西暦2096年5月2日、水曜日。
GWの五連休を翌日に控えた第一高校。その一年生の間では、とある噂が流れていた。
──七宝琢磨が、心を入れ替えたらしい。
彼は今年の新入生総代であり、一年生の間では有名人だ。先日起こした騒動も、知っている同級生は多かった。
その傲慢を体現していた琢磨が、突如として振る舞いを変えたのだ。噂になるのも必然と言えた。
──いいや、上級生との勝負に負けそれに従っているだけだ。
──千葉エリカ先輩の鉄剣制裁を受け、清き道に目覚めた。
──今は大人しくしているが、その心根は上級生への下克上を企んでいる。
こういう噂は面白半分に広められ、悪意に基づくものも多い。そして
途中まで当事者だった七草香澄と七草泉美は、琢磨が心を入れ替えた事実を正確に把握していた。
琢磨はエリカに叩きのめされた、これは推測ではなく事実。そしてさらに、達也とエリカの模擬戦を目の当たりにしたことで、上級生の『強さ』を知ったのだ。
だが、喧嘩を吹っ掛けられた香澄は当然、巻き込まれた泉美も、琢磨に良い感情は持っていない。
誤解が広がるのを気の毒に思いながらも、殆ど自業自得だと。事実を話し、解消に動くつもりはなかった。
──船尾春花という女子生徒が、七宝琢磨をぶん殴り、クラスメイトの前で謝罪させたらしい。
だからこそ、放課後に突如流れた報せには、驚かざるを得なかった。
「香澄ちゃん、聞きましたか?」
「うん。船尾春花って子に、七宝が負けたんだよね」
その日、5月2日の夜。
夕食を済ませた後、泉美は香澄の部屋を訪れ、放課後のそれを訊ねていた。
「でも、正直信じられなくない? アイツ性格はともかく、魔法力だけは確かなわけだし」
「そうですわね。私と香澄ちゃんの二人で引き分けとなった七宝くんに、同級生、しかも
「うん……まあ、周りから面白可笑しく見られてて、アイツも疲れてたのかもしれないけどさ」
香澄も泉美も、船尾春花なんて名前は知らない。正確には知らなかった。
新入生に船尾春花という、桜井水波先輩のストーカー予備軍がいる。北陸から東京に来て、部活も合わせたやべーやつ──という話は耳にしたことがあった。
しかし高校入学前、七草家で開かれるパーティーや、中学では数少ない魔法競技の大会で、その名前を聞いたことはなかった。
全くの無名の魔法師が、師補十八家の次期当主を下したというのは、普通なら冗談だと笑い飛ばされる類の話だ。
だがその噂は、GWに向けた浮つきを掻き消すほど、一瞬で校内に広がった。
あれが嘘であるとは考えづらい。
「噂を聞いた限りでは、七宝君は船尾春花さんに殴られ、尻もちをついたそうですね」
「それ本当!?」
「ええ。A組の生徒から聞いた話ですので、おそらく事実かと」
「うわー、ボクもそれ見たかったなぁ」
「香澄ちゃん、あまりそういう事を言ってはいけませんよ」
「はいはい。でもアイツが尻もちついたのが本当だとして……本音としては、やっぱりボクがぶっ飛ばしてやりたかったよ」
絨毯の上に座り込んでクッションを抱えていた香澄が、仮想琢磨とでもしたのかそのクッションを床に二、三度叩きつけて、その内心を表明した。
「それはそうと、その船尾って子、休み明けに話し掛けてみよっか」
「構いませんが……香澄ちゃん、何が目的ですか?」
「やだなぁ泉美、単なる興味だって」
ジト目で疑いを向けてくる泉美に、香澄はクッションに拳を叩きつけながら力説する。
「そりゃアイツに勝ったって言うのもあるけどさ、魔法戦でわざわざぶん殴るなんて、絶対面白い子じゃん」
「それは、そうですわね……船尾さん本人が苛立ちを抱えていたのか、それともクラスメイトの代弁として形にしたのか。どちらにせよ、意図的なことに変わりはないでしょう」
「でしょ? ボクの予想では両方だと思うんだ。それにGW前に滑り込みで模擬戦したのも、噂を長引かせないためなんじゃないかなって」
