妹に撃たれない方法   作:Brooks

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第90話 サイド7へ

 

 シャトルの小さな窓いっぱいに、工事灯を散らしたサイド7が見えていた。

 

 近づくほど、それは完成したコロニーというより、まだ骨組みの上へ無理に暮らしを載せ始めた巨大な建造物に見える。外壁の継ぎ目が白く走り、仮設足場が外縁にへばりつき、係留アームの先では搬入用の灯が眠らずに点いていた。遠くで動く作業灯が、暗い宇宙の中をゆっくりと這っている。

 

 セイラは窓へ指先を触れた。

 

 冷たいと思ったのに、ガラスの向こうから返ってきたのは、機械の残したぬるい熱だった。

 

 長い旅だった。

 

 一度眠って起きても、まだ船の中だった。出された飲み物がすっかりぬるくなっているのを見て、ああ本当に遠くまで来るのだと思った。テキサスを出た時は、まだ荷物を運んだだけのような気がしていたのに、こうしてサイド7が見えてしまうと、前の暮らしからちゃんと切れてしまったのだと分かる。

 

「もう少しで着きます」

 

 ミライが、いつもより少し小さな声で言った。

 

 セイラは窓から目を離さないまま返す。

 

「遠いのね」

 

「ええ」

 

 ミライも同じ窓の外を見た。

 

「思っていたより、ずっと」

 

 その言い方が妙に正直で、セイラは少しだけ好きだと思った。元から知っているふうに言わないところが、この人らしい。

 

 少し間があって、エドワウが窓の外を見たまま口を開く。

 

「遠い方がいい時もあります」

 

 セイラは兄の横顔を見た。

 

 旅のあいだ、兄はあまり喋らなかった。膝の上に置いた紙束を何度も開いては閉じ、結局ほとんど読んでいない。考え事をしているのか、何も考えないようにしているのか、セイラにもよく分からなかった。

 

「そうかもしれないけど」

 

 そう返すと、兄はそれ以上言わなかった。

 

 ミライは手にした保温容器をそっと差し出した。

 

「少し飲んでください。着いたら、すぐ降りることになると思うので」

 

 全員分ある。シュウの分、セイラの分、兄の分。

 

 なのに兄へ渡されたものだけ、飲み口に布が巻いてあって持ちやすい。たぶん熱さを和らげるためでもあるし、揺れてもこぼしにくくするためでもあるのだろう。

 

 ほんの少しの違いだ。

 

 けれど、そういうほんの少しは、見ていない人には出来ない。

 

「ありがとうございます」

 

 兄は素直に受け取った。

 

 もちろん気づいてはいない。

 

 セイラはそのことに、少しだけ安心して、少しだけ心配にもなった。兄をそんなふうに見てくれる人がいることはうれしい。けれど今の兄には、そこへ振り向く余裕がないのも分かってしまうからだ。

 

 シュウ・ヤシマは向かいの席で黙って窓の外を見ていた。無理に話を繋がない。無言が重くなりすぎる直前でだけ、乗り継ぎの時刻や接舷後の段取りを簡潔に確かめる。そういう人だった。

 

 やがてシャトルが減速に入り、軽い振動が床から足へ伝わってくる。遠くに見えていた工事灯が、ひとつひとつはっきりした光になって近づいてきた。

 

 サイド7はもう、ただの遠景ではなかった。

 

 接舷が終わり、ハッチが開く。

 

 乾いた空気が流れ込んだ。

 

 テキサスとも違う、新しい金属と塗料の匂い。組み上がってまだ時間の経っていない壁の匂い。そこへ人が出入りし始めて、ようやく生活が混ざりつつある匂いだった。

 

 セイラは一歩降りたところで、思わず足元を見た。微妙に身体が落ち着かない。重力が違うというほどではないのに、長い移動のあとの身体は、どこへ立ってもすぐには馴染まないものらしかった。

 

「荷はそのままで結構です」

 

 シュウが先に歩き出しながら言う。

 

「こちらで通します」

 

 エドワウが少ない荷の列を振り返ったところで、シュウはその量をひと目見て、少しだけ目を伏せた。

 

「……来るのが遅くなりました」

 

 それだけ言ってから、すぐに続ける。

 

「その分、住む方はきちんと整えてあります」

 

 定型の言葉ではないのが、かえって胸に入った。

 

 ミライは兄妹のすぐ横へ来て、歩調を合わせてくれた。接舷通路の外には仮設導線が張られ、資材コンテナがいくつも積まれている。遠くではモビルワーカーが荷を抱えたままのっそりと横切っていった。

