妹に撃たれない方法   作:Brooks

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第85話 法の名の下に

 

ズムシティの夜は、街路の灯が整いすぎている。

 

遠くから見れば、秩序そのものが都市になったように見える。だが、その秩序を支えているのは光ではない。紙だ。命令書、照会書、報告書、決裁書。どれほど美しい街路を敷いても、その下を流れる紙の流れが淀めば、国家はたちまち腐る。

 

ベルナルド・ギリアムは、その紙の流れを人よりよく知っていた。

 

報道統制室の長机には、今夜も何種類もの新聞が並べられている。サイド3系の露骨な煽り紙など、見るまでもない。問題はその隣だった。これまで中央政府寄りと見られてきたコロニー紙が、今どんな見出しを打っているか。それこそが、今夜もっとも価値のある数字だった。

 

ギレンが入ってきた時、ギリアムは立ち上がらなかった。必要がないからだ。二人の間では、礼より先に紙が動く。

 

「今夜の分です」

 

ギリアムが一番上の紙を差し出す。

 

ギレンは黙って受け取った。

 

大見出しが目に入る。

 

安全保障は免罪符ではない

 

サイド2・ハッテ日報だった。中央に媚びることはあっても、あからさまにサイド3へ寄ったことのない紙だ。ギレンは本文まで目を通す。

 

外縁共同開発網に対する監査強化そのものを、我々は直ちに否定しない。近年のサイド3の急速な工業化と軍事色の増大は、警戒を要する現象である。 だが、警戒と濫用は同義ではない。 保険照会の連鎖、貨物留め置きの常態化、臨検命令の拡大解釈が、民間物流の逼迫と死傷事故にまでつながったのであれば、それはもはや安全保障ではなく行政の暴走である。

 

ギレンは紙を閉じ、次を取った。

 

保険は盾か、絞首索か

 

サイド5・テキサス経済新聞。

 

学生交流か、観察対象化か

 

サイド1・コロニー公論。

 

一民間船の事故では終わらない 議会は証言を聞け

 

サイド2・フロンティア通信。

 

最後に、サイド3・ズム市民新聞があった。

 

連邦はついに民間を兵糧攻めに使った

 

その紙だけは、初めからこう書くだろうと分かる。重要なのはそこではない。重要なのは、これまで連邦の制度と手続きを信じる側に立っていた紙が、同じ語彙で中央を疑い始めたことだった。

 

「論調が変わりました」

 

ギリアムが言った。

 

「どこがだ」

 

ギレンは訊いた。

 

ギリアムは、まるで待っていたかのように答える。

 

「親連邦と見られていた紙ほどです。サイド3系は最初から怒っております。効いているのは、法と保険と教育を信じていた側の怒りです」

 

ギレンは短く息を吐いた。

 

「よろしい」

 

その一言には、満足も喜びもなかった。確認だけがあった。

 

部屋の隅で、セシリアが新しい封筒を仕分けている。顔色ひとつ変えずに手を動かしていたが、机の上に並ぶ新聞の見出しへ、ほんの一瞬だけ視線が行った。

 

「第一段階は通りました」

 

ギリアムが言葉を継いだ。

 

「事故前後の臨検命令、保険停止、再保険照会、航路変更。時系列だけで、外から見える輪郭は十分です」

 

「第二段階は」

 

「士官学校と技術学校への接触工作。港湾事務員、保険実務者、生き残った船員の証言。こちらも明日には各紙へ渡ります」

 

セシリアが、そこで初めて口を開いた。

 

「第三段階は、議会の動きを見てからですか」

 

ギレンは机に新聞を置いた。

 

「まだだ」

 

ギリアムが頷く。

 

「録音と献金の流れは、切る場所を間違えるとただの政治合戦に見えます」

 

ギレンはセイラが残した通信記録の複写を思い出していた。時刻。照会番号。未承認のまま残された補助曳航。切れた通信。誰もが事故と呼ぶものを、事故に至るまでの制度の流れとして組み替えたのは、あの兄妹が握りしめた記録だった。

 

テアボロ・マスは死んだ。

 

だが、その死を悲劇で終わらせるか、証拠に変えるかは別の話だった。

 

「鏡を見せるだけでは足りん」

 

ギレンは言った。

 

「連邦には、自分の顔へ自分で吐かせろ」

 

その声音に、セシリアの手がほんのわずかに止まった。キシリアなら、そこで面白そうに笑ったかもしれない。ギリアムはただ静かに頷いた。

 

「議会を呼びますか」

 

「呼ぶ必要はない。向こうで勝手に集まる」

 

ギレンはそう言って椅子へ深く腰を下ろした。

 

