ズムシティの小会議室は、もともと長居をするための部屋ではなかった。
壁は薄く、机は必要最低限、椅子も背を預けて考え込むには向いていない。短い報告と即断のための部屋である。だからこそ、そこで言葉が長引く時は、たいてい内容が悪い。
セシリアが扉を閉めた時、室内には紙の擦れる音すらなかった。
ギレンは机の奥に座り、肘をつかずに報告書の束を前へ置いている。キシリアはその右手側、斜めに腰を掛けていた。背筋は伸びているが、体のどこにも無駄な力がない。逆に、力を抜きすぎていることが、いまの彼女の機嫌の悪さを示していた。
ドズルだけが隠さない。椅子に座っていてもなお大きく、腕を組んだまま机の向こうに重さをかけている。
フラナガンは、その三人の前に一人で座っていた。
白衣ではない。軍に近い施設へ呼ばれる時のために用意したのだろう、地味な色の上着を着ている。だが、服装を変えたところで、目つきまでは変わらない。細い指を重ね、どこか穏やかな顔で座っているその姿は、病理標本について静かに語る医師のようにも見えた。
キシリアが先に口を開いた。
「説明して」
声は高くない。だが、相手へ逃げ道を与えない言い方だった。
フラナガンは小さく頷いた。
「本日の士官学校における測定で、想定以上に有意な反応が――」
「そこから始めるの」
キシリアが遮る。
「ずいぶん都合がいいわね」
フラナガンはまばたきを一つした。
「事実関係を順に申し上げた方が――」
「順に?」
キシリアは机の上の報告書へ指先を置いた。
「あなた、自分が何をしたか分かっているの」
「測定です」
「勝手な測定よ」
その一言で、部屋の空気がさらに冷えた。
「士官候補生に通告もなく機器を組み込み、訓練の裏で反応を抜いた」
「しかも、その結果を見た途端に機関へ持ち込もうとした」
「随分と話が早いじゃない」
ドズルがそこで低く唸った。
「士官候補生を何だと思ってやがる」
フラナガンは、ドズルの声量にも身じろぎしなかった。
「貴重な反応体です」
「反応体だと?」
ドズルの片眉が上がる。
「お前の棚に並べる品物じゃねえぞ」
フラナガンは、その言い回し自体は否定しなかった。ただ、その価値判断が当然だと言わんばかりに続けた。
「価値があるからこそ、散逸する前に囲うべきです」
キシリアの口元がわずかに動く。
笑ったのではない。怒りがあまりに深い時にだけ出る、乾いた動きだった。
「価値があるから囲う?」
彼女は言葉を一つずつ置くように言った。
「それを私の前で言うの?」
フラナガンは答えなかった。
答えないのは押されたからではない。この場で何を言えば火に油になるか、さすがに分かっているのだ。
ギレンがそこでようやく口を開いた。
「士官学校からの持ち帰りは認めん」
静かな声だった。
だが、その一言だけで話の骨は決まる。
フラナガンがギレンへ視線を向ける。
「では候補は散ります」
「士官学校で拾った程度のものなら、散ればそれまでだ」
ギレンの表情は変わらない。
その言い方に、フラナガンだけが少しだけ目を細めた。価値を否定しているのではない。揺さぶっている。そう分かったからだ。
「……本心ではない」
「お前に本心を見せる必要はない」
ギレンは答えた。
「重要なのは、士官学校をお前の棚に変える気はないということだ」
短い沈黙が落ちた。
その沈黙を破ったのは、フラナガンだった。
「では、候補生は結構です」
ドズルが目を細める。キシリアは一歩も退かないまま、その先を待った。
「その代わり、別の母集団をいただけますか」
「何ですって」
キシリアの声は、前より低くなった。
「社会的弱者です」
フラナガンは、昼食の献立でも述べるような調子で言った。
「家も、教育も、支えもなく、すでに社会の外縁へ押し出されている者たち」
「福祉と療養の名目なら、集めることは難しくないでしょう」
「福祉を標本箱にするつもり?」
キシリアが問う。
「標本箱ではありません」
「言い換えが早いわね」
「選定の前段階です」
「捨て置かれるよりは、よほど建設的でしょう」
ドズルが椅子をきしませた。
「建設的だと?」
フラナガンは少しも引かない。
「条件を切ればよろしい」
ギレンが問う。
「条件は」
そこでフラナガンは、むしろわずかに明るくなったように見えた。
「そうですな。十歳以上の男女」
「宇宙適応不全、感覚過敏、睡眠障害、事故後不調、教育遅滞、情緒不安定」
