モノリス・コード決勝戦までは時間があったため、幹比古はホテルの最上階の展望室に向かった。
そこには予想外の人物がいた。
「あら……こんな所にどうしたの?」
幹比古と同じように制服に着替え、バルコニーの手摺に肘をついて富士山を眺めていたエリカが、顔だけをこちらに向けて声を掛けてきた。
「僕は富士山を見に……エリカの方こそどうしたの?」
「ちょっと独りになりたくてね」
視線を景色に戻したエリカに、負の感情は見当たらない。言葉通りに静かな場所を求めているように見える。幹比古はこの場にいても良いものかと思ったが、幸い悩む必要は無かった。
「幹比古君」
「えっ、なに?」
エリカがゆっくりとした口調で、声を掛けてきたからだ。
「なにって……いつまでそこに立ってるのよ」
「あ、そうだね……」
幹比古は小さな違和感を覚えながらも、エリカの隣に並んだ。だが、エリカは幹比古を見ようとせず、その視線は日本最高峰に向けられている。幹比古がその横顔を窺っていると、不意にエリカが口を開いた。
「ねえ、感じる?」
「えっ?」
「気吹を浴びに来たんでしょ? ちゃんと感じてる?」
いつもと同じ言葉遣い、いつもと違う声音。
いつも通りでいつもと違う口調。
手摺から身体を起こしたエリカの表情は、たった一度──幹比古を達也のもとへ連れていったあのとき──を除けば、ここしばらく見たことのない真摯なものだった。
この表情を最後に見たのは、彼女が髪を短くする前、春から伸ばし始めた髪がもっと長かった頃。彼女が一時も刀を手放すことが無かった、二年前のこと……
「……幹比古君?」
「あっ、ごめん。えっと、そう、エリカの言う通りだよ」
しどろもどろになりながらも、幹比古はようやく違和感の正体に気がついた。
──エリカが彼のことを「幹比古」と呼んでいる
「気吹を浴びに来たんだ」
「そうじゃなくて」
「えっ?」
「あたしが聞きたかったのはそこじゃなくて……霊峰の気吹を、ちゃんと感じられてる?」
思いがけない真剣な眼差しに気圧されながらも、幹比古は姿勢を正し呼吸を整えた。
呼気と共に器を作り、呼気と共に器を取り込む。二回、三回と呼吸を繰り返すうちに、幹比古の身体に「生気」が充溢していく。霊峰の気吹──それは想子や
霊峰の気吹を幹比古がキチンと受け止めている。それをその目で確かめて、エリカは小さく笑みを浮かべた。
幹比古はその笑みを見て、エリカが何を思っているのか、曖昧ではあるが少しわかったような気がした。
「やっぱりできてるじゃない」
「そうだね」
「幹比古君、気づいてる? 貴方は以前と同じように、あの事故に遭う前の、『吉田家の神童』と呼ばれていた頃と同じように……ううん、ちょっと違うかな。あの時以上に自然に魔法が使えてるんだよ」
エリカの言う通り、試合で使った感覚の同調も霧の結界も気吹の取り込みも、息をするように自然に行うことができた。それが誰のおかげなのか、二人には言うまでもないことだった。
「エリカ、達也となにか……」
「あたし、達也くんに会えて良かった」
幹比古のセリフを遮るように、エリカが口を開いた。
「あたしが剣を握る理由は母さんだった。強くなって、あいつらにあたしの剣を認めさせる。あたしと母さんを認めさせる。ただそれだけのために剣を握ってた……だけど、母さんがいなくなって、もう何のために剣を握ればいいのか、分からなくなった」
幹比古は驚きに目を見開いていた。セリフの内容自体は彼も知っていたが、エリカが過去を語るなど初めての事だったのだ。
「でも、達也くんに会って、自分の意思で強くなりたいって思った。ただふらふらと剣を続けてたあたしが、望んで剣を握るようになった。初めて心から剣を振りたいって思ったの……まあ、あのホウキが使いやすかったってのもあるんだけどね」
最後は少しおどけた口調になったが、すぐに穏やかな声音に変わった。
「あたしの剣がきれいなんだって」
「えっ?」
あまりに突然の物言いに、幹比古は思わず声を上げてしまった。エリカはそれを咎めることはせず、フッと笑みを浮かべた。
「鋭いでも、強いでも、ましてや好きでもなくて、きれいって……あたしの剣がきれいだって、そう言ってくれたの。達也くんにとっては何てことない一言だと思うけど、本当に嬉しかった……あたしがまた剣を振る理由をくれた達也くんが、そう言ってくれた。あいつらに認められたわけじゃないのに、泣きそうなくらい嬉しかった……あたしは強くなりたくて剣を磨いてきたのにおかしいわよね」
そう言葉を切ったエリカの表情が、今までの柔らかな笑みからゆっくりと、強い意思の籠った真剣なものへと変わった。
