ORIGINから味付け変えました。
腹黒兄妹は起きること知ってるわけで。。。
ズムシティの夜は、灯りが多いわりに静かだった。
行政区画の窓に並ぶ白い光は、遠くから見れば穏やかで、豊かな首都の夜景に見える。だが、その内側を歩く者にとっては別だ。夜の廊下には昼のざわめきがなく、空調の低い唸りと、磨かれた床を踏む靴音だけが残る。
ギレンは最後の秘書を下がらせたあと、机の前に立ったまま窓の外を見ていた。
星ではない。
コロニーの内壁を這う人工の灯りだ。
整いすぎた光景は、時に人を鈍くする。平穏が続いているように見せるからだ。だが本当に危うい時ほど、見える景色は整っている。崩れ始めるのは、たいてい視界の外からだった。
扉が控えめに叩かれた。
「入れ」
開いた扉の向こうから、キシリアが入ってくる。いつもの軍服姿で、襟元まで乱れはない。だがその目は、夜更けに兄の執務室へ来る時だけの目をしていた。結論を聞きに来るのではなく、確認をしに来る時の目だ。
「遅いわね、兄上」
「お前が早い」
キシリアは軽く肩をすくめた。
「こういう話は、早い方が気分がいいもの」
ギレンは机へ戻った。
机の上には、紙がいくつも並んでいる。航路図、船舶登録、保険会社の支払い留保記録、港湾監督局の通達文、連邦軍駐屯部隊の交代表、そして聞き慣れぬ民間企業の名簿。
キシリアは視線をそこへ落とし、すぐに分かった顔をした。
「ルグラン号ね」
「ああ」
ギレンは一枚の紙を指先で押さえた。
民間貨客船ルグラン号。サイド3向け定期便。乗客百四十六名。船員三十七名。積載は生活物資、学用品、医療品、工業部材、個人荷物。
それ自体は珍しくない。
だが、その名前の周囲に付いている紙が珍しくないことの方が、むしろ問題だった。
「そろそろ起きるな」
ギレンが言うと、キシリアは頷いた。
「ええ」
「手は」
「入れてあります」
返事は即座だった。
「事故そのものを止める気はありません。けれど、何が起きたかは拾えます」
ギレンは黙って先を促す。
「船内記録、港湾通信、検査会社の端末、連邦側の命令系統。生き残りの証言も、拾えるようにはしてあります」
「そうか」
「ただし」
キシリアは一枚の紙を抜いて机に置いた。検査委託会社の役員名簿だった。
「かなり腐っています」
「見れば分かる」
元軍人。元監督官。上級官僚の縁者。聞いたことのある姓が、いくつも並んでいる。
キシリアは淡々と続けた。
「現場責任者は港湾検査実績を欲しがっています。軍側の若い士官も、摘発を一つ欲しがっている」
「手柄が欲しいわけか」
「そうね。上に見せる紙が欲しい」
ギレンは軽く鼻を鳴らした。
紙のために人を止める。
止めた人間が死ねば、次は責任の紙が必要になる。
官僚機構の腐り方としては凡庸だ。凡庸であるぶん、よく燃える。
「ガルマは」
ギレンが問うと、キシリアはすぐに答えた。
「今回は関わりません」
「士官学校の件も」
「先に人を入れてあります。門、通信、武器庫、医務室、それぞれに」
ギレンは短く頷いた。
「ならいい」
キシリアは兄の顔を見た。
「兄上は、ずいぶん静かね」
「騒ぐことでもない」
「そう」
キシリアは机の端へ指を置き、軽く叩いた。
「今回は、よく燃えるわよ」
「そうだろうな」
ギレンは紙の上の船名を見たまま言った。
「だが、ただ燃えるだけでは足りん」
キシリアの口元が、わずかに動く。
「泣いて終わるだけなら、また同じことになる」
「ええ」
「何が起きて、誰が何を命じ、誰が先に逃げたか。それが残ればいい」
「残します」
短い沈黙。
窓の外の人工の灯りが、変わらず静かに並んでいる。
事故は悲劇だ。
だが悲劇は、放っておけば泣いて終わる。
国家の形を変えるには、泣き声を怒りへ変える手が要る。今回必要なのは死者の数ではない。死に方だ。待てと言われて待ち、逃げるなと言われて残り、そのあいだに命令を出した者が先に退いた。そこまで残れば十分だった。
ギレンは書類から目を離した。