「連休中に噂が広がるのを避ける、むしろ連休を挟むことでクラスの意識をリセットするため……もしそうだとすれば、かなり強かな人だと思われますね」
「ねー」
二人は未だ見ぬ女子生徒に思いを馳せながら、連休が明けるのを楽しみにしていた。
◆
5月7日、GWが終わり、校内の雰囲気が少しずつだらけるはずのこの日。一年A組だけは様子が違った。
「あははは! 七宝、アンタなにそれ!」
一時限目の終わりに、とある噂を聞きつけA組に向かった香澄は大笑いしていた。
「香澄ちゃ、笑ってはいけませんよ……っ」
「泉美も笑ってるじゃん……ぷっ」
物見高い姉についてきた泉美も、口では窘めつつ笑いを堪えきれていない。
「うるさいぞ、七草たち」
「いやだって、アンタなにその顔」
そう、琢磨の顔には、幾つかの落書きが並んでいた。黒いペンで眉を太く繋がれ、鼻頭が黒く塗られ、両頬には『反省中』『改心しました』の文字。
琢磨のぶっきらぼうな態度も相まって、香澄たちの笑いはしばらく収まらなかった。
「あ〜、笑った笑った……これ、面白いけどちゃんと落ちるの? アイラインとは違うんでしょ?」
「フェイスペイント用で、洗えばすぐ落ちるらしい」
「へー」
香澄も泉美も、顔への落書きという罰ゲームがあるのは知っていたが、実際にやったことはない。フェイスペイント用の黒ペンの存在も初めて知った。
「これは模擬戦で負けた罰なのですか?」
「ああ。これから一週間、学校にいる間は消さない」
「うわぁ……」
香澄と泉美は、可哀想な者を見る目で琢磨を見る。いくら気に食わない相手とは言え、さすがに一欠片程度の同情は湧いた。
「船尾春花って子に描かれたの?」
「ああ、あいつなら向こうにいるぞ。どうせそっち目当てなんだろう、さっさと行け」
「はいはい」
これ以上笑われては勘弁という琢磨に、香澄も素直に従う。
琢磨の異様な顔と香澄の爆笑により目立っていたため、クラスメイトは双子の目的が船尾春花にあると理解していた。その視線を追えば、目的の人物は自ずと見つかる。
「初めまして、私は七草香澄。船尾春花さん、でいいんだよね?」
「うん、合ってるよ。よろしくね、七草さん」
そうして、
◇◇◇
琢磨への落書きは、宣言通り一週間続いた。
白塗りメイクに真っ赤な口紅。老人風に顔中に描き込まれたシワ。酔っぱらいと疑うほど自然に赤い頬。一度だけ真面目に化粧を施されていた日もあった。
日替わりで描かれるそれと、その醜態を甘んじて受け入れる琢磨の姿は、彼が本当に反省しているのだと、笑いと共に教えてくれた。
その立役者である船尾春花を一言で表すとすれば『フッ軽』だった。
決して落ち着きがないわけではない。だが掛け持ちの部活動、上級生との交流、彼らからの指導。その華奢な身体から想像できないほど、本当によく動いた。
自然、生徒会として役目がある泉美よりも、放課後がほぼ丸々空いている香澄の方が、船尾と過ごす時間は長くなる。快活な香澄との相性も良く、二人はすぐに打ち解けた。
そして、初対面から二週間が経った頃、香澄は船尾に模擬戦を挑んだ。
否、少なくとも香澄は『挑んだ』という意識はない。琢磨に勝ったという実力を見てみたいという好奇心を抑えきれなくなったのだ。
「それではルールを説明します。この試合はノータッチルールで行います」
場所は第二演習室、縦に長く、中距離魔法戦を想定した部屋だ。床は青と黄色で前と後ろに色分けされており、前後の壁から一メートルのエリアは赤く塗られている。
青のエリアに香澄、黄色のエリアに船尾。二人とも制服から動きやすい実習服──厚手の生地でできた長袖足首丈のツナギに着替えていた。なお、船尾はその上にコートを羽織っている。
審判は深雪、立会人はエリカ。そして双子の妹である泉美と、船尾が誘った琢磨もこの場にいる。
深雪は青と黄色の境界線に立ち、二人の意識が自分に向いていることを確認しながら、説明を続ける。
「色分けされたエリアの外に出てはならない。相手のエリアに入るのも、赤のエリアに出るのも失格となる。相手の身体に触れるのも禁止です。