「紙が変われば、議員は必ず動く。連邦の連中は、民意より先に見出しへ反応する」

 

地球の議事堂は、コロニーから見ればどこか重かった。

 

重力のせいではない。石と木と赤い絨毯で築かれた古い権威が、会議の空気そのものを遅くする。誰かが一言発するたび、その言葉は壁と天井に吸われ、重みをつけて返ってくる。

 

その日は、その重みが逆に議場を苛立たせていた。

 

「諸君、発言は簡潔に」

 

議長の槌が鳴る。

 

だが簡潔で済む空気ではなかった。

 

問題になっているのは、外縁共同開発網に対する監査強化と、民間輸送便事故の因果関係だった。名目は行政監査だ。安全保障上の確認だ。条文だけ見れば、正しい顔をしている。だからこそ質が悪い。

 

追及に立ったのは、これまでジオン寄りと見なされたことのない中道系議員だった。年配の男で、地球出身らしい落ち着きがあり、声も抑え気味だ。だが抑えているぶんだけ、議場の耳を引いた。

 

「私はサイド3の軍事的伸張そのものをここで擁護するつもりはありません」

 

その一言に、与党席の一部が安堵したようにざわついた。だが男はそのまま続けた。

 

「問題にしているのは、連邦が法の顔をして、法の外へ手を伸ばした疑いです」

 

ざわめきの質が変わる。

 

「監査命令の発出範囲は、どこまで法の想定内だったのか。再保険停止と危険負担未確定措置は、いつから、誰の判断で行われたのか。士官学校周辺および技術教育機関への接触は、本当に交流事業の範囲に収まっていたのか」

 

答弁席に立つ高官は、いかにも整えられた声で返した。

 

「いずれも正当な安全保障措置であり、必要な確認の範囲を逸脱したものではありません」

 

「必要な確認、ですか」

 

中道議員は一枚の紙を掲げた。

 

「では、これは何です」

 

後方の補助議員が起動した投影板に、複写が映る。監査命令の発出日時、再保険照会の集中時刻、臨検命令の延長指示。一本一本は合法に見える。だが並べると、誰の目にも異様だった。

 

「一民間便が事故に至るまでに、ここまでの指示が短期間に重なっている。説明を願いたい」

 

与党席がざわつく。答弁高官は答えを選んでいる顔だった。

 

「必要な監査が、結果として重なったに過ぎません」

 

その時、別の議員が立った。若い女議員だった。サイド1選出、元教育行政畑。これまでは連邦の教育交流策を積極的に支持してきた人物だと、議場の誰もが知っている。

 

「では、こちらはどうでしょう」

 

彼女の机から、別の記録が投影される。

 

研究見学、奨学支援、短期研修。 その名目で士官学校生徒や技術候補生へ接触した記録だった。

 

「交流そのものを否定する気はありません」

 

彼女は言った。

 

「ですが、相手の学業や研究に興味を示した記録より、相手の政治的反応やザビ家への感情を探るような質問の方が多い。これは教育交流ですか、それとも観察ですか」

 

議場の空気がさらにざらつく。

 

答弁席の男が口を開きかけたところで、反対側の列から別の声が飛ぶ。

 

「議長、証拠音声の再生を求めます」

 

議場が一気に騒然となった。

 

議長が槌を打ち、再び打ち、ようやく半分ほど静まる。許可が出る。音声は短かった。

 

ざらついた録音だ。 だが声ははっきりしていた。

 

「ただ見ているだけでは成果にならない」 「危険は大きく見せろ」 「民間便を少し止めれば反応が出る」 「学生は答えより迷い方を見ろ」

 

数秒しかない記録だった。

 

それだけで十分だった。

 

議場のざわめきは、さっきまでの政治的な騒音ではなくなった。誰もが、自分の足元にあるものが泥だと気づいた時のざわめきだった。

 

「これは現場の独走であります」

 

答弁高官は、やや早口で言った。

 

「全体方針として許可されたものではありません」

 

「独走」

 

中道議員が低く復唱する。

 

「なら、その独走を許した線はどこです」

 

そこへ、野党でも与党でもない自治派の老議員が立った。

 

「安全保障を理由に予算をつける。それ自体は理解する。だが、その予算で保険を捻じ曲げ、監査を政治利用し、民間物流へ実質的な圧迫をかけていたのなら、もう国家防衛ではない」

 

言葉の終わりで、誰かが机を叩いた。賛意なのか、苛立ちなのか分からない。分からないほど、もう議場は割れていた。

 

控室でレビルは無言だった。

 

大きな窓の向こう、地球の夕景が鈍く光っている。議場の喧騒は壁越しにここまで伝わってきたが、その音も、今の彼には遠い。

 