 

「……工事中のまま、人が住んでるみたい」

 

 セイラが思わず言うと、ミライが少し笑った。

 

「そう見えるでしょう?」

 

「でも今のサイド7は、たぶんそれで合ってるの」

 

 兄はすでに別のところを見ていた。資材の置き方、人の流れ、仮設通路の詰まり方。目が忙しい。

 

「まだ手の要る場所が多い」

 

 ぽつりとそう言う。

 

 ミライが兄を見る。

 

「そういうところを先に見るのね」

 

「その方が、やれることは見えます」

 

 セイラは、ああと心の中で小さく息をついた。

 

 兄はもう前を見ている。何も持たずにここへ来たはずなのに、完成した街のきれいさより、まだ手の要る場所の方へ先に目が向くのだ。

 

 そういう人だと知っていた。知っていたけれど、こうして実際に目の当たりにすると、少しだけ救われる。

 

 住まいは、仮ではあっても仮設という感じのする部屋ではなかった。

 

 狭すぎず、広すぎず、しかし今日からちゃんと暮らせるとすぐ分かる部屋だった。寝具は入っている。台所も整っている。食器、保存食、日用品、着替えを収める棚、机代わりの低い台、予備の毛布。窓からは、まだ消えない工事灯が見える。

 

 セイラは部屋へ入った途端、言葉を失った。

 

 用意が行き届いている、という一言で済ませるにはあたたかすぎた。

 

 ただ物が揃っているだけではない。タオルの畳み方、食器の数の揃え方、台所に置かれた保存食の選び方、そのどれにも、人がここで実際に暮らすところを考えた手つきがある。

 

 たぶんミライも手を入れているのだろう、とセイラは思った。

 

「ここを使ってください」

 

 シュウが静かに言った。

 

「生活に要るものは一通り入れてあります」

 

「当分は、ここを自分の家だと思って使っていただいて構いません」

 

「こんなに……」

 

 セイラがようやくそう言うと、シュウは少しだけ肩をすくめた。

 

「テアボロ君の子に、不自由な部屋を渡すつもりはありません」

 

 その言葉に、セイラはまた胸の奥をつかまれた。派手な情ではない。けれど、こういうところにその人の本気は出るのだと思う。

 

 シュウは続けた。

 

「仕事についても、こちらで世話をさせていただきます」

 

 エドワウが顔を上げる。

 

「エドワウ君には、建設部の資材調整寄りの席を考えています」

 

「セイラさんには、書類と連絡の補助を」

 

「ただ、正式に座る前に、明日一日だけ現場を見てください」

 

「今のサイド7が、どこで詰まり、何で回っているか、先に見た方が早いと思う」

 

「ありがとうございます」

 

 兄の声はまっすぐだった。

 

 セイラもようやく肩の力が抜ける。兄を日雇いの列へ並ばせる気はない。そのことがはっきり分かっただけで、胸の内の不安がずいぶん和らいだ。

 

 ミライは部屋の入口で、入ろうとして一瞬だけ足を止めた。踏み込みすぎてはいけないと測っているのが分かる。その小さなためらいが、セイラにはうれしかった。無遠慮な人ではないのだ。

 

 帰り際、シュウが明日の段取りを確認する。

 

「明日は私の部下を一人つけます」

 

「建設部のいくつかの工区を見てもらう」

 

「分かりました」

 

 エドワウが頷く。

 

 ミライが少し言いにくそうに、でも思い切ったように続けた。

 

「朝、私も少し早めに寄りますね。父のところへ行く前に」

 

「助かります」

 

「お手伝いできることがあれば」

 

 兄はその言葉を、まっすぐそのまま受け取った。

 

 セイラだけが、明日も来るのね、と思う。

 

 嫌ではなかった。むしろ、この土地へ入って最初に触れたあたたかさの続きを、明日も少し分けてもらえるような気がした。

 

 夜になると、窓の外の工事灯がいっそう目立った。

 

 暗い宇宙を背にして、そこだけ白く浮いている。灯りの下では、まだ人が動いていた。サイド7は眠りながら完成する場所ではなく、眠る合間に少しずつ形を変えていく場所らしい。

 

 兄は箱を机代わりにして工具を整え、渡された書類に目を通していた。セイラは窓辺に腰を下ろし、その背中を見ている。

 

「兄さん」

 

「何だ」

 

「ここで、やっていける?」

 