「行け」
「ええ」
キシリアは踵を返した。
扉の前で一度だけ止まり、振り返る。
「前より静かにやるわ」
「前より広くな」
キシリアは何も言わず、薄く笑って部屋を出た。
扉が閉まる。
ギレンは一人残り、もう一度ルグラン号の名が記された紙へ視線を落とした。
民間船だ。
だからこそよい。
軍艦が沈めば、軍の話になる。
民間船が死ねば、人の話になる。
ルグラン号は、外から見れば地味な船だった。
装飾のない船体。少し古い塗装。民間貨客船らしい、実用一点張りの胴。派手な旅客船のような華はない。だが、それでも船は船だ。長く宇宙を走ってきた者だけが持つ癖が、外板の傷や接合部の色に染みついている。
船内も同じだった。
狭い通路。少し擦り切れた床。壁に固定された簡素な手すり。旅を快適にする工夫より、荷を多く積むための工夫が勝っている。通路脇には、小さな私物の包みが網の中へ押し込まれ、客室の前には紙札の付いた箱がいくつも寄せられていた。
定期便とはいえ、最近は荷が多い。
誰もがそれを知っていた。
「また増えたな」
貨物区画で箱の固定を見ていた船員が、汗を拭いながら言った。
若くはない。目の端に深い皺がある。若い頃から同じ航路を走り続けてきた顔だ。
隣でバンドを締めていた若い船員が、苦笑した。
「どの便も同じですよ」
「同じじゃ困るんだよ」
「空きがないんだから、仕方ないでしょう」
年嵩の船員は固定具をもう一度引き、舌打ちを飲み込んだ。
「仕方なくても、箱は重くなるし、保険屋は口ばっかり増やす」
「監査も」
「監査もだ」
若い方が箱の番号札を見た。
「生活物資、医療、学用品、工業部材……」
「軍需品はない」
「書類の上では、ですね」
「馬鹿を言うな」
年嵩の船員は睨んだが、本気ではない。
「軍需だろうが何だろうが、こっちにとっちゃ荷だ。動けば同じだ」
「止まると違います」
「そうだな。止まると、俺たちだけ困る」
二人は笑わなかった。
笑うには、最近の航路は厳しすぎた。
保険会社の調査、港湾監督局の追加確認、連邦側の「安全確保」の名目による待機命令。毎回何かが一つずつ増える。そのたびに船は遅れ、荷は増え、整備の時間は削られる。
全部が少しずつだ。
少しずつだから、誰も「これが原因だ」と言えない。
だが船乗りには分かる。少しずつ積み重なった無理が、人を殺すのだ。
上の客室では、別の空気が流れていた。
通路に座り込んだ子どもが、膝の上の絵本を指でなぞっている。母親はその横で紙袋を抱え、少し疲れた目をしていた。サイド3へ戻る途中だ。向かいの座席には、工業学校の見習いらしい若者が二人、低い声で話している。
「本当に配属決まるのかな」
「行ってみなきゃ分からないだろ」
「サイド3の工場、今すごいらしいぞ」
「すごいって?」
「仕事が多い。どこも人が足りない」
もう一人は肩をすくめた。
「人が足りないのに、検査と書類だけは増える」
「それはどこも同じか」
「そうだな」
少し離れた席では、腰の曲がった老人が小さな荷札を何度も見直していた。孫の家へ持って行くつもりらしい。手作りの玩具が、包みの形から分かる。
誰も戦争の話などしていなかった。
連邦とサイド3の空気が悪いことは皆知っている。だが、それは船の中で口にする話ではない。人はまず、明日の仕事と、次の停泊と、戻れば会える顔のことを話す。
ルグラン号は、そういうものを運ぶ船だった。
だからこそ、よかった。
停船命令が来たのは、予定の安定域へ入る前だった。
艦橋に短い警報音が響き、通信士が顔を上げる。連邦側識別信号。巡洋艦一。随伴艇二。
船長がすぐに前へ出た。
「こんな場所でか」
通信士は頷く。
「連邦駐屯軍所属、臨時安全検査。停船命令です」
船長は小さく舌打ちした。
「ふざけるな」
だが、言葉はそこまでだった。怒鳴っても通信に残る。残る怒りは、後でこちらだけの責任になる。
「安定域までは何分だ」
「六分」
「向こうに伝えろ。こちらは姿勢制御中、安全上の理由により安定域まで待てと」
