妹に撃たれない方法   作:Brooks

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このくだり、セイラさんが不人気朝ドラの主役っぽくてモヤモヤしてます。


第92話 会長の食卓

 

 ヤシマ家の食卓は、セイラが思っていたよりずっと静かだった。

 

 広い部屋だった。壁の色も、灯りの落ち方も、仮住まいの白く乾いた明るさとは違う。明るいのに柔らかい。磨かれた卓も椅子も、ただ高価なだけではなく、長く使われてきた家の落ち着きを持っていた。

 

 通された時、セイラは思わず背筋を伸ばした。

 

 ヤシマ会長は、もう席についていた。仕事場で見る時より肩の力は抜けている。けれど、それで小さく見える人ではない。ミライはその少し後ろ、けれど離れすぎない位置に立っていた。昼間の現場で見る時とは服も雰囲気も違うのに、目の向け方だけは同じだった。

 

「来てくれてありがとう」

 

 ヤシマ会長はそう言った。

 

 呼びつけた声ではなかった。招いた側の声だった。

 

「疲れているだろう。まずは食べよう」

 

 その一言で、セイラは少しだけ息をついた。いきなり仕事の話ではない。それだけで、胸のどこかに入っていた力が緩む。

 

 食卓に並んだ料理は、豪勢というより丁寧だった。温かいものは温かく、冷たいものは冷たく、順番まで考えられているように見える。家で出す食事というより、人を迎えるために整えた食卓だった。

 

 会長は、最初から深い話へ入らなかった。

 

 部屋はどうか。困っていることはないか。工区の空気は乾くだろう。夜は眠れているか。そういう問いを、急がせない調子で置いていく。兄もセイラも、それぞれ短く返した。ミライは足りない部分だけを柔らかくつなぐ。

 

 会話の合間に、セイラは何度かミライを見た。

 

 昼間のように弁当包みを抱えているわけではない。ただ食事の皿を見て、給仕へ小さく合図を送り、会長の様子と兄の様子を同じように気にしている。その自然さが、前より少しだけ目についた。

 

 食事が半ばを過ぎたところで、ヤシマ会長は箸を置いた。

 

「では聞こう」

 

 声の温度は変わらないまま、そこでようやく仕事の話へ入る。

 

「今の仕事は、当初の話と違うね」

 

 兄はすぐには答えなかった。少しだけ視線を落とし、それから顔を上げる。

 

「はい」

 

「どこから違った」

 

「正式着任の手続きをしに行った朝です」

 

 兄の答えは短い。余計な飾りがない。

 

「建設部運用主任のタツミ主任が、正式着任前の暫定実務として、工区横断の搬送連絡補助と実地確認へ回しました」

 

 会長の眉が、ほんの少しだけ動いた。

 

「理由は」

 

「現場の流れを掴んでから席へ入った方が、後で役に立つ、ということでした」

 

「席へ入った方が」

 

 会長はその言葉をなぞるように繰り返した。

 

「では、まだ本来の席へは入れていないのか」

 

「はい」

 

 兄は答えた。

 

「今も暫定のままです」

 

 部屋が少し静かになった。

 

 会長は怒鳴る人ではない。けれど静かな人の声が冷える時の方が、かえってはっきり分かることがある。

 

「それは、私の指示ではない」

 

 会長はきっぱりと言った。

 

「エドワウ君には建設部の資材調整寄りの席を、セイラさんには文書と連絡の補助を、最初から渡すつもりだった」

 

 セイラは、その言葉を聞いた時、胸の奥で固くなっていたものが少しほどけるのを感じた。

 

 分かっていたことではある。受付の時の紙にも、確かにそう書かれていた。けれど、当人の口からはっきり言われるのと、自分でそう信じているのとでは違う。

 

「明日、戻そう」

 

 会長は続けた。

 

「そのために今夜、二人を呼んだ」

 

 セイラは思わず兄を見た。

 

 ここで「ありがとうございます」と言えば終わる。そう思った。そうなれば、ようやく本来の席へ戻れる。悔しかった一週間に区切りがつく。

 

 けれど兄は、すぐには頷かなかった。

 

「会長」

 

 低い声だった。

 

「もう少しだけ、今の場所を見させてください」

 

 セイラは兄を見た。会長も、ミライも、すぐには言葉を返さなかった。

 

「理由を聞こう」

 

 会長が言う。

 

 兄は少しだけ考えてから、言葉を選ぶように話し始めた。

 

「大きい荷は、最初から誰かが見ています」

 

「班も付くし、責任の置き場もあります」

 

「でも、小さい荷は違う」

 

 そこで兄は箸を置いた。

 

