妹に撃たれない方法   作:Brooks

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腹黒兄妹の暗躍は続く


第99話 弔旗の下

 

 ルグラン号の名前が正式に公表されたのは、事故から二日後の朝だった。

 

 だが実際には、その前の夜のうちにほとんどの家族は知っていた。港湾局の待合区画、通信端末、船員組合の連絡網、学生寮の掲示板、どこか一つを通れば、すぐに別の場所へ広がる。正式発表というのは、ただ紙の上で順番を整えるだけの儀式に過ぎなかった。

 

 ズムシティ港湾の待合区画には、朝から人が集まっていた。泣き崩れる者は少ない。むしろ、静かに座っている者の方が多かった。泣くという行為は、事実を完全に受け入れてしまった者がするものだ。まだどこかで「違うかもしれない」と思っている者は、泣けない。

 

 係員が名前の書かれた紙を持って出てくるたび、空気が少しずつ重くなる。呼ばれた者は立ち上がり、別室へ入る。戻ってくる時の顔で、周りの者は全部分かる。

 

 ある女が、係員の前で静かに立っていた。

 

「うちの娘の名前はありますか」

 

 係員は紙を見た。すぐには答えられない。

 

「まだ確認中で」

 

 女は首を振った。

 

「名前があるかどうかだけ、教えてください」

 

 係員はもう一度紙を見た。指で行をなぞり、そこで止まる。

 

 ほんの一瞬の沈黙だった。

 

 女はそれを見て、もう分かった顔をした。

 

「……待てと言われたんですか」

 

 係員は顔を上げた。

 

「え?」

 

「船の中で、待機してくださいって、言われたんですか」

 

 係員は何も答えられなかった。

 

 女はそれ以上何も言わず、ゆっくり椅子に座った。泣きも怒りもしない。ただ前を見て座っている。その姿の方が、周囲の人間の胸に重く落ちた。

 

 少し離れた場所で、その様子を見ていた若い港湾労働者が、小さく呟いた。

 

「待てって言われて、死んだのかよ……」

 

 その言葉は、誰か一人に向けたものではなかった。だがその場にいた人間のほとんどが、同じ言葉を頭の中で繰り返していた。

 

 同じ頃、サイド1の港湾ブロックでも、昼休みの作業員たちが簡易食堂で端末の画面を覗き込んでいた。

 

 画面には、ルグラン号生還者の証言の書き起こしが表示されている。誰が上げたのかは分からない。だが文章は短く、読みやすく、ところどころに赤線が引かれていた。

 

『船内放送で待機命令』 『ハッチが開いていたが、出るなと言われた』 『軍の人が先に退避路を確保』 『貨物区画の安全確認は後回し』

 

 作業員の一人が端末を叩いた。

 

「またかよ」

 

「まただな」

 

「今度はサイド3の船か」

 

「次はどこの船だろうな」

 

 別の男が言った。

 

「船じゃなくて、俺たちかもしれん」

 

 誰も笑わなかった。

 

 食堂の隅では、若い見習いがその文章を紙に書き写していた。

 

「何してる」

 

「寮に貼る」

 

「貼ってどうする」

 

「みんな読むだろ」

 

 それだけだった。

 

 扇動でも何でもない。ただ読ませるだけだ。だが読んだ人間は、自分の身に置き換えて考える。そこから先は、誰かが命じなくても勝手に動く。

 

 サイド2の居住ブロックでは、主婦たちが共同端末の前に集まっていた。音声記録が再生される。

 

『乗客の皆様は、その場で待機してください』 『安全確認中です』 『案内があるまで移動しないでください』

 

 放送の女の声は途中から少し震えている。それでも最後まで同じ言葉を繰り返している。

 

 音声が終わると、誰もすぐには口を開かなかった。

 

 一人の年配の女性が言った。

 

「この人も、悪くないわね」

 

「え?」

 

「放送してる人よ。上から言われたことを言ってただけ」

 

 別の女が小さく頷く。

 

「悪いのは、止めた人ね」

 

「誰が止めたの」

 

「それを今、みんな探してるのよ」

 

 その会話は静かだった。だが静かな会話ほど、長く残る。

 

 サイド3では、最初の追悼集会が開かれた。

 

 港湾近くの広場。簡易の台と、黒布をかけた机。花束。名前の書かれた紙。写真が何枚か立てかけられている。まだ全員分は揃っていない。

 

 集まった人間は、労働者、学生、船員、遺族、ただの市民。誰が主催者なのかもはっきりしない。ただ「集まろう」という呼びかけがあって、人が来ただけだ。

 

 遺族代表として前へ出たのは、港湾待合区画で係員に話しかけていたあの女だった。

 

 彼女は紙を持たず、ただ前を見て話した。

 

「返してくださいとは言いません」

 

 声は大きくない。だが広場の後ろまで届いた。

 

「返らないのは、もう分かっています」

 

