黒猫ルシファー・ロジスティクス商会の朝は、暗いうちから始まる。
まだ外の通路に夜の冷えが残っている時間だった。工区の照明は落としきらず、遠くの搬入口だけが白く浮いて見える。薄い靄のように、機械油と金属の匂いが空気の底に沈んでいた。
商会の詰所は、そうした朝の色の中でひとつだけ、先に起きた家のように明るい。
壁際に置かれた机は揃いではない。古い帳場から流れてきたもの、工区の隅で使われなくなっていたもの、脚の長さが合わず下に板を噛ませたもの。椅子も同じで、背もたれのあるものと無いものが混じっている。だが、半年のあいだに増えたその数だけは、最初とは比べものにならなかった。
壁には便の予定表が貼られ、その横に荷受けの控え、支払い待ちの札、整備予定の紙が重なるように留められている。誰かが急いで書き足した鉛筆の線、端の折れた紙、乾ききらずに掠れたインク。黒猫商会は、立派には見えない。だが、ここに毎朝集まる手の数だけは確かに増えていた。
セイラは、もうその中心にいた。
細い指で帳面を押さえ、昨日届いた請求書を左へ、今日の便の紙を中央へ、支払い待ちの分を右へ寄せていく。髪は後ろでまとめているが、朝の忙しさのせいで額のあたりに少しだけ短い毛が落ちていた。まだ若い顔立ちなのに、紙をめくる目つきだけが妙に落ち着いている。半年でついたものだ、とエドワウは思う。昔のセイラなら、数字を前にこんな顔は出来なかった。今は違う。誰が来て、誰が遅れ、どの便にいくらかかり、今日どこで金が足りなくなるかを、もう先に読んでいる。
外では、エドワウがシャトルの腹の下にしゃがみ込んでいた。
機体は大きくはない。軌道内の短距離輸送に使う、使い込まれた小型シャトルだ。塗装はところどころ剥げ、外板には細かい傷がいくつも走っている。それでも整備は行き届いていて、光の当たる部分だけは鈍く銀色を返していた。半年のあいだ、この機体は何度も便を落としそうになり、そのたびに誰かが寄ってたかって繋いできた。今ではそれが、黒猫商会そのものに見えることがある。
整備手が機体の脇から顔を出した。頬に油がついている。
「右の姿勢スラスター、昨日ちょっと遅れたな」
エドワウが言うと、整備手は工具を腰に戻しながら頷いた。
「調整してあります。今日は大丈夫です」
「燃料は」
「一便と二便分は入ってます。三便行くなら昼に足します」
「了解。じゃあ一便は俺が出す」
整備手が外板を軽く叩く。エドワウも同じように機体の腹を叩いてから立ち上がった。もうその動きに迷いはない。初めて操縦席に座った頃は、手を伸ばす順番を頭の中で一つずつなぞっていた。今は違う。計器の並びも、癖のある反応も、足裏に返ってくる小さな振動も、体が先に覚えている。
半年か、と彼は思う。
半年前、ここにはまだ名前しかなかった。机も少なく、荷も少なく、人も少なかった。その代わり、何もかもが曖昧だった。今は違う。荷は増え、人は増え、機械も増えた。そのぶんだけ、落とせないものも増えた。
それは悪いことではない。
ただ、気を抜けば、あっという間に潰れるようになっただけだ。
詰所の扉が開く。
朝の空気をまとって、人が一人、また一人と入ってくる。
ミナが最初に目に入る。長い脚でさっさと中へ入り、積み上げてあったコンテナをひと目見て眉を寄せた。肩幅は広くないが、立っているだけで周囲が少し狭く見える。髪を手早く耳にかけながら、低い声で言う。
「これ、下に軽い箱入れてるの誰」
返事がない。
「崩れるわよ、これ。誰が積んだの」
奥から、まだ寝癖の残った新人がそろそろと手を上げた。
「……俺です」
「次からは重いの下。覚えて。今日これ南三便だから、途中で崩れたら全部やり直しになるわ」
言いながら、ミナはもう自分で箱を持ち上げている。手首の返しが無駄なく、ひとつ動かすたびに山の形が落ち着いていく。慎重すぎると言われた女は、今も慎重だった。だが、それで助かった便が、この半年に何本あったかエドワウは知っている。
