ルグラン号の名前が正式に公表されたのは、事故から二日後の朝だった。
だが実際には、その前の夜のうちにほとんどの家族は知っていた。港湾局の待合区画、通信端末、船員組合の連絡網、学生寮の掲示板、どこか一つを通れば、すぐに別の場所へ広がる。正式発表というのは、ただ紙の上で順番を整えるだけの儀式に過ぎなかった。
ズムシティ港湾の待合区画には、朝から人が集まっていた。泣き崩れる者は少ない。むしろ、静かに座っている者の方が多かった。泣くという行為は、事実を完全に受け入れてしまった者がするものだ。まだどこかで「違うかもしれない」と思っている者は、泣けない。
係員が名前の書かれた紙を持って出てくるたび、空気が少しずつ重くなる。呼ばれた者は立ち上がり、別室へ入る。戻ってくる時の顔で、周りの者は全部分かる。
ある女が、係員の前で静かに立っていた。
「うちの娘の名前はありますか」
係員は紙を見た。すぐには答えられない。
「まだ確認中で」
女は首を振った。
「名前があるかどうかだけ、教えてください」
係員はもう一度紙を見た。指で行をなぞり、そこで止まる。
ほんの一瞬の沈黙だった。
女はそれを見て、もう分かった顔をした。
「……待てと言われたんですか」
係員は顔を上げた。
「え?」
「船の中で、待機してくださいって、言われたんですか」
係員は何も答えられなかった。
女はそれ以上何も言わず、ゆっくり椅子に座った。泣きも怒りもしない。ただ前を見て座っている。その姿の方が、周囲の人間の胸に重く落ちた。
少し離れた場所で、その様子を見ていた若い港湾労働者が、小さく呟いた。
「待てって言われて、死んだのかよ……」
その言葉は、誰か一人に向けたものではなかった。だがその場にいた人間のほとんどが、同じ言葉を頭の中で繰り返していた。
同じ頃、サイド1の港湾ブロックでも、昼休みの作業員たちが簡易食堂で端末の画面を覗き込んでいた。
画面には、ルグラン号生還者の証言の書き起こしが表示されている。誰が上げたのかは分からない。だが文章は短く、読みやすく、ところどころに赤線が引かれていた。
『船内放送で待機命令』 『ハッチが開いていたが、出るなと言われた』 『軍の人が先に退避路を確保』 『貨物区画の安全確認は後回し』
作業員の一人が端末を叩いた。
「またかよ」
「まただな」
「今度はサイド3の船か」
「次はどこの船だろうな」
別の男が言った。
「船じゃなくて、俺たちかもしれん」
誰も笑わなかった。
食堂の隅では、若い見習いがその文章を紙に書き写していた。
「何してる」
「寮に貼る」
「貼ってどうする」
「みんな読むだろ」
それだけだった。
扇動でも何でもない。ただ読ませるだけだ。だが読んだ人間は、自分の身に置き換えて考える。そこから先は、誰かが命じなくても勝手に動く。
サイド2の居住ブロックでは、主婦たちが共同端末の前に集まっていた。音声記録が再生される。
『乗客の皆様は、その場で待機してください』 『安全確認中です』 『案内があるまで移動しないでください』
放送の女の声は途中から少し震えている。それでも最後まで同じ言葉を繰り返している。
音声が終わると、誰もすぐには口を開かなかった。
一人の年配の女性が言った。
「この人も、悪くないわね」
「え?」
「放送してる人よ。上から言われたことを言ってただけ」
別の女が小さく頷く。
「悪いのは、止めた人ね」
「誰が止めたの」
「それを今、みんな探してるのよ」
その会話は静かだった。だが静かな会話ほど、長く残る。
サイド3では、最初の追悼集会が開かれた。
港湾近くの広場。簡易の台と、黒布をかけた机。花束。名前の書かれた紙。写真が何枚か立てかけられている。まだ全員分は揃っていない。
集まった人間は、労働者、学生、船員、遺族、ただの市民。誰が主催者なのかもはっきりしない。ただ「集まろう」という呼びかけがあって、人が来ただけだ。
遺族代表として前へ出たのは、港湾待合区画で係員に話しかけていたあの女だった。
彼女は紙を持たず、ただ前を見て話した。
「返してくださいとは言いません」
