日本を脅かす上位存在の声が、引き籠りの幼馴染と同じなんだが 作:匿名
その日、日本全土の空が、突如として不気味な深紅に染まり上げた。
まるで世界の終焉を告げるかのような異常事態に、日本政府は即座に国家非常事態宣言を発令。しかし、人々のパニックを嘲笑うかのように、空の『赤』は局所的にそのおぞましい濃度を増していった。
最も色濃く、濃密な絶望が渦巻いていた場所——それは東京都江戸川区、葛西臨海公園の上空である。
どす黒い血でべったりと乱暴に塗り潰されたかのような空が、突如として巨大な渦を描き始めた。次元の境界が軋むような不快な重低音と共に、渦の中心から『それ』は顕現した。
一人の、女だった。
無機質で生気を感じさせない、灰色の肌。
その姿が政府の監視カメラに捉えられた瞬間、対策本部にいた首脳陣は総毛立ち、絶望に顔を歪めた。
間違いない。かつてユーラシア大陸の北半球、大国ロシア全土をたった一晩で地図から消し去り、壊滅させた絶対的上位存在——『魔人』と完全に一致する外見であった。
「ウゥゥゥゥゥゥッ!!」
国家の危機を知らせる国民保護サイレンが、鼓膜を劈くように鳴り響く。
つい先ほどまで家族連れやカップルで賑わっていた葛西臨海公園からは、蜘蛛の子を散らすように人影が消え去り、あとには不気味な静寂とサイレンの音だけが残されていた。
女型の魔人は、重力という概念を完全に無視したかのように中空を滑り、広大な公園の中心へと静かに移動する。
ふと、魔人が灰色の華奢な右手を掲げた。
次の瞬間、周囲の光が捻じ曲がり、彼女の手のひらに高密度の『黒い瘴気』が収束していく。それは、触れれば世界そのものが腐り落ちてしまいそうなほどの、純粋な破壊の塊だった。
魔人は、それをゴミでも捨てるかのように無造作に足元へと投下した。
——閃光。そして、天地を裏返すほどの轟音。
一切の衝撃波すら伴わない、絶対的な暴力。たった一撃で、東京湾に面した美しい公園は文字通り『消滅』し、跡形もなく抉り取られたような巨大なクレーターだけが穿たれた。
圧倒的な力による蹂躙。
日本という国家が滅亡の淵に立たされたその時、魔人は底知れぬ威圧感を放ちながら、日本全土の空気を震わせるほどの声でただ一言、こう告げた。
『——私を喜ばせなさい』
それは、抗うことなど到底不可能な、神託に等しきものだった。
#
首相官邸、地下危機管理センター。
壁一面を覆う巨大モニターには、ぽっかりと空いた葛西臨海公園のクレーターと、その上空で静止する魔人の姿が映し出されていた。
その部屋を満たしていたのは、かつてない濃度の絶望と——大いなる困惑であった。
「よ、喜ばせるだと……!? あの悪夢のような存在をどうやって……!?」
内閣総理大臣が、震える両手で頭を抱えながら呻いた。その顔は限界まで蒼白になり、脂汗が滝のように流れ落ちている。
「総理! ロシアの二の舞だけは絶対に避けねばなりません! 奴らは先制の核攻撃を行った結果、魔人の『怒り』を買い、一晩で国を地図から消されました!」
「分かっている! 物理攻撃など無意味だ、あのバケモノには一切の常識が通用しない! だが……『喜ばせる』とは一体何をすればいいんだ!? 要求が抽象的すぎるだろう!!」
総理の悲鳴に近い怒声に、居並ぶ閣僚や防衛省のトップたちは一斉に口をパクパクとさせた。
人類を滅ぼし得る存在が、領土を要求するでもなく、命を寄越せと言うでもなく、ただ「私を喜ばせろ」と告げたのだ。
前代未聞の事態に、国家の最高頭脳たちは完全にパニックに陥っていた。
「か、金か!? やはり現金でしょうか! 国家予算の半分を即座に引き出しましょう!」
「馬鹿を言え、上位存在が人間の紙切れを喜ぶはずがなかろう! 生贄だ! 神話の時代から、荒ぶる神を鎮めるのは若く美しい乙女と相場が決まっている!」
「バカヤロウ、現代の日本でそんな真似ができるか! それに、あの魔人は女型だぞ!?」
飛び交う怒号。白熱する議論。
国家の存亡を懸けた会議は、次第に迷走を極めていく。
「文化だ……我々が誇る日本の文化でのおもてなしだ!」
官房長官が血走った目で立ち上がった。
「人間国宝による能や歌舞伎を特設ステージで披露させろ! 同時に、三ツ星レストランのシェフを総動員して最高級の松阪牛を振る舞うんだ!」
「い、いや! 上位存在が古風なものを好むとは限りません! ここは最新のアイドルグループによるライブステージで……!」
「ええい、なら全部だ! 全部同時にやれ!!」
バンッ! と、総理が机を力任せに叩いた。
「いいか、相手の機嫌を損ねれば日本は終わる! 国庫を空にしてでも、ありとあらゆる『おもてなし』の限りを尽くせ!! エンタメ界、飲食界、伝統芸能、すべてだ! 各界のトップを今すぐ葛西へ向かわせろ!!」
かくして、日本政府は国家の威信と存亡を懸けた、壮大かつ的外れな『魔人接待オペレーション』を発動することとなった。
#
高校から帰宅した後、台所へ行くと、まるでお通夜のような空気だった。
テレビでは、どのチャンネルも「葛西臨海公園の消滅」と「女型の魔人」のニュースを、悲壮なBGMと共に繰り返し報じている。
画面の中のコメンテーターは、皆一様に青ざめた顔で「日本の終わり」を語っていた。
俺は、母親が作ったハンバーグを口に運びながら、ふと疑問を口にした。
