妹に撃たれない方法   作:Brooks

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第79話 揺らす手

 

サイド5、テキサスコロニー港湾の朝は、まだ照明の色が白い時間から動き始める。

 

荷役用の警告灯が順に点き、タグ車の低い駆動音が床を震わせ、古いモビルワーカーが肩の油圧を鳴らしながら資材枠を押していく。いつもなら、そうした音は現場の始業を告げるだけのものだった。だがその朝は、同じ音がどこか急いて聞こえた。

 

管理室の発着表示板には、到着予定の横へ赤い修正灯がいくつも並んでいる。予定時刻の数字が一つ直されるたび、その後ろの便も芋づる式にずれていく。机の上では紙の予定表と端末画面の両方が開かれ、セイラが鉛筆とキー入力をほとんど同時に動かしていた。

 

「第一便、まだ解放が出ません」

 

港湾事務員が戸口から顔を出した。額にうっすら汗が浮いている。

 

「臨検艦の順番待ちです。保安上の照会が終わらないと」

 

セイラは顔を上げずに訊いた。

 

「待機時間は」

 

「六時間を越えました」

 

鉛筆の先が紙の上で一瞬止まった。

 

壁際に立っていたキャスバルが、組んでいた腕をほどく。

 

「六時間も足止めして、まだ照会だと言うのか」

 

「そう言っています」

 

事務員の声には、苛立ちより先に疲れが滲んでいた。自分で言いながら、自分でもう信じていない言葉を何度も口にしている顔だった。

 

テアボロ・マスは窓の外を見たまま言う。

 

「第二便は」

 

「通常線が詰まってます。迂回です」

 

「どれだけ押す」

 

「まだ確定ではありませんが、午前積みの後ろへ食い込みます」

 

セイラが紙の端を押さえた。

 

「第三便の積み込みに使うはずだった余裕、もう消えます」

 

キャスバルは舌打ちしかけ、飲み込んだ。

 

腹が立つ。だが何に対してなのか、自分でも上手く掴めない。臨検艦にか、保険屋にか、真面目な顔で手続きを積み重ねる連中にか。それとも、そういう連中を相手にしているうちに、現場の側がじわじわ削られていくこの状況そのものにか。

 

テアボロは机へ戻り、紙を一枚引き寄せた。

 

「第三便の荷を切り分ける」

 

「どれを先に回すの」

 

セイラがすぐに問う。

 

「南区画の気密隔壁用部材、外壁固定材、それに補助電源ユニット。あれが止まると工区の方で人が遊ぶ。与圧配管は夜便へ回せ」

 

事務員が目を見開く。

 

「夜便も詰まるかもしれません」

 

「詰まるなら詰まるで、先に言葉を置く」

 

テアボロは紙の空欄へ短く書きつけた。

 

「荷主には、遅延じゃなく順序変更だと伝えろ。工区停止を避けるための組み替えだ。責任の置き場を先に決める」

 

「はい」

 

事務員が走って出ていくと、キャスバルが眉をひそめた。

 

「そんな言い回しで納得するものか」

 

「納得させるんじゃない」

 

テアボロは書きながら答えた。

 

「後で誰が何を被るか、先に置いておくんだ。揉める時は、揉める前に紙にしておく」

 

その理屈が正しいのかどうか、キャスバルにはまだぴんと来ない。

 

だがテアボロが怒鳴るより先に書き、責任の行き先を作り、現場と荷主の間へ自分の身体を差し込んでいることだけは分かった。

 

そこへ今度は荷主の使いが現れた。作業服ではなく、工区事務の腕章をつけている。

 

「マスさん、南区画が待てません。今日の便が入らないと、外壁組みが半日止まります」

 

テアボロは顔を上げた。

 

「半日で済むなら安い方だ」

 

「工区長は、今日中に物を入れろと」

 

「入れて沈めろとは言わんのだろうな」

 

使いは答えに詰まった。

 

キャスバルが一歩前へ出る。

 

「止めたのはこっちじゃないだろう。どうしてこっちだけが飲み込む話になる」

 

使いも追い込まれているのだろう、顔を強張らせた。

 

「こちらだって止まれません」

 

「こっちもだ」

 

キャスバルが言い返しかけたところで、テアボロが手を上げた。

 

「理屈で船が動くなら苦労はない」

 