オーウェンはいつもの紙切れを壁に押しつけ、混雑箇所の線を書き足していた。髪は伸びるままにしているが、目だけは妙に冴えている。半笑いの口元で、地図とも落書きともつかない線を引く。
「昨日ここ混んでた。こっち回った方が早い」
誰に聞かせるでもない口調だ。だが、その紙を見て動いた便が何本あるか、もう誰も数えていない。
リョウは細身で、紙を持つ指がいつも静かだった。膝の上に帳票を広げ、昨日止まった便の理由を書き分けた紙をセイラの机へ置く。
「昨日の北二便、受け側の人数足りなかっただけでした」
「請求は予定通り出す?」
「出していいと思います。こっちは時間通り出してるんで」
「わかった。出すわ」
言葉少なだが、リョウの仕事はもう誰にも見落とせなかった。前なら、直っていれば終わりだった。今は紙に残る。
レイフは今日も危ない荷の札だけを先に拾っている。背の高い男で、黙って立っているだけなら少し怖く見える。だが、箱の縁に手を当て、締め具の位置を見ている時の目は、荒さとは遠い。危ない荷が危ないままで通らないのは、この男がいるからだ。
カイロはもう無線で誰かとぶつかっていた。短く刈った髪、日に焼けた首筋、声の大きさ。こちらから一歩間違えれば喧嘩腰にしか見えないが、荷受け側で道をこじ開ける時、この男ほど頼れる者はいない。
「だから朝一は無理だって言ってるだろ。昼なら回す。昼なら回すって」
怒鳴っているのに、どこかで相手が折れる間合いだけは外さない。
アマニはそのすぐ脇で、荷札と控えを見比べていた。小柄で、目立つ方ではない。だが一度紙に視線を落とすと、その場から音が一つ減る気がする。数字が合わないとき、この少女が最初に気づく。
「セイラさん、この荷札、数が一個多い」
「どれ」
「この番号」
セイラが帳面をめくり、指を止める。
「本当ね。誰か書き直した?」
誰も返事をしない。
「じゃあ今直す。出す前でよかった」
このやり取りが、もう黒猫商会の日常になっていた。
止まりそうなものを、止まる前に拾う。
大きな荷をどかんと動かす会社ではない。止まれば面倒なことになる荷、遅れた時に誰も責任を取りたがらない便、数がひとつ違うだけで半日潰れるような小さな仕事。黒猫商会は、そういうものばかりを相手にして大きくなってきた。
「南四便の受け、向こう誰でしたっけ」
リョウが予定表を見たまま聞いた。
セイラが帳面をめくる。
「前はタツミさんのところだったけど、今は別の人」
「タツミ、辞めたんでしたっけ」
ミナが箱を持ち上げたまま言う。
「揉めて出たって聞いた」
セイラはそれだけ言って、帳面に数字を書き込む。
「今どこにいるかは知らない」
少しだけ空気が止まる。
エドワウが外から入ってきて、その最後だけ聞いたらしい。
「……あの人、速かったんだけどな」
それだけ言って、予定表の前に立つ。
タツミの顔が、ふいに頭に浮かぶ。人当たりの柔らかさ、言い逃れのうまさ、動く時は速いのに、どこかで必ず誰かと噛み合わなくなる癖。助けようがなかったとは言わない。だが、誰か一人が手を貸したくらいで変わる人でもなかった。
人は死ななくても、消える。
この半年で、エドワウはそれを覚えた。
「一便俺。二便ミナ。三便リョウ。北はオーウェン回ってくれ」
「了解」
誰もそれ以上タツミの話はしなかった。
午前の便は三本が重なっていた。
一つは居住区向けの生活設備部材。これが遅れれば、工区の先でまた誰かが待つ。 一つは工区の奥へ入れる重機の制御部品。小さいが、止まれば重機が動かない。 一つは地球降下便へ積み替える予定の機材。これだけは時間を外せなかった。
「人、足りるか」
エドワウが予定表を見たまま言う。
「一人休み。熱」
セイラが答える。
「二便の積み替え、ちょっときついわね」
「じゃあ一便戻ったら俺そっち回る」
「わかった」
エドワウは短く答えて外へ出た。
シャトルのハッチを開け、操縦席に体を滑り込ませる。古いシートは少し沈み込み、背に硬い感触が返る。計器をひとつずつ確認する。推力、燃料、荷重、姿勢制御。頭で数えるより先に、目と手が動く。
これを、父が見たら何と言っただろう。
そんな考えが一瞬よぎる。