直接攻撃、間接攻撃を問わず相手を死に至らしめる術式は禁止。回復不能な障碍を与える術式も禁止。相手の肉体を直接損壊する術式も禁止です。ただし、捻挫以上の負傷を与えない直接攻撃は許可します。
勝敗は一方が負けを認めるか、審判が続行不能と判断した場合に決します。
双方、合図があるまでCADを起動しないこと。このルールに従わない場合は、その時点で負けとします」
香澄と船尾、双方が頷く。
「では、構えて」
香澄はエリアの中央に移動した。
船尾は境界線近くから動かず、その場で軽く跳躍する。
深雪はエリカたちのいる壁際に下がり、右手を頭上に挙げ、そして勢い良く振り下ろす。
「始め!」
「へえ、やるじゃない」
「千葉先輩から見ても、船尾さんの自己加速術式の練度は高いのですか?」
立会人であるエリカが漏らしたそれに、泉美が訊ねる。
「そうね、速度に振り回されず、ちゃんとコントロール出来てる。まあ一年生にしたらって話だけど」
エリカは目の前の魔法戦から目を逸らさず答えた。
香澄は移動系魔法を主体に、船尾本人を対象としたり空気の塊を動かして突風を船尾にぶつけたりしている。場外勝ちを狙った戦い方だ。
一方の船尾は、それを『情報強化』と自己加速術式を併用して対処している。暴風に晒されても乱れない足取りは、一年生にしては上出来とエリカは見ていた。
単に移動速度や加速度を競うだけならば、魔法力の差で香澄のほうが上だろう。
だが魔法で加速した状態で思いどおりに身体をコントロールする鍛錬とセンス、つまり魔法で加速させられているのではなく自己加速魔法を使いこなしているという点では、船尾のほうが上なのだろう。
「ただ船尾の方も、香澄の防御を抜けなさそうね」
香澄は、試合開始から一歩も動いていない。身体をそこまで鍛えておらず、移動主体の戦法でないというのもあるだろうが、それ以上にその必要がないのだ。
船尾の攻撃は、試合開始直後から無系統魔法の一種類のみ。
『
幻覚による痛みを与えて相手の戦闘力を殺ぐ魔法だ。徐々にダメージを与え、決め手となる魔法を放つ隙を作るつなぎ技の術式。
この魔法は、一撃で相手を完全に無力化するような強力な魔法ではない。しかも香澄の展開する想子の防壁を突破できるほどの強度もないように見える。
このままいけば、いずれ地力の差──魔法力の差が浮き彫りになる。
「ま、あの子が何をするか、じっくり見てましょ」
だがエリカは、そうはならないだろうと思っていた。
琢磨に勝ったという事実だけではない。彼女の観察眼が、船尾が何の策もなしに模擬戦に臨んでいるわけではないと、そう見抜いていた。
そんなエリカの解説を聞きながら、琢磨はいずれ成し遂げるリベンジのため、船尾の戦いを静かに見つめていた。
尊敬するエリカの評価が聞こえたわけではないが、香澄は「このままでは勝ちきれない」と感じ始めていた。
魔法を編み上げる傍ら、突破口を求め知恵を絞る。
彼女は、自分の魔法力が劣っているとは感じていない。驕りではなく客観的な事実として、香澄に比肩する同級生は、琢磨と泉美の二人だけだ。
とはいえ、その同級生相手に、香澄の攻撃は尽く躱され、対処されている。一発でもまともに当たればそのまま勝ちに繋がるのに、その一発が当たらない。
魔法力の差を、練度で埋められている。
微かに、香澄の脳に痛みが走る。
傷を伴わない、幻の痛みだ。『想子ウォール』を展開し、無系統魔法に備えているはずなのに、ダメージが少しずつ蓄積されていく。
(それだけ元々の『幻衝』の威力が高い、七宝もこれにやられたのかな)
このままではジリ貧だ、と香澄は思った。
こちらはじりじりとダメージが蓄積しているのに、向こうはまだ無傷なのだ。
香澄は船尾本人を対象にする移動魔法を捨てた。
自己加速魔法は自分自身に対して事象改変を行う魔法。従って、事象改変の痕跡を追うことで、術者の位置を摑むことができる。