 兄はすぐには答えなかった。

 

 少し間を置いてから言う。

 

「やるしかない」

 

「そうじゃなくて」

 

 セイラが言い直すと、兄はようやくこちらを振り向いた。

 

「完成した所よりは、まだやりやすい」

 

 それだけだった。

 

 セイラは小さく笑う。

 

「兄さんらしいわ」

 

「そうか」

 

「そうよ」

 

 兄はそれ以上何も言わず、また手元へ視線を落とした。

 

 窓の外の工事灯は、未完成の街を白く照らしている。

 

 兄さんは、何もない所へ来ても、きっとまた人の真ん中へ行ってしまうのだろう。

 

 まだ誰も集まってはいない。

 

 けれど、その気配だけはもうあった。

 

 翌朝は、工事灯が消えるより先に始まった。

 

 ノックの音で目が覚める。セイラが扉を開けると、ミライが保温箱と包みを抱えて立っていた。

 

「朝は慌ただしいかと思って」

 

「まあ、こんなに」

 

 セイラが目を丸くすると、ミライは少し照れたように笑う。

 

「父の分もありますから。ついでみたいなものです」

 

 部屋の中では、兄がすでに身支度を終えていた。ミライを見ると少し驚いた顔をして、それからすぐに頭を下げる。

 

「ありがとうございます」

 

「……いえ」

 

 ミライは箱を開けて、順に弁当を渡した。

 

 兄の分だけ中身が少し違うと、今度ははっきり分かった。冷めても食べやすそうな物が選ばれている。噛み切りやすくて、崩れにくい。やっぱり少しだけ兄へ寄せてある。

 

 セイラはそれを見て、胸の奥がやわらかくなるのを感じた。

 

 兄はきっとまだ気づかない。気づいたとしても、今は受け止めきれないだろう。

 

 でもそれでいいのかもしれなかった。やさしさは、急いで形にしなくても、そこにあれば十分な時がある。

 

「今日は、どんなところを見るの?」

 

 ミライが訊いた。

 

「まずは工区の流れを」

 

 エドワウが答える。

 

「人と荷の動きを見てこい、と言われています」

 

「父らしいわね」

 

 ミライが微笑む。

 

 セイラも笑った。

 

「兄さんも、そういうの好きでしょう」

 

「好きというより、見ないと分からない」

 

 兄らしい返しだった。

 

 しばらくして、シュウの部下だという中堅の係員が迎えに来た。物腰は悪くないが、現場の細かいところまでは自分の責任ではないと思っている人の顔だと、セイラにもなんとなく分かった。

 

 兄妹は弁当を持ち、彼に案内されて工区の方へ向かった。

 

 朝のサイド7は、もう仕事の顔をしていた。

 

 資材搬送区画、仮設の詰所、工区間を結ぶ通路、荷受け場。どこも人が足りないようでいて、同時に余っているようでもある。不思議な空気だった。誰かが急いでいて、誰かが待たされていて、その間に立たされた人間が疲れた顔で立っている。

 

「こちらが資材搬送の導線です」

 

 案内役の係員が言う。

 

「今のところ大きな滞りは――」

 

 そこまで言って、前方で声が上がった。

 

「だから今ここへ入れたら崩れるって言ってるでしょう!」

 

 若い女の声だった。

 

 その先では、モビルワーカーが荷を抱えたまま止まり、受け側の作業員と搬送側の監督が押しつけ合いをしていた。別工区からの導線変更で、予定していた搬送機が来ていないらしい。そのせいで受け入れの順番が狂い、荷をどこへ落とすかで話が割れている。

 

 モビルワーカーの操縦席にいたのがミナ・クガだった。

 

 小柄だが動きに無駄がない。言葉は強い。けれど、荷の抱え方には乱暴さがない。危ない運び方を嫌がっているのが、セイラの目にも分かった。

 

「少し待てば済む話だ」

 

 案内役の係員が気軽に言った。

 

 その横で、詰所の端にいた若い男が荷票と時刻表を見比べ、何度も何か言いかけては引っ込めている。リョウ・サナダだった。目立たないが、順番の狂いにはとっくに気づいている顔だ。

 

 さらにその向こうで、軽そうな笑い方をする男が別の導線を指で示して監督に何か言い返している。オーウェン・マクラレン。どう見ても真面目な第一印象ではない。だが、目の動きだけは異様に速い。

 

 工区と工区の境目では、知らない男が壁にもたれてこちらを見ていた。マテオ・ロハス。作業服は着ているのに、どこの班にも完全には属していない顔だ。

 