 少しだけ言葉を探すように間を置く。

 

「ただ、なぜ待たせたのかを教えてください」

 

 それだけだった。

 

 拍手も起きない。泣き声もない。ただ人々が黙って立っている。だがその沈黙の方が、怒号よりも重かった。

 

 その追悼集会の様子は、すぐに他のサイドへ流れた。

 

 映像は短い。花、黒布、名前、そして女の言葉。

 

『なぜ待たせたのかを教えてください』

 

 その一文だけが、いくつもの端末にコピーされ、別のサイドの掲示板や寮の壁に貼られていく。

 

 連邦駐屯軍の会議室では、別の空気が流れていた。

 

 壁の端末に、各サイドの追悼集会の報告が並んでいる。

 

「同時多発です」

 

 若い参謀が言った。

 

「サイド3だけではありません。サイド1、2、5でも追悼集会の呼びかけが出ています」

 

 司令官は腕を組んだ。

 

「誰が扇動している」

 

「特定できません」

 

「自然発生か」

 

「おそらく」

 

 別の士官が言う。

 

「放置すれば、反連邦運動に発展します」

 

「追悼集会だろう」

 

 年配の士官が口を挟んだ。

 

「弔問くらいさせればいい。下手に触ると映像になる」

 

 若い参謀が首を振る。

 

「集会の規模が大きくなっています。港湾労働者と学生が混ざっている。放置は危険です」

 

 司令官が短く言った。

 

「早いうちに散らせ」

 

「流血は」

 

「最小限でいい」

 

「映像が出ます」

 

「映像になる前に終わらせろ」

 

 その一言で、会議は終わった。

 

 そこで誰も「やめた方がいい」と強く言えなかった。それが後で、もっと大きな問題になる。

 

 最初の鎮圧が起きたのは、サイド5の港湾ブロックだった。

 

 広場に黒布が並び、花が置かれ、名前が読み上げられている。追悼集会は静かに始まった。誰も叫ばない。誰も旗を振らない。ただ黙祷し、花を置き、遺族の話を聞くだけだ。

 

 そこへ駐屯軍の車両が入ってくる。

 

 兵が列を作り、拡声器が上がる。

 

「この集会は未許可です」 「直ちに解散してください」

 

 誰も動かなかった。

 

 港湾労働者の男が一歩前へ出る。

 

「弔いまで止めるのか」

 

 兵は答えない。

 

「解散してください」

 

 同じ言葉を繰り返す。

 

 遺族の一人が花を持ったまま立っている。学生がその横に立つ。

 

 兵が前へ出て、盾で押す。

 

 群衆が少し下がる。

 

 もう一度押す。

 

 誰かが押し返す。

 

 学生がバランスを崩して倒れる。

 

 その上に別の人間がぶつかる。

 

 母親が悲鳴を上げる。

 

 警棒が振られる。

 

 乾いた音がする。

 

 倒れた学生の頭の横に血が落ちる。

 

 それを見た瞬間、空気が変わった。

 

 怒号が上がる。

 

「やめろ!」 「医者を呼べ!」 「何やってるんだ!」

 

 兵が押し、群衆が押し返し、誰かがまた倒れる。

 

 その様子を、誰かが端末で撮っていた。

 

 その映像は、その日の夜までに、ほとんどのサイドへ届いた。

 

 泣きながら子どもを抱く母親。  地面に倒れた学生。  警棒を振るう駐屯兵。  黒布と花が踏まれる。

 

 長い動画ではない。十秒、二十秒の断片だ。だが断片の方が人の記憶に残る。

 

 ズムシティの執務室で、キシリアは報告書を閉じた。

 

「早かったですね」

 

 ギレンが言う。

 

「ええ。思ったより」

 

「死者は」

 

「まだ少ないです」

 

 キシリアは少し間を置いて続けた。

 

「ですが、血は出ました」

 

 ギレンは頷いた。

 

「それで十分だ」

 

 窓の外では、いつもと同じ街の灯りが並んでいる。だがその内側で、人の感情の流れは確実に変わり始めていた。

 

「もう回しています」

 

 キシリアが言う。

 

「夜明けまでには、全部のサイドに届くでしょう」

 

「士官学校は」

 

「今夜、火が入ります」

 

 ギレンは短く息を吐いた。

 

「そうか」

 

 少しだけ黙り、そして言う。

 

「前より静かだな」

 

 キシリアはわずかに笑った。

 

「その方が、長く燃えますから」

 

 ギレンも小さく頷いた。

 

 怒号で始まる暴動は、早く終わる。

 だが弔旗の下で始まる怒りは、長く続く。

 

 その夜、士官学校の寮の廊下では、いくつかの部屋の灯りが消えなかった。

 

 通信室の鍵が静かに開き、武器庫の帳簿が一枚抜かれ、医務室の当直が交代していた。

 

 そして夜明け前、いくつかの門は、もう内側から閉じられていた。

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