二○九六年六月中旬。一学期の前半を消化し終え、定期テストまで一ヶ月を切ったこの週末。
第三演習室には、二人の生徒がいた。
「桐原先輩、今日もよろしくお願いします」
「おう、よろしくな」
ぺこりと頭を下げる船尾に、桐原も軽く応じる。今日は週に一度、桐原から魔法を併用した高速走法の指導を受ける日だった。
四月中頃から始まったこの指導も、かれこれ二ヶ月を過ぎた。
その日も指導を行い、暫くして生徒会役員の二人が来た後に模擬戦をする。
なお、今日は審判が五十里、立会人に泉美だったため、船尾は僅かに肩を落としていたそうな。
そして、四人が解散する直前、船尾がこんな事を言いだした。
「次の模擬戦で俺に勝ったら、服部と三七上を紹介してほしい、ねぇ」
桐原は含みのある口調で、船尾の要求を繰り返す。
その目的は理解できる。
服部は最上級生ツートップの一角。何でもできるという、現代魔法が目指した姿の体現者だった。彼からなら様々なことを学べるだろう。
三七上ケリーという男子生徒も、復元力という物理法則を利用して相手の魔法を相殺する技術を得意としており、船尾の思考プロセスとも相性はいいはずだ。
フットワークを目当てに桐原へ指導を請うたように、船尾は二人からも学びたいことがあるのだろう。
「別に紹介すんのは構わねえが、俺に勝ったらって条件は無茶じゃねえか?」
二人は既に両手に収まらないほど模擬戦を重ねているが、勝敗は当然桐原の全勝。船尾も着実に成長しているが、それでもその差は歴然。
桐原の考えは驕りではなく、客観的な事実であった。
「いいえ」
船尾はそれを、真正面から否定した。
「実力差は承知しています。ですが、一度だけ勝つという条件なら、可能性は十分あるかと」
桐原は船尾の持つ力の全てを知っている訳ではないが、一発逆転を狙える大きな裏技は、持ち合わせていないように見える。
少なくとも自分ならば、どう頭を捻っても『可能性はある』というセリフは吐けなかった。
「いいぜ、その条件乗った」
だから逆に、桐原は了承した。何をするつもりなのか、興味に駆られて。
「それと、勝ったらなんて言わず最初から二人を呼ぼうぜ。あとで俺が説明するより、その目で見てもらった方が早い。いいだろ、五十里?」
「そうだね。それなら服部くんも三七上くんも、納得できると思う。また来週も申請は通しておくよ」
「五十里先輩、ありがとうございます」
五十里は船尾に微笑みを返し、手早く来週の実習室の予約を押さえた。
翌週、船尾はいつも通り桐原から指導を受ける。今までと違う模擬戦を控えて、過度に緊張や意識している様子もない。
「おっ、時間通りだな」
模擬戦の申請時間になると、演習室の扉が開く。
「悪いな二人とも」
「構わない、新入生の育成は上級生の役目だ。それに船尾とは山岳部で顔を合わせている、いずれ教えを請われるかもとは思っていた」
「そういやそうか」
言われて桐原は思い至る。去年の夏から山岳部に入った服部と、水波目当てで山岳部とお料理研を兼部している船尾。二人が顔見知りなのは当然と言えた。
船尾は紹介を求めてというよりかは、自身を売り込みにきたのだと、桐原は改めて理解する。
「三七上も、サンキューな」
「いやいい。俺も彼女の噂は聞いていたし、直接見るのは楽しみにしていた」
三七上ケリー。金色の髪に黒い肌という、珍しい色彩を持ったインド&ブリテン系の三年生。彼は船尾に視線をやり、笑みを浮かべている。
彼の戦闘スタイルを考えれば、魔法力の差を覆し同級生の『
その後、船尾が二人に挨拶をしてから、彼女と桐原は、演習室の中央から距離を取って向かい合う。
船尾はいつも通り、野外演習用のツナギ姿にコートを羽織っている。一方の桐原は制服姿のままだ。
服部が両者の間に立ちルールを説明する。
といっても説明すべきことはあまり無い。これは形式的なものだ。
服部が二人から離れ手を挙げる。
一気に高まる緊張感。桐原がわずかに身体を沈める。船尾は軽く息を吐いてただ合図を待つ。
当事者の二人以外、身動ぎ一つ、物音一つ立てない。静まり返った室内は、服部がスウッと息を吸い込む音まで聞こえる。
「始め!」
服部の声が、その静寂を破った。
最初に動いたのは桐原だった。
試合開始の合図から一瞬で、五メートルは離れていた距離を縮め、手に持つ竹刀を振るう。
船尾はそれを、触れることなく躱す。
桐原の得意魔法『高周波ブレード』。それに対抗しうる魔法を使わなければ、竹刀に触れた瞬間負け判定となる。