「名目はいくらでも立ちます」
「その上で、試験の上、高待遇で採用としましょう」
その瞬間、部屋の空気が本当に止まった。
ドズルが最初に言葉を取り戻す。
「子供まで入れる気か」
「早い段階の方が反応は素直です」
「採用ですって?」
キシリアの声はもう冷たいを通り越していた。
フラナガンは平然と答える。
「ええ」
「保護だけでは集まりが悪い」
「衣食住の保証、教育、医療、そして適性が認められた者には特別待遇」
「これなら福祉政策としても通りがよろしい」
キシリアは、それを聞いて一度だけ、ほんのわずかに視線を伏せた。
人買いの方がまだ単純だ。
だがこれはもっと悪い。
助けるべき者を本当に助けながら、その同じ器の底に選別の網を沈める話だからだ。
「言い換えが下手ね」
キシリアは顔を上げた。
「人買いの方がまだ正直よ」
ドズルが低く言う。
「お前……子供を何だと思ってやがる」
フラナガンは少し首を傾げた。
「国家資産の卵です」
その一言で、ドズルは本気で立ち上がりかけた。
椅子が鳴る。セシリアの視線が一瞬だけ動く。だがギレンが片手を上げると、ドズルはぎりぎりのところで踏みとどまった。
「兄貴」
「座れ」
たった二文字だった。
それでドズルは、怒りを喉の奥へ押し戻して座り直す。殴れば簡単だ。だが、それではここで決めるべき線が決まらなくなる。
キシリアは、そのやり取りを横目で見ながらギレンへ向き直った。
「これを本気で聞くつもり?」
「最後まで聞く」
ギレンは答えた。
「聞いた上で、主語を取り上げる」
フラナガンの目がわずかに動く。
「主語、ですか」
「機関のための福祉ではない」
ギレンは言った。
「福祉の結果として、機関が記録を得る形にする」
ドズルが横から不満を漏らす。
「兄貴」
「黙って聞け」
ギレンは弟を見なかった。
「こぼれ落ちる者は、今のサイド3に現実にいる」
「連邦の締め付けと急速な工業化で、その数は増えている」
「放置すれば、福祉は崩れる」
「そして放置された場所へ、こいつは勝手に手を入れる」
キシリアが続ける。
「だから先に器だけは国家が作る」
ギレンが頷いた。
「集めるのは福祉局、医療局、教育局」
「機関が直接募るのは認めない」
「機関が見てよいのは、上の許可が下りた者だけだ」
キシリアはすぐに条件を重ねる。
「家格を持つ者、軍籍を持つ者、士官学校在籍者は別管理」
「保護と療養が第一、機関利用は第二」
「順番を逆にしたら、その時点で潰すわよ」
フラナガンは、そこで初めて少しだけ目を伏せた。
「承知しております」
その承知が、従順さから出たものではないと、この部屋の三人は誰もが理解していた。
だからこそ、キシリアは畳みかけるように、別の質問を投げた。
「それと」
フラナガンが顔を上げる。
「サイコミュの開発はどうなっているの」
ドズルが眉を動かした。
ギレンは表情を変えない。フラナガンだけが、その問いを待っていたとでもいうように声を整えた。
「基礎反応の増幅と伝達試験までは進んでおります」
「ただし、安定性に欠ける」
「個体差が大きく、誰にでも使える段階ではありません」
室内が少し静かになる。
その静けさの中で、ギレンがはっきりと言った。
「完璧なニュータイプのみが使える兵器はいらん」
フラナガンの目が細くなる。
「前世の戦争では、無線を封じられた状況でも、光の導路で結ばれた無人兵器を飛ばし、攻撃を通していた」
キシリアはその意味をすぐに理解する。
ドズルは完全には分からないまでも、兄が考えている方向が「超人専用の神秘兵器」ではないことだけは感じ取った。
「つまり、思念波だけで飛ばすことに拘るな」
ギレンは続ける。
「思念は照準の補正、危険の先取り、優先順位の判断に使え」
「機体との接続そのものは、有線でも、補助演算でも、別系統でもよい」
「飛ばすことだけを考えるな。届かせることを考えろ」
キシリアが静かに言う。
「選ばれた一握りの玩具ではなく、段階的に軍へ下ろせる系にしろ、ということね」
「そうだ」
ドズルが腕を組み直す。
「要するに、頭で全部飛ばす気になるなってことか」
「機械は機械で届かせる」
ギレンは弟へ視線を向けた。
「人間は人間で、そこに一歩だけ先回りさせる」
「それで十分に兵器になる」
フラナガンはそこで、はじめて本心から感心したような顔をした。
「……面白い」
「それなら候補者の裾野も広がりますな」