「あいつらじゃない」
あまりにも省略された言葉。意味が解らなかったが、幹比古はその続きをじっと待った。
「もうあいつらのために剣は振らない。あたしが強くなる理由はあいつらじゃない。自分のため。あたし自身が強くなりたいから、あたしが達也くんの隣にいるために剣を振るの」
幹比古は胸がすく思いだった。
自分がスランプから抜け出せたのは間違いなく達也のおかげで、強引に世話を焼いてくれたエリカのおかげだ。
幹比古は自分だけがスランプから抜け出し、エリカがしがらみから抜け出せていないことに罪悪感を抱いていた。余計なお世話だと分かっていたが、それでも気にせずにはいられなかったのだ。
だが、エリカの言葉を聞いて、ずっと引き摺っていたものが消えた気がした。肩の荷が下りたとは違うが、それに近しい気持ちを感じた。
幹比古がそんなことを思っていると、エリカはふぅと息を吐いた。何かと思っていると、エリカは腕を大きく振りかぶり、
「うぐっ!」
幹比古の背中目掛けて振り下ろした。いきなり背中を叩かれて、幹比古は半歩ほど蹈鞴を踏んだ。
「何するん……」
幹比古は文句の一つでも言おうとしたが、顔を上げてすぐにその口が止まった。
幹比古の視線の先では、エリカが今まで見たことが無いほど晴れやかな笑みを浮かべていた。
「あたしとミキ、それに達也くんがいるんだもの! 三高だって恐るるに足らずね! 決勝戦、絶対勝つわよ!」
突然いつもの調子を取り戻して、返事も待たずに去っていくエリカ。幹比古は一瞬呆気に取られたが、すぐにいつものセリフを口にした。
「だから僕の名前は幹比古だ!」
自分たちにとって友人でもあり、恩人でもあるチームメイトに心の中で感謝を告げて、幹比古は幼馴染の背中を追いかけた。
◇◇◇
エリカと幹比古が屋上で会話をしていた頃、達也はホテルの自室へと戻っていた。
そこへ、来客があった。
「達也さん、お疲れ様です」
「ありがとう、水波」
水波はここに来た初日とは違い、雰囲気もやわらかいものだ。
「達也さんは力を制限されているので万全ではないと思いますが、怪我だけはしないように気をつけてください」
ここで勝ってくださいと言わないのが水波の優しさだろう。今の状態では、あの二人に勝てる確率はゼロに等しい。達也も「俺が怪我をすることは無い」などとは言わなかった。
「そうだな、水波もそう言ってくれていることだし、決勝でも頑張るよ」
「はい。私は何もできませんが、決勝も頑張ってください」
水波はそれだけ言って、部屋を出ていった。水波の気遣いに感謝しながらも、達也はどうやっても勝ち目の薄い決勝に向けて、考えを巡らすのだった。
◆
一高の天幕では、新人戦の優勝が決まったにも拘わらず、達也たちが真剣な様子で作戦会議をしていた。
「三人とも、決勝に進んだ時点で新人戦の優勝は確定したんだ。そんなに真剣にならなくてもいいんだぞ」
「そうよ、お願いしていた成果は出してくれたんだから」
摩利と真由美がそう言う理由は、次のステージが草原ステージだからだ。
「遮蔽物の無いステージで、砲撃戦が得意な一条選手を相手にするだけで不利なんだから」
「ですが俺たちが優勝すれば、一高の総合優勝が決まるでしょう?」
「確かにそうだけど……」
達也の言うことも尤もで、この試合に勝てば本戦の二種目を待たずして一高の総合優勝が決まる。だが、実質的にはもう確定しているのだ。
ここから三高が優勝するには、ミラージ・バットで飛行魔法という切り札を持った摩利を退けて上位三位を独占。モノリス・コードでも三高が優勝し、克人率いる一高チームを四位以下にしなければならない。
どう考えても無理である。
「達也くん、無茶だけはするなよ。君には明日も明後日も控えているんだからな」
「大丈夫ですよ。どうしても無理そうなら、さっさと負け犬に甘んじますから」
「司波、何か策があるのか?」
服部は達也の表情から何かあるのかと訊ねてきたが、達也としては肩を竦めるしかない。
「一条選手以外ならエリカと幹比古の敵ではないでしょう……本命の一条選手は、本来の戦い方をされると手も足も出なかったところですが、何故か過剰に俺を意識してるようですからね。接近戦に持ち込めばなんとか」
「格闘戦は禁止されているぞ」
「触らなければ良いんですよ。手はあります」
完全に納得はしていなかった服部もとりあえずは引き下がった。だが、達也の言葉はこれで終わりではなかった。
「それに、あんな挑発までされて簡単に負けるのは悔しいですからね」
負けず嫌いなところもあるのだと、一高幹部は達也の意外な一面を更新したのだった。