一高の学校裏には、人工の演習林がある。ここを活動拠点とするクラブは魔法競技系のものだけではなく、純粋に肉体的な野外活動を目的とするクラブにも利用日が割り当てられていた。
そして本日、それらの内一つ、山岳部に新たな部員が入部することになった。
「服部先輩、本当に大丈夫ですか?」
「ああ、九校戦の二の舞は嫌だからな」
紹介者である水波の不安げな問いかけに、服部は緊張を拭えていない表情で答えた。その声で気づいたのか、部員であるレオが駆け寄ってきた。
「お、ようやく来たか! 服部先輩もようこそ」
「西城さん、おはようございます」
「俺の方こそ邪魔をしてすまない」
服部はレオに軽い会釈で応え、責任者の所在を訊ねた。
「ところで、部長の
「ここだ」
その質問に対する答えは本人から返ってきた。ランニング用に整えられた林間の走路ではなく、下草の生い茂った林の中から姿を現したのはレオが所属する山岳部部長、県謙四郎だ。
「県、急にすまない、今日からよろしく頼む」
「おう、まさか服部君がウチの部に入るとは思わなかったが歓迎するぞ」
服部は県の開けっ広げな態度に、胸を撫で下ろした。服部の二科生嫌いは有名だったため、二科生の多い山岳部では受け入れてもらえるのか心配だったのだ。
「まあ最初は大変だと思うが、無理しない程度にやってくれや。桜井もよろしく頼むぞ」
「わかりました」
県は水波のお辞儀に頷いてから、後ろにいた部員たちに向き直った。
「それじゃあアップが終わったヤツから、演習林一周行くぞ!」
この宣言に服部の表情が引き攣ったが、部員たちはそれに気づかずに林の中に入っていった。
「では、私たちも行きましょうか……服部先輩? 大丈夫ですか?」
「あ、ああ……大丈夫だ。行こうか」
キョトンとしている水波を見るに、これが山岳部のデフォルトらしい。
(演習林って二キロを超えていた気がするが……俺がおかしいのか?)
そう思いながら、服部は先導してくれる水波に続いた。
前もって言わせてもらうと、服部は運動が不得手ではない。一般人目線ではなく、魔法師目線でもそこそこ動ける部類だし、九校戦で達也に扱かれたことでさらに体力も付いてきた。
しかし、それでも、結果として服部は断トツの最下位だった。
軍人や警察官、レスキュー隊員などを志願する生徒たちの為に設計されたこの森は、計算された木々の密度や起伏によって足元がかなり悪かった。
最初のうちは水波のアドバイスを受けながら何とか進めていたが、森林の内部にいくにつれ、服部は走ることはおろか、進むことすらままならなくなった。
上り坂では誰よりも進むのが遅く、ムキになって速度を上げたところ、生い茂った木々の付近で何度も木の根に足を取られ躓き、二度ほど転ぶという醜態を晒してしまった。
所々に配置されている池では、ロープにぶら下がる丸太を掴もうとしたところ手を滑らせ落水し、飛び石になっている狭い足場では届かずに再度着水する。
水を吸って重くなった服を着て進み、体力がなくなった頃に現れた砂地では、ほとんど歩いている状態になってしまった。
「はぁ……はぁ…………ふぅ……」
ようやっとスタート地点の空き地に戻ってきた服部は、木に身体を預けて荒い息を整えている。
「服部先輩、大丈夫ですか?」
水波は服部に飲み物を渡す傍ら、魔法で服の水分を飛ばしてくれる。
「あ、ああ……すまないな」
肩で息をする服部に対して、水波はまだまだ余裕そうだ。
本音としては地面にへたり込みたいほどの疲労感だが、そこは幹部としてのプライドが許さなかった。なお、年下の女の子の世話になっていることは、ここに来る時点で割り切っている。
「よしっ! 休んだヤツからもう一度行ってこい!」
先に帰ってきていた県たち二年生とレオは既に休憩を終えて、再度森林の中に入っていった。それに遅れて一年生たちも続々と走り出した。
「服部先輩、大丈夫ですから」
「いや、しかし……」
それを見て立ち上がろうとした服部だったが、水波に止められた。
「今日は初日なのですから、走破に時間がかかるのも当然です。焦る気持ちも分かりますが、無茶をしてはいけません」