通信士が送る。
返答は早かった。
「連邦軍命令により、即時停船。検査艇接舷準備」
船長の顔が硬くなる。
若い副長が低い声で言った。
「危ないです」
「分かってる」
「今この姿勢でハッチを触られると、貨物側が」
「分かってると言ってる」
船長は前を見たまま答えた。
「だから待てと言ってるんだ」
だが待たなかった。
返ってきたのは、命令の繰り返しだった。
安全。検査。臨時措置。協力義務。
言葉は整っている。整っているぶん、腹が立った。
副長が歯を食いしばる。
「またですか」
「まただ」
「今度は何の疑いです」
「何でもいいんだろう」
船長は静かに言った。
「紙が一枚欲しいだけだ」
その頃、連邦側の検査艇では、別の会話が進んでいた。
現場指揮を執る若い士官は、端末を見ながら苛立っていた。まだ三十に届くかどうか。制服は綺麗だ。だが目の焦点は落ち着かない。上へ出す実績のことを考えている時の目だ。
「停めました」
部下が言う。
「よろしい」
士官は頷いた。
「今日中に二件欲しい。一本は取る」
「危険域です」
別の兵が言った。
「あと六分待てば」
「六分で逃げられたらどうする」
「民間船です」
「民間船だから通すのか」
苛立った声だった。
その横で、検査会社の責任者が薄く笑っていた。民間警備・検査会社《ハーディ・セキュア》。制服だけは軍に似ているが、袖の作りと襟章の付け方が少し安っぽい。
男は端末の画面も見ずに言う。
「上へ報告するなら、停めたという実績が先です」
若い士官が頷く。
「そうだ」
「安定域まで待っていたら、他の便に抜かれる」
「我々の仕事は安全確認でしょう」
別の兵が言う。
責任者はその兵をちらりと見た。
「安全確認のために停めているんだ」
「なら、なおさら」
「君は仕事の順番を知らんな」
男はにこやかに言った。
「まず管理だ。安全は管理の中に含まれる」
それは、現場を知らない者ほど好む理屈だった。
「乗り込む」
若い士官が命じた。
「点呼と積荷確認を先に。違法物資の可能性がある」
「先に安全点検では」
「いいから動け」
その一言で終わった。
それが後に誰を殺すかを、誰もまだ数えていなかった。
接舷は乱暴だった。
連邦側の検査艇がルグラン号の側面へ寄り、固定が入る。その振動が船体を通じて伝わり、貨物区画で何本かの固定具が嫌な音を立てた。
「今のはまずい」
年嵩の船員が言う。
若い方が走り出す。
「締め直します!」
「一人で行くな、二人で行け!」
艦橋からの指示が飛ぶ。だがその頃には、ハッチがもう開き始めていた。
圧調整が完全には追いついていない。
それでも開いた。
検査会社の人間が先に入る。軍がその後ろ。順番まで最悪だった。
「船長はどこだ」
責任者が言う。
「こちらだ」
船長が前へ出る。
「この姿勢では危険だ。せめて貨物区画を――」
「積荷目録を」
最後まで聞かない。
「まず乗客を落ち着かせろ。動かすな」
「動かすな、ではなく、危険区画から――」
「指示は我々が出す」
責任者は船長の横をすり抜け、通路を見た。
「乗客は全員待機。点呼を取る。勝手に歩かせるな」
その横で、若い連邦士官が頷く。
「違法積荷の可能性もある。貨物区画確認を優先」
副長が思わず声を荒げた。
「今それをやるな!」
すぐに兵が一歩前へ出る。
空気が凍る。
そこで船長が副長を手で制した。
「……分かった。だが、区画ごとの安全確認は船側がやる」
「必要なら後で」
責任者はそう言って、後ろの部下に端末を出させた。
必要なら後で。
嫌いな言葉だ、と船長は思った。
後で、が来た時には、もう手遅れなのだ。
船内放送が流れた。
「乗客の皆様は、その場で待機してください」
女の声だった。平静を装っているが、少し揺れている。
「ただいま安全確認中です。案内があるまで移動しないでください」
通路の子どもが、母親を見た。
「どうしたの」
「大丈夫よ」
母親はそう言った。
