妹に撃たれない方法   作:Brooks

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暁の蜂起の前の原因となった事件。
ORIGINから味付け変えました。

腹黒兄妹は起きること知ってるわけで。。。


第98話 ルグラン号臨検事件

 

 ズムシティの夜は、灯りが多いわりに静かだった。

 

 行政区画の窓に並ぶ白い光は、遠くから見れば穏やかで、豊かな首都の夜景に見える。だが、その内側を歩く者にとっては別だ。夜の廊下には昼のざわめきがなく、空調の低い唸りと、磨かれた床を踏む靴音だけが残る。

 

 ギレンは最後の秘書を下がらせたあと、机の前に立ったまま窓の外を見ていた。

 

 星ではない。

 

 コロニーの内壁を這う人工の灯りだ。

 

 整いすぎた光景は、時に人を鈍くする。平穏が続いているように見せるからだ。だが本当に危うい時ほど、見える景色は整っている。崩れ始めるのは、たいてい視界の外からだった。

 

 扉が控えめに叩かれた。

 

「入れ」

 

 開いた扉の向こうから、キシリアが入ってくる。いつもの軍服姿で、襟元まで乱れはない。だがその目は、夜更けに兄の執務室へ来る時だけの目をしていた。結論を聞きに来るのではなく、確認をしに来る時の目だ。

 

「遅いわね、兄上」

 

「お前が早い」

 

 キシリアは軽く肩をすくめた。

 

「こういう話は、早い方が気分がいいもの」

 

 ギレンは机へ戻った。

 

 机の上には、紙がいくつも並んでいる。航路図、船舶登録、保険会社の支払い留保記録、港湾監督局の通達文、連邦軍駐屯部隊の交代表、そして聞き慣れぬ民間企業の名簿。

 

 キシリアは視線をそこへ落とし、すぐに分かった顔をした。

 

「ルグラン号ね」

 

「ああ」

 

 ギレンは一枚の紙を指先で押さえた。

 

 民間貨客船ルグラン号。サイド3向け定期便。乗客百四十六名。船員三十七名。積載は生活物資、学用品、医療品、工業部材、個人荷物。

 

 それ自体は珍しくない。

 

 だが、その名前の周囲に付いている紙が珍しくないことの方が、むしろ問題だった。

 

「そろそろ起きるな」

 

 ギレンが言うと、キシリアは頷いた。

 

「ええ」

 

「手は」

 

「入れてあります」

 

 返事は即座だった。

 

「事故そのものを止める気はありません。けれど、何が起きたかは拾えます」

 

 ギレンは黙って先を促す。

 

「船内記録、港湾通信、検査会社の端末、連邦側の命令系統。生き残りの証言も、拾えるようにはしてあります」

 

「そうか」

 

「ただし」

 

 キシリアは一枚の紙を抜いて机に置いた。検査委託会社の役員名簿だった。

 

「かなり腐っています」

 

「見れば分かる」

 

 元軍人。元監督官。上級官僚の縁者。聞いたことのある姓が、いくつも並んでいる。

 

 キシリアは淡々と続けた。

 

「現場責任者は港湾検査実績を欲しがっています。軍側の若い士官も、摘発を一つ欲しがっている」

 

「手柄が欲しいわけか」

 

「そうね。上に見せる紙が欲しい」

 

 ギレンは軽く鼻を鳴らした。

 

 紙のために人を止める。

 

 止めた人間が死ねば、次は責任の紙が必要になる。

 

 官僚機構の腐り方としては凡庸だ。凡庸であるぶん、よく燃える。

 

「ガルマは」

 

 ギレンが問うと、キシリアはすぐに答えた。

 

「今回は関わりません」

 

「士官学校の件も」

 

「先に人を入れてあります。門、通信、武器庫、医務室、それぞれに」

 

 ギレンは短く頷いた。

 

「ならいい」

 

 キシリアは兄の顔を見た。

 

「兄上は、ずいぶん静かね」

 

「騒ぐことでもない」

 

「そう」

 

 キシリアは机の端へ指を置き、軽く叩いた。

 

