妹に撃たれない方法   作:Brooks

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はい、脱力した人手を上げて


第94話 黒猫の朝

 黒猫ルシファー・ロジスティクス商会の朝は、暗いうちから始まる。

 

 まだ外の通路に夜の冷えが残っている時間だった。工区の照明は落としきらず、遠くの搬入口だけが白く浮いて見える。薄い靄のように、機械油と金属の匂いが空気の底に沈んでいた。

 

 商会の詰所は、そうした朝の色の中でひとつだけ、先に起きた家のように明るい。

 

 壁際に置かれた机は揃いではない。古い帳場から流れてきたもの、工区の隅で使われなくなっていたもの、脚の長さが合わず下に板を噛ませたもの。椅子も同じで、背もたれのあるものと無いものが混じっている。だが、半年のあいだに増えたその数だけは、最初とは比べものにならなかった。

 

 壁には便の予定表が貼られ、その横に荷受けの控え、支払い待ちの札、整備予定の紙が重なるように留められている。誰かが急いで書き足した鉛筆の線、端の折れた紙、乾ききらずに掠れたインク。黒猫商会は、立派には見えない。だが、ここに毎朝集まる手の数だけは確かに増えていた。

 

 セイラは、もうその中心にいた。

 

 細い指で帳面を押さえ、昨日届いた請求書を左へ、今日の便の紙を中央へ、支払い待ちの分を右へ寄せていく。髪は後ろでまとめているが、朝の忙しさのせいで額のあたりに少しだけ短い毛が落ちていた。まだ若い顔立ちなのに、紙をめくる目つきだけが妙に落ち着いている。半年でついたものだ、とエドワウは思う。昔のセイラなら、数字を前にこんな顔は出来なかった。今は違う。誰が来て、誰が遅れ、どの便にいくらかかり、今日どこで金が足りなくなるかを、もう先に読んでいる。

 

 外では、エドワウがシャトルの腹の下にしゃがみ込んでいた。

 

 機体は大きくはない。軌道内の短距離輸送に使う、使い込まれた小型シャトルだ。塗装はところどころ剥げ、外板には細かい傷がいくつも走っている。それでも整備は行き届いていて、光の当たる部分だけは鈍く銀色を返していた。半年のあいだ、この機体は何度も便を落としそうになり、そのたびに誰かが寄ってたかって繋いできた。今ではそれが、黒猫商会そのものに見えることがある。

 

 整備手が機体の脇から顔を出した。頬に油がついている。

 

「右の姿勢スラスター、昨日ちょっと遅れたな」

 

 エドワウが言うと、整備手は工具を腰に戻しながら頷いた。

 

「調整してあります。今日は大丈夫です」

 

「燃料は」

 

「一便と二便分は入ってます。三便行くなら昼に足します」

 

「了解。じゃあ一便は俺が出す」

 

 整備手が外板を軽く叩く。エドワウも同じように機体の腹を叩いてから立ち上がった。もうその動きに迷いはない。初めて操縦席に座った頃は、手を伸ばす順番を頭の中で一つずつなぞっていた。今は違う。計器の並びも、癖のある反応も、足裏に返ってくる小さな振動も、体が先に覚えている。

 

 半年か、と彼は思う。

 

 半年前、ここにはまだ名前しかなかった。机も少なく、荷も少なく、人も少なかった。その代わり、何もかもが曖昧だった。今は違う。荷は増え、人は増え、機械も増えた。そのぶんだけ、落とせないものも増えた。

 

 それは悪いことではない。

 

 ただ、気を抜けば、あっという間に潰れるようになっただけだ。

 

 詰所の扉が開く。

 

 朝の空気をまとって、人が一人、また一人と入ってくる。

 

 ミナが最初に目に入る。長い脚でさっさと中へ入り、積み上げてあったコンテナをひと目見て眉を寄せた。肩幅は広くないが、立っているだけで周囲が少し狭く見える。髪を手早く耳にかけながら、低い声で言う。

 

「これ、下に軽い箱入れてるの誰」

 

 返事がない。

 

「崩れるわよ、これ。誰が積んだの」

 

 奥から、まだ寝癖の残った新人がそろそろと手を上げた。

 

「……俺です」

 

「次からは重いの下。覚えて。今日これ南三便だから、途中で崩れたら全部やり直しになるわ」

 

 言いながら、ミナはもう自分で箱を持ち上げている。手首の返しが無駄なく、ひとつ動かすたびに山の形が落ち着いていく。慎重すぎると言われた女は、今も慎重だった。だが、それで助かった便が、この半年に何本あったかエドワウは知っている。

 

 オーウェンはいつもの紙切れを壁に押しつけ、混雑箇所の線を書き足していた。髪は伸びるままにしているが、目だけは妙に冴えている。半笑いの口元で、地図とも落書きともつかない線を引く。