彼は使いの方だけを見る。

 

「最優先荷は先に回す。だが全部は無理だ。南区画向けは気密隔壁と固定材を先に入れる。補助電源ユニットもだ。残りは夜便へ回す」

 

「それでは配管が」

 

「配管は一工程後ろで吸収しろ」

 

「そんな余裕は」

 

「ないのは知ってる。こっちもない」

 

テアボロの声は低いままだった。

 

「今はどこで飲むかを決めてるだけだ。そっちが全部を今日入れろと言うなら、こっちは固定具の再点検か補助曳航の手当てを削る話になる。そうなった時に工区長が判を押せるなら、その紙を持ってこい」

 

使いは口を閉じた。

 

セイラが横から静かに言う。

 

「第一便はまだ戻りません。第二便は迂回で時間も燃料も余分に使っています。補助曳航は未承認のまま。次便のために取っていた余裕が、もうほとんどありません」

 

使いはセイラへ目を向けた。若い少女にそこまで言われると思っていなかったのか、一瞬だけ言葉を失う。

 

その一瞬で十分だった。今この場で、一番冷静に全体を見ているのが誰かは、もう明らかだったからだ。

 

「……分かりました。工区長に伝えます」

 

使いが出ていくと、キャスバルは窓の外を見た。

 

コンテナ列はいつもと同じように並んでいる。モビルワーカーもタグ車も、見た目には普通に動いている。だが内側では、全部がずれ始めている。どこか一つが壊れたのではない。全部が少しずつ余裕を失っている。

 

怒鳴るだけなら、自分にもできる。

 

だが怒鳴っても便は戻らない。工区も止まらない。誰かが損の形を選び直さなければ、その場で全部が崩れる。

 

それがひどく腹立たしかった。

 

「エドワウ」

 

テアボロが帽子を被り直した。

 

「桟橋へ出る。第二便が入る前にタグの状態を見ておく」

 

「今からですか」

 

「今だからだ」

 

管理室を出ると、港の空気はすでに昼の熱を帯び始めていた。油と金属と人いきれが混ざり、搬送路の向こうで短い警告音が繰り返される。誰も走ってはいない。だが皆、半歩ずつ速く歩いている。

 

第二便が接岸したのは、正午をかなり回ってからだった。

 

作業主任が船体を見上げ、顔をしかめる。

 

「左舷外装に擦過痕です」

 

テアボロがその横に立つ。

 

「深いか」

 

「浅いです。抜けてはいません。ただ、接触してます」

 

セイラが記録端末を開いた。

 

「どこで」

 

「迂回先の過密帯です。便が重なって、補助推進器も一度過負荷が出てます」

 

キャスバルは船体の傷を見上げた。大きなものではない。だがそれが余計に嫌だった。大破ならまだ分かりやすい。これは、誰かがぎりぎりで避けた痕だ。次もぎりぎりで済む保証はない。

 

「こんなの、もう事故の一歩手前じゃないか」

 

テアボロは船体へ手を当てた。外板に熱が残っている。

 

「一歩手前なら、まだ手前だ」

 

「強がりでしょう」

 

キャスバルの言葉に、テアボロは苦い息を吐いた。

 

「強がらなきゃ回らん日がある」

 

それから手を離し、擦過痕を見たまま呟く。

 

「始まったな」

 

「何がです」

 

「もう荷を運んでるんじゃない。書類の尻拭いを運んでる」

 

キャスバルはすぐには意味を返せなかった。

 

だが周囲を見れば、言いたいことは分かる。傷ついた外板、疲れた船員の目、表を睨んだまま時刻を書き換えるセイラの指先。全部が、船ではなく条件の都合で擦り減り始めていた。

 

テアボロは作業主任へ向き直る。

 

「固定具を全部見直せ。この便の荷は、そのまま積み替えるな」

 

「時間が」

 

「削るのはそこじゃない」

 

作業主任は黙って頷いた。

 

キャスバルは、そのやり取りを見ていた。

 

この男は遅れを飲む。損も飲む。怒鳴りも浴びる。だが最後の一線だけは切らせない。今までそれがただの頑固に見えたこともあった。だが違う。そこを切れば、本当に人が死ぬと知っているからだ。

 