「今回は、よく燃えるわよ」

 

「そうだろうな」

 

 ギレンは紙の上の船名を見たまま言った。

 

「だが、ただ燃えるだけでは足りん」

 

 キシリアの口元が、わずかに動く。

 

「泣いて終わるだけなら、また同じことになる」

 

「ええ」

 

「何が起きて、誰が何を命じ、誰が先に逃げたか。それが残ればいい」

 

「残します」

 

 短い沈黙。

 

 窓の外の人工の灯りが、変わらず静かに並んでいる。

 

 事故は悲劇だ。

 

 だが悲劇は、放っておけば泣いて終わる。

 

 国家の形を変えるには、泣き声を怒りへ変える手が要る。今回必要なのは死者の数ではない。死に方だ。待てと言われて待ち、逃げるなと言われて残り、そのあいだに命令を出した者が先に退いた。そこまで残れば十分だった。

 

 ギレンは書類から目を離した。

 

「行け」

 

「ええ」

 

 キシリアは踵を返した。

 

 扉の前で一度だけ止まり、振り返る。

 

「前より静かにやるわ」

 

「前より広くな」

 

 キシリアは何も言わず、薄く笑って部屋を出た。

 

 扉が閉まる。

 

 ギレンは一人残り、もう一度ルグラン号の名が記された紙へ視線を落とした。

 

 民間船だ。

 

 だからこそよい。

 

 軍艦が沈めば、軍の話になる。

 

 民間船が死ねば、人の話になる。

 

 ルグラン号は、外から見れば地味な船だった。

 

 装飾のない船体。少し古い塗装。民間貨客船らしい、実用一点張りの胴。派手な旅客船のような華はない。だが、それでも船は船だ。長く宇宙を走ってきた者だけが持つ癖が、外板の傷や接合部の色に染みついている。

 

 船内も同じだった。

 

 狭い通路。少し擦り切れた床。壁に固定された簡素な手すり。旅を快適にする工夫より、荷を多く積むための工夫が勝っている。通路脇には、小さな私物の包みが網の中へ押し込まれ、客室の前には紙札の付いた箱がいくつも寄せられていた。

 

 定期便とはいえ、最近は荷が多い。

 

 誰もがそれを知っていた。

 

「また増えたな」

 

 貨物区画で箱の固定を見ていた船員が、汗を拭いながら言った。

 

 若くはない。目の端に深い皺がある。若い頃から同じ航路を走り続けてきた顔だ。

 

 隣でバンドを締めていた若い船員が、苦笑した。

 

「どの便も同じですよ」

 

「同じじゃ困るんだよ」

 

「空きがないんだから、仕方ないでしょう」

 

 年嵩の船員は固定具をもう一度引き、舌打ちを飲み込んだ。

 

「仕方なくても、箱は重くなるし、保険屋は口ばっかり増やす」

 

「監査も」

 

「監査もだ」

 

 若い方が箱の番号札を見た。

 

「生活物資、医療、学用品、工業部材……」

 

「軍需品はない」

 

「書類の上では、ですね」

 

「馬鹿を言うな」

 

 年嵩の船員は睨んだが、本気ではない。

 

「軍需だろうが何だろうが、こっちにとっちゃ荷だ。動けば同じだ」

 

「止まると違います」

 

「そうだな。止まると、俺たちだけ困る」

 

 二人は笑わなかった。

 

 笑うには、最近の航路は厳しすぎた。

 

 保険会社の調査、港湾監督局の追加確認、連邦側の「安全確保」の名目による待機命令。毎回何かが一つずつ増える。そのたびに船は遅れ、荷は増え、整備の時間は削られる。

 

 全部が少しずつだ。

 

 少しずつだから、誰も「これが原因だ」と言えない。

 

 だが船乗りには分かる。少しずつ積み重なった無理が、人を殺すのだ。

 

 上の客室では、別の空気が流れていた。

 

 通路に座り込んだ子どもが、膝の上の絵本を指でなぞっている。母親はその横で紙袋を抱え、少し疲れた目をしていた。サイド3へ戻る途中だ。向かいの座席には、工業学校の見習いらしい若者が二人、低い声で話している。