キシリアが即座に切る。
「広げすぎるなと言っているのよ、私たちは」
それで、おおむね方針は決まった。
福祉制度は作る。だが機関のためではない。 サイコミュの研究は続ける。だが神秘兵器の夢想には付き合わない。 器は国家が持ち、フラナガンには鎖をつけたまま使わせる。
フラナガンは最後に一礼した。
「結構です」
「器だけいただければ、あとは時間が仕事をします」
キシリアはその言葉へ、ほとんど吐き捨てるように答えた。
「それを言うから嫌いなのよ」
外縁バンチの居住区画は、昼でも薄暗い。
照明が足りないのではない。人が多すぎ、通路が狭すぎ、荷物が多すぎるのだ。工区への行き来、移民の荷、修繕待ちの台車、配給を待つ列。どこを見ても余白がない。
そこへ新しい告知が貼り出された。
事故遺児保護と再教育
宇宙適応障害児の療養受付
感覚過敏・睡眠障害の専門相談
工区被災者家族の生活支援
十歳以上の男女、適性試験の上、高待遇枠あり
人々はすぐには近寄らなかった。
こういう紙は、たいていろくでもない条件を抱いている。だが腕章をつけた福祉局員は、貸金業者のような顔をしていない。疲れてはいるが、目つきは役人のそれだった。
十一歳の少年が母の袖を引く。
「母さん」
母親は紙を見上げたまま答える。
「何」
「これ、本当に金取られないのかな」
その問いに、母親はすぐ答えられなかった。工区事故で夫を失ってから、何も取らない話の方がむしろ疑わしくなっていたからだ。
福祉局員が近づいてくる。
「診察と生活状況の確認が先です」
「費用はかかりません」
母親は相手の顔を見る。若い男だった。疲れているが、嘘をつく時の目には見えない。
「本当に、取られないんですか」
「取りません」
「まずは寝床と診察、それから必要があれば教育の再接続です」
少年が訊く。
「採用って、何にですか」
局員は一拍だけ言葉を選んだ。
「適性があれば、教育と訓練の枠があります」
「まずは保護です」
曖昧な答えだった。
だが、曖昧であることを責める余裕は、この親子にはもうあまり残っていない。少年に少しでもましな寝床が与えられるなら、まずは入ってみるしかなかった。
怪しいと思った。
けれど、怪しいと思う余裕があるのは、まだ食べる物がある人間だけだ、と母親は思った。
「診てもらいます」
その声は自分でも驚くほど小さかった。
保護施設は、見た目だけなら本当に救いの場所だった。
白く塗り直された壁。清潔な寝具。温かい食事。簡易教室。診療室。工区の夜より少しだけ柔らかい灯り。
泣き止んだ子供がいる。 久しぶりに腹いっぱい食べて、食器を抱えたまま眠りそうになっている者もいる。 学校から外れたまま数か月いた少女が、教室の黒板をじっと見ている。
だから、なおさら質が悪い。
福祉が偽物なら切ればいい。だがこれは偽物ではない。実際に救われている者がいる。だからこそ、その奥へ差し込まれる別の手を一緒には切れない。
診療棟の奥に、適応診断室とだけ記された白い部屋があった。
十二歳の少女が椅子に座り、機関員に言われるまま光の点を目で追っている。
「怖くないよ」
若い女の機関員が優しい声で言う。
「少し座って、光を見るだけ」
少女は肩をすくめる。
「これで学校に戻れますか」
「順番にね」
その答えは間違っていない。
ただ、それが全部でもない。
壁の向こうの別室では、測定卓に細い線が何本も走っていた。昼の士官学校ほど強い刺激はかけない。雑音、光、空間の歪み、他者の不安を想定した軽い揺さぶり。それだけで十分だった。
「候補G、受容偏差あり」
「候補L、危機刺激前反応あり」
「候補N、同期値高」
フラナガンはその紙を受け取り、短く言う。
「名簿へ」
彼自身は表へ出ない。顔を見せる必要がないからだ。表に立つのは福祉局員であり、看護師であり、教員だ。機関はその奥で、ただ数字だけを見る。
「年齢」
「十二」
「家庭状況」
「父死亡、母療養中、学校離脱」
「良い」
その「良い」の意味を、若い機関員ももう理解し始めていた。
幸せという意味ではない。 拾いやすいという意味だ。
数週間後、キシリアの机の上には新しい報告書が積まれていた。
昼の執務を終えた後、彼女は一人で目を通した。ギレンもドズルも呼んでいない。呼ぶ必要がないと思ったからだ。ここで必要なのは賛成でも反対でもない。見張りだった。
フラナガンは約束どおり、報告の形だけは整えていた。