だが、高速移動する対象を追いながら、リアルタイムで正確な座標設定するのは難しい。しかも万全でない魔法であれば、『情報強化』で防がれてしまう。
香澄は、その無駄を惜しんだ。
前から、後ろから。右から、左から。上から、下から。
突風が次々と船尾を襲う。香澄の持つ魔法力をフルに使って、物量で押す作戦に切り替えたのだ。
船尾もここが正念場と理解したのだろう。
縦横無尽に黄色エリアを駆けながら、無系統の『幻衝』を連続で打ち込んでくる。
めまいがしてくる。
頭痛が強まり、ズキズキと脈打つような痛みに苦鳴を上げそうになるが、全て幻覚と言い聞かせて無視する。
──今、ここで倒さなくては、負ける。
香澄の意識は、黄色エリアを動く、魔法による事象改変の痕跡を捉えることにのみ注力していた。
「香澄ちゃん、顔!」
そこに、双子の妹の叫び声が聞こえた。
顔──無意識に自身の顔周辺に意識を向けると、微かな魔法の気配がした。
瞬間、その気配が強まる。
香澄はその恵まれた知覚力により詳細を把握できたが、対処は間に合わなかった。
(さん、けつ……)
その原因を理解しながら、香澄の意識はゆっくりと落ちていった。
◆
審判である深雪は、倒れ行く香澄の身体を魔法により受け止め、そのまま床に横たえた。
「勝者、船尾春花」
そうして告げられた判定に、船尾は一息ついてから一礼する。そして、壁際に視線を送った。
「泉美、それは駄目じゃない?」
「も、申し訳ありません」
泉美も正直に頭を下げた。
先ほど彼女がしたことは模擬戦への干渉、香澄へのアドバイスだ。戦いに水を差す行為であり、実際に香澄もその一言で船尾の魔法に気付いた。
「船尾さんの『
そう、当事者である香澄はもちろん、観戦していた泉美でさえ、あの瞬間まで船尾の魔法に気付かなかった。
『窒息領域』
領域内の窒素濃度を偏らせる魔法。
この領域の酸素濃度は、試合開始から少しずつ下げられていた。
通常の21%から、自覚症状が出るギリギリの18%。そこからさらに、少しずつ。
香澄がそれに気付かなかったのは、酸欠による症状を『幻衝』の幻痛と勘違いしていたことが大きい。意識の外にある事柄は、認識から外れやすいからだ。
だが、それだけではない。『窒息領域』は、極めて小規模な、効果範囲を香澄の頭部周辺だけに限定されていた。
微かに、弱く、小規模で。それ故に気づくことの困難な魔法。
それを香澄の酸欠による集中力の低下や、船尾本人に意識を集中させるにつれ、少しずつ強度を上げ、酸素の供給を減らした。
故に十師族直系の香澄の感受性を以てしても、注意されるまで気付けなかった。
「司波先輩、香澄大丈夫ですか?」
「ええ。船尾さんがきちんと加減できていたお陰ね」
「よかったです。泉美の声聞いて、焦って濃度上げちゃったので」
深雪は気流を操作して、酸素濃度を上げた空気を香澄の鼻孔に吹き込むと、彼女は咳き込んで呼吸を再開した。
そうして香澄は、ゆっくりと瞼を開いた。
「みゆき、せんぱい」
「香澄ちゃん、大丈夫かしら?」
「はい…なんとか……」
香澄は深雪の手を借りて身体を起こすと、その場で胡座をかいた。視線を向けられた船尾も、彼女の前に腰を下ろした。
「……負けちゃった」
「勝っちゃった」
「うん……」
まさかの敗北にしょげている香澄に、船尾は曖昧に笑う。
「説明、いる?」
「……要らない。『窒息領域』に、ボクが気付けなかっただけだから」
「さすが、あの一瞬で分かったんだ」
香澄は悔しさからか、思わず学校では使わないようにしている「ボク」という一人称を口にしてしまった。香澄はそれに、気づいていない。
船尾は耳慣れない一人称に「おやっ?」と思ったが、それ以上に香澄の知覚能力の高さに驚いていた。
「『幻衝』しか使わなかったのは、ボクを動かさないようにするため?」
「そうだね。私程度の『幻衝』じゃ、香澄は一歩も動かずに対処できるから」
反省会は要らないと言いつつ投げられた質問に、船尾は素直に応じる。
「あとはまあ、私がまともな攻撃魔法持ってないからってのもある」
