ヤシマ家の食卓は、セイラが思っていたよりずっと静かだった。
広い部屋だった。壁の色も、灯りの落ち方も、仮住まいの白く乾いた明るさとは違う。明るいのに柔らかい。磨かれた卓も椅子も、ただ高価なだけではなく、長く使われてきた家の落ち着きを持っていた。
通された時、セイラは思わず背筋を伸ばした。
ヤシマ会長は、もう席についていた。仕事場で見る時より肩の力は抜けている。けれど、それで小さく見える人ではない。ミライはその少し後ろ、けれど離れすぎない位置に立っていた。昼間の現場で見る時とは服も雰囲気も違うのに、目の向け方だけは同じだった。
「来てくれてありがとう」
ヤシマ会長はそう言った。
呼びつけた声ではなかった。招いた側の声だった。
「疲れているだろう。まずは食べよう」
その一言で、セイラは少しだけ息をついた。いきなり仕事の話ではない。それだけで、胸のどこかに入っていた力が緩む。
食卓に並んだ料理は、豪勢というより丁寧だった。温かいものは温かく、冷たいものは冷たく、順番まで考えられているように見える。家で出す食事というより、人を迎えるために整えた食卓だった。
会長は、最初から深い話へ入らなかった。
部屋はどうか。困っていることはないか。工区の空気は乾くだろう。夜は眠れているか。そういう問いを、急がせない調子で置いていく。兄もセイラも、それぞれ短く返した。ミライは足りない部分だけを柔らかくつなぐ。
会話の合間に、セイラは何度かミライを見た。
昼間のように弁当包みを抱えているわけではない。ただ食事の皿を見て、給仕へ小さく合図を送り、会長の様子と兄の様子を同じように気にしている。その自然さが、前より少しだけ目についた。
食事が半ばを過ぎたところで、ヤシマ会長は箸を置いた。
「では聞こう」
声の温度は変わらないまま、そこでようやく仕事の話へ入る。
「今の仕事は、当初の話と違うね」
兄はすぐには答えなかった。少しだけ視線を落とし、それから顔を上げる。
「はい」
「どこから違った」
「正式着任の手続きをしに行った朝です」
兄の答えは短い。余計な飾りがない。
「建設部運用主任のタツミ主任が、正式着任前の暫定実務として、工区横断の搬送連絡補助と実地確認へ回しました」
会長の眉が、ほんの少しだけ動いた。
「理由は」
「現場の流れを掴んでから席へ入った方が、後で役に立つ、ということでした」
「席へ入った方が」
会長はその言葉をなぞるように繰り返した。
「では、まだ本来の席へは入れていないのか」
「はい」
兄は答えた。
「今も暫定のままです」
部屋が少し静かになった。
会長は怒鳴る人ではない。けれど静かな人の声が冷える時の方が、かえってはっきり分かることがある。
「それは、私の指示ではない」
会長はきっぱりと言った。
「エドワウ君には建設部の資材調整寄りの席を、セイラさんには文書と連絡の補助を、最初から渡すつもりだった」
セイラは、その言葉を聞いた時、胸の奥で固くなっていたものが少しほどけるのを感じた。
分かっていたことではある。受付の時の紙にも、確かにそう書かれていた。けれど、当人の口からはっきり言われるのと、自分でそう信じているのとでは違う。
「明日、戻そう」
会長は続けた。
「そのために今夜、二人を呼んだ」
セイラは思わず兄を見た。
ここで「ありがとうございます」と言えば終わる。そう思った。そうなれば、ようやく本来の席へ戻れる。悔しかった一週間に区切りがつく。
けれど兄は、すぐには頷かなかった。
「会長」
低い声だった。
「もう少しだけ、今の場所を見させてください」
セイラは兄を見た。会長も、ミライも、すぐには言葉を返さなかった。
「理由を聞こう」
会長が言う。
兄は少しだけ考えてから、言葉を選ぶように話し始めた。
「大きい荷は、最初から誰かが見ています」
「班も付くし、責任の置き場もあります」
「でも、小さい荷は違う」