 

「本当に配属決まるのかな」

 

「行ってみなきゃ分からないだろ」

 

「サイド3の工場、今すごいらしいぞ」

 

「すごいって?」

 

「仕事が多い。どこも人が足りない」

 

 もう一人は肩をすくめた。

 

「人が足りないのに、検査と書類だけは増える」

 

「それはどこも同じか」

 

「そうだな」

 

 少し離れた席では、腰の曲がった老人が小さな荷札を何度も見直していた。孫の家へ持って行くつもりらしい。手作りの玩具が、包みの形から分かる。

 

 誰も戦争の話などしていなかった。

 

 連邦とサイド3の空気が悪いことは皆知っている。だが、それは船の中で口にする話ではない。人はまず、明日の仕事と、次の停泊と、戻れば会える顔のことを話す。

 

 ルグラン号は、そういうものを運ぶ船だった。

 

 だからこそ、よかった。

 

 停船命令が来たのは、予定の安定域へ入る前だった。

 

 艦橋に短い警報音が響き、通信士が顔を上げる。連邦側識別信号。巡洋艦一。随伴艇二。

 

 船長がすぐに前へ出た。

 

「こんな場所でか」

 

 通信士は頷く。

 

「連邦駐屯軍所属、臨時安全検査。停船命令です」

 

 船長は小さく舌打ちした。

 

「ふざけるな」

 

 だが、言葉はそこまでだった。怒鳴っても通信に残る。残る怒りは、後でこちらだけの責任になる。

 

「安定域までは何分だ」

 

「六分」

 

「向こうに伝えろ。こちらは姿勢制御中、安全上の理由により安定域まで待てと」

 

 通信士が送る。

 

 返答は早かった。

 

「連邦軍命令により、即時停船。検査艇接舷準備」

 

 船長の顔が硬くなる。

 

 若い副長が低い声で言った。

 

「危ないです」

 

「分かってる」

 

「今この姿勢でハッチを触られると、貨物側が」

 

「分かってると言ってる」

 

 船長は前を見たまま答えた。

 

「だから待てと言ってるんだ」

 

 だが待たなかった。

 

 返ってきたのは、命令の繰り返しだった。

 

 安全。検査。臨時措置。協力義務。

 

 言葉は整っている。整っているぶん、腹が立った。

 

 副長が歯を食いしばる。

 

「またですか」

 

「まただ」

 

「今度は何の疑いです」

 

「何でもいいんだろう」

 

 船長は静かに言った。

 

「紙が一枚欲しいだけだ」

 

 その頃、連邦側の検査艇では、別の会話が進んでいた。

 

 現場指揮を執る若い士官は、端末を見ながら苛立っていた。まだ三十に届くかどうか。制服は綺麗だ。だが目の焦点は落ち着かない。上へ出す実績のことを考えている時の目だ。

 

「停めました」

 

 部下が言う。

 

「よろしい」

 

 士官は頷いた。

 

「今日中に二件欲しい。一本は取る」

 

「危険域です」

 

 別の兵が言った。

 

「あと六分待てば」

 

「六分で逃げられたらどうする」

 

「民間船です」

 

「民間船だから通すのか」

 

 苛立った声だった。

 

 その横で、検査会社の責任者が薄く笑っていた。民間警備・検査会社《ハーディ・セキュア》。制服だけは軍に似ているが、袖の作りと襟章の付け方が少し安っぽい。

 

 男は端末の画面も見ずに言う。

 

「上へ報告するなら、停めたという実績が先です」

 

 若い士官が頷く。

 

「そうだ」

 

「安定域まで待っていたら、他の便に抜かれる」

 

「我々の仕事は安全確認でしょう」

 

 別の兵が言う。

 

 責任者はその兵をちらりと見た。

 

「安全確認のために停めているんだ」

 

「なら、なおさら」

 

「君は仕事の順番を知らんな」

 

 男はにこやかに言った。

 

「まず管理だ。安全は管理の中に含まれる」

 

 それは、現場を知らない者ほど好む理屈だった。

 

