妹に撃たれない方法   作:Brooks

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第81話 止まれぬ便

 

テキサスコロニー港湾の管理室には、夜の続きがそのまま朝まで残っていた。

 

机の上のランプは一つも消されず、便組みの紙には昨夜の書き込みが何重にも重なっている。発着表の赤い修正灯は、夜明け前だというのにもういくつも点いていた。朝の港は本来なら、仕事が始まる前の短い静けさがある。だがその日は違った。まだ照明の白さが勝っている時間から、無線の呼び出し音と足音だけが先に現場を起こしている。

 

セイラは仮眠も取らずに端末と紙を往復し、時刻、条件、照会番号、曳航承認の有無を欄ごとに整理していた。エドワウは窓際に立ち、桟橋の灯りがまだ薄暗い搬送路を照らしているのを見ている。

 

テアボロは管理卓の前に立ち、昨夜組み直した便表を見ていた。帽子は被ったまま、コートの襟も立てたままだ。

 

「最優先荷の積み替えは」

 

彼が訊くと、港湾事務員がすぐに答えた。

 

「終わりました。南区画向けの気密隔壁用部材、外壁固定材、補助電源ユニットは先に回してあります」

 

「与圧配管は」

 

「後ろへ落としました」

 

テアボロは小さく頷いた。

 

「よし」

 

その返事の短さに、エドワウはかえって落ち着かなかった。今日は危ない。昨夜からずっとそう思っていたが、朝になってもその感触は薄れないどころか、むしろはっきりしている。

 

セイラが新しい紙を差し出した。

 

「航路はこれで決めるんですか」

 

「決めるしかない」

 

「通常線はもう無理なのね」

 

「時間窓を失った。今から戻すと、出る前にまた待たされる」

 

セイラは少しだけ唇を引いた。徹夜明けで顔色は悪いのに、声はまだ崩れていない。

 

「補助曳航の承認は、まだ来てません」

 

「来る前提で組まん」

 

テアボロは紙を折った。

 

「来ない前提で出す」

 

エドワウはそこで我慢できずに口を挟んだ。

 

「僕も乗ります」

 

テアボロは顔も上げなかった。

 

「駄目だ」

 

「でも」

 

「今日は前に出る奴より、後ろで切らさない奴が要る」

 

その言い方に、エドワウは一瞬言葉を失った。役に立たないと言われたわけではない。むしろ逆だ。だから余計に反発しづらい。

 

セイラも顔を上げる。

 

「私が残るのは分かる。でも、兄さんまで乗せないんですか」

 

テアボロはようやく二人を見た。

 

「二人とも残れ。時刻も条件も、今日は一つでも欠けたら後で全部ごまかされる」

 

それは昨夜からテアボロが何度も口にしていた理屈だった。だが今朝の声は、理屈というより決意に近かった。

 

「セイラ、お前は通信と時刻。エドワウ、お前は便ごとの条件と照会番号を押さえろ。何が来て、何が来なかったか、それだけは切らすな」

 

エドワウは拳を握った。

 

乗りたい。行って、自分の目で見たい。危ない便にテアボロ一人を出したくない。

 

だが、その気持ちのまま食い下がるには、言われたことが正しすぎた。記録を欠かせば、後で全部「そういう手続きでした」で押し流される。昨夜までの二日で、それくらいは自分にも分かるようになっていた。

 

「……分かりました」

 

そう答えた瞬間、自分でも嫌になるほど悔しさが込み上げた。

 

セイラは端末を抱え直した。

 

「兄さん、照会番号の控えは私の端末にも回して。片方だけで持つと危ない」

 

「分かった」

 

それからセイラは、少しだけためらってから言った。

 

「お父さん」

 

その呼びかけに、テアボロは書類から顔を上げた。ほんの一瞬だけ、目元の険がほどける。すぐにいつもの顔へ戻ったが、返事の声は少しだけ柔らかかった。

 

「どうした」

 

「戻ってきて」

 

テアボロはわずかに息を吐いた。

 

「戻るさ。戻らんと後が詰まる」

 

軽口とも言い切れない、現場の男らしい短い言葉だった。だが、その一言でセイラの肩から少しだけ力が抜けたのをエドワウは見た。

 