ゴップが書類束を机へ投げた。

 

「見ろ」

 

その声には珍しく、あからさまな怒気が混じっていた。

 

レビルは紙へ目を落とす。監査発出記録、保険会社との面談記録、予算委員会への非公開説明、情報局の便宜供与線。どれも一つ一つなら、単独で即座に違法とは言い切れない。だからこそ積み上がると、腐臭になった。

 

「警戒自体は必要だった」

 

レビルはようやく言った。

 

言った瞬間、自分でもそれがどれほど空しい言葉か分かった。

 

ゴップが切る。

 

「必要だったことと、好き放題やっていいことは違う」

 

ドアが開き、ジャミトフが入ってくる。四十にかかる男の落ち着きは崩れていない。だが、平常通りの顔を作る努力そのものが見えた。

 

「現場の暴走です」

 

彼は言った。

 

「上は、サイド3周辺の観察と制度調査を許可したに過ぎない」

 

ゴップは振り返りもせずに問う。

 

「その現場を、誰が走らせた」

 

一瞬だけ、部屋の空気が止まった。

 

ジャミトフは視線を逸らさない。逸らせば負ける場面だと知っているからだ。

 

「成果を焦った末端の逸脱です」

 

「便利な言葉だな」

 

ゴップは机へ手をついた。

 

「末端、現場、独走。上の連中はいつもそれで逃げる」

 

レビルは二人の間に立つように言った。

 

「ジャミトフ。私はサイド3への警戒を求めた。だが、こういう運用まで望んだ覚えはない」

 

ジャミトフはそこで初めて、ほんのわずかに息を吐いた。

 

「承知しております。だからこそ、ここから先は切り分けが必要です」

 

「切り分け」

 

ゴップが低く笑った。

 

「切るのは尻尾だけで済むと思うなよ」

 

ジャミトフは答えなかった。

 

答えなくても、この部屋の全員が分かっていた。もうこれは、ジオン問題だけではない。議会の顔色も、新聞の見出しも、次の選挙も、全部へ飛び火する。

 

レビルは窓の外を見る。

 

危機感自体は誤っていなかった。だが、正しい危機感が正しい運用を伴うとは限らない。その当たり前の事実を、議会は今さら思い出そうとしている。

 

そしてその思い出し方は、いつも決まって遅すぎた。

 

ギリアムの机の上には、さらに新しい紙が増えていた。

 

「親連邦紙まで論調が変わりました」

 

彼は言う。

 

ギレンは応えない。代わりに新聞を一枚取り上げる。

 

サイド5・テキサス経済新聞 保険は盾か、絞首索か

 

本紙はこれまで、外縁物流に対する厳格な与信管理を支持してきた。 しかし、今回明らかになった再保険停止、危険負担未確定の長期化、寄港優先順位の実質操作は、リスク管理の範囲を逸脱している。 民間便に対し、「飛べとも言わず、止まれとも言わず、ただ安全に飛ぶ条件だけを外す」行政運用が存在したとすれば、それは市場秩序の維持ではない。

 

ギレンは紙を静かに戻した。

 

次の紙はサイド1のものだった。

 

学生交流か、観察対象化か

 

若者の将来を支援するのと、若者を探針として扱うのは、似て非なるものだ。 これが事実なら、連邦はサイド3を危険視したのではない。若者そのものを試験紙にしたのである。

 

キシリアが後ろから覗き込み、口元を持ち上げた。

 

「ようやく連邦が、ジオンの言い分ではなく自分たちの鏡を見る番になったわね」

 

「まだだ」

 

ギレンは言った。

 

「鏡を見て、自分の顔に吐くところまで行って初めて効く」

 

ギリアムが次の資料を差し出す。

 

「献金の流れです」

 

保険会社役員の寄付、監査拡大に伴って利益を得た運送代替業者、情報局関係予算の増額、そしてその先にぶら下がる議員事務所。

 

中央の与党系有力議員の名が、いくつも薄く、だが消えない程度に繋がっていた。

 

「大きな陰謀ではありません」

 

ギリアムが言った。

 

「ただ、危機感にいつもの利権がぶら下がった。だからこそ腐っております」

 

「その方が効く」

 

ギレンは答えた。

 

「巨大な陰謀は否定できる。だが小さな腐敗の連なりは、誰も清潔な顔で否定できん」

 

セシリアが机脇でメモを閉じた。

 

「次は選挙ですか」

 

「次は、向こうが勝手に選挙へ持ち込む」

 

ギレンは窓の外を見る。

 

「我々は押さない。ただ、倒れる方向に床を傾けてやればいい」

 

選挙戦は、怒声からではなく疲労から始まった。

 

