妹に撃たれない方法   作:Brooks

87 / 226
第87話 保護の名で

 

ズムシティの小会議室は、もともと長居をするための部屋ではなかった。

 

壁は薄く、机は必要最低限、椅子も背を預けて考え込むには向いていない。短い報告と即断のための部屋である。だからこそ、そこで言葉が長引く時は、たいてい内容が悪い。

 

セシリアが扉を閉めた時、室内には紙の擦れる音すらなかった。

 

ギレンは机の奥に座り、肘をつかずに報告書の束を前へ置いている。キシリアはその右手側、斜めに腰を掛けていた。背筋は伸びているが、体のどこにも無駄な力がない。逆に、力を抜きすぎていることが、いまの彼女の機嫌の悪さを示していた。

 

ドズルだけが隠さない。椅子に座っていてもなお大きく、腕を組んだまま机の向こうに重さをかけている。

 

フラナガンは、その三人の前に一人で座っていた。

 

白衣ではない。軍に近い施設へ呼ばれる時のために用意したのだろう、地味な色の上着を着ている。だが、服装を変えたところで、目つきまでは変わらない。細い指を重ね、どこか穏やかな顔で座っているその姿は、病理標本について静かに語る医師のようにも見えた。

 

キシリアが先に口を開いた。

 

「説明して」

 

声は高くない。だが、相手へ逃げ道を与えない言い方だった。

 

フラナガンは小さく頷いた。

 

「本日の士官学校における測定で、想定以上に有意な反応が――」

 

「そこから始めるの」

 

キシリアが遮る。

 

「ずいぶん都合がいいわね」

 

フラナガンはまばたきを一つした。

 

「事実関係を順に申し上げた方が――」

 

「順に?」

 

キシリアは机の上の報告書へ指先を置いた。

 

「あなた、自分が何をしたか分かっているの」

 

「測定です」

 

「勝手な測定よ」

 

その一言で、部屋の空気がさらに冷えた。

 

「士官候補生に通告もなく機器を組み込み、訓練の裏で反応を抜いた」

 

「しかも、その結果を見た途端に機関へ持ち込もうとした」

 

「随分と話が早いじゃない」

 

ドズルがそこで低く唸った。

 

「士官候補生を何だと思ってやがる」

 

フラナガンは、ドズルの声量にも身じろぎしなかった。

 

「貴重な反応体です」

 

「反応体だと?」

 

ドズルの片眉が上がる。

 

「お前の棚に並べる品物じゃねえぞ」

 

フラナガンは、その言い回し自体は否定しなかった。ただ、その価値判断が当然だと言わんばかりに続けた。

 

「価値があるからこそ、散逸する前に囲うべきです」

 

キシリアの口元がわずかに動く。

 

笑ったのではない。怒りがあまりに深い時にだけ出る、乾いた動きだった。

 

「価値があるから囲う?」

 

彼女は言葉を一つずつ置くように言った。

 

「それを私の前で言うの?」

 

フラナガンは答えなかった。

 

答えないのは押されたからではない。この場で何を言えば火に油になるか、さすがに分かっているのだ。

 

ギレンがそこでようやく口を開いた。

 

「士官学校からの持ち帰りは認めん」

 

静かな声だった。

 

だが、その一言だけで話の骨は決まる。

 

フラナガンがギレンへ視線を向ける。

 

「では候補は散ります」

 

「士官学校で拾った程度のものなら、散ればそれまでだ」

 

ギレンの表情は変わらない。

 

その言い方に、フラナガンだけが少しだけ目を細めた。価値を否定しているのではない。揺さぶっている。そう分かったからだ。

 

「……本心ではない」

 

「お前に本心を見せる必要はない」

 

ギレンは答えた。

 

「重要なのは、士官学校をお前の棚に変える気はないということだ」

 

短い沈黙が落ちた。

 

その沈黙を破ったのは、フラナガンだった。

 

「では、候補生は結構です」

 

ドズルが目を細める。キシリアは一歩も退かないまま、その先を待った。

 

「その代わり、別の母集団をいただけますか」

 