四月から続くこの模擬戦で、二人が決めていたルールの一つだった。
船尾が大きく下がることはない。
この模擬戦は、服部たちに船尾の価値を示すと同時に、桐原に教わっているフットワークを実践で使うためのもの。
模擬戦におけるもう一つのルール。彼女は三メートル以上離れないことを条件に課されていた。
間合いを取った船尾が、地面を軽く蹴りつけた。
演習室の床が揺れる。もっとも、少女の蹴りによって産み出される振動など有って無いようなものだ。その振動を魔法により増幅させ、更に方向性を与える。
人の意識を奪うほどのものではない。そこまで強力な魔法は、こんな高速に放てない。何より、その必要がない。
桐原の足取りがわずかに乱れる。
足下から身体を揺さぶられて、桐原は僅かに平衡感覚を狂わされた。計算し尽くした身体操作にズレが生じたのだ。
だが、彼は白兵戦において、一高トップクラスのエースだ。揺れる演習室の床にもすぐに適応した。
船尾が、桐原が床の感触に慣れるわずかな時間の隙を突いて、側面に回り込む。
桐原はそちらに踏み込もうとして、背後に魔法発動の気配を感じた。
『
圧縮した空気弾を放つ、攻撃性魔法の基礎技術とも言える魔法だ。
前方に船尾、後方に『空気弾』。
桐原は迷わず前進した。
くどいようだが、桐原は一高トップクラスの戦闘力の持ち主。白兵戦に限って言えば、五指に入ることは確実だった。
彼は背後からの『空気弾』を、目を向けず、魔法の気配のみを頼りに躱し、そのまま船尾へ斬り込んでいく。
攻撃を取り止めた船尾は、三メートルぎりぎりに距離を保ち回避する。そこまでは、前回の焼き直しだ。
だが船尾は今回、手首のCADを操作すると、懐から何かを取り出し、それを空中にばら撒いた。
(ピンポン玉サイズの鉄球、数は五つ)
桐原がそう認識した瞬間、五つの球のうち二つが突如速度を与えられ、彼に襲いかかってくる。
移動魔法により初速を与えられただけのシンプルな投擲。けれどそれを白兵戦で使うのは、中々に器用だと言える。
桐原は二つの鉄球を躱す。残る三つは魔法を掛けられることなく、床に落ちてゆく。
それを視界の端で確認、再び船尾に斬りかかろうとして──
(甘い香り……?)
桐原は、不自然な香りに気付いた。
匂いは情緒や記憶をダイレクトに刺激する。
それは戦闘中でも例外ではなく。桐原は一学年上、前風紀委員長の渡辺摩利。そのチョッと感心しない特技が頭をよぎった。
彼女は、気流を操作して複数の香料を鼻腔の嗅細胞に送り込み、心理的抵抗力を低下させる匂いを強制的に知覚させることで、違法な薬物を使わずに自白剤と同じ効果を生み出せたという。
桐原は慌てて息を止め、袖で鼻を覆った。──既に手遅れだったし、息を止めた程度で逃れられる魔法でもない。それでも反射として動いてしまった。
だが、十分に香料を吸い込んだはずの桐原、その意識に霞がかかることはない。それを訝しく思った次の瞬間──
──トンっと、胸に軽い衝撃が当たった。
船尾春花が、桐原の心臓の位置に掌を当てている。
元々白兵戦の間合いにいたのだ。香りに注意を奪われた、その一瞬で距離は消えていた。
術中に落ちた。そう桐原が自覚すると同時、体内に直接振動波を送り込まれ、意識を失った。
「今のはまさか……渡辺先輩の
審判としての判定を下すことを忘れ、服部は驚愕と叱責を声に載せて詰め寄る。
あの技術とぼかした言い方になったのは、この場には審判である服部と立会人のケリーしかいないとはいえ、摩利の特技は口にする事を憚られる類のものだからだ。
「いいえ。ただの香水を漂わせただけです」
それを船尾はあっさり否定する。
「その辺に売ってる香水が一種類、それを気流操作で桐原先輩の顔周辺に漂わせただけです」
「それでは何故桐原はあんなに焦った?」
服部の疑問は解消されず、一層強いものになった。もし本当にただの香水なら、戦闘中にああも隙を晒す真似をするはずがない。
「服部先輩が今、私に詰問してきたのと同じ理由です──去年の卒業生、渡辺摩利先輩の特異技術、匂いによる意識操作。その危険性をしっかりと認識していればいるほど、唐突に感じ取った甘い匂いを疑問に思い、敏感に反応します」
「知っているからこそ脅威になったと」
「はい。人は、意識しているものしか認識できませんから」
心理学では、「選択的注意(Selective Attention)」や「非注意性盲目(Inattentional Blindness)」として呼ばれている現象。