ダイクン家の長男が、古い輸送シャトルで朝一番の便を出している。
昔の自分なら、屈辱だと思ったかもしれない。だが今は違う。人を運ぶ船より、荷を運ぶ船の方が正直だ。重ければ重いと返し、無理なら無理だと揺れる。口先で誤魔化せるものではない。だから嫌いではなかった。
エンジンを回しかけたところで、外からアマニが走ってきた。頬を少し赤くして、荷札を一枚差し出す。
「エドワウ、待って」
彼はすぐにエンジンを落とした。
「どこだ」
「行き先欄、これ違う。南三じゃなくて南五」
荷札を受け取って目を落とす。確かに書き間違いだ。今なら一分で済む。だが、そのまま出していれば、後で三十分どころでは済まなかった。
「……危ないな」
アマニが書き直すのを待ち、受け取ってからもう一度計器を見る。
急ぐことと、慌てることは違う。
それを覚えたのは、誰かに教わったからではない。止まった便の数が、勝手に教えた。
シャトルが静かに浮き、港内の移動ルートへ出る。窓の向こうに工区の骨組みが流れていく。無機質な光の束、梁の影、まだ人のいない歩廊。朝のコロニーは美しいとは言いにくい。だが、動き出す前の一瞬だけ、巨大な機械の内臓のような静けさがある。
この中で、自分は生きている。
その思いは、時々妙に現実感がなかった。
詰所ではその間も、セイラが便を回し続けていた。
「この請求書、昨日分ね」
「はい」
「支払いは明日って言ってあるけど、今日来たら半分だけ渡して」
「わかりました」
無線が鳴る。
「北二、受け側文句言ってる。数が違うって」
セイラは帳面を見て答える。
「こっちは予定通り出してるって伝えて。控え番号言えばわかるはず」
「了解」
新人が控えの書き方を間違え、受け側と揉めかける。
「俺が書いたんですけど……」
青い顔で立っている若者に、セイラはすぐには手を出さなかった。
「じゃああなたが説明して」
「え」
「控え番号読んで、出した時間も言って。ゆっくりでいいから」
代わりに謝ることは簡単だ。だが、それでは同じ間違いがまた起きる。
若者がぎこちない声で無線に向かうのを、セイラは横で聞いていた。震えている。だが、最後まで言い切った。受け側の声も落ち着いた。
半年前なら、自分もこうやって立たされる側だったかもしれない、とセイラは思う。
今は立たせる側にいる。
それを嫌だとは思わない。ただ、優しいだけでは回らない場所へ来たのだと、時々遅れて実感する。
昼前、二便目の積み替えでコンテナが半端に噛んだ。
中途半端な角度で止まり、誰が引いても押しても動かない。焦った新人がもう一度アームを入れようとして、ミナに止められる。
「動かさないで。余計噛む」
そこへ戻ってきたエドワウが、何も言わずにモビルワーカーへ向かった。
機体は古いが、アームの動きはまだ素直だ。彼は乗り込むと一度だけ荷の傾きを見て、少し引く。いきなり持ち上げない。逃げ道を作ってから、角度を直し、ゆっくり圧を抜いていく。
荷の山が、ほんのわずかにほどけた。
それから持ち上げ、所定の位置へ置く。
降りてきて、新人にだけ言う。
「上げる前に、一回引け。先に逃がせ」
「……はい」
それ以上は言わない。
教えるとは、長く喋ることではない。
前の自分は、誰かにそうやって見てもらう立場だった。今は違う。間違えた手を、次には少しだけましにするための一言を渡す側だ。
自分がこんな場所まで来るとは、前世のどの時間に立っていても考えなかっただろう。
午後、ヤシマ建設の事務方がひとり、詰所へ顔を出した。
背広の襟元だけはきちんとしているが、目の下にうっすら疲れがある。紙束を抱えたまま、詰所の中を見回して口を開いた。
「またブラックキャットか」
文句のような言い方だが、机に置かれた紙束の厚みは、頼っている証拠だった。
「南米便、増える。細かいのはそっちに回る」
エドワウが紙を受け取る。
行き先、重量、期日。紙を追うだけで、今のシャトルでは厳しい便がいくつか混ざっているのがわかった。荷は多くない。だが、遅らせられないものばかりだ。
「上まで行くなら、次は降りる船がいる」