桟橋側から短いブザーが鳴る。出立準備完了の合図だ。

 

テアボロは書類束を二つに分け、一つをエドワウへ渡した。

 

「条件票だ。あとで一枚でも抜けるなよ」

 

「はい」

 

「セイラ」

 

「ええ」

 

「通信が混線したら、まず時刻を取れ。次に相手の文言だ。感情は後でいい」

 

セイラは小さく頷いた。

 

その顔を見て、エドワウは胸の内が重くなる。妹も分かっているのだ。これはもう、ただ危ないだけの便ではない。何か起きた時、それをどう残すかまで含めた仕事になっている。

 

テアボロはそれ以上何も言わず、管理室を出た。

 

窓越しに見るその背中は、いつもより少しだけ厚く見えた。近いはずの桟橋が、妙に遠い。

 

便が離桟してから最初の一時間は、逆に静かだった。

 

セイラは管理卓の前でヘッドセットを着け、無線の空きを一つも逃がさないように耳を澄ませている。エドワウは横で条件票を並べ、照会番号、寄港許可、迂回承認、補助曳航未承認の欄を確認し続けた。

 

画面の上では、便の現在位置を示す小さな光点がゆっくり前へ進んでいく。

 

「通常線は戻れないのね」

 

セイラが呟くように言った。

 

「昨日の遅れで時間窓が消えた。戻ればまた待たされる」

 

エドワウも小声で返した。

 

「そう言ってた」

 

最初の通信は事務的だった。

 

「こちらマス商会便。識別符号確認。現在予定通り迂回線へ移行」

 

テアボロの声はいつも通り低い。疲れているのだろうが、外へ出す声は整っている。

 

セイラが時刻を記入する。

 

「離桟後一時間十二分。識別正常」

 

エドワウも横へ書き写した。

 

次の通信は連邦側から入った。

 

抑揚の薄い、読むような声だった。

 

「当該便に対し、保安上の照会を実施する。現位置を維持し、追加確認に応答せよ」

 

管理室の空気が変わる。

 

セイラが無言で新しい欄を開き、エドワウは条件票の端を押さえた。

 

すぐにテアボロの返答が返る。

 

「こちら民間輸送便。照会内容を示せ。現在便は時間窓を失っている。長時間の現位置維持は困難だ」

 

その声は感情的ではなかった。ただ硬かった。

 

連邦側はあくまで事務的だった。

 

「外縁共同開発網関連便につき、貨物識別および寄港履歴の追加確認を行う。応答せよ」

 

セイラが低く言う。

 

「またそれ」

 

エドワウは条件票を見た。

 

「追加照会の文言が曖昧すぎる」

 

「曖昧だから使うのよ」

 

その間にも、通信は続く。

 

テアボロが貨物番号を読み上げ、寄港履歴を答え、照会対象の範囲を問い返す。連邦側は答えず、文言を変えた同じ確認を重ねる。時間だけが過ぎていく。

 

やがて別の通信が割り込んだ。

 

サイド3側の監視艇だった。民間保護名目の小型艇らしい。

 

「当該民間便は正規便である。行き過ぎた停船要求は航路安全を害する」

 

連邦側が即座に返す。

 

「正規確認の範囲である。干渉するな」

 

「便は既に時間窓を失っている。長時間停船は航路圧迫を招く」

 

「保安上の照会が優先される」

 

事務的な言葉だけで、通信席の空気は張り詰めていく。

 

エドワウは思わず身を乗り出した。

 

「こんな押し問答をしてる間に、便が死ぬ」

 

セイラは時刻を書き込みながら言う。

 

「だから残せって言ったのよ、あの人は」

 

その言い方はテアボロの代弁に近かった。悔しいほど正しかった。

 

押し問答は結局、撃ち合いにはならなかった。

 

ならない方が、かえってたちが悪かった。

 

違法物資は出なかった。直接の違反も出なかった。だが解放される頃には、通常線へ戻るための時間窓は完全に失われていた。

 

「解放確認」

 

セイラが時刻を記入する。鉛筆の音がやけに硬い。

 

エドワウはすぐに言った。

 

「今から通常線へ戻せる?」

 

セイラは首を振る。

 

「無理。戻したら次の待機で、今度はもっと後ろへ押し込まれる」

 