そこで兄は箸を置いた。
「継手、封止材、制御箱、固定具。量は少ないのに、一本抜けるだけで後ろが止まる荷です」
「皆、その危なさは分かっている。でも本流の班は大きい方を優先する。小さい方は最後へ回る」
会長は何も言わない。
兄は続けた。
「人も同じです」
セイラの背筋がわずかに張る。
「今、あの現場にいる人たちは、皆ちゃんと役に立ちます」
「でも、役に立つ場所が端に寄っています」
「必要な時だけ呼ばれて、終われば戻される」
「遅れを埋める時だけ使われて、席はそのままです」
「そこへ、毎日同じような荷が落ちてきます」
セイラの頭の中に、一週間で見てきた顔が浮かんだ。
操縦席で荷を壊さないことだけは譲らないミナ。
ふざけた口をききながら、いちばん早く抜け道を探すオーウェン。
人の前へ出ないくせに、数字のずれだけは誰より早く見つけるリョウ。
境目でだけ妙に強いマテオ。
重い荷が危ない時だけ現れるレイフ。
すぐ荒れるように見えて、実際にはアマニのことしか見ていないカイロ。
静かに控えを見ているアマニ。
皆、必要だ。けれど、それぞれがきちんと置かれているかと訊かれれば、違う。
「戻してもらって、私とセイラだけが元の席へ戻るなら、それで片づく話ではないと思っています」
兄はそう言ってから、少しだけ言葉を切った。
「……見えてしまったので」
会長は兄の顔をまっすぐ見ていた。
「見えたのは、荷だけではないね」
「はい」
兄は答えた。
「荷と、人です」
会長はしばらく黙っていた。
その沈黙は、考えている人のものだった。否定するための間ではない。
「名前は」
会長が言う。
兄は一人ずつ挙げた。
「ミナ・クガ。荷を壊しません」
「オーウェン・マクラレン。危ないですが、抜け道が見えます」
「リョウ・サナダ。順番と数字の狂いを先に見ます」
「マテオ・ロハス。境界で顔が利きます」
「レイフ・ハルヴォルセン。重い荷を落としません」
「カイロ・ンベキ。荷受け側の詰まりを力で開けます」
「アマニ・ンベキ。数と札を見ます」
会長はその名をすべて聞き終えてから、今度はセイラへ目を向けた。
「君も同じように見ているかね」
セイラは一瞬だけ言葉を失った。
見ている。けれど兄ほどきれいには言えない。
「……はい」
それでも答えた。
「兄さんほど整理は出来ません」
「でも、皆、いらない人じゃありません」
言ってから、自分の声が思っていたより硬かったことに気づく。少しだけ恥ずかしかった。けれど会長は笑わなかった。
「そうか」
その短い返事に、変な慰めは混じっていなかった。
ミライがそこで口を開いた。
「お父様」
食卓の上へ、彼女の静かな声が落ちる。
「タツミ主任は、現場が回るならそのまま使い続けるつもりだと思います」
会長は娘の方を見た。
「そう思うか」
「はい」
ミライははっきり答える。
「戻すと言えば戻すでしょう。でも、その前に“今ここで役に立っているのだから、このまま補助で”という話にしてしまうと思います」
セイラは、ミライの横顔を見た。
昼間は柔らかい人に見える。けれど今の言葉には、かなりはっきりした判断があった。父に対しても、相手を立てつつ必要なことは言う。その声の置き方が、ヤシマ家の人なのだと思わせる。
会長は小さく息を吐いた。
「そうだろうね」
それから兄へ戻る。
「君は、戻るだけでは足りないと思っている」
「はい」
「なら、何が要る」
兄はすぐには答えなかった。
知らないのではない。言い切るだけの形がまだないのだろう、とセイラは思った。
「……今はまだ、全部は分かりません」
「ただ、今の形のままだと、あの荷も人も、来週も同じように端へ寄ります」
「臨時の補助で拾うには、もう数が多い」
「受ける場所が要ると思っています」
会長はその言葉を反芻するように、少しだけ視線を落とした。
「箱が要る、ということか」
兄は頷いた。
「そうです」
会社、という言葉はまだ出ていない。