「何ですって」

 

キシリアの声は、前より低くなった。

 

「社会的弱者です」

 

フラナガンは、昼食の献立でも述べるような調子で言った。

 

「家も、教育も、支えもなく、すでに社会の外縁へ押し出されている者たち」

 

「福祉と療養の名目なら、集めることは難しくないでしょう」

 

「福祉を標本箱にするつもり?」

 

キシリアが問う。

 

「標本箱ではありません」

 

「言い換えが早いわね」

 

「選定の前段階です」

 

「捨て置かれるよりは、よほど建設的でしょう」

 

ドズルが椅子をきしませた。

 

「建設的だと?」

 

フラナガンは少しも引かない。

 

「条件を切ればよろしい」

 

ギレンが問う。

 

「条件は」

 

そこでフラナガンは、むしろわずかに明るくなったように見えた。

 

「そうですな。十歳以上の男女」

 

「宇宙適応不全、感覚過敏、睡眠障害、事故後不調、教育遅滞、情緒不安定」

 

「名目はいくらでも立ちます」

 

「その上で、試験の上、高待遇で採用としましょう」

 

その瞬間、部屋の空気が本当に止まった。

 

ドズルが最初に言葉を取り戻す。

 

「子供まで入れる気か」

 

「早い段階の方が反応は素直です」

 

「採用ですって?」

 

キシリアの声はもう冷たいを通り越していた。

 

フラナガンは平然と答える。

 

「ええ」

 

「保護だけでは集まりが悪い」

 

「衣食住の保証、教育、医療、そして適性が認められた者には特別待遇」

 

「これなら福祉政策としても通りがよろしい」

 

キシリアは、それを聞いて一度だけ、ほんのわずかに視線を伏せた。

 

人買いの方がまだ単純だ。

 

だがこれはもっと悪い。

 

助けるべき者を本当に助けながら、その同じ器の底に選別の網を沈める話だからだ。

 

「言い換えが下手ね」

 

キシリアは顔を上げた。

 

「人買いの方がまだ正直よ」

 

ドズルが低く言う。

 

「お前……子供を何だと思ってやがる」

 

フラナガンは少し首を傾げた。

 

「国家資産の卵です」

 

その一言で、ドズルは本気で立ち上がりかけた。

 

椅子が鳴る。セシリアの視線が一瞬だけ動く。だがギレンが片手を上げると、ドズルはぎりぎりのところで踏みとどまった。

 

「兄貴」

 

「座れ」

 

たった二文字だった。

 

それでドズルは、怒りを喉の奥へ押し戻して座り直す。殴れば簡単だ。だが、それではここで決めるべき線が決まらなくなる。

 

キシリアは、そのやり取りを横目で見ながらギレンへ向き直った。

 

「これを本気で聞くつもり?」

 

「最後まで聞く」

 

ギレンは答えた。

 

「聞いた上で、主語を取り上げる」

 

フラナガンの目がわずかに動く。

 

「主語、ですか」

 

「機関のための福祉ではない」

 

ギレンは言った。

 

「福祉の結果として、機関が記録を得る形にする」

 

ドズルが横から不満を漏らす。

 

「兄貴」

 

「黙って聞け」

 

ギレンは弟を見なかった。

 

「こぼれ落ちる者は、今のサイド3に現実にいる」

 

「連邦の締め付けと急速な工業化で、その数は増えている」

 

「放置すれば、福祉は崩れる」

 

「そして放置された場所へ、こいつは勝手に手を入れる」

 

キシリアが続ける。

 

「だから先に器だけは国家が作る」

 

ギレンが頷いた。

 

「集めるのは福祉局、医療局、教育局」

 

「機関が直接募るのは認めない」

 

「機関が見てよいのは、上の許可が下りた者だけだ」

 

キシリアはすぐに条件を重ねる。

 

「家格を持つ者、軍籍を持つ者、士官学校在籍者は別管理」

 

「保護と療養が第一、機関利用は第二」

 

「順番を逆にしたら、その時点で潰すわよ」

 

フラナガンは、そこで初めて少しだけ目を伏せた。

 