本当にそう思っているわけではない。だが、他に何を言えというのか。
工業学校の見習い二人も顔を見合わせる。
「また検査か」
「最近多いな」
「すぐ済むかな」
「済むだろ。待てって言ってるし」
そう、待てと言われている。
船の中で、制服と腕章を付けた者に待てと言われたら、多くの人間は待つ。従えば助かると思うからではない。逆らえばもっと悪くなると思うからだ。
貨物区画では、その待機命令をあざ笑うように、固定具が一本外れた。
重い箱がわずかにずれる。
「おい!」
若い船員が飛びつく。
もう一本も軋んだ。
姿勢制御がわずかに乱れる。ハッチ開閉と接舷の負荷が、船体の癖と噛み合っていなかった。
年嵩の船員が怒鳴る。
「戻れ! 上へ言え!」
若い方は走った。
だが上に行った時、検査会社の責任者は貨物目録をめくっていた。連邦士官は、その横で通信端末へ何か喋っている。
「貨物固定が外れます!」
若い船員が言う。
「危険です、先に――」
「今確認中だ」
責任者は顔も上げない。
「待機させろ」
「でも」
「持ち場へ戻れ」
その時、別の下っ端検査員が小さく責任者の耳へ何か囁いた。
帳簿の一部が合わないらしい。
責任者の顔色が少し変わる。
「その箱はどこだ」
「貨物区画の後方列です」
「先にそこを開けろ」
若い船員は呆然とした。
そこではない。
危ないのはそこではない。
だが、男たちの頭の中では、もう別の優先順位が動いていた。
まずい書類。積荷目録。責任。証拠。
人命より先に守るものを、彼らは選び終えていた。
最初の大きな揺れは、その数分後に来た。
貨物区画の一列が崩れた。連鎖的に固定が外れ、重量物が隔壁を打つ。照明が一瞬消え、非常灯だけが赤く灯った。
船内に悲鳴が走る。
子どもが泣き、老人が転び、通路にいた数人が将棋倒しになる。
「その場を動くな!」
どこかで男が怒鳴る。
それが船員か、兵か、検査員か、一瞬では分からない。
今動かなければ死ぬ場所で、人はなぜか「動くな」と叫ぶものだ。責任を持ちたくない時ほど、命令は単純になる。
通路の先で、火花が散った。
局所的な電源系統が死んだ。換気が乱れ、焦げた臭いが一気に流れる。
「母さん」
「大丈夫、ここにいて」
母親は娘を抱き寄せた。
工業学校の見習いの一人が立ち上がり、通路の先を見た。
「ハッチ、開いてる」
「行くな!」
すぐに兵の声が飛ぶ。
「待機だ!」
「火が出てるぞ!」
「安全確認中だ、勝手に動くな!」
そのやり取りの最中、検査会社の責任者は別のことをしていた。自分の部下に端末箱を渡し、低い声で言う。
「記録を先に持て」
「でも乗客が」
「いいから運べ」
そこへ若い連邦兵が食ってかかった。
「先に避難誘導を」
「君は指揮官か?」
「しかし」
「命令系統を乱すな」
若い士官もそちらへつく。
「乗客はその場で待機。勝手な脱出を許可するな」
「責任の所在が曖昧になる」
その言葉が、若い兵の顔から血の気を引かせた。
責任。
今、この場で。
まだその言葉を使うのか。
使った。
だから後で、よく燃える。
局所減圧が始まったのは、その直後だった。
貨物区画側の損傷が広がり、船内の一部で気圧が落ちる。通路の壁が悲鳴のような音を立て、ハッチの一枚が半開きのまま歪んだ。
人が押し合う。
誰かが転ぶ。
誰かがその上に乗る。
老人が起きられず、学生が抱き起こそうとする。母親が娘の頭を胸へ押しつける。船員が逆流する人の中を前へ押し返そうとする。
だが、命令はまだ同じだった。
「待機してください」
「その場で待機してください」
放送の女の声は、途中から震えていた。
それでも止められなかった。上が止めないからだ。
その声を聞きながら、人は死ぬ。
ギレンは後で、その記録を聞くことになる。聞いて、悪くないと思う。悪くないのは死ではなく、記録の方だ。これほど分かりやすいものはない。
貨物区画の後方では、検査会社の人間が箱を開けていた。
