は、荷主との契約上、不可抗力と認めない場合がある」

 

「つまり」

 

キャスバルは苦い顔で言った。

 

「止められた上に、遅れの責任までこちらが負うのか」

 

「そうだ」

 

テアボロは短く答えた。

 

「船は待たされ、荷は傷み、金だけ出ていく」

 

キャスバルは唇を噛んだ。

 

戦争とは艦隊と銃で始まるものだと思っていた。だが今、目の前にあるのは書類の文言で、しかもそれが現場の首を締めている。

 

うまく飲み込めない。だが、うまく飲み込めないからといって、現実でないわけでもない。

 

セイラが別の頁を止めた。

 

「南側航路の再保険も、条件が付いています。臨検発生時の待機費用は契約外」

 

テアボロが鼻で息を吐いた。

 

「都合のいい話だ。待てと言うのは向こうで、待った金は出さない」

 

「こんなもの、誰が飲むんだ」

 

キャスバルの声に棘が混じる。

 

「飲まなきゃ仕事が切れる」

 

テアボロは真正面から言った。

 

「そうやって首を細くする」

 

そこで一度、彼はキャスバルを見た。

 

「覚えておけ。軍が来る前に、まず帳簿が来る。戦争ってのは、大抵そこから始まる」

 

キャスバルは返す言葉を持てなかった。

 

父なら理念から話しただろう。何のために戦い、何のために国を守るかを。だがテアボロは違う。誰が金を払い、誰が責任を負い、どの一文が現場を殺すかから話す。

 

汚い現実だと思った。

 

だが、それを知らずに国だ戦争だと言う方が、もっと空虚なのかもしれない。

 

扉が開き、港湾事務員が飛び込んできた。

 

「南側航路の二便、追加確認で保留です。荷主は今日中に動かせと言っています」

 

テアボロが帽子を掴む。

 

「またか」

 

「臨検の可能性があるので、保険側が待てと」

 

「待てば荷主が死ぬ。動けば保険が逃げる」

 

テアボロは短く吐き捨てた。

 

「いい分担だな」

 

セイラが立ち上がる。

 

「私も行くわ」

 

「いや、お前は残れ」

 

テアボロは即答した。

 

「差し替え条項を全部抜き出しておけ。いつ、どの便から、何が変わったか。一分でもずらすな」

 

セイラは一瞬だけ迷い、それから頷いた。

 

「分かった」

 

キャスバルは立ったまま言う。

 

「僕は」

 

「来い。だが黙って見てろ。今日は機械じゃない。帳簿と人の顔を見る日だ」

 

管理室を出る直前、テアボロはそれだけ言った。

 

キャスバルはその背を追う。

 

外へ出ると、港の空気は油と金属と焦りの匂いが混じっていた。何も爆発していない。誰も撃っていない。だが、現場全体が少しずつ無理な方へ押されているのが分かる。

 

その押し方が、妙に静かだった。

 

夜のズムシティは高所から見ると、まだ完成前の都市だった。

 

整った幹線道路の明かりの間に工事区画の仮設灯が混じり、遠くでは新しい外壁工区の点検灯が線になっている。作られている最中の首都には、完成した都市にはない剥き出しの部分が残っていた。

 

ギレンの執務室はその光を見下ろす位置にある。

 

ガルマは扉の前で一度姿勢を正し、呼吸を整えてから声をかけた。

 

「兄上、少しお時間を」

 

「入れ」

 

中から返る声はいつも通りだった。

 

ガルマが入ると、ギレンは机上の書類から顔を上げた。疲れていないわけではない。だが、人に見せるべき疲れと見せる必要のない疲れを、この兄はきっちり分けている。

 

「何があった」

 

「士官学校の外で、少し妙なことがありました」

 

ギレンは手元のペンを置いた。

 

「話せ」

 

ガルマは食堂で見たことを順に語った。研究交流、奨学補助、技術科の上級生への接触。会話の中に混ぜられた、若い才能が政治に近すぎるのは惜しい、という言葉。

 

話し終えると、ギレンは短く頷いた。

 

「そうか」

 

「兄上は、驚かれないのですね」

 

「若い層から空気を測りに来るのは、自然な手だ」

 

ガルマは少しだけ眉を寄せた。

 

「僕たちは、そこまで見られているのですか」

 

「見られているというより、量られている」

 

「量る」

 