「承知しております」

 

その承知が、従順さから出たものではないと、この部屋の三人は誰もが理解していた。

 

だからこそ、キシリアは畳みかけるように、別の質問を投げた。

 

「それと」

 

フラナガンが顔を上げる。

 

「サイコミュの開発はどうなっているの」

 

ドズルが眉を動かした。

 

ギレンは表情を変えない。フラナガンだけが、その問いを待っていたとでもいうように声を整えた。

 

「基礎反応の増幅と伝達試験までは進んでおります」

 

「ただし、安定性に欠ける」

 

「個体差が大きく、誰にでも使える段階ではありません」

 

室内が少し静かになる。

 

その静けさの中で、ギレンがはっきりと言った。

 

「完璧なニュータイプのみが使える兵器はいらん」

 

フラナガンの目が細くなる。

 

「前世の戦争では、無線を封じられた状況でも、光の導路で結ばれた無人兵器を飛ばし、攻撃を通していた」

 

キシリアはその意味をすぐに理解する。

 

ドズルは完全には分からないまでも、兄が考えている方向が「超人専用の神秘兵器」ではないことだけは感じ取った。

 

「つまり、思念波だけで飛ばすことに拘るな」

 

ギレンは続ける。

 

「思念は照準の補正、危険の先取り、優先順位の判断に使え」

 

「機体との接続そのものは、有線でも、補助演算でも、別系統でもよい」

 

「飛ばすことだけを考えるな。届かせることを考えろ」

 

キシリアが静かに言う。

 

「選ばれた一握りの玩具ではなく、段階的に軍へ下ろせる系にしろ、ということね」

 

「そうだ」

 

ドズルが腕を組み直す。

 

「要するに、頭で全部飛ばす気になるなってことか」

 

「機械は機械で届かせる」

 

ギレンは弟へ視線を向けた。

 

「人間は人間で、そこに一歩だけ先回りさせる」

 

「それで十分に兵器になる」

 

フラナガンはそこで、はじめて本心から感心したような顔をした。

 

「……面白い」

 

「それなら候補者の裾野も広がりますな」

 

キシリアが即座に切る。

 

「広げすぎるなと言っているのよ、私たちは」

 

それで、おおむね方針は決まった。

 

福祉制度は作る。だが機関のためではない。 サイコミュの研究は続ける。だが神秘兵器の夢想には付き合わない。 器は国家が持ち、フラナガンには鎖をつけたまま使わせる。

 

フラナガンは最後に一礼した。

 

「結構です」

 

「器だけいただければ、あとは時間が仕事をします」

 

キシリアはその言葉へ、ほとんど吐き捨てるように答えた。

 

「それを言うから嫌いなのよ」

 

外縁バンチの居住区画は、昼でも薄暗い。

 

照明が足りないのではない。人が多すぎ、通路が狭すぎ、荷物が多すぎるのだ。工区への行き来、移民の荷、修繕待ちの台車、配給を待つ列。どこを見ても余白がない。

 

そこへ新しい告知が貼り出された。

 

事故遺児保護と再教育

 

宇宙適応障害児の療養受付

 

感覚過敏・睡眠障害の専門相談

 

工区被災者家族の生活支援

 

十歳以上の男女、適性試験の上、高待遇枠あり

 

人々はすぐには近寄らなかった。

 

こういう紙は、たいていろくでもない条件を抱いている。だが腕章をつけた福祉局員は、貸金業者のような顔をしていない。疲れてはいるが、目つきは役人のそれだった。

 

十一歳の少年が母の袖を引く。

 

「母さん」

 

母親は紙を見上げたまま答える。

 

「何」

 

「これ、本当に金取られないのかな」

 

その問いに、母親はすぐ答えられなかった。工区事故で夫を失ってから、何も取らない話の方がむしろ疑わしくなっていたからだ。

 

福祉局員が近づいてくる。

 

「診察と生活状況の確認が先です」

 

「費用はかかりません」

 

母親は相手の顔を見る。若い男だった。疲れているが、嘘をつく時の目には見えない。

 