「で、その魔人って今はどこにいるの?」
「姿をくらませたそうよ……」
母親が、テレビ画面から目を離さずに暗い声で答えた。
「でも、消える前に『また明日、この場所に来る』って言い残したんですって」
「そうか。じゃあ政府は今頃大パニックだな」
「大パニックどころじゃないぞ」
向かいの席で、父親が深刻な顔で腕組みをした。
「ニュースによれば、明日に向けて夜通しで『おもてなし』の準備をしているらしい。自衛隊だけじゃない、あらゆる業界のトップをかき集めているそうだ。……ああ、この国はどうなってしまうんだ」
両親はすっかり日本の行く末を憂いて、ため息をついている。
その一方、俺にはまったく現実味がなかった。
画面の向こうで起きている出来事は、まるで深夜アニメかハリウッド映画のワンシーンのようだ。
ここ埼玉のウチからだと葛西臨海公園なんて電車で軽く一時間以上はかかるし、窓の外はいつも通り平和な夜の闇が広がっている。
日本滅亡の危機と言われても、いまいちピンとこないのだ。
「ごちそうさま。俺、部屋戻るわ」
重苦しい空気の食卓から逃げるように、俺は早々に夕食を切り上げて自分の部屋へと向かった。
自室のドアを閉め、ゲーミングチェアにどさりと腰を下ろす。
とりあえずPCを立ち上げ、いつものようにコミュニケーションツール『Discord』を開いた。
参加しているサーバーはいくつかあるが、真っ先に目に入ったのは、とある個人サーバーだ。参加者は俺と、もう一人のたった二人だけ。
画面の右端で、『早苗』という名前のアカウントがオンラインを示す緑色に光っている。 すでにVC(ボイスチャット)部屋に入って待機しているようだ。
早苗——マンションの隣の部屋に住んでいる、16歳の幼馴染。
中学2年の頃から不登校になり、それ以来ずっと部屋に引き籠っている。
両親とは絶賛冷戦中らしく、まともに口を利く相手は、週に何度かこうしてVCを繋ぐ俺くらいのものだった。
マイク付きのヘッドセットを被り、通話ボタンをクリックする。
ポロロン、と軽い接続音が鳴った。
『……あっ。タクミ、来た』
「よお。今日も早いな」
『……別に早くないし』
ヘッドフォンから聞こえてきたのは、少し低めで、やる気の欠片もない気怠げな声だった。
『……暇だから、なんか話して』
「お前、いっつも暇だろ。たまには外出てみろよ」
『……いいから話してよ。どうせ、つまらない一日だったんでしょ? 勿体ぶらずに話して』
「はいはい」
俺は苦笑しながら、今日学校であった他愛のない出来事を話し始めた。
「袴田覚えてる? あいつ今日、遅刻してきたんだけどさ~。その理由、なんだと思う?」
「……そーいう質問されると、面白いこと言わなきゃってプレッシャーになる……。答えない」
相変わらずコミュ障だな。秒で会話が途切れてしまった。
「袴田の奴、先生に向かって『途中でズボンが破けてしまって、必死に隠しながら歩いてたら、遅れてしまいました!』って」
「えっ、本当に破けてたの……?」
「そんなわけない。ただの言い訳だよ」
ヘッドホンの向こうから、早苗の不満気な呼吸が聞こえる。
「……先生は許したの?」
「いや、『尻を見せてみろ!』って袴田の尻に顔を近づけて……」
「まさか──」
早苗が息を呑む。
「ちょうどその時、もう一人遅刻していた女子が教室の扉を開けたんだ。そして袴田の尻に顔を近づけている教師を見て『なんの授業!?』って叫んだの」
「……ふふふ……」
反応うしー。結構、盛り上がるように話したのに……。話題変えるか……。
「魔人のニュース見た? あいつ、明日また葛西に来るらしいぞ。政府が総出でご機嫌取りするらしいけど、ウケるよな」
『……ふーん』
「興味なしかよ。日本滅びるかもしれないんだぞ」
『それより、タクミ。ゲームしよ』
完全に話題を打ち切られ、早苗からブラウザゲームのURLが送られてきた。
最近二人でよくやっている『AIお絵描き採点ゲーム』だ。出されたお題に合わせて絵を描き、AIがその絵のクオリティを100点満点で採点するというシンプルなもの。
「よっしゃ、今日こそ俺が勝つ」
『……手加減しないからね』
ゲームがスタートする。今回のお題は『犬』だ。
俺はマウスを駆使して、それなりに見えるゴールデンレトリバーを描き上げた。AIの採点は『75点』。まあまあだ。VCで画面を共有し、早苗に見せる。
「よし、次は早苗の番な」
『……できたわ。完璧よ』
画面に、早苗が描いた絵が表示される。
そこにあったのは——犬、のような何かだった。足が五本あるし、顔はどう見てもエイリアンだ。
【AIの採点:12点。私の認識している犬とは別の生物です。認知が歪んでいます】
「ぶっ!!」
俺は腹を抱えて吹き出した。
「お前、相変わらず絵心なさすぎだろ! 足五本あるし、AIに認知が歪んでいます! って言われてるし!」
『う、うるさいっ! マウスの調子が悪かっただけだし!』
「いやいや、マウスのせいじゃないだろ絶対! 腹痛え……っ!」
『……っ、もう! 笑いすぎ!』
ヘッドフォン越しに、早苗の不機嫌そうな声が響く。
『もう、知らないからね!』
──プツンッ。
怒った早苗は、一方的に通話を切ってDiscordから落ちてしまった。
緑の消えたアイコンを見つめながら、俺は頭を掻いた。