けれどセイラには、その輪郭がもう見えていた。
ただの一時しのぎでは足りない。班とも違う。臨時対応とも違う。受ける場所が要る。荷だけでなく、人も置ける場所が。
会長はしばらく黙ってから、再び箸を取った。
「では、戻す話は急がない」
そう言った。
「ただし条件がある」
兄もセイラも顔を上げる。
「数字を持ってきなさい」
「どれだけの荷が、どれだけの頻度で、どの工区で止まっているのか」
「誰がどこで必要なのか」
「感覚ではなく、残して見せてくれ」
兄は、その時だけ少し表情を変えた。
「分かりました」
「一週間でいい」
会長は続けた。
「その一週間で、君が今見ているものを、私にも見える形にして持ってきなさい」
セイラは、その言葉を聞いた時、胸の奥が熱くなるのを感じた。
一方的に助けられるのではない。
気の毒がられるのでもない。
見たものを持ってこい、と言われている。
それは、ちゃんと仕事の話だった。
食事のあとは、ミライが二人を外まで送った。
家の中の柔らかい灯りから一歩出ると、サイド7の夜の匂いが戻ってくる。乾いた空調、金属、遠くの潤滑油。昼の現場ほど濃くはないが、この街がまだ工事中なのだと分かる匂いだった。
「さっきのお話」
ミライが先に言った。
「お父様、かなり真面目に聞いていました」
「そうですか」
兄が答える。
「ありがとうございます」
「私は何もしていません」
ミライはそう言ってから、少しだけ目を伏せた。
「でも……あのまま元の席へ戻るだけでは、エドワウさんは納得しないだろうと思っていました」
セイラは、その言い方に一瞬だけ息を止めた。
呼び方はいつもと同じだった。けれど、分かっていることの方が、少し多かった。
兄は、少しだけ視線を和らげた。
「納得は、しないと思います」
その返事は短い。けれど、昼間の現場での「助かります」より、ずっと近い声だった。
ミライは小さく笑った。
「明日の朝も、持っていきます」
「今度は少し量を増やしておきますね」
「人が増えるでしょうから」
兄はそこでほんの少しだけ間を置いた。
「……助かります」
セイラは何も言わずに二人を見ていた。
大きなことは何も起きていない。
けれど、ここへ来た頃より、たしかに一つずつ変わっている。
帰り道、外壁灯が足元に薄い影を落としていた。
兄は黙って歩いている。考えている時の歩き方だった。セイラもすぐには口を開かなかった。
しばらくしてから、ようやく言う。
「兄さん」
「何だ」
「一週間よ」
「うん」
「足りるの」
兄はすぐには答えなかった。
遠くで、夜の便が一つ、外周の導線を横切っていく。
「足りるようにする」
そう言ってから、兄は続けた。
「足りないなら、それも数字で出る」
セイラはその横顔を見た。
会長は悪くない。戻そうともした。
でも戻るだけでは駄目だと、兄はもう決めている。
だったら、自分もそこを見るしかない。
仮住まいへ戻ると、机の端に昼の控えがまだ残っていた。セイラはそれを引き寄せ、一枚ずつ重ね直す。工区名、時刻、荷の内容、受け渡し、遅れ。赤鉛筆の線を見ているうちに、今夜の食卓の静けさが少しずつ遠くなっていく。
代わりに、現場の顔が浮かんだ。
ミナの強い声。
オーウェンの軽い口。
リョウの静かな指。
マテオの笑い方。
レイフの短い返事。
カイロの怒鳴り声。
アマニの小さな声。
皆、同じ場所にいるわけではない。
けれど明日の朝になれば、また同じ荷の周りへ集まる。
セイラは新しい紙を一枚出し、上に日付を書いた。
明日からは、ただ控えを写すだけでは足りない。
何が、どこで、どれだけ止まったか。
誰がいなければ、どこが止まるのか。
兄が見たものを、会長にも見える形にする。
やることは、はっきりしていた。
窓の外では、工事灯がまだ消えていない。
夜のサイド7は静かに見える。けれど机の上には、もう明日の午前便の票が置かれていた。