「継手、封止材、制御箱、固定具。量は少ないのに、一本抜けるだけで後ろが止まる荷です」

 

「皆、その危なさは分かっている。でも本流の班は大きい方を優先する。小さい方は最後へ回る」

 

 会長は何も言わない。

 

 兄は続けた。

 

「人も同じです」

 

 セイラの背筋がわずかに張る。

 

「今、あの現場にいる人たちは、皆ちゃんと役に立ちます」

 

「でも、役に立つ場所が端に寄っています」

 

「必要な時だけ呼ばれて、終われば戻される」

 

「遅れを埋める時だけ使われて、席はそのままです」

 

「そこへ、毎日同じような荷が落ちてきます」

 

 セイラの頭の中に、一週間で見てきた顔が浮かんだ。

 

 操縦席で荷を壊さないことだけは譲らないミナ。

 

 ふざけた口をききながら、いちばん早く抜け道を探すオーウェン。

 

 人の前へ出ないくせに、数字のずれだけは誰より早く見つけるリョウ。

 

 境目でだけ妙に強いマテオ。

 

 重い荷が危ない時だけ現れるレイフ。

 

 すぐ荒れるように見えて、実際にはアマニのことしか見ていないカイロ。

 

 静かに控えを見ているアマニ。

 

 皆、必要だ。けれど、それぞれがきちんと置かれているかと訊かれれば、違う。

 

「戻してもらって、私とセイラだけが元の席へ戻るなら、それで片づく話ではないと思っています」

 

 兄はそう言ってから、少しだけ言葉を切った。

 

「……見えてしまったので」

 

 会長は兄の顔をまっすぐ見ていた。

 

「見えたのは、荷だけではないね」

 

「はい」

 

 兄は答えた。

 

「荷と、人です」

 

 会長はしばらく黙っていた。

 

 その沈黙は、考えている人のものだった。否定するための間ではない。

 

「名前は」

 

 会長が言う。

 

 兄は一人ずつ挙げた。

 

「ミナ・クガ。荷を壊しません」

 

「オーウェン・マクラレン。危ないですが、抜け道が見えます」

 

「リョウ・サナダ。順番と数字の狂いを先に見ます」

 

「マテオ・ロハス。境界で顔が利きます」

 

「レイフ・ハルヴォルセン。重い荷を落としません」

 

「カイロ・ンベキ。荷受け側の詰まりを力で開けます」

 

「アマニ・ンベキ。数と札を見ます」

 

 会長はその名をすべて聞き終えてから、今度はセイラへ目を向けた。

 

「君も同じように見ているかね」

 

 セイラは一瞬だけ言葉を失った。

 

 見ている。けれど兄ほどきれいには言えない。

 

「……はい」

 

 それでも答えた。

 

「兄さんほど整理は出来ません」

 

「でも、皆、いらない人じゃありません」

 

 言ってから、自分の声が思っていたより硬かったことに気づく。少しだけ恥ずかしかった。けれど会長は笑わなかった。

 

「そうか」

 

 その短い返事に、変な慰めは混じっていなかった。

 

 ミライがそこで口を開いた。

 

「お父様」

 

 食卓の上へ、彼女の静かな声が落ちる。

 

「タツミ主任は、現場が回るならそのまま使い続けるつもりだと思います」

 

 会長は娘の方を見た。

 

「そう思うか」

 

「はい」

 

 ミライははっきり答える。

 

「戻すと言えば戻すでしょう。でも、その前に“今ここで役に立っているのだから、このまま補助で”という話にしてしまうと思います」

 

 セイラは、ミライの横顔を見た。

 

 昼間は柔らかい人に見える。けれど今の言葉には、かなりはっきりした判断があった。父に対しても、相手を立てつつ必要なことは言う。その声の置き方が、ヤシマ家の人なのだと思わせる。

 

 会長は小さく息を吐いた。

 

「そうだろうね」

 

 それから兄へ戻る。

 

「君は、戻るだけでは足りないと思っている」

 

「はい」

 

「なら、何が要る」

 

 兄はすぐには答えなかった。

 

 知らないのではない。言い切るだけの形がまだないのだろう、とセイラは思った。

 

「……今はまだ、全部は分かりません」

 

「ただ、今の形のままだと、あの荷も人も、来週も同じように端へ寄ります」

 

「臨時の補助で拾うには、もう数が多い」

 

「受ける場所が要ると思っています」

 

 会長はその言葉を反芻するように、少しだけ視線を落とした。

 

「箱が要る、ということか」

 

 兄は頷いた。

 

「そうです」

 

 会社、という言葉はまだ出ていない。

 