夕方、管理室へ戻ると、セイラは新しい表を作り直していた。便ごとの遅れ、積み替えの順番、工区ごとのしわ寄せ。数字というより、崩れ方の地図に近い。

 

「少し休んで」

 

彼女はテアボロに言った。

 

「今日だけでも無理をしすぎてる」

 

「今休むと、明日もっと無理が出る」

 

「人を増やせばいい」

 

キャスバルの言葉に、テアボロは首を振った。

 

「増やせるなら、とっくにやってる」

 

セイラが顔を上げる。

 

「明日の便組みまで、自分で見るつもりなの」

 

「見る」

 

「倒れたら終わりよ」

 

「俺が離れても今は終わる」

 

テアボロは紙束を引き寄せた。

 

「今は結び目を離すわけにいかん」

 

その言い方に、キャスバルは何も返せなかった。

 

結び目。確かにそうだった。ここが緩めば、荷も工区も信用も、一緒にほどける。

 

セイラはしばらく黙っていたが、やがて諦めたように端末の画面を切り替えた。

 

「じゃあ、私も残る」

 

「お前は」

 

「数字を追う人間がいないと、また現場が勘で飲み込むことになるでしょう」

 

テアボロは口を閉じた。反対する理由がなかった。

 

キャスバルは二人を見比べる。

 

自分だけがまだ、怒ることしかできていないように思えた。それが妙に悔しかった。

 

ズムシティの士官学校では、前日の一件はそれきりで終わらなかった。

 

講義棟脇の前庭に、訓育担当士官が数人の学生を集めていた。呼びつけるというほどではない。だが、雑談の顔でもない。ガルマは同級生と並び、その向かいに前日声をかけられた技術科の上級生がいた。さらに別の学生が一人、少し不機嫌そうに腕を組んでいる。

 

訓育担当士官が手帳を閉じた。

 

「昨日の件だけではない。研究見学、奨学支援、短期研修。名目は違うが、似た話がいくつも出ている」

 

「やはりそうでしたか」

 

技術科の上級生が言う。

 

同級生が不安そうに尋ねる。

 

「全部、本当に交流事業なんですか」

 

「本物も混じっているだろう」

 

士官は即答した。

 

「だから切り分けが難しい」

 

そこで、腕を組んでいた学生が口を開く。

 

「でも、外の設備を見たいと思うのはおかしいことじゃないでしょう」

 

空気が少し止まった。

 

「月面の施設が進んでるのは本当です。見てみたいと思っただけで、変な目で見られるのは違う」

 

ガルマはすぐに反論できなかった。

 

その学生の言っていることそのものは間違っていない。外を見ることまで否定するのは違う。だからこそ、余計に始末が悪い。

 

訓育担当士官も頭ごなしには切らなかった。

 

「悪いことだとは言わん。外を見るなとも言わん」

 

「なら」

 

「だが、相手が何を見ているかは別だ」

 

士官の声が少し低くなる。

 

「お前の望みを見ているのか、お前がどこで迷うかを見ているのか、そこを間違えるな」

 

学生は言い返しかけて、やめた。腹の底までは納得していない。だが、不安もないわけではない顔だった。

 

技術科の上級生が静かに言う。

 

「話した内容より、迷った時の間に興味があるようでした」

 

ガルマも頷く。

 

「答えそのものではなく、答える時の顔を見ている。そういう感じでした」

 

士官は学生たちを見回した。

 

「取り込みたいのではない。空気を見たいのだろう。どこが揺れ、どこが濁るかをな」

 

その言葉で、前日の違和感が少しだけ形を持つ。

 

ガルマは息を吐いた。自分一人の嫌悪ではなかった。だが、それで気が楽になるわけではない。士官学校全体が、まだ形の固まりきらない国の空気ごと測られているのだと分かっただけだ。

 

「今後も似た接触があれば報告しろ」

 

訓育担当士官が言った。

 

「追い払う必要はない。だが、話した内容も、相手が何を聞きたがったかも忘れるな」

 

「はい」

 

ガルマも答えながら、胸の内に別の重さを感じていた。

 

昨日はただ不快だった。

 

今日は、それが実際に効いているのを見た。外を見たいと思う若者はいる。その当たり前の願いの中へ、別の意図が混ぜられている。

 

だから、この手は厄介なのだ。

 