サイド5の一角。これまで中央寄りと見られ、物流と金融の安定を重んじる有権者が多かった選挙区である。だからこそ、監査と保険の問題は深く刺さった。

 

候補者は、サイド3の代弁者を名乗らなかった。

 

それでは勝てないと知っているからだ。

 

彼は演壇の上で言った。

 

「私はジオンの代弁者ではありません」

 

聴衆は静かだった。

 

「だが、連邦中央がコロニーの暮らしを法の名で踏みにじることに、もう賛成はできない」

 

そこでざわめきが走る。

 

「必要なのは、中央の恐怖に従うことではありません。我々の港、我々の学校、我々の物流を、我々自身の代表が守ることです」

 

拍手が起きた。

 

派手な熱狂ではない。だが、これまでなら起きなかった種類の拍手だった。

 

物流区画から来た男たちが腕を組んだまま頷き、若い技術候補生たちが目を上げ、商人たちが互いの顔を見ていた。彼らはジオン支持者ではない。だが、中央を今まで通り信じる理由も失っていた。

 

「コロニー自治権の明確化」 「監査権限の制限」 「教育交流への政治介入反対」 「保険・再保険の恣意的運用に対する議会監督」

 

掲げる公約は、どれも親ジオンというより、反中央監査濫用に見える。

 

だから強かった。

 

相手候補は「それでもサイド3は危険だ」と訴えた。間違ってはいない。だがそれだけでは足りなかった。危険だからといって、中央が何をしても良いわけではない。そう考える有権者が、思っていた以上に増えていた。

 

ある工員が投票所の列で仲間へ言う。

 

「ジオンが好きなわけじゃねえ」

 

仲間が鼻を鳴らす。

 

「俺もだ」

 

「でも中央の連中に、また『必要な確認です』って顔されるのはごめんだ」

 

その会話は、どこの新聞にも載らない。

 

だが、選挙の本体はそういう会話に宿る。

 

開票所の時計は、夜が深くなるほど音を大きくした。

 

ズムシティではギリアムが速報線に張りつき、キシリアは別室から議会筋の反応を拾わせている。ドズルはこういう時だけ落ち着きがなく、部屋を何度も歩いた。

 

「まだか」

 

「まだです」

 

セシリアが答える。

 

「第一次集計では与党系候補が僅差で先行」

 

ドズルが舌打ちする。

 

「そいつは嫌な出だな」

 

ギレンは何も言わなかった。

 

それから二十分後、次の紙が入る。

 

「物流区画票、反中央候補が逆転」 「学生居住区、同候補優勢」 「工業区画、予想以上の上積み」

 

キシリアが口元を持ち上げる。

 

「崩れ始めたわね」

 

ドズルが笑う。

 

「来たか」

 

ギリアムは紙を追いながら言う。

 

「親連邦と見られていた選挙区です。ここが落ちるなら、議会の空気が変わります」

 

最後の確定票が届いた時、部屋は不思議なほど静かだった。

 

ギリアムが立ち上がり、紙を読み上げる。

 

「当選、自治派統一候補」

 

その名が部屋に落ちる。

 

「親連邦選挙区です」

 

ドズルが先に笑った。

 

「兄貴、やったな」

 

ギレンは机の上の紙を見たまま答えた。

 

「私がやったのではない」

 

キシリアが横から訊く。

 

「では誰が?」

 

ギレンはようやく顔を上げた。

 

「連邦が、自分で自分の支持を削った」

 

その冷たさに、ドズルは笑いを少しだけ引っ込めた。

 

勝利宣言をするような顔ではない。連邦の失点を、ただ一つの結果として受け取る顔だった。

 

ギリアムが最後に、新聞各紙の速報見出しを並べた。

 

中央与党候補、敗北 物流監査問題、選挙結果に直結 コロニー自治派躍進 親連邦選挙区で反中央候補当選

 

その一番下に、まだ刷り上がる前の見出し案があった。

 

連邦は、誰のための法か

 

ギレンはそれを一瞥し、紙を閉じた。

 

テアボロ・マスの死から始まったものは、ただの事故追及では終わらなかった。

 

法の名で圧迫し、制度の名で絞り、監査の名で触れた。その一つ一つが議会を揺るがし、汚職をあぶり出し、ついには親連邦の地盤そのものを割った。

 

一人の商人の死が、議場へ届くまでには時間がかかる。

 

だが届いた後は、時に艦砲より深く制度を穿つ。

 

ギレンは椅子の背へ静かに身を預けた。

 

連邦はまだ倒れない。

 

だが、もう以前の連邦でもない。

 

その事実だけで、今夜は十分だった。

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