声は大きくない。だが広場の後ろまで届いた。
「返らないのは、もう分かっています」
少しだけ言葉を探すように間を置く。
「ただ、なぜ待たせたのかを教えてください」
それだけだった。
拍手も起きない。泣き声もない。ただ人々が黙って立っている。だがその沈黙の方が、怒号よりも重かった。
その追悼集会の様子は、すぐに他のサイドへ流れた。
映像は短い。花、黒布、名前、そして女の言葉。
『なぜ待たせたのかを教えてください』
その一文だけが、いくつもの端末にコピーされ、別のサイドの掲示板や寮の壁に貼られていく。
連邦駐屯軍の会議室では、別の空気が流れていた。
壁の端末に、各サイドの追悼集会の報告が並んでいる。
「同時多発です」
若い参謀が言った。
「サイド3だけではありません。サイド1、2、5でも追悼集会の呼びかけが出ています」
司令官は腕を組んだ。
「誰が扇動している」
「特定できません」
「自然発生か」
「おそらく」
別の士官が言う。
「放置すれば、反連邦運動に発展します」
「追悼集会だろう」
年配の士官が口を挟んだ。
「弔問くらいさせればいい。下手に触ると映像になる」
若い参謀が首を振る。
「集会の規模が大きくなっています。港湾労働者と学生が混ざっている。放置は危険です」
司令官が短く言った。
「早いうちに散らせ」
「流血は」
「最小限でいい」
「映像が出ます」
「映像になる前に終わらせろ」
その一言で、会議は終わった。
そこで誰も「やめた方がいい」と強く言えなかった。それが後で、もっと大きな問題になる。
最初の鎮圧が起きたのは、サイド5の港湾ブロックだった。
広場に黒布が並び、花が置かれ、名前が読み上げられている。追悼集会は静かに始まった。誰も叫ばない。誰も旗を振らない。ただ黙祷し、花を置き、遺族の話を聞くだけだ。
そこへ駐屯軍の車両が入ってくる。
兵が列を作り、拡声器が上がる。
「この集会は未許可です」 「直ちに解散してください」
誰も動かなかった。
港湾労働者の男が一歩前へ出る。
「弔いまで止めるのか」
兵は答えない。
「解散してください」
同じ言葉を繰り返す。
遺族の一人が花を持ったまま立っている。学生がその横に立つ。
兵が前へ出て、盾で押す。
群衆が少し下がる。
もう一度押す。
誰かが押し返す。
学生がバランスを崩して倒れる。
その上に別の人間がぶつかる。
母親が悲鳴を上げる。
警棒が振られる。
乾いた音がする。
倒れた学生の頭の横に血が落ちる。
それを見た瞬間、空気が変わった。
怒号が上がる。
「やめろ!」 「医者を呼べ!」 「何やってるんだ!」
兵が押し、群衆が押し返し、誰かがまた倒れる。
その様子を、誰かが端末で撮っていた。
その映像は、その日の夜までに、ほとんどのサイドへ届いた。
泣きながら子どもを抱く母親。 地面に倒れた学生。 警棒を振るう駐屯兵。 黒布と花が踏まれる。
長い動画ではない。十秒、二十秒の断片だ。だが断片の方が人の記憶に残る。
ズムシティの執務室で、キシリアは報告書を閉じた。
「早かったですね」
ギレンが言う。
「ええ。思ったより」
「死者は」
「まだ少ないです」
キシリアは少し間を置いて続けた。
「ですが、血は出ました」
ギレンは頷いた。
「それで十分だ」
窓の外では、いつもと同じ街の灯りが並んでいる。だがその内側で、人の感情の流れは確実に変わり始めていた。
「もう回しています」
キシリアが言う。
「夜明けまでには、全部のサイドに届くでしょう」
「士官学校は」
「今夜、火が入ります」
ギレンは短く息を吐いた。
「そうか」
少しだけ黙り、そして言う。
「前より静かだな」
キシリアはわずかに笑った。
「その方が、長く燃えますから」
ギレンも小さく頷いた。
怒号で始まる暴動は、早く終わる。
だが弔旗の下で始まる怒りは、長く続く。
その夜、士官学校の寮の廊下では、いくつかの部屋の灯りが消えなかった。
通信室の鍵が静かに開き、武器庫の帳簿が一枚抜かれ、医務室の当直が交代していた。
そして夜明け前、いくつかの門は、もう内側から閉じられていた。