 

「昨日ここ混んでた。こっち回った方が早い」

 

 誰に聞かせるでもない口調だ。だが、その紙を見て動いた便が何本あるか、もう誰も数えていない。

 

 リョウは細身で、紙を持つ指がいつも静かだった。膝の上に帳票を広げ、昨日止まった便の理由を書き分けた紙をセイラの机へ置く。

 

「昨日の北二便、受け側の人数足りなかっただけでした」

 

「請求は予定通り出す?」

 

「出していいと思います。こっちは時間通り出してるんで」

 

「わかった。出すわ」

 

 言葉少なだが、リョウの仕事はもう誰にも見落とせなかった。前なら、直っていれば終わりだった。今は紙に残る。

 

 レイフは今日も危ない荷の札だけを先に拾っている。背の高い男で、黙って立っているだけなら少し怖く見える。だが、箱の縁に手を当て、締め具の位置を見ている時の目は、荒さとは遠い。危ない荷が危ないままで通らないのは、この男がいるからだ。

 

 カイロはもう無線で誰かとぶつかっていた。短く刈った髪、日に焼けた首筋、声の大きさ。こちらから一歩間違えれば喧嘩腰にしか見えないが、荷受け側で道をこじ開ける時、この男ほど頼れる者はいない。

 

「だから朝一は無理だって言ってるだろ。昼なら回す。昼なら回すって」

 

 怒鳴っているのに、どこかで相手が折れる間合いだけは外さない。

 

 アマニはそのすぐ脇で、荷札と控えを見比べていた。小柄で、目立つ方ではない。だが一度紙に視線を落とすと、その場から音が一つ減る気がする。数字が合わないとき、この少女が最初に気づく。

 

「セイラさん、この荷札、数が一個多い」

 

「どれ」

 

「この番号」

 

 セイラが帳面をめくり、指を止める。

 

「本当ね。誰か書き直した?」

 

 誰も返事をしない。

 

「じゃあ今直す。出す前でよかった」

 

 このやり取りが、もう黒猫商会の日常になっていた。

 

 止まりそうなものを、止まる前に拾う。

 

 大きな荷をどかんと動かす会社ではない。止まれば面倒なことになる荷、遅れた時に誰も責任を取りたがらない便、数がひとつ違うだけで半日潰れるような小さな仕事。黒猫商会は、そういうものばかりを相手にして大きくなってきた。

 

「南四便の受け、向こう誰でしたっけ」

 

 リョウが予定表を見たまま聞いた。

 

 セイラが帳面をめくる。

 

「前はタツミさんのところだったけど、今は別の人」

 

「タツミ、辞めたんでしたっけ」

 

 ミナが箱を持ち上げたまま言う。

 

「揉めて出たって聞いた」

 

 セイラはそれだけ言って、帳面に数字を書き込む。

 

「今どこにいるかは知らない」

 

 少しだけ空気が止まる。

 

 エドワウが外から入ってきて、その最後だけ聞いたらしい。

 

「……あの人、速かったんだけどな」

 

 それだけ言って、予定表の前に立つ。

 

 タツミの顔が、ふいに頭に浮かぶ。人当たりの柔らかさ、言い逃れのうまさ、動く時は速いのに、どこかで必ず誰かと噛み合わなくなる癖。助けようがなかったとは言わない。だが、誰か一人が手を貸したくらいで変わる人でもなかった。

 

 人は死ななくても、消える。

 

 この半年で、エドワウはそれを覚えた。

 

「一便俺。二便ミナ。三便リョウ。北はオーウェン回ってくれ」

 

「了解」

 

 誰もそれ以上タツミの話はしなかった。

 

 午前の便は三本が重なっていた。

 

 一つは居住区向けの生活設備部材。これが遅れれば、工区の先でまた誰かが待つ。  一つは工区の奥へ入れる重機の制御部品。小さいが、止まれば重機が動かない。  一つは地球降下便へ積み替える予定の機材。これだけは時間を外せなかった。

 

「人、足りるか」

 

 エドワウが予定表を見たまま言う。

 

「一人休み。熱」

 

 セイラが答える。

 

「二便の積み替え、ちょっときついわね」

 

「じゃあ一便戻ったら俺そっち回る」

 

「わかった」

 

 エドワウは短く答えて外へ出た。

 

 シャトルのハッチを開け、操縦席に体を滑り込ませる。古いシートは少し沈み込み、背に硬い感触が返る。計器をひとつずつ確認する。推力、燃料、荷重、姿勢制御。頭で数えるより先に、目と手が動く。

 

 これを、父が見たら何と言っただろう。

 

 そんな考えが一瞬よぎる。

 