 皆、別々の場所にいるのに、なぜだか似た空気をまとっていた。

 

 ちゃんと働いている。

 

 なのに、そこへ綺麗に収まりきっていない。

 

 エドワウは前へ出すぎない位置で立ち止まり、まず荷票を見た。それから受け側の表示と、通路の先の仮置きスペースへ視線を流す。

 

「この荷、受け側は今取れないんですか」

 

 案内役の係員へ、低い声でそう訊く。

 

「え? ああ……今は別便が先で」

 

「なら、次便までどこへ置く予定なんです」

 

「どこへって……」

 

 係員が言いよどむ。

 

 エドワウは、詰所の端で荷票を抱えているリョウへ一瞬だけ目を向けた。

 

「時刻、変わっていますよね」

 

 リョウは驚いたように顔を上げた。

 

「……はい。三十分前に書き換わってます」

 

「そのことを言っていたんですか」

 

 リョウは小さく頷く。自分の言葉がようやく届いたことに、少しだけ戸惑っているようだった。

 

 エドワウは案内役へ、あくまで問いの形で続ける。

 

「受け側が今無理なら、仮置きが先ではありませんか」

 

「そこの人が言っているのも、そのことですよね」

 

 そこ、と言われてミナが顔を上げる。

 

「……そうです」

 

 案内役はようやく周囲を見回した。工区の角、まだ空いている仮置きスペース。オーウェンがさっきから指していた導線。リョウの持つ書き換え済み荷票。

 

「あ、いや……そうか」

 

 ようやく自分の判断として声を上げる。

 

「仮置き四番を空けろ!」

 

「先にこの便を抜け! そっちの搬送機、一回だけこっちへ回せ!」

 

 言葉になってしまえば早かった。

 

 ミナがすぐに機体を動かす。無理をしないが、遅くもない。オーウェンは「だから最初からそう言ってる」と口の中で転がしながら、別ルートの搬送機を引っ張ってくる。リョウは荷票の順番を素早く直し、受け側へ回した。マテオはいつの間にか通路の先へ行き、仮置きスペースを使っていた班へ一言通して場所を空けさせていた。

 

 チームではない。

 

 でも一つの詰まりの前で、一瞬だけ線がつながった。

 

 セイラはその様子を見ながら、兄のやり方を思う。

 

 兄は偉そうに前へ出たのではない。言えなかったことに形を与えただけだ。誰かの手柄を奪ったわけでもない。ただ、ちゃんと見えていた人の言葉が届くように、少しだけ順番を置き直した。

 

 兄が人の真ん中へ入っていく時は、いつもこんなふうだった気がする。

 

 仮置きが終わり、荷が流れ出すと、現場の空気がようやく息をついた。

 

 ミナが操縦席から降りて、兄の方を見た。警戒もしているが、さっきまでの棘は少しだけ引いている。

 

「……あんた、見学じゃなかったの」

 

「見学です」

 

 エドワウが答える。

 

「ただ、止まってる理由が見えただけです」

 

 オーウェンが近くで吹き出した。

 

「ずいぶん行儀のいい言い方するじゃないか」

 

 その声も軽いが、さっきより少し親しい。

 

 リョウは荷票を抱えたまま、兄をじっと見ていた。まだ何も言わない。ただ、覚えた顔を見る目になっている。

 

 そしてマテオは、少し離れたところから面白そうに笑っていた。

 

「新顔だと思ったら、面倒なとこだけ綺麗に嗅ぎ当てるんだな」

 

 その時だった。

 

 さっきまで怒鳴っていた現場監督が、疲れた顔で別の紙束を持ち上げた。

 

「綺麗に、かどうかは知らんがな」

 

 彼は半分愚痴るように言う。

 

「綺麗に片づかん話なら、もう一つある」

 

「工区間の小口搬送だ。誰も引き取りたがらん。期限は短い、儲けは薄い、止まると工程に響く」

 

 そこで兄が止まったのを、セイラは見逃さなかった。

 

 ミナも聞いている。

 

 オーウェンは鼻で笑った。

 

 リョウはその条件票へ目を走らせる。

 

 マテオは少し離れたところで、面白そうに黙っている。

 

 まだ誰も集まってはいなかった。

 

 けれど同じ仕事の前に、同じ顔ぶれが揃い始めていた。

 

 兄が何かを見つけた時の、あの静かな顔を、セイラはもう知っていた。

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