「本当に、取られないんですか」

 

「取りません」

 

「まずは寝床と診察、それから必要があれば教育の再接続です」

 

少年が訊く。

 

「採用って、何にですか」

 

局員は一拍だけ言葉を選んだ。

 

「適性があれば、教育と訓練の枠があります」

 

「まずは保護です」

 

曖昧な答えだった。

 

だが、曖昧であることを責める余裕は、この親子にはもうあまり残っていない。少年に少しでもましな寝床が与えられるなら、まずは入ってみるしかなかった。

 

怪しいと思った。

 

けれど、怪しいと思う余裕があるのは、まだ食べる物がある人間だけだ、と母親は思った。

 

「診てもらいます」

 

その声は自分でも驚くほど小さかった。

 

保護施設は、見た目だけなら本当に救いの場所だった。

 

白く塗り直された壁。清潔な寝具。温かい食事。簡易教室。診療室。工区の夜より少しだけ柔らかい灯り。

 

泣き止んだ子供がいる。 久しぶりに腹いっぱい食べて、食器を抱えたまま眠りそうになっている者もいる。 学校から外れたまま数か月いた少女が、教室の黒板をじっと見ている。

 

だから、なおさら質が悪い。

 

福祉が偽物なら切ればいい。だがこれは偽物ではない。実際に救われている者がいる。だからこそ、その奥へ差し込まれる別の手を一緒には切れない。

 

診療棟の奥に、適応診断室とだけ記された白い部屋があった。

 

十二歳の少女が椅子に座り、機関員に言われるまま光の点を目で追っている。

 

「怖くないよ」

 

若い女の機関員が優しい声で言う。

 

「少し座って、光を見るだけ」

 

少女は肩をすくめる。

 

「これで学校に戻れますか」

 

「順番にね」

 

その答えは間違っていない。

 

ただ、それが全部でもない。

 

壁の向こうの別室では、測定卓に細い線が何本も走っていた。昼の士官学校ほど強い刺激はかけない。雑音、光、空間の歪み、他者の不安を想定した軽い揺さぶり。それだけで十分だった。

 

「候補G、受容偏差あり」

 

「候補L、危機刺激前反応あり」

 

「候補N、同期値高」

 

フラナガンはその紙を受け取り、短く言う。

 

「名簿へ」

 

彼自身は表へ出ない。顔を見せる必要がないからだ。表に立つのは福祉局員であり、看護師であり、教員だ。機関はその奥で、ただ数字だけを見る。

 

「年齢」

 

「十二」

 

「家庭状況」

 

「父死亡、母療養中、学校離脱」

 

「良い」

 

その「良い」の意味を、若い機関員ももう理解し始めていた。

 

幸せという意味ではない。 拾いやすいという意味だ。

 

数週間後、キシリアの机の上には新しい報告書が積まれていた。

 

昼の執務を終えた後、彼女は一人で目を通した。ギレンもドズルも呼んでいない。呼ぶ必要がないと思ったからだ。ここで必要なのは賛成でも反対でもない。見張りだった。

 

フラナガンは約束どおり、報告の形だけは整えていた。

 

百八十七名。 継続観察値十一名。 顕著な反応三名。

 

年齢、症状、生活状況、反応分類。

 

危機察知型候補。 受容・同期型候補。 高応答型候補。

 

紙の上にはまだ人の顔より先に、欄と数字が並んでいる。

 

キシリアは最後の一枚まで目を通してから、報告書を閉じた。

 

通されたフラナガンは、相変わらず静かな顔で座った。

 

「士官学校より、むしろこちらの方が面白い」

 

その一言で、キシリアは目を上げた。

 

「面白い」

 

言葉をそのまま返す。

 

フラナガンは答える。

 

「教育で均される前の反応が見られます」

 

「まだ自分の癖として固まっていない。だから生の偏差が取れる」

 

キシリアは机の上で指を組んだ。

 

「あなた、本当に人の不幸が好きなのね」

 

「不幸ではありません」

 

「未分類の資質です」

 

「それを言い換えと呼ぶのよ」

 