キシリアの執務室では、ここ数日分の報告がまとめて机に積まれていた。

 

学生接触に関する記録だけでも一束ある。その脇には、サイド5宙域の便数、遅延時間、積み替え件数、保険条件見直しの推移が簡潔な表にされている。どれも一日分ではない。細かい蓄積を束ねた数字だ。

 

情報将校が読み上げる。

 

「接触は増えています。士官学校周辺だけでなく、技術学校、工廠見習いの枠にも広がっています」

 

「若い所から染み込ませる気ね」

 

キシリアは椅子に浅く腰掛けたまま言った。

 

ギリアムが手元のメモをめくる。

 

「今なら、『学生にまで手を入れた』で一本作れます」

 

「作れるだけでは駄目よ」

 

キシリアの声は冷たい。

 

「向こうは交流だと言って逃げる」

 

「写真、接触先、宿の線は積んでいます」

 

「なら、まだ積みなさい。逃げ道まで潰せる形にしてからでいい」

 

将校が別の紙を差し出す。

 

「別線です。サイド5宙域、とくにテキサス寄港線。便数自体は大きく落ちていませんが、遅延と積み替えが増えています。中継業者数社の回転率が下がっています」

 

キシリアは表の数字を見た。

 

「本数は残すのね」

 

ギリアムが低く言う。

 

「民間の方が先に音を上げます」

 

「だからそちらを先に締めるのよ」

 

将校は続ける。

 

「名が上がっている業者はいくつかあります。マス商会もその一つです」

 

キシリアは一度だけその名を記憶したが、そこで止めた。

 

「会社の名より数字を追いなさい。今はまだ線を見る時よ」

 

「は」

 

「学生の件は証拠を積む。物流の件は数字を積む」

 

キシリアは紙を揃え直した。

 

「怒るのは、向こうが『ただの確認でした』で逃げられなくなってからでいい」

 

ギリアムは頷いた。

 

「報道の段取りだけ進めます」

 

「ええ。今はまだ、向こうに真面目な顔をしてもらっていなさい」

 

ズムシティの夜景が窓の向こうで光っていた。工事灯の多い都市だ。若い者の迷いも、民間の流れも、まだ固まりきっていない。そこへ指を入れれば、どこが軋むかは見えやすい。

 

相手もそれを知っている。

 

ならばこちらも、その軋み方を見誤るわけにはいかない。

 

夜のギレンの執務室は、昼より静かだった。

 

だが静かだからといって、そこで動いているものまで穏やかなわけではない。机の上には別々に見える線が何本も走っており、どこかで一本へ束ねられようとしている。その束ね方を見ているのが、この部屋の主だった。

 

ガルマは昼のことを兄へ話した。

 

似た接触が複数あること。実際に外を見たいと思い、少し心が動いた学生もいたこと。全部が嘘ではないからこそ、余計に厄介であること。

 

話を聞き終えたギレンは短く頷いた。

 

「そうか」

 

「兄上、あれは……」

 

ガルマは言葉を探した。

 

「嫌なだけでは済みません。実際に、心が動いた者もいました」

 

「そうだろうな」

 

ギレンは否定しなかった。

 

そこへ別線の報告紙が入る。経済と物流をまとめた簡潔な数字だ。ギレンはそれに目を通し、しばらく黙った。

 

ガルマが思わず訊く。

 

「兄上?」

 

「本数は落としていないのに、回転だけが死に始めているか」

 

紙から目を離さずに、ギレンは言った。

 

「それは」

 

ガルマの問いに、ギレンはゆっくり顔を上げた。

 

「……揺らしているな」

 

それだけで十分だった。

 

食堂での違和感も、昼間の学生の迷いも、遠いサイド5の便の遅れも、全部同じ流れの中にある。

 

ガルマは兄の横顔を見た。昨日より声が低い。怒っているのではない。事の重さを測り直している声だった。

 

窓の外では、ズムシティの灯が規則正しく瞬いている。作られている国の光。その内側へ、見えない手が入ってきている。

 

ガルマは胸の奥に、昨日よりはっきりした寒気を覚えた。

 

相手はもう見ているだけではない。

 

こちらがどこまで無理を飲み、どこで迷い、どこで音を上げるか。揺らして試し始めている。

 

そのことが、夜の静けさの中で妙に生々しく感じられた。

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