百八十七名。 継続観察値十一名。 顕著な反応三名。
年齢、症状、生活状況、反応分類。
危機察知型候補。 受容・同期型候補。 高応答型候補。
紙の上にはまだ人の顔より先に、欄と数字が並んでいる。
キシリアは最後の一枚まで目を通してから、報告書を閉じた。
通されたフラナガンは、相変わらず静かな顔で座った。
「士官学校より、むしろこちらの方が面白い」
その一言で、キシリアは目を上げた。
「面白い」
言葉をそのまま返す。
フラナガンは答える。
「教育で均される前の反応が見られます」
「まだ自分の癖として固まっていない。だから生の偏差が取れる」
キシリアは机の上で指を組んだ。
「あなた、本当に人の不幸が好きなのね」
「不幸ではありません」
「未分類の資質です」
「それを言い換えと呼ぶのよ」
フラナガンは少しだけ肩をすくめた。
「制度としては、よく機能しています」
「ええ」
キシリアはあっさり認めた。
それが逆に、フラナガンをわずかに警戒させたらしい。男は一拍だけ黙った。
「寝床も、食事も、医療も、本物なのでしょう」
「その通りです」
「なら、制度は続けるわ」
キシリアは言った。
「ただし、機関の裁量拡大は認めない」
「療養優先者は療養へ回す」
「教育優先者は教育へ回す」
「あなたが見てよいのは、その後で上の許可が下りた者だけ」
フラナガンは頷いた。
「承知しております」
その承知が、本心からではないことくらい、キシリアには分かっていた。 だが今必要なのは服従ではない。鎖が掛かっている状態の維持だった。
「あなたに与えたのは施設ではないわ」
キシリアは報告書を机へ置いた。
「鎖付きの入口よ」
「忘れたら?」
フラナガンは訊かない。訊かなくても分かるからだ。
「その時は、今度こそ機関ごと切る」
フラナガンは一礼して退いた。
扉が閉まると、部屋は急に静かになった。
危機察知型。 受容型。 高応答型。 同期型。
キシリアはもう一度その欄を見る。
あの男は最初からそうだ。人間を人間として見る前に、棚へ置くための欄を作る。前の人生でも変わらなかったし、今も変わらない。
だからこそ、切れないのが腹立たしかった。
その日の夜、キシリアは供を最小限にして外縁の保護施設を見に行った。
視察だと触れ回れば、通路は磨かれ、子供の服は替えられ、皿の上の食事は余計に一品増える。そういう飾りはいらなかった。彼女が見たいのは、整えられた表ではなく、平時のままの底だった。
施設の中は、思っていたより静かだった。
泣き声はある。咳もある。だが工区の雑踏とは違う。清潔な寝具が並び、食堂の鍋にはまだ湯気が残り、診療室の灯りは遅くまで落ちていなかった。
救われている者がいる。
それは認めざるを得なかった。
親を失った子が眠っている。 工区事故以来、夜ごと叫んでいた少年が、今夜は浅くても眠りに落ちている。 学校から外れたままだった少女が、簡易教室の端で読み書きの復習をしていた。
嘘ではない。
だからこそ、ひどかった。
廊下の先で足を止める。
適応診断室の扉は閉じている。中は見えない。だが向こう側から、人の声だけは聞こえる。
「この子は療養優先です」
「では区分を変えます」
「新規候補三名、継続観察へ」
やわらかい声だった。 看護師とも、教師ともつかない声で、人を寝かせ、人を測り、人を分けている。
キシリアはその場に立ったまま、扉の向こうを見ない。
見なくても分かるからだ。
保護は本物だ。 選別も本物だ。
そして一度同じ器へ入ったものは、もうきれいには分けられない。
若い福祉局職員がこちらへ気づいて、慌てて頭を下げた。キシリアは何も言わなかった。
怒鳴ることはできる。 今すぐ止めることもできる。 だがそれをすれば、この寝床も、この食事も、この灯りも一緒に消える。
その事実が、ひどく不快だった。
保護施設の灯りは、工区の夜よりずっとやわらかかった。
泣き止んだ子が眠り、初めて温かい食事を食べた者もいる。
それでも廊下の先では、白い紙の上に新しい分類欄が増えていく。
救われる者と、選ばれる者が、同じ扉を通っていた。
キシリアはその扉をしばらく見つめ、やがて踵を返した。
今はまだ、閉じない。
閉じれば困る者がいる。 開けたままにすれば、あの男が根を張る。
そのどちらも気に入らなかった。
だからせめて、自分の目の届く場所に置くしかない。
そう思いながら歩くキシリアの靴音だけが、静かな廊下へ長く残った。