穏やかでありながらも反論を許さない口調に服部も素直に頷き、体力の回復を待ってから再度森の中に足を向けた。
その後、演習林をもう三周したところで、服部は力尽きて地面に倒れ込んだ。今の服部には意地や見栄を張る余力も無かった。
「ウチの一年生どもはまだしごきが足らないようだな」
その近くには、同じ体勢で呻き声を上げている一年生男子部員が多数。このセリフに生ける屍と化した部員たちがビクッと身体を震わせたが、立ち上がって逃げ出すことのできた者はいなかった。
「まったくお前らは」
県は未だに起き上がることのできない部員たちを情け無さそうに見回した。
「たかが林間走十キロ程度でだらしないぞ! 西城や桜井を見ろ、ぴんぴんしてるじゃないか」
「……二人と一緒にせんでください」
かろうじて答えを返したのは部員の一人。何とか声を出せるまでには回復したものの、起き上がるのはまだ無理そうだ。
「泣き言を言うな。二年はもう一周余計に走っているんだぞ。さあ、いつまでも寝ているな。お前たちはまだ死んでいないぞ」
流石に死んだ扱いは嫌だったのか、力を振り絞って身体を起こした。しかし、起き上がったのは部員の半数のみ。
もっと言えば、服部は一年生よりも一周少ないのだが、未だに立ち上がる余裕はない。
「仕方ねえなぁ……桜井っ!」
県に声を掛けられ水波は「はい」と返事をして服部から離れ、薬缶を手に持ち一番手近の同級生の側へ小走りに駆け寄った。
「やれ」
「はい」
県の指示に、水波が手に持つ薬缶を傾ける。
「あっ、熱っ!」
薬缶から注がれる液体を顔に受けた一年生が転げ回って水波の足元を離れ、立ち上がり、もつれる足で更に距離を取る。
「ね、熱湯……?」
「いいや、違いますよ」
その声に思わず顔を上げて呟いた服部の疑問に答えたのは、近くで胡座をかいていたレオだった。
「せいぜい四十五、六度のお湯です。あの程度の量なら火傷もしないですし」
「前世紀、試合中に倒れたラガーメンは薬缶の水を浴びることで闘志を奮い立たせたという」
レオの解説を聞いていた県も近くに来てそんな蘊蓄を語り出す。
「水じゃないのは県部長のアイデアですよね」
「今の季節、冷たい水だと気持ちが良いだけでそのまま寝ちまうヤツがいたからな」
随分と乱暴なやり方だ──そんなことを考える余裕は服部にはなかった。
視線の先では、水波が同級生の男子生徒に次々と熱い湯の洗礼を浴びせていた。このまま起きなければ自分の所に来るだろう。だが、足にも力が入らないし、立ち上がれる気がしない。
「あの、県部長……」
倒れていた部員に熱湯を浴びせていた水波がやってきたが、今日初参加の上級生には躊躇している。
「大丈夫だ、やれ」
「いえ、ですが……」
「新入部員であろうと特別扱いはしない」
「…………はい」
長い間を置いてから、水波の声が返ってきた。その直後、服部の顔に熱湯が注がれるのだった。
その後、服部と水波は木陰に座り込んでおり、他の部員は再度林間走に向かっている。
「もう大丈夫ですか?」
「もう問題ない……だが、今日はこれ以上走れそうにないな」
「それなら良かったです」
自分から限界を申し出たことに、水波は満足げな笑みを浮かべた。これ以上は怪我のリスクが大きい。服部がやると言っても水波が止めただろう。
「ただでさえ森の中は危険が多いですし、無理はしないようお願いします」
「分かっている。さっきはすまなかったな」
そう言って足を伸ばし、疲労を回復させる服部。
丁度良く流れ込んでくる風と、日陰によって作られた心地よい温度。この穏やかな雰囲気に、ふぅと息が漏れてしまう。
だがある程度時間が経つと、真面目で純情な少年である彼は、段々と落ち着かなくなってきた。
チラリと隣に視線をやると、水波が同じ体勢で目を閉じている。
生徒会などの仕事ならともかく、女子と二人きりというのはどうしても緊張してしまう。何か話さないといけない気がして水波の顔を窺うが、如何せん話題が出てこない。
それにしても……。
(こうしてみると、やはりきれいだな………)
静かに閉じる瞳に整ったまつげ。
きめ細やかな肌に小さく形の良い鼻と、薄い桃色の唇。
深雪の隣にいることで目立たないが、水波もかなりの美少女である。