「乗り込む」

 

 若い士官が命じた。

 

「点呼と積荷確認を先に。違法物資の可能性がある」

 

「先に安全点検では」

 

「いいから動け」

 

 その一言で終わった。

 

 それが後に誰を殺すかを、誰もまだ数えていなかった。

 

 接舷は乱暴だった。

 

 連邦側の検査艇がルグラン号の側面へ寄り、固定が入る。その振動が船体を通じて伝わり、貨物区画で何本かの固定具が嫌な音を立てた。

 

「今のはまずい」

 

 年嵩の船員が言う。

 

 若い方が走り出す。

 

「締め直します!」

 

「一人で行くな、二人で行け!」

 

 艦橋からの指示が飛ぶ。だがその頃には、ハッチがもう開き始めていた。

 

 圧調整が完全には追いついていない。

 

 それでも開いた。

 

 検査会社の人間が先に入る。軍がその後ろ。順番まで最悪だった。

 

「船長はどこだ」

 

 責任者が言う。

 

「こちらだ」

 

 船長が前へ出る。

 

「この姿勢では危険だ。せめて貨物区画を――」

 

「積荷目録を」

 

 最後まで聞かない。

 

「まず乗客を落ち着かせろ。動かすな」

 

「動かすな、ではなく、危険区画から――」

 

「指示は我々が出す」

 

 責任者は船長の横をすり抜け、通路を見た。

 

「乗客は全員待機。点呼を取る。勝手に歩かせるな」

 

 その横で、若い連邦士官が頷く。

 

「違法積荷の可能性もある。貨物区画確認を優先」

 

 副長が思わず声を荒げた。

 

「今それをやるな!」

 

 すぐに兵が一歩前へ出る。

 

 空気が凍る。

 

 そこで船長が副長を手で制した。

 

「……分かった。だが、区画ごとの安全確認は船側がやる」

 

「必要なら後で」

 

 責任者はそう言って、後ろの部下に端末を出させた。

 

 必要なら後で。

 

 嫌いな言葉だ、と船長は思った。

 

 後で、が来た時には、もう手遅れなのだ。

 

 船内放送が流れた。

 

「乗客の皆様は、その場で待機してください」

 

 女の声だった。平静を装っているが、少し揺れている。

 

「ただいま安全確認中です。案内があるまで移動しないでください」

 

 通路の子どもが、母親を見た。

 

「どうしたの」

 

「大丈夫よ」

 

 母親はそう言った。

 

 本当にそう思っているわけではない。だが、他に何を言えというのか。

 

 工業学校の見習い二人も顔を見合わせる。

 

「また検査か」

 

「最近多いな」

 

「すぐ済むかな」

 

「済むだろ。待てって言ってるし」

 

 そう、待てと言われている。

 

 船の中で、制服と腕章を付けた者に待てと言われたら、多くの人間は待つ。従えば助かると思うからではない。逆らえばもっと悪くなると思うからだ。

 

 貨物区画では、その待機命令をあざ笑うように、固定具が一本外れた。

 

 重い箱がわずかにずれる。

 

「おい!」

 

 若い船員が飛びつく。

 

 もう一本も軋んだ。

 

 姿勢制御がわずかに乱れる。ハッチ開閉と接舷の負荷が、船体の癖と噛み合っていなかった。

 

 年嵩の船員が怒鳴る。

 

「戻れ! 上へ言え!」

 

 若い方は走った。

 

 だが上に行った時、検査会社の責任者は貨物目録をめくっていた。連邦士官は、その横で通信端末へ何か喋っている。

 

「貨物固定が外れます!」

 

 若い船員が言う。

 

「危険です、先に――」

 

「今確認中だ」

 

 責任者は顔も上げない。

 

「待機させろ」

 

「でも」

 

「持ち場へ戻れ」

 

 その時、別の下っ端検査員が小さく責任者の耳へ何か囁いた。

 

 帳簿の一部が合わないらしい。

 

 責任者の顔色が少し変わる。

 

「その箱はどこだ」

 

「貨物区画の後方列です」

 

「先にそこを開けろ」

 