事務方が何気なく言う。
「金はかかるが、要るなら会長に言う」
それだけ残して去っていく。
降りる船。
その言葉が、紙より重く机に残った。
地球。
もう長く、ただの地名ではない。かつての逃避先であり、喪失の場所であり、名前を変えて生きた時間の底でもある。そこへ今度は、荷を積んだ船で降りるのか。
エドワウは紙を見たまま、少しだけ黙る。
嫌だ、とは思わなかった。
だが、何かがひとつ変わる気配はあった。
夕方、外の現場から戻ってきた古い工員が、水を飲みながら言った。
「さっき別区画でタツミ見たぞ」
誰かが手を止める。
「どうしてた」
「また揉めてたよ。荷の置き場所で」
それだけだった。
誰も迎えに行こうとは言わない。誰も「かわいそうだ」とは言わない。そういう場所ではないと、皆もう分かっている。
エドワウだけが、胸の奥で小さく息を吐いた。
速い人だった。口も回った。人あしらいも悪くなかった。
だが、速いだけでは残れない場所がある。口が回るほど、余計に残れない場所もある。
助けることと、抱え続けることは違う。
黒猫商会は人を拾うことはある。だが、人生の全部を受け持つ場所ではない。
その線引きが出来るようになったのも、この半年だった。
三本の便は、ぎりぎり全部通った。
だが、綺麗には終わらない。
人は疲れ、機械は悲鳴を上げ、支払いはまだ足りない。ミナは腰に手を当てたまま黙り込み、オーウェンは紙の隅に新しい抜け道を書き足し、リョウは今日止まりかけた箇所をまた別の紙へ写している。レイフは無言で締め具を戻し、カイロは最後まで受け側へ何か文句を言っていた。アマニは控えの角を揃え終えると、ようやく椅子に座る。
セイラは机で残金を数え、整備費の欄を見て少しだけ黙った。
外ではエドワウがシャトルの外板に手を当てている。
冷えた金属の感触が手のひらに返る。
大きくなった。
そう思う。
だが、足りない。
今日回ったのは、皆が知っている道の仕事だった。これが地球便まで混じれば、今のままでは持たない。人も、船も、金も。
空港区画の高い天井の向こうに、本当の空はない。それでも彼は上を見る。見えない地球の方角を思う。あの星へ、荷を積んで降りる船。自分がそれを操縦するのか。
もう驚きはない。
ただ、必要になる気がした。
夜、詰所に残ったのは二人だけだった。
灯りが減ると、昼のざわめきが嘘のように引いていく。紙の匂いと金属の匂いだけが残る。机の上には、南米便の紙が一枚、他の書類より少しだけ重そうに置かれていた。
セイラが帳面を閉じる。
「買うの」
その声は、軽くはないが深刻にも聞こえなかった。もう二人とも、必要なものが増えるたびに、先にため息をつく段階は過ぎていた。
エドワウはすぐには答えない。
紙を見て、それからセイラを見る。
彼女の頬には疲れがある。だが、目はまだ起きている。帳面を閉じても、頭の中ではもう次の便を見ている顔だ。
自分もたぶん、同じだ。
昔は先のことを考えるたび、もっと別の場所を見ていた。権力、家名、血筋、復讐。今は違う。次の便、次の船、次の支払い、次に雇う手。視界はずっと狭くなったはずなのに、その方が遠くまで見えることがある。
「要る」
ようやくそれだけ言った。
短い返事だったが、セイラには十分だったらしい。
「そう」
彼女はそれ以上言わなかった。
エドワウが立って、灯りを一つ消す。
暗くなった詰所の中で、南米便の紙だけがまだ机の上に白く残っていた。
「名前、どうするんだ」 とオーウェンが言って、皆で紙にいくつか書いている。
輸送商会
ヤシマ外縁輸送
工区間輸送所
そんな実務的な名前ばかり並んで、どれもしっくりこない。
そのときセイラが、 「黒猫、ってどう?」 と小さく言う。
「黒猫?」
「昔、黒い子猫を飼ってたの。名前がルシファーだった」
「ずいぶん大層な名前だな」
「小さかったわよ。すごく」
「じゃあ小さいのに偉そうな名前の会社になるな」 と誰かが笑う。
「いいじゃないですか。覚えやすい」
「黒猫なら、どこにでも入り込めそうだ」
「荷も人も、隙間に入っていく商会だな」