フラナガンは少しだけ肩をすくめた。

 

「制度としては、よく機能しています」

 

「ええ」

 

キシリアはあっさり認めた。

 

それが逆に、フラナガンをわずかに警戒させたらしい。男は一拍だけ黙った。

 

「寝床も、食事も、医療も、本物なのでしょう」

 

「その通りです」

 

「なら、制度は続けるわ」

 

キシリアは言った。

 

「ただし、機関の裁量拡大は認めない」

 

「療養優先者は療養へ回す」

 

「教育優先者は教育へ回す」

 

「あなたが見てよいのは、その後で上の許可が下りた者だけ」

 

フラナガンは頷いた。

 

「承知しております」

 

その承知が、本心からではないことくらい、キシリアには分かっていた。 だが今必要なのは服従ではない。鎖が掛かっている状態の維持だった。

 

「あなたに与えたのは施設ではないわ」

 

キシリアは報告書を机へ置いた。

 

「鎖付きの入口よ」

 

「忘れたら?」

 

フラナガンは訊かない。訊かなくても分かるからだ。

 

「その時は、今度こそ機関ごと切る」

 

フラナガンは一礼して退いた。

 

扉が閉まると、部屋は急に静かになった。

 

危機察知型。 受容型。 高応答型。 同期型。

 

キシリアはもう一度その欄を見る。

 

あの男は最初からそうだ。人間を人間として見る前に、棚へ置くための欄を作る。前の人生でも変わらなかったし、今も変わらない。

 

だからこそ、切れないのが腹立たしかった。

 

その日の夜、キシリアは供を最小限にして外縁の保護施設を見に行った。

 

視察だと触れ回れば、通路は磨かれ、子供の服は替えられ、皿の上の食事は余計に一品増える。そういう飾りはいらなかった。彼女が見たいのは、整えられた表ではなく、平時のままの底だった。

 

施設の中は、思っていたより静かだった。

 

泣き声はある。咳もある。だが工区の雑踏とは違う。清潔な寝具が並び、食堂の鍋にはまだ湯気が残り、診療室の灯りは遅くまで落ちていなかった。

 

救われている者がいる。

 

それは認めざるを得なかった。

 

親を失った子が眠っている。 工区事故以来、夜ごと叫んでいた少年が、今夜は浅くても眠りに落ちている。 学校から外れたままだった少女が、簡易教室の端で読み書きの復習をしていた。

 

嘘ではない。

 

だからこそ、ひどかった。

 

廊下の先で足を止める。

 

適応診断室の扉は閉じている。中は見えない。だが向こう側から、人の声だけは聞こえる。

 

「この子は療養優先です」

 

「では区分を変えます」

 

「新規候補三名、継続観察へ」

 

やわらかい声だった。 看護師とも、教師ともつかない声で、人を寝かせ、人を測り、人を分けている。

 

キシリアはその場に立ったまま、扉の向こうを見ない。

 

見なくても分かるからだ。

 

保護は本物だ。 選別も本物だ。

 

そして一度同じ器へ入ったものは、もうきれいには分けられない。

 

若い福祉局職員がこちらへ気づいて、慌てて頭を下げた。キシリアは何も言わなかった。

 

怒鳴ることはできる。 今すぐ止めることもできる。 だがそれをすれば、この寝床も、この食事も、この灯りも一緒に消える。

 

その事実が、ひどく不快だった。

 

保護施設の灯りは、工区の夜よりずっとやわらかかった。

 

泣き止んだ子が眠り、初めて温かい食事を食べた者もいる。

 

それでも廊下の先では、白い紙の上に新しい分類欄が増えていく。

 

救われる者と、選ばれる者が、同じ扉を通っていた。

 

キシリアはその扉をしばらく見つめ、やがて踵を返した。

 

今はまだ、閉じない。

 

閉じれば困る者がいる。 開けたままにすれば、あの男が根を張る。

 

そのどちらも気に入らなかった。

 

だからせめて、自分の目の届く場所に置くしかない。

 

そう思いながら歩くキシリアの靴音だけが、静かな廊下へ長く残った。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。