そこへ保険会社の回線が入った。

 

「迂回線を継続使用する場合、追加危険負担の確定が必要です。現時点では未承認扱いになります」

 

エドワウは思わず声を荒げた。

 

「今言うことですか、それを」

 

セイラは目も上げない。

 

「静かに」

 

それからマイクへ向かって言った。

 

「補助曳航の応援は」

 

「事前承認がありません。手配中ですが、即時対応はできません」

 

連絡は切れた。

 

エドワウは机へ手をついた。

 

「飛べとは言わない。止まれとも言わない。なのに安全に飛ぶ条件だけは外す」

 

セイラは短く頷いた。

 

「そういうこと」

 

その時、テアボロから直通が入る。

 

セイラが受ける。

 

「こちら管理室」

 

「通常線は戻れん。迂回線へ入る」

 

セイラはすぐに条件表を見た。

 

「今から通常線は無理。迂回線に入るなら、補助曳航は未承認のままよ」

 

「分かってる」

 

エドワウが横から声を上げた。

 

「なら止めるべきです」

 

一拍置いて、テアボロが答える。

 

「止めれば、この便だけじゃ済まん」

 

「でも」

 

「分かってる。分かった上で言ってる」

 

セイラは唇を引いた。

 

「今ならまだ、待機継続で日付を跨ぐ方が安全かもしれない」

 

「日付を跨げば、今度は後ろの便も死ぬ」

 

テアボロの声は静かだった。

 

「出す」

 

その短さに、エドワウはそれ以上言葉を失った。

 

決めたのだ。

 

止めるか出すかを、さんざん考えた末に、もう決めた声だった。

 

通信が切れる。

 

管理室には無線の微かなノイズだけが残る。

 

セイラはしばらく動かなかったが、やがて新しい欄へ時刻を書いた。

 

「迂回線移行、決定」

 

エドワウはその文字を見つめた。

 

止めるべきだ、と思う気持ちは消えない。だが、その一言で全部が救われるほど簡単ではないことも知ってしまっている。

 

そのことが、何よりも腹立たしかった。

 

迂回線へ入ってから、通信の間隔が短くなった。

 

「前方便との距離、縮小中」 「補助推進器応答に遅れ」 「過密帯進入」 「回避指示、再送」

 

断片的な言葉が、セイラの指先をどんどん速くさせる。

 

エドワウは通信記録を追いながら、各時刻の横に条件を写した。停船照会、解放遅延、通常線喪失、補助曳航未承認。後でどこをどう言い逃れられるか、それだけが気になって仕方ない。

 

「兄さん」

 

セイラが珍しく低い声で呼んだ。

 

「何だ」

 

「距離が詰まりすぎてる」

 

画面の光点が重なるほどではない。だが、見て分かる程度には近い。

 

そこへ雑音混じりの声が飛び込んできた。

 

「補助推進器、応答遅れ! もう一度、補助――」

 

別の声が被る。

 

「前方回避、右へ――いや待て、距離が――」

 

金属が擦れるような嫌な音が一瞬だけ通信に乗った。

 

セイラの手が止まる。

 

エドワウは反射的にマイクへ身を寄せた。

 

「こちら管理室、応答して下さい!」

 

すぐには返らない。

 

数秒後、猛烈な雑音の中からテアボロの声が割り込んだ。

 

「貨物区画、固定材を捨てろ! 人員を先に出せ! 補助電源を落とせ、早く!」

 

その声は大きくはない。だが、命令の順序がはっきりしている。まだ現場を握っている声だ。

 

別の声が叫ぶ。

 

「二番隔壁、損傷! 火が――」

 

「消火じゃない、切り離せ!」

 

テアボロの声が重なる。

 

エドワウは喉が詰まるのも構わず叫んだ。

 

「退避して下さい! まだ間に合います!」

 

返ってきたのは短い声だった。

 

「持ち場を離れるな、エドワウ」

 

それが自分に向けられた最後の言葉だと、その時はまだ分からなかった。

 

セイラは震える手でマイクを押さえた。

 

「お父さん、通信を切らないで。記録を切らないで下さい」

 

「セイラ」

 

テアボロの声は一瞬だけ近く聞こえた。

 