例えば猫好きは、いつもの通勤路で「あ、今日は三匹いる」と気付く。猫に興味がない人は、同じ道を歩いても猫の存在を覚えていない。
同じく通勤路で駅前のパチンコ店を通ったとして、パチンコ好きは「今日はイベント日だ」と一瞬で認識する。興味がない人は、何色ののぼりが立っていたかすら思い出せない。
どちらも視覚情報としては目に入っているけれど、脳が重要情報として扱っていない。
桐原は、摩利の特異技術を知っていた。知っていたからこそ、ただの甘い匂いを危険と認識してしまった。
「つまり、出来ること、知っていることが多くなれば、選択肢が増え、迷いが生まれると」
「はい。だから桐原先輩は咄嗟に鼻を塞いだ。目の前に私がいるのに、それを忘れるほどの危機感を覚えたから」
服部はなるほどと頷く。隣では三七上も感心した様子でいた。
「何故こんな戦い方を? ああいや、責めているわけではない。一年生からそういう思考に至る者は少ない、純粋に何故か疑問に思っただけだ」
「よかったです」
身構えた船尾に、服部は慌てて弁明する。船尾も安堵を浮かべた。
「それで、この戦い方を選んだ理由ですが……単純にカタログスペックだけで戦っても、勝ち目はないからですね」
「単純な魔法力だけなら、二人はそこまで大きな差はないと思うが」
服部は軽く質問を投げかけてみた。
実技試験における魔法力の評価は、魔法を発動する速度、魔法式の規模、対象物の情報を書き換える強度で決まる。
桐原の方が得意不得意に幅が大きく、船尾は満遍ないという違いはあるが、『カタログスペック』という意味では、圧倒的と言える差はない。──実習用の器具を前にして、その能力を十全に発揮できれば、の話だが。
「練度が違います」
船尾ははっきりとそれを否定した。
「特に今回は白兵戦、私は魔法無しでもそこそこ動ける方ですが、それも女子にしては。今の私が桐原先輩に勝つには、この手札しか思い付きませんでした」
思考を鈍らせ、その処理速度を遅らせる。選択肢を増やし、迷いを生ませる。
琢磨、香澄、泉美。一年トップスリーの尽くをなぎ倒してきた船尾春花の、格上殺しの理論だった。
服部はそこまで聞いて、船尾の戦術を改めて振り返る。
床を揺らす振動系魔法、一瞬の間隙に側面へ回り込んだこと、背後から放たれた『空気弾』。それら一つ一つが、桐原へ小さな認知負荷を積み上げている。
そして何より、ばら撒かれた五つの鉄球うち、何故二つだけを射出したのか。
五発飛んできたのなら、脅威度が増すだけの単純な攻撃になる。逆に二つしかばら撒かなければ、躱した瞬間に終わり。
残り三個という未解決情報を作ることで、桐原に「何も起きなかったこと」を確認させた。その確認行為自体に、注意力を使わせたのだ。
「だが、最後の香水は一回限りの作戦じゃないか? おそらく次からは通用しないだろう」
床に伏したままの桐原に対するフォロー、でもないだろうが、服部がそんな疑問を口にする。
しかし、
「そうですね」
船尾は再び、あっさりと肯定した。
「……渡辺先輩の技術を身に着け、ブラフであるただの香水と、本命の複数香料を迷わせるのか?」
「そんなことしないですよ。そもそも扱いが危険すぎますし、香水の掛け合わせ方も知りません。それに私の制御技術だと、相手の嗅細胞に直接匂いを送り込むなんて芸当も無理です」
それにより生じた服部の不安は、どうやら杞憂のようだった。
「今回の目的は、この一回で桐原先輩に勝つこと。服部先輩と三七上先輩に、私が教えるに値すると思ってもらうこと、ただそれだけ。再現性のある手札は、これから身につけていくつもりです」
お願い、できますでしょうか? と訊ねてくる船尾に、服部と三七上は目を合わせ、そして頷く。
一回限りの勝利。しかしその価値は、ただ奇策で上級生に勝ったというものではない。
船尾春花は、敵を知り、己に足りないものを理解している。その上で勝利を設計、実践で形にしてみせた。
──桐原に教わった足捌きを軸に、桐原には無い多彩な攻撃を形成し、最後は魔法ではない一手で決定機を作り出した。
勝負強さだけでなく、伸びしろを証明した一戦は、二人をその気にさせるには十分だった。
魔法科の原作にこういうキャラいないから描くの楽しい。
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