「どこが揺れ、どこが折れ、どこまで触れれば騒ぐか。そういう測り方だ」

 

ガルマはその言葉を心の中で繰り返した。

 

食堂で感じた不快さが、急に別の形を取る。ただの変な勧誘ではなかった。あれは、国の内側に指先を入れて反応を見る手つきだったのだ。

 

「嫌なものですね」

 

ガルマの率直な感想に、ギレンの口元がわずかに動いた。

 

「嫌で済むうちは、まだ良い」

 

その時、端末の着信音が短く鳴った。

 

ギレンは確認を求める指先の動きだけで許可し、外で待機していたベルナルド・ギリアムが入室する。報道官らしく背筋は正しいが、手にしているのは原稿ではなく情報メモだった。

 

「失礼します。別線からです」

 

ギリアムは紙を差し出す。

 

「サイド5宙域の物流線、とくにテキサス寄港便で、保険引受条件の見直しが一斉に進んでいます。臨検下の待機、航路変更、補助曳航。この三点が特に重くなっています」

 

ギレンは紙を受け取り、目を走らせた。

 

そこで初めて、ガルマにも分かるほど、兄の沈黙が一拍長くなった。

 

「……早いな」

 

「兄上?」

 

ガルマが問うと、ギレンは紙から目を離さずに答えた。

 

「学生だけでは終わらなかった」

 

彼はゆっくりと顔を上げた。

 

「今度はサイド5の物流と保険だ」

 

ガルマは思わず息を呑む。

 

「そこまで」

 

「船を止め、物を遅らせ、金を重くする。撃たずに首を締めるやり方だ」

 

ギレンの声は低い。

 

「自分たちは制度を動かしているだけだ、と向こうは思っているのだろう」

 

ギリアムが静かに口を挟んだ。

 

「学生への接触と合わせれば、かなり露骨です」

 

「露骨ではない」

 

ギレンは首を振る。

 

「だから厄介だ。露骨なら、こちらも露骨に返せる」

 

ガルマは兄の横顔を見た。

 

学生への手は、兄上も読んでいたのだろう。だが暮らしの線まで来たと知った時、声の底が変わった。そこにだけ、事の重さがあった。

 

「では、これはもう」

 

ガルマは言葉を選びきれずに止まった。

 

ギレンが代わりに言う。

 

「まだ戦争ではない。だが、戦争の前段ではある」

 

室内にしばらく沈黙が落ちた。

 

窓の外では、ズムシティの工事灯が規則正しく瞬いている。誰かが今も国を作っている。その速度を落とすために、外から別の手が伸びてきている。

 

「正しい顔をして触れてくる手ほど、始末が悪い」

 

ギレンはそう言って、紙を机に置いた。

 

ガルマは小さく背筋を伸ばした。

 

兄上は知っていた。知っていて止まらない。そこに頼もしさを感じる一方で、自分もまたその中へ入っていくのだという実感が、今までよりはっきりと胸に残る。

 

ギリアムが一礼して退出した後も、ガルマはすぐには部屋を出なかった。

 

「兄上」

 

「何だ」

 

「今日のことを見て、少し分かった気がします」

 

ギレンは答えを急がせなかった。

 

ガルマは言葉を探す。

 

「国を作るというのは、ただ中をまとめるだけではないのですね。外から、壊し方を考えられる」

 

ギレンは短く頷いた。

 

「そうだ」

 

「では、僕も」

 

ガルマはそこで少しだけ声を整えた。

 

「いずれ、それに耐えられるようにならなければなりませんね」

 

兄に向かって言うには、まだ背伸びの混じる言葉だったかもしれない。だが、言わずにはいられなかった。

 

ギレンはしばらく弟を見て、それから淡々と答える。

 

「耐えるだけでは足りん。相手がどこに触れたがるか、先に知れ」

 

ガルマは深く頷いた。

 

「はい、兄上」

 

部屋を出た後、廊下の窓から見える首都の灯りは、入る前とは少し違って見えた。

 

食堂での小さな違和感も、港で差し替えられる一枚の紙も、同じ流れの中にある。そう考えると、今日一日の出来事はどれも些細ではなかった。

 

そして、その流れはもう始まっている。

 

ズムシティの灯の下で、見えない手が次にどこへ触れるのか。

 

ガルマは胸の内に小さな緊張を残したまま、夜の廊下を歩き出した。

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