国立魔法大学付属立川病院の面会時間は正午から午後七時まで。
現在時刻は午後四時過ぎ。この時間に花束を持ったスーツ姿の青年が廊下を歩いていてもおかしくはない。ただ、時々廊下ですれ違う見舞い客や看護師の誰もが、少しも気に掛けた素振りを見せないことが奇妙だった。
エレベーターを使わず階段を上がり四階で廊下に出て、そこで立ち止まった。
青年の視線の先には大柄な男性の背中。
周青年は男の上司である陳に今日のお見舞いのことを話してある。その時は何も言われなかったから、ここに入院する少女を見舞うことに陳は異議が無いはずだ。
従って、お見舞いを邪魔しようとする者を更に邪魔しても、陳との間に何の問題も生じないということになる……周青年は何食わぬ顔で、非常ベルのボタンを押した。
青年がまだ三階から四階へ続く階段上にある頃、病院のロビーを一組の男女が訪れていた。男性の名は千葉修次、女性の名は渡辺摩利。
「シュウ」
いつもは下級生女子憧れの颯爽とした佇まいをしている摩利だが、今日は恋人の前ということもあってか柔らかな、女性的な空気を纏っている。
ただ摩利は恋人の前で自然と恥じらいが醸し出されている、というだけではない。何やら申し訳なさそうな顔もしていた。
「その……すまない。忙しいのに、こんなことに付き合わせて」
摩利の目的は、入院している平河千秋をお見舞いの名目で訊問することだ。これはあくまで第一高校の問題だ、という意識が彼女にはあって、それが摩利に「すまない」と言わせているのである。
「水臭いなぁ。そんなことを気にする必要はないんだよ」
「だが、シュウは明日出航でその準備もあるし、エリカとの稽古もあるだろう?」
「……大した準備もないし、大丈夫だよ」
修次は摩利の心配を不要としたが、後半の質問には答えなかった。それに、顔には苦々しさが占められている。
「シュウ?」
摩利の疑問は当然のものだったが、修次からの言葉で有耶無耶になった。
「……いや、何でもない。とにかく、僕が摩利と一緒に居たかったんだから気にしなくて良いよ」
「そ、そんな恥ずかしいことは口にしなくて良い」
修次は年下の恋人を手玉に取って、ホッと一息をついた。まあ、すぐにこの原因を知られてしまうのだが、今はまだそのことを知る由もない。
しかし、弛緩した神経はすぐにより強い緊張を迫られることになった。突然鳴り響いた非常ベル。
「シュウ!?」
色惚けモードだった摩利も、チャンネルが切り替わった顔で修次を仰ぎ見た。
「火事じゃない。これは暴対警報だ」
暴力行為対策警報。暴力行為、犯罪行為に第三者が巻き込まれない為の警報であると同時に、治安回復の為の協力者を募る合図でもある。
「場所は四階だ」
「四階!?」
「もしかして摩利の後輩が入院しているのも四階か?」
摩利の見せた厳しい表情に、修次は自己加速術式で階段を掛け上がる。
辿り着いた四階で見つけた大柄な青年は、修次も顔を良く知る人物だった。
「人喰い虎……呂剛虎! 何故ここに!?」
対人近接戦闘において世界で十指に入ると称される大亜連合の白兵戦魔法師。
「幻刀鬼──千葉修次」
こちらを向いた呂剛虎の口からも、微かな声が漏れた。二人の視線が交錯した直後、二人の強者による戦いの火蓋が切られた。
◆
「摩利……助かったよ」
修次と呂剛虎の戦いは、摩利の介入によって終結した。傷を負った呂は苦悶の呻き声を上げながら離脱した。
「あの男……何者だ? 近接戦闘でシュウと互角だなんて」
修次の顔に迷いが過ったが、躊躇いは僅かな時間だった。
「ヤツの名は呂剛虎。大亜連合本国軍特殊工作部隊の魔法師だ」
「呂剛虎……あれが……」
千葉修次と並び称されることの多い呂剛虎の名前だけは摩利も良く知っていた。
「摩利。僕は明日、発たなければならない。こんな時、傍にいてやれないのはとても気懸かりだけど……」
「分かっているよ、シュウ。それで、何が言いたい?」
「呂剛虎は姿を消す前、君の顔を見た。呂剛虎は摩利を敵対者と認識したはずだ」
修次の言葉に、摩利はしっかり頷いた。彼女の瞳に恐れは無く、それが修次の懸念を増幅する。
「相手は『人喰い虎』の異名をとる凶暴な魔法師だ。力量の方も見た通り。だからしばらくの間、決して一人にならないようにして欲しい」
大袈裟じゃないか、と摩利は言いかけた。だが修次の真剣な目つきに、そのセリフは呑み込まざるを得なかった。
◇◇◇
週が明けた、月曜日。
論文コンペを一週間後に控えているが、達也の頭の中は別の思考でいっぱいだった。目敏い人間が気づいてしまうくらいに。
「達也くん、まだ何か心配事?」
「いや、ちょっとな……」
平河千秋の件でも隠し事をしていた所為もあり、達也の返事は歯切れの悪いものだった。それにエリカが気づかないわけがない。
「平河と関本先輩のこと?」
心配そうに問いかけてくるが、誤魔化しはきかなそうな目をしている。達也は少しだけ情報を伝えることにした。
「平河も関本も、この学校の検査をくぐり抜けて洗脳を掛けられたんだろう?そんな組織が相手だと、このまま終わるかが心配でな」
「なるほど……」
大亜連合や呂剛虎という懸念はあるが、この場では言えないことだ。エリカたちが関わるには規模が大きすぎる。達也は話を切り上げようとしたのだが、この友人たちの好戦的な性格を甘く見ていた。
「だったら本人に訊いちゃどうだ?」
「そうね、単独犯じゃないんだろうし、それがいいかもね」
気楽な調子でレオが提案し、エリカもそれに賛同した。達也としては絶対に阻止すべき事態だ。
「関本がいる特殊鑑別所は簡単に面会できる所ではないぞ」
「そうなのか?」
「そういえば、学校の委任状が必要なんだっけ?」
「ああ。その委任状は、風紀委員長を通す必要がある」
「そっかぁ、ちょっと面倒だなぁ」
面倒な手続きもあることだし、これなら諦めてくれるだろうと思ったのだが、
「千代田先輩に許可をもらえばいんだろ、簡単じゃねえか」
「ちょっとつまんないけどね~」
「……二人も行くのか?」
「当然だろ」「当然じゃない」
二人の返事が完璧にハモったことでまた喧嘩が始まっているが、達也にはそんなことはどうでも良かった。完全にやる気になってしまった友人たちを見ながら、達也は何も起こらないようにと強く願った。
◆
風紀委員長の花音からは、意外とあっさり許可が下りた。だが、それと同時に言われた頼みには苦い顔をせざるを得ない。
「