 ダイクン家の長男が、古い輸送シャトルで朝一番の便を出している。

 

 昔の自分なら、屈辱だと思ったかもしれない。だが今は違う。人を運ぶ船より、荷を運ぶ船の方が正直だ。重ければ重いと返し、無理なら無理だと揺れる。口先で誤魔化せるものではない。だから嫌いではなかった。

 

 エンジンを回しかけたところで、外からアマニが走ってきた。頬を少し赤くして、荷札を一枚差し出す。

 

「エドワウ、待って」

 

 彼はすぐにエンジンを落とした。

 

「どこだ」

 

「行き先欄、これ違う。南三じゃなくて南五」

 

 荷札を受け取って目を落とす。確かに書き間違いだ。今なら一分で済む。だが、そのまま出していれば、後で三十分どころでは済まなかった。

 

「……危ないな」

 

 アマニが書き直すのを待ち、受け取ってからもう一度計器を見る。

 

 急ぐことと、慌てることは違う。

 

 それを覚えたのは、誰かに教わったからではない。止まった便の数が、勝手に教えた。

 

 シャトルが静かに浮き、港内の移動ルートへ出る。窓の向こうに工区の骨組みが流れていく。無機質な光の束、梁の影、まだ人のいない歩廊。朝のコロニーは美しいとは言いにくい。だが、動き出す前の一瞬だけ、巨大な機械の内臓のような静けさがある。

 

 この中で、自分は生きている。

 

 その思いは、時々妙に現実感がなかった。

 

 詰所ではその間も、セイラが便を回し続けていた。

 

「この請求書、昨日分ね」

 

「はい」

 

「支払いは明日って言ってあるけど、今日来たら半分だけ渡して」

 

「わかりました」

 

 無線が鳴る。

 

「北二、受け側文句言ってる。数が違うって」

 

 セイラは帳面を見て答える。

 

「こっちは予定通り出してるって伝えて。控え番号言えばわかるはず」

 

「了解」

 

 新人が控えの書き方を間違え、受け側と揉めかける。

 

「俺が書いたんですけど……」

 

 青い顔で立っている若者に、セイラはすぐには手を出さなかった。

 

「じゃああなたが説明して」

 

「え」

 

「控え番号読んで、出した時間も言って。ゆっくりでいいから」

 

 代わりに謝ることは簡単だ。だが、それでは同じ間違いがまた起きる。

 

 若者がぎこちない声で無線に向かうのを、セイラは横で聞いていた。震えている。だが、最後まで言い切った。受け側の声も落ち着いた。

 

 半年前なら、自分もこうやって立たされる側だったかもしれない、とセイラは思う。

 

 今は立たせる側にいる。

 

 それを嫌だとは思わない。ただ、優しいだけでは回らない場所へ来たのだと、時々遅れて実感する。

 

 昼前、二便目の積み替えでコンテナが半端に噛んだ。

 

 中途半端な角度で止まり、誰が引いても押しても動かない。焦った新人がもう一度アームを入れようとして、ミナに止められる。

 

「動かさないで。余計噛む」

 

 そこへ戻ってきたエドワウが、何も言わずにモビルワーカーへ向かった。

 

 機体は古いが、アームの動きはまだ素直だ。彼は乗り込むと一度だけ荷の傾きを見て、少し引く。いきなり持ち上げない。逃げ道を作ってから、角度を直し、ゆっくり圧を抜いていく。

 

 荷の山が、ほんのわずかにほどけた。

 

 それから持ち上げ、所定の位置へ置く。

 

 降りてきて、新人にだけ言う。

 

「上げる前に、一回引け。先に逃がせ」

 

「……はい」

 

 それ以上は言わない。

 

 教えるとは、長く喋ることではない。

 

 前の自分は、誰かにそうやって見てもらう立場だった。今は違う。間違えた手を、次には少しだけましにするための一言を渡す側だ。

 

 自分がこんな場所まで来るとは、前世のどの時間に立っていても考えなかっただろう。

 

 午後、ヤシマ建設の事務方がひとり、詰所へ顔を出した。

 

 背広の襟元だけはきちんとしているが、目の下にうっすら疲れがある。紙束を抱えたまま、詰所の中を見回して口を開いた。

 

「またブラックキャットか」

 

 文句のような言い方だが、机に置かれた紙束の厚みは、頼っている証拠だった。

 

「南米便、増える。細かいのはそっちに回る」

 

 エドワウが紙を受け取る。

 

 行き先、重量、期日。紙を追うだけで、今のシャトルでは厳しい便がいくつか混ざっているのがわかった。荷は多くない。だが、遅らせられないものばかりだ。

 

「上まで行くなら、次は降りる船がいる」

 

 事務方が何気なく言う。

 