「時刻を残せ。全部だ」

 

そこへ別の指示が割り込む。

 

「離脱艇、右舷から――」 「補助推進器、もう持ちません!」 「貨物区画、二次破断――」

 

次の瞬間、通信は真っ白な雑音に呑まれた。

 

管理室の中で、誰もすぐには動けなかった。

 

エドワウはマイクを握ったまま固まり、セイラは端末画面に映る波形が崩れるのを見ている。窓の外ではテキサス港は何も変わらず動いているのに、ここだけ時間が切り離されたようだった。

 

「……通信断」

 

セイラが自分に言い聞かせるように呟き、時刻を書き込んだ。

 

その声でエドワウはようやく息を吸った。

 

「救難を」

 

「もう出てる」

 

セイラの声は震えていたが、手は止まらない。

 

「切れた時刻、直前指示、損傷報告……全部残す」

 

「でも」

 

「兄さん」

 

セイラが顔を上げる。

 

目が赤くなっていた。だが泣いてはいない。

 

「……駄目。今切ったら駄目」

 

エドワウは言葉を失った。

 

自分も分かっていた。分かっていたのに、現場のことしか頭に浮かばなかった。今ここで残すことが、あの人が最後に二人へ命じたことなのだと、セイラはもう理解している。

 

救難艇からの通信が入り始める。

 

生存者数、損傷部位、貨物区画の破断、脱出艇の回収状況。

 

一つ一つが情報で、一つ一つがまだ結論ではない。だから余計に残酷だった。

 

「乗員三名回収」 「二番区画未確認」 「責任者所在不明」 「船体中央部に二次爆発痕」

 

エドワウは机の端を握り締めた。

 

所在不明、という言葉が嫌だった。死んだと言われるよりも嫌だった。まだ期待を残してしまうからだ。

 

時間だけが過ぎていく。

 

救難側から回収者の氏名照合が来る。生存者の列が一つずつ埋まる。そのたびに、そこにない名が重くなる。

 

「乗員照合、更新」 「責任者、なお未確認」 「区画内残留者の再確認へ移行」

 

セイラは画面を見続けたまま、紙へ時刻を書き足した。エドワウは条件票の最後の欄を押さえていた。指先の感覚がもうよく分からない。

 

さらにしばらくして、救難側から新しい一覧が届いた。

 

今度は未確認者一覧ではない。確認済みの死者欄が新たに追加されていた。

 

セイラがそれを受け取り、画面を見たまま固まる。

 

「セイラ」

 

返事がない。

 

エドワウが横へ回り込むと、一覧の下に確認済み死者の欄があった。

 

最後の行に、テアボロ・マスとあった。

 

文字はただの文字だった。整ったフォントで、他の名前と同じ大きさで並んでいる。なのに、それを見た瞬間、胸の奥で何かが落ちる音がした。

 

死んだのだ、とその時になって初めて理解する。

 

爆発でもなく、雑音でもなく、叫びでもなく、この四角い文字列がそれを現実にした。

 

セイラは画面から手を離さなかった。

 

震えている。だが閉じない。閉じたら終わるとでも思っているように、そのまま押さえている。

 

エドワウは声を出せなかった。

 

泣くことも、怒鳴ることもできなかった。ただ画面の名を見て、それが本当にそこにあるのを認めるしかない。

 

外では港の警告灯が短く瞬き、次の便の準備音が遠く続いている。

 

誰かが死んでも、現場は止まらない。

 

だからこそ、この便は誰にも止めさせてもらえなかったのだと、エドワウはその時になって理解した。

 

だが、その理解は何の慰めにもならなかった。

 

セイラがやっと口を開いた。

 

「兄さん」

 

その声だけで、彼女がまだ持ちこたえているのが分かった。

 

「記録、閉じないで」

 

エドワウは頷いた。

 

手が震えて、紙の端をうまく掴めない。それでも条件票と通信記録を揃え、時刻欄の最後へ線を引く。

 

通信断。 死亡確認。

 

その二行の間に、政治と制度と遅延と押し問答と、そして一人の男の最後が全部押し込まれていた。

 

夜明け前に出た便は、もう戻らない。

 

だが、その便がなぜ戻らなかったのかを残す仕事だけは、まだ終わっていなかった。

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