「そうなの?」
「うん。魔法塾だと、基礎単一系の魔法と、あとは自己加速術式くらいしか教えてくれないから」
自前で教育体制が整っている名家以外では、高校入学までは魔法塾にて魔法を習う。
しかし、魔法塾は魔法科高校受験のための施設。魔法事故の防止や、思春期の子女が力に溺れないよう、高度な魔法を教えてはならないことになっている。
魔法塾で教えて良いのは系統魔法の発動に関する基礎理論とその実践、CADの基本操作とこれを使った基礎単一系魔法の実技だけ。暗黙の了解として自己加速術式などの簡易的な魔法は教えられるが、それも触りでしかない。
魔法戦でポピュラーな『空気弾』や、今回香澄が使った突風だって、収束・移動の複数工程から成る攻撃魔法。
船尾はそれすら習っていない。『窒息領域』は収束系の単一魔法であり、船尾が使える手札の中では攻撃性の高い魔法だった。
そしてその事実は、香澄の負けず嫌いな性格を強く刺激した。
「……もう一回」
「え?」
「もう一回! 次は負けないから、もっかいやろ!」
「えぇ……私は別にいいけどさ」
船尾は軽く身を引きながら、深雪へと視線を向ける。模擬戦は生徒会長、並びに風紀委員長の許可が必要であり、勝手に行ってよいものではない。
「深雪先輩、お願いします。後ほど必要な手続きと、千代田先輩の承認は、私が取って参りますので」
答えたのは深雪ではなく泉美。深雪は「泉美ちゃんがやってくれるなら、それで良いわよ」と、快く受け入れた。
二戦目、香澄は戦法自体は変えずに、最初から物量で押していた。
魔法力に差があるからこその力押し。戦法としては正しいが、またもや一発も当てられない。
対する船尾も、床への振動系魔法で香澄を揺さぶりつつ、同じく無系統の『幻衝』で攻撃を仕掛ける。当然、『窒息領域』は警戒されているため、使うことはない。
膠着状態に陥ったその戦いで決定打となったのは、およそ3センチの小さな物体だった。
「ったぁ……!」
高速で飛翔するそれが、香澄の額を打つ。
予想外の攻撃、そしてその痛みにより香澄の魔法継続処理が途絶えた。
その隙に放たれた振動系魔法により、香澄は前後に揺さぶられ脳震盪を起こした。意識が飛ぶことはなかったが、床に倒れ込んでしまう。
「勝者、船尾春花」
深雪の判定により勝敗は決した。
「……ボタン?」
香澄は悔しさを噛み締め、痛む頭を押さえながら、床に転がるそれを見つけた。船尾が着ているコートのボタンが一つ。
「単一の移動魔法で、初速だけ与えて飛ばしたの。一瞬だけしか魔法を使わないから、見抜かれにくいんだよね」
とは船尾の言。引き千切ったからあとで付け直さなくちゃと笑う彼女に、
「も、もう一回!」
香澄の負けず嫌いが再び発動した。
そうして開かれた三戦目は、これまでのノータッチルールではなく、接触ありで行われることとなった。
「船尾、俺とやったときは、接触ありのほうが得意と言ってなかったか?」
「へ、へぇ……」
琢磨がそんな事を言い出し、香澄も不得意な方で負けたのかと顔を引き攣らせ、タッチありのルールを主張したのだ。
「くっ、速い……!」
香澄は先程から、『偏倚解放』という魔法で船尾の接近を阻止しようとしている。
『偏倚解放』
一方から空気を圧縮し、反対側から高圧の空気を噴き出す魔法。
だが、本領発揮と言わんばかりに演習室を縦横無尽に駆ける船尾に、香澄は後手に回されていた。まるでついて行けていないというわけではないが、一瞬でも気を抜けば懐に入られてしまう。
さらに、他の微かな魔法兆候にも気を配らなくてはならないことで、香澄は完全に守備に意識を割いていた。
その船尾が、唐突に立ち止まった。
「え、なに」
ここまでの三戦で分かるように、船尾の戦い方はフットワークを駆使し手数で攻めること。
それを止めたことで香澄は訝しく思い、船尾本人や自身の周囲など、僅かな魔法の兆候も見逃すまいと強く警戒する。
(あれ、何か違う……?)