(……いや待て、少し落ち着け)
年下の女の子をじっと見つめているという構図に、ようやく気付いた服部。バレないようにと、そっと目を外す。
「……服部先輩? どうかしましたか?」
実を言うと、水波は初めから気づいていたのだ。しかし、見られている中で目を開けるわけにもいかず、ようやっと目を開けることができたのだ。
「いや…」
気づかれていたとは露ほども思っていない服部は、とりあえず話を逸らすことにした。
「桜井は何故この部に入ったんだ?」
「いきなりですね」
「それはそうだが……」
自分のトーク力の無さは自覚してる服部だったが、それにしても急だった。しかし、今からの話題変更も不自然なので、このまま押し通すことにした。
「桜井の魔法力なら魔法競技系クラブから引く手数多だったんじゃないか?」
新勧週間の時点で密かに出回っている入試成績リストでは、深雪に次ぐ第二位の成績上位者として各部にマークされていたのだ。普通なら魔法競技系クラブに入部しているはずだった。
「魔法を使わずに身体を鍛えたかったからでしょうか」
「やはり桜井が言うと説得力があるな」
「そんなことは無いと思いますが……」
「いや、一年生だとか女子だとか関係なく、あれだけ動けるヤツは一高内でも少ない。それに魔法技能についても、一高内でトップクラスでもあるしな」
服部の指摘は尤もなものだ。そもそも水波は四葉本家で戦闘用の魔法師として育成されていたのだから、身体能力も高くないはずがなかった。
しかし十分というなら、魔法力も高校生としては十分すぎるレベルにある。こちらの方がもっと部活で鍛える意味はない。水波もさすがに恥ずかしかったのか、いつもより早口になった。
「ですが、お料理研の方は完全に私の趣味ですし、深く考えていたわけではないですよ」
「そう言えばお料理研にも入っていたな」
「兼部なので週に二日ほどですけど。偶に差し入れも持ってきたりしますよ」
「……この人数分をか?」
「はい。とは言っても、おにぎりと軽食くらいですが」
山岳部の部員は二十人ほど、その労力を考えた服部は目を丸くしていた。
「それはそうと、服部先輩はどうしてこの部活に来たのですか? 身体を鍛えるだけなら他の部活でも良かった気がするのですが」
「……それはだな」
ただの思い付きの質問だったのだが、何故か歯切れの悪い服部。
「あの…言い辛いようでしたら無理には聞きませんが……」
「…いや、少し情けなかっただけだ」
「……情けない、ですか?」
「ああ」
今日は散々醜態を晒してしまった所為か、結局服部は正直に答えた。
「この演習林はモノリスの練習で使っていた場所だったからな。慣れている場所だから何とかなるだろうと考えていたが……正直甘かったな」
達也にしごかれてからは、魔法以外にも目を向けることができ、客観的な自己評価ができていると思っていたのだが、その見通しはまだまだ甘かったようだ。
「今日も魔法が使えないとなると、俺はほとんど何もできなかった……想像以上に、俺には足りないものが多いなと思っていたんだ」
セリフとは裏腹に、服部の声には自嘲の欠片も無い。そんな服部の様子に、水波から笑みがこぼれた。
「桜井?」
「……すみません、何でもないんです」
ふふっと笑う水波。その笑顔が眩しくて、服部は目を逸らした。
目を逸らした先の森林から、県が帰って来るのが見えた。
「桜井、そろそろ戻れそうか?」
「はい、問題ありません」
水波は立ち上がり頷きを返すと、服部へと向き直った。
「今日はもう終わりですので、行きましょうか」
「そうだな」
県が出てきた場所からはレオを先頭に続々と生徒たちが戻って来る。服部も立ち上がり、その集団へと足を進める。
「服部先輩は明日もいらっしゃるんですよね?」
「ああ、しばらくは桜井の世話になると思う」
「いえ、問題ありません。それよりも……」
意味深に言葉を切った水波に服部が首を傾げていると、
「明日は少しだけ厳しめにしましょうか」
朗らかな笑みからは想像のつかない容赦の無い一言が飛び出してきた。
「……お手柔らかに頼む」
服部は顔を引き攣らせながらそう了承を返すのだった。