 若い船員は呆然とした。

 

 そこではない。

 

 危ないのはそこではない。

 

 だが、男たちの頭の中では、もう別の優先順位が動いていた。

 

 まずい書類。積荷目録。責任。証拠。

 

 人命より先に守るものを、彼らは選び終えていた。

 

 最初の大きな揺れは、その数分後に来た。

 

 貨物区画の一列が崩れた。連鎖的に固定が外れ、重量物が隔壁を打つ。照明が一瞬消え、非常灯だけが赤く灯った。

 

 船内に悲鳴が走る。

 

 子どもが泣き、老人が転び、通路にいた数人が将棋倒しになる。

 

「その場を動くな!」

 

 どこかで男が怒鳴る。

 

 それが船員か、兵か、検査員か、一瞬では分からない。

 

 今動かなければ死ぬ場所で、人はなぜか「動くな」と叫ぶものだ。責任を持ちたくない時ほど、命令は単純になる。

 

 通路の先で、火花が散った。

 

 局所的な電源系統が死んだ。換気が乱れ、焦げた臭いが一気に流れる。

 

「母さん」

 

「大丈夫、ここにいて」

 

 母親は娘を抱き寄せた。

 

 工業学校の見習いの一人が立ち上がり、通路の先を見た。

 

「ハッチ、開いてる」

 

「行くな!」

 

 すぐに兵の声が飛ぶ。

 

「待機だ!」

 

「火が出てるぞ!」

 

「安全確認中だ、勝手に動くな!」

 

 そのやり取りの最中、検査会社の責任者は別のことをしていた。自分の部下に端末箱を渡し、低い声で言う。

 

「記録を先に持て」

 

「でも乗客が」

 

「いいから運べ」

 

 そこへ若い連邦兵が食ってかかった。

 

「先に避難誘導を」

 

「君は指揮官か?」

 

「しかし」

 

「命令系統を乱すな」

 

 若い士官もそちらへつく。

 

「乗客はその場で待機。勝手な脱出を許可するな」

 

「責任の所在が曖昧になる」

 

 その言葉が、若い兵の顔から血の気を引かせた。

 

 責任。

 

 今、この場で。

 

 まだその言葉を使うのか。

 

 使った。

 

 だから後で、よく燃える。

 

 局所減圧が始まったのは、その直後だった。

 

 貨物区画側の損傷が広がり、船内の一部で気圧が落ちる。通路の壁が悲鳴のような音を立て、ハッチの一枚が半開きのまま歪んだ。

 

 人が押し合う。

 

 誰かが転ぶ。

 

 誰かがその上に乗る。

 

 老人が起きられず、学生が抱き起こそうとする。母親が娘の頭を胸へ押しつける。船員が逆流する人の中を前へ押し返そうとする。

 

 だが、命令はまだ同じだった。

 

「待機してください」

 

「その場で待機してください」

 

 放送の女の声は、途中から震えていた。

 

 それでも止められなかった。上が止めないからだ。

 

 その声を聞きながら、人は死ぬ。

 

 ギレンは後で、その記録を聞くことになる。聞いて、悪くないと思う。悪くないのは死ではなく、記録の方だ。これほど分かりやすいものはない。

 

 貨物区画の後方では、検査会社の人間が箱を開けていた。

 

 違法物資でもなければ軍需品でもない。帳簿の辻褄が合わないだけだ。賄賂の名残だ。見つかれば、自分たちの方がまずい。

 

「早くしろ!」

 

「取れません!」

 

「端末だけ持て!」

 

 その横を、連邦側の退避艇確保班が走っていく。

 

 先に自分たちの道を確保する。人間としては正しい。組織としては最悪だ。

 

 若い兵は一度、乗客の方を振り返った。

 

 子どもが泣いている。

 

 通路で老人が動かない。

 

 学生が必死に何か叫んでいる。

 

 彼は一歩そちらへ出かけた。

 

「戻れ!」

 

 若い士官の声が飛ぶ。

 

「勝手な救助行動はするな!」

 

 兵は止まった。

 

 止まってしまった。

 