魔法的な感覚ではない。ただ、十メートル先にいる船尾が、先ほどまでとは違うように感じた。
そこに、船尾が右手を上げた。香澄はその違和感を捨て、最大限の警戒をする。
船尾は右手を口元に置く、それは香澄に呼び掛けるようで、
「香澄、うしろうしろ」
「えっ」
その言葉の直後、背後から微かな魔法の気配がした。
言葉と魔法の気配が結びついたことで、香澄は咄嗟に振り返ってしまった。
「わぷっ……!」
突如、視界が塞がれ、目の前が真っ暗になった。それにいい匂いもする。
何事かと顔に手をやり、それを剥ぐ。回復した視界でその正体を見た。
「コート?」
船尾が身に着けていたコートだ。
自己加速術式は、肉眼では追いきれない。魔法的探知でそれを追っている。そのためいつの間にか脱いでいたコートに気付かず、それが移動魔法により飛ばされた。
コートの重量も、その速度も、大したことはない。故に魔法兆候も小さかったのだと。
──香澄は、そこまで考えてしまった。
魔法の気配はなかった。だが、女子高生が十メートルの距離を詰めるに十分な時間を、香澄は思考に費やしてしまった。
「ぶっ──!」
振り返ろうとした最中、衝撃が香澄を襲った。そのまま吹き飛び、尻もちをつく。
何事かと目を白黒させる彼女の眼前に、学校指定の実習用ソフトシューズが迫る。香澄が悲鳴を上げた瞬間、それはピタリと止められた。
「勝者、船尾春花」
深雪の宣言が、無情にも響いていた。
◆
泉美は、双子の姉が三回目の敗北を喫するのを目の前で見ていた。
一戦目は、どこか油断もあったはずだ。
二戦目は飛び道具、奇襲により決定打を打たれた。
そして三戦目、香澄は十分に警戒しており、その上で船尾は優勢だった。接触ありのルールが得意という琢磨の言葉が、本当だと分からされた。
立ち止まり、その優位を捨てることで、香澄に最大限の警戒を強いた。そこから声掛けと魔法の兆候を組み合わせて香澄の注意を背後に逸らした。
最後にはただの全力ダッシュで正面から殴り、寸止めのローキックという、魔法でない戦い方で勝利を手繰り寄せた。
基礎単一系魔法を主とする魔法の組み合わせで、自らの半身とも言える双子の姉が負けたのだ。
「泉美ぃ! 泉美もやって!」
こちらに向かって叫んでくる香澄に、泉美も否やはなかった。
お淑やかな雰囲気や、香澄との対比からそうは思われないが、泉美も香澄とDNAを同じくした負けず嫌いなのだ。
「深雪先輩、船尾さん、よろしいでしょうか?」
泉美は意識的におっとりと、心の中の闘争心を隠すように、敬愛する先輩と新たな友人に許可を求めた。