 けれどセイラには、その輪郭がもう見えていた。

 

 ただの一時しのぎでは足りない。班とも違う。臨時対応とも違う。受ける場所が要る。荷だけでなく、人も置ける場所が。

 

 会長はしばらく黙ってから、再び箸を取った。

 

「では、戻す話は急がない」

 

 そう言った。

 

「ただし条件がある」

 

 兄もセイラも顔を上げる。

 

「数字を持ってきなさい」

 

「どれだけの荷が、どれだけの頻度で、どの工区で止まっているのか」

 

「誰がどこで必要なのか」

 

「感覚ではなく、残して見せてくれ」

 

 兄は、その時だけ少し表情を変えた。

 

「分かりました」

 

「一週間でいい」

 

 会長は続けた。

 

「その一週間で、君が今見ているものを、私にも見える形にして持ってきなさい」

 

 セイラは、その言葉を聞いた時、胸の奥が熱くなるのを感じた。

 

 一方的に助けられるのではない。

 

 気の毒がられるのでもない。

 

 見たものを持ってこい、と言われている。

 

 それは、ちゃんと仕事の話だった。

 

 食事のあとは、ミライが二人を外まで送った。

 

 家の中の柔らかい灯りから一歩出ると、サイド7の夜の匂いが戻ってくる。乾いた空調、金属、遠くの潤滑油。昼の現場ほど濃くはないが、この街がまだ工事中なのだと分かる匂いだった。

 

「さっきのお話」

 

 ミライが先に言った。

 

「お父様、かなり真面目に聞いていました」

 

「そうですか」

 

 兄が答える。

 

「ありがとうございます」

 

「私は何もしていません」

 

 ミライはそう言ってから、少しだけ目を伏せた。

 

「でも……あのまま元の席へ戻るだけでは、エドワウさんは納得しないだろうと思っていました」

 

 セイラは、その言い方に一瞬だけ息を止めた。

 

 呼び方はいつもと同じだった。けれど、分かっていることの方が、少し多かった。

 

 兄は、少しだけ視線を和らげた。

 

「納得は、しないと思います」

 

 その返事は短い。けれど、昼間の現場での「助かります」より、ずっと近い声だった。

 

 ミライは小さく笑った。

 

「明日の朝も、持っていきます」

 

「今度は少し量を増やしておきますね」

 

「人が増えるでしょうから」

 

 兄はそこでほんの少しだけ間を置いた。

 

「……助かります」

 

 セイラは何も言わずに二人を見ていた。

 

 大きなことは何も起きていない。

 

 けれど、ここへ来た頃より、たしかに一つずつ変わっている。

 

 帰り道、外壁灯が足元に薄い影を落としていた。

 

 兄は黙って歩いている。考えている時の歩き方だった。セイラもすぐには口を開かなかった。

 

 しばらくしてから、ようやく言う。

 

「兄さん」

 

「何だ」

 

「一週間よ」

 

「うん」

 

「足りるの」

 

 兄はすぐには答えなかった。

 

 遠くで、夜の便が一つ、外周の導線を横切っていく。

 

「足りるようにする」

 

 そう言ってから、兄は続けた。

 

「足りないなら、それも数字で出る」

 

 セイラはその横顔を見た。

 

 会長は悪くない。戻そうともした。

 

 でも戻るだけでは駄目だと、兄はもう決めている。

 

 だったら、自分もそこを見るしかない。

 

 仮住まいへ戻ると、机の端に昼の控えがまだ残っていた。セイラはそれを引き寄せ、一枚ずつ重ね直す。工区名、時刻、荷の内容、受け渡し、遅れ。赤鉛筆の線を見ているうちに、今夜の食卓の静けさが少しずつ遠くなっていく。

 

 代わりに、現場の顔が浮かんだ。

 

 ミナの強い声。

 

 オーウェンの軽い口。

 

 リョウの静かな指。

 

 マテオの笑い方。

 

 レイフの短い返事。

 

 カイロの怒鳴り声。

 

 アマニの小さな声。

 

 皆、同じ場所にいるわけではない。

 

 けれど明日の朝になれば、また同じ荷の周りへ集まる。

 

 セイラは新しい紙を一枚出し、上に日付を書いた。

 

 明日からは、ただ控えを写すだけでは足りない。

 

 何が、どこで、どれだけ止まったか。

 

 誰がいなければ、どこが止まるのか。

 

 兄が見たものを、会長にも見える形にする。

 

 やることは、はっきりしていた。

 

 窓の外では、工事灯がまだ消えていない。

 

 夜のサイド7は静かに見える。けれど机の上には、もう明日の午前便の票が置かれていた。

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