 その一瞬が何人分の命になるのか、彼はまだ知らない。

 

 ルグラン号は爆沈しなかった。

 

 それが救いであり、後の連邦にとっては不運だった。

 

 大破し、区画の一部を潰し、火災と減圧で多くを失ったが、船体の一部は残った。救助艇と、近くにいた民間支援艇が寄り、無傷ではない生存者を何人か拾い上げた。

 

 拾われた人間は泣かない。

 

 最初はたいてい、ただ呆けたような顔をする。

 

 母親は娘を抱いたまま、救助艇の床に座り込んでいた。娘は無事だった。だが、隣にいた老人のことを何度も振り返ろうとする。

 

「待てって言われたの」

 

 母親が小さく言う。

 

 誰に向けたのでもない。

 

「待ってれば、大丈夫だって」

 

 別の場所では、顔を切った学生が、救助員の腕を掴んでいた。

 

「まだ中にいる」 「先生が」 「ハッチ開いてたのに、出るなって」

 

 若い船員は、喉を焼いて咳き込みながら言った。

 

「軍の奴らが先に……」

 

 そこで言葉が切れる。

 

 全部言わなくても十分だった。

 

 同じ頃、別の救助艇では、機関の人間が静かに動いていた。

 

 救助員の腕章を付けた男が、焼け焦げた端末箱を開ける。別の女が、港湾通信の記録媒体を布の中へ隠す。さらに別の男が、検査会社の下っ端から奪うように手帳を受け取る。

 

 誰も騒がない。

 

 騒いだら仕事にならないからだ。

 

 悲鳴の中から拾うべきは、金や部品ではない。

 

 誰が何を言ったか。

 

 誰が先に逃げたか。

 

 それだけだ。

 

 後で人を怒らせるのは、血の量ではない。

 

 言葉の順番であることが多い。

 

 第一報がサイド3へ届いたのは、夜が明けるより前だった。

 

 ズムシティ港湾局の一室で、当直の事務官が顔色を変える。通信文は短い。事故。多数不明。臨検中。救助継続。詳細未詳。

 

 短いからこそ、悪いと分かる。

 

 その文が回り、さらに別の手を通って、待合区画の家族たちへ届く。

 

 まだ正式発表ではない。名前も全部は出ていない。だが、「ルグラン号」「事故」「臨検中」という三語だけで十分だった。

 

 港で待っていた女が立ち上がる。

 

「うちの人が乗ってるんです」

 

 係員はすぐに答えられない。

 

「まだ確認中で」

 

「乗ってるんです」

 

 女の声は大きくない。だが、通った。

 

 隣で、学生服の若い男が顔を上げる。少し離れた椅子では、老人が立とうとして立てない。待合区画にいた人間が、少しずつ同じ方向を向き始める。

 

 まだ怒りではない。

 

 まだ悲鳴にもなっていない。

 

 だが、空気は変わった。

 

 そして一度変わった空気は、もう元には戻らない。

 

 その朝、キシリア機関から上がってきた報告は薄かった。

 

 だが中身は十分だった。

 

 生存者証言あり。

 

 待機命令の船内音声あり。

 

 検査会社責任者による記録持ち出し確認。

 

 連邦側士官の「勝手な脱出を許可するな」音声断片、取得。

 

 ギレンは報告書を読み終え、紙を机へ戻した。

 

「そうか」

 

 それだけ言う。

 

 報告に来た男は、それ以上何も言わない。

 

 ギレンは窓の外を見た。

 

 まだ朝だ。ズムシティは動き始めたばかりで、街の表情はいつもと変わらない。

 

 だが、違う。

 

 今回は泣いて終わる事故にはならない。

 

 待てと言われて死んだ者がいる。助けろと言うより先に、責任と言い出した者がいる。先に退いた者がいる。そして、それが残った。

 

 それで十分だった。

 

「下がれ」

 

 男が一礼して出て行く。

 

 ギレンは一人になってから、もう一度報告書へ目を落とした。

 

 夜が明けるまでに、まだ名も知られていない死者たちの声は、もう記録の中に閉じ込められていた。

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