日本を脅かす上位存在の声が、引き籠りの幼馴染と同じなんだが 作:匿名
魔人出現から、三日目。
日本という国家は、建国以来かつてないほどの絶望と疲弊の底に沈んでいた。
昨日、東京湾に浮かぶ広大な『中央防波堤埋立地』が一瞬にして消滅したという事実は、人類がこの理不尽な厄災に対して、いかに無力であるかを残酷なまでに証明していた。
次はどこが消し飛ばされるのか。東京か、それとも日本列島そのものか。
そして、運命の午前十時が訪れた。
秒針が頂点を指したその瞬間、葛西臨海公園跡地の上空が、ふたたびおぞましい深紅に染まり上がった。
どす黒い血をぶちまけたような空に、次元をねじ切るような巨大な渦が顕現する。大気が悲鳴を上げ、周囲の重力が狂ったかのように瓦礫がふわりと宙に浮き上がった。
圧倒的な威圧感と共に、渦の中心から『女型の魔人』がゆっくりと降臨する。
だが、その姿を捉えた監視カメラの映像を見た瞬間——現場を取り囲む決死のテレビクルーたち、そして地下対策本部の首脳陣は、一斉に戦慄の声を上げた。
魔人の顔が、歪んでいたのだ。
初日、二日目と、一切の感情を感じさせなかったあの無機質な灰色の貌に、明確な『表情』が浮かんでいた。
頬をわずかに緩ませ、口角をだらしなく引き上げたその表情。
人類の目には、これから始まるであろう一方的な大虐殺を待ちわびる、純粋な悪意と嗜虐心に満ちた『邪悪な笑み』にしか見えなかった。
「ひぃっ……!」
「あ、あああ……笑ってやがる……! 俺たちを皆殺しにする気だ……!!」
極限の恐怖に当てられ、中継車の影に隠れていた屈強なカメラマンの一人が、泡を吹いてその場に崩れ落ちる。
魔人は眼下の有象無象に目もくれず、背筋を凍らせるような笑みを浮かべたまま、すっと中空を滑って瓦礫の玉座へと腰を下ろした。
玉座についてなお、魔人の顔はニヤけたままであった。
いや、むしろその邪悪な笑みは、時間が経つにつれて深まっているようにすら見える。時折、自らの両手で顔を覆い、身をよじるような不可解な動作を見せた。まるで、内なる破壊衝動を抑えきれないかのように。
「ドローンを……ドローンを限界まで近づけろ! 奴の狙いを探るんだ!」
危機管理センターで、総理大臣が血の気を失った顔で叫ぶ。
決死の覚悟で、一機の高性能ドローンが羽音を殺しながら魔人の頭上へと接近した。超高感度マイクが、魔人の口元から漏れる微かな『呟き』を拾い上げ、それは日本全土のテレビへとリアルタイムで中継された。
『……ふふ……可愛いって……ふふ』
——静寂。
日本中が、いや、世界中がパニックに陥った。
「か、可愛い……!?」
「どういうことだ!? 一体何が『可愛い』のだ!? 人類が恐怖に逃げ惑う姿が小動物のようで可愛いとでも言うのか!?」
「昨日はあんなに不機嫌だったじゃないか! 魔人の情緒はどうなっているんだ!?」
閣僚たちが頭を抱え、絶望の声を上げる。
「ええい、議論している暇はない! 相手が『可愛い』と口にした以上、それに賭けるしかない!」
総理が血走った目で机を叩く。
「今すぐ、ありとあらゆる『可愛いもの』を用意しろ! 魔人の機嫌を損ねる前に、奴の言う『可愛い』を満たすのだ!!」
かくして、政府の壮絶な勘違いによる緊急オペレーションが発動された。
数十分後。
殺伐とした瓦礫のステージに放たれたのは、日本中のペットショップやブリーダーから緊急徴用された、数百匹の『愛くるしい子犬たち』であった。
ゴールデンレトリバー、ポメラニアン、トイプードル。首にリボンを巻かれた極上の子犬たちが、キャンキャンと無邪気な声を上げながら、サイバーパンク風のステージを縦横無尽に走り回る。
世界の終末と、無邪気な子犬。
あまりにもシュールで狂気的な光景が展開される中、政府の人間たちは祈るような思いでモニターを見つめていた。
しかし——魔人は、足元でじゃれつく子犬たちに一切の興味を示さなかった。
ただ宙の一点を虚ろな瞳で見つめ、頬を赤く染めながら、自らの両手で顔を覆い、もじもじと身をよじらせているだけだ。
『……ふふ……すっぴんでも可愛いって……へへ……』
時折、そんな呟きをマイクに拾わせながら。
政府が用意した『おもてなし』など視界の端にも入っていないかのように、魔人はただひたすらに、己の内なる世界に浸り続けていた。
やがて、東京湾の向こうに夕陽が沈み、辺りが薄暗闇に包まれ始めた頃。
魔人はふと我に返ったように立ち上がると、今日一日、結局一度も破壊の力を行使することなく、ふたたび空の渦の中へと静かに姿を消したのだった。