違法物資でもなければ軍需品でもない。帳簿の辻褄が合わないだけだ。賄賂の名残だ。見つかれば、自分たちの方がまずい。
「早くしろ!」
「取れません!」
「端末だけ持て!」
その横を、連邦側の退避艇確保班が走っていく。
先に自分たちの道を確保する。人間としては正しい。組織としては最悪だ。
若い兵は一度、乗客の方を振り返った。
子どもが泣いている。
通路で老人が動かない。
学生が必死に何か叫んでいる。
彼は一歩そちらへ出かけた。
「戻れ!」
若い士官の声が飛ぶ。
「勝手な救助行動はするな!」
兵は止まった。
止まってしまった。
その一瞬が何人分の命になるのか、彼はまだ知らない。
ルグラン号は爆沈しなかった。
それが救いであり、後の連邦にとっては不運だった。
大破し、区画の一部を潰し、火災と減圧で多くを失ったが、船体の一部は残った。救助艇と、近くにいた民間支援艇が寄り、無傷ではない生存者を何人か拾い上げた。
拾われた人間は泣かない。
最初はたいてい、ただ呆けたような顔をする。
母親は娘を抱いたまま、救助艇の床に座り込んでいた。娘は無事だった。だが、隣にいた老人のことを何度も振り返ろうとする。
「待てって言われたの」
母親が小さく言う。
誰に向けたのでもない。
「待ってれば、大丈夫だって」
別の場所では、顔を切った学生が、救助員の腕を掴んでいた。
「まだ中にいる」 「先生が」 「ハッチ開いてたのに、出るなって」
若い船員は、喉を焼いて咳き込みながら言った。
「軍の奴らが先に……」
そこで言葉が切れる。
全部言わなくても十分だった。
同じ頃、別の救助艇では、機関の人間が静かに動いていた。
救助員の腕章を付けた男が、焼け焦げた端末箱を開ける。別の女が、港湾通信の記録媒体を布の中へ隠す。さらに別の男が、検査会社の下っ端から奪うように手帳を受け取る。
誰も騒がない。
騒いだら仕事にならないからだ。
悲鳴の中から拾うべきは、金や部品ではない。
誰が何を言ったか。
誰が先に逃げたか。
それだけだ。
後で人を怒らせるのは、血の量ではない。
言葉の順番であることが多い。
第一報がサイド3へ届いたのは、夜が明けるより前だった。
ズムシティ港湾局の一室で、当直の事務官が顔色を変える。通信文は短い。事故。多数不明。臨検中。救助継続。詳細未詳。
短いからこそ、悪いと分かる。
その文が回り、さらに別の手を通って、待合区画の家族たちへ届く。
まだ正式発表ではない。名前も全部は出ていない。だが、「ルグラン号」「事故」「臨検中」という三語だけで十分だった。
港で待っていた女が立ち上がる。
「うちの人が乗ってるんです」
係員はすぐに答えられない。
「まだ確認中で」
「乗ってるんです」
女の声は大きくない。だが、通った。
隣で、学生服の若い男が顔を上げる。少し離れた椅子では、老人が立とうとして立てない。待合区画にいた人間が、少しずつ同じ方向を向き始める。
まだ怒りではない。
まだ悲鳴にもなっていない。
だが、空気は変わった。
そして一度変わった空気は、もう元には戻らない。
その朝、キシリア機関から上がってきた報告は薄かった。
だが中身は十分だった。
生存者証言あり。
待機命令の船内音声あり。
検査会社責任者による記録持ち出し確認。
連邦側士官の「勝手な脱出を許可するな」音声断片、取得。
ギレンは報告書を読み終え、紙を机へ戻した。
「そうか」
それだけ言う。
報告に来た男は、それ以上何も言わない。
ギレンは窓の外を見た。
まだ朝だ。ズムシティは動き始めたばかりで、街の表情はいつもと変わらない。
だが、違う。
今回は泣いて終わる事故にはならない。
待てと言われて死んだ者がいる。助けろと言うより先に、責任と言い出した者がいる。先に退いた者がいる。そして、それが残った。
それで十分だった。
「下がれ」
男が一礼して出て行く。
ギレンは一人になってから、もう一度報告書へ目を落とした。
夜が明けるまでに、まだ名も知られていない死者たちの声は、もう記録の中に閉じ込められていた。