「金はかかるが、要るなら会長に言う」

 

 それだけ残して去っていく。

 

 降りる船。

 

 その言葉が、紙より重く机に残った。

 

 地球。

 

 もう長く、ただの地名ではない。かつての逃避先であり、喪失の場所であり、名前を変えて生きた時間の底でもある。そこへ今度は、荷を積んだ船で降りるのか。

 

 エドワウは紙を見たまま、少しだけ黙る。

 

 嫌だ、とは思わなかった。

 

 だが、何かがひとつ変わる気配はあった。

 

 夕方、外の現場から戻ってきた古い工員が、水を飲みながら言った。

 

「さっき別区画でタツミ見たぞ」

 

 誰かが手を止める。

 

「どうしてた」

 

「また揉めてたよ。荷の置き場所で」

 

 それだけだった。

 

 誰も迎えに行こうとは言わない。誰も「かわいそうだ」とは言わない。そういう場所ではないと、皆もう分かっている。

 

 エドワウだけが、胸の奥で小さく息を吐いた。

 

 速い人だった。口も回った。人あしらいも悪くなかった。

 

 だが、速いだけでは残れない場所がある。口が回るほど、余計に残れない場所もある。

 

 助けることと、抱え続けることは違う。

 

 黒猫商会は人を拾うことはある。だが、人生の全部を受け持つ場所ではない。

 

 その線引きが出来るようになったのも、この半年だった。

 

 三本の便は、ぎりぎり全部通った。

 

 だが、綺麗には終わらない。

 

 人は疲れ、機械は悲鳴を上げ、支払いはまだ足りない。ミナは腰に手を当てたまま黙り込み、オーウェンは紙の隅に新しい抜け道を書き足し、リョウは今日止まりかけた箇所をまた別の紙へ写している。レイフは無言で締め具を戻し、カイロは最後まで受け側へ何か文句を言っていた。アマニは控えの角を揃え終えると、ようやく椅子に座る。

 

 セイラは机で残金を数え、整備費の欄を見て少しだけ黙った。

 

 外ではエドワウがシャトルの外板に手を当てている。

 

 冷えた金属の感触が手のひらに返る。

 

 大きくなった。

 

 そう思う。

 

 だが、足りない。

 

 今日回ったのは、皆が知っている道の仕事だった。これが地球便まで混じれば、今のままでは持たない。人も、船も、金も。

 

 空港区画の高い天井の向こうに、本当の空はない。それでも彼は上を見る。見えない地球の方角を思う。あの星へ、荷を積んで降りる船。自分がそれを操縦するのか。

 

 もう驚きはない。

 

 ただ、必要になる気がした。

 

 夜、詰所に残ったのは二人だけだった。

 

 灯りが減ると、昼のざわめきが嘘のように引いていく。紙の匂いと金属の匂いだけが残る。机の上には、南米便の紙が一枚、他の書類より少しだけ重そうに置かれていた。

 

 セイラが帳面を閉じる。

 

「買うの」

 

 その声は、軽くはないが深刻にも聞こえなかった。もう二人とも、必要なものが増えるたびに、先にため息をつく段階は過ぎていた。

 

 エドワウはすぐには答えない。

 

 紙を見て、それからセイラを見る。

 

 彼女の頬には疲れがある。だが、目はまだ起きている。帳面を閉じても、頭の中ではもう次の便を見ている顔だ。

 

 自分もたぶん、同じだ。

 

 昔は先のことを考えるたび、もっと別の場所を見ていた。権力、家名、血筋、復讐。今は違う。次の便、次の船、次の支払い、次に雇う手。視界はずっと狭くなったはずなのに、その方が遠くまで見えることがある。

 

「要る」

 

 ようやくそれだけ言った。

 

 短い返事だったが、セイラには十分だったらしい。

 

「そう」

 

 彼女はそれ以上言わなかった。

 

 エドワウが立って、灯りを一つ消す。

 

 暗くなった詰所の中で、南米便の紙だけがまだ机の上に白く残っていた。




「名前、どうするんだ」 とオーウェンが言って、皆で紙にいくつか書いている。

輸送商会
ヤシマ外縁輸送
工区間輸送所

そんな実務的な名前ばかり並んで、どれもしっくりこない。

そのときセイラが、 「黒猫、ってどう?」 と小さく言う。

「黒猫?」
「昔、黒い子猫を飼ってたの。名前がルシファーだった」
「ずいぶん大層な名前だな」
「小さかったわよ。すごく」
「じゃあ小さいのに偉そうな名前の会社になるな」 と誰かが笑う。
「いいじゃないですか。覚えやすい」
「黒猫なら、どこにでも入り込めそうだ」
「荷も人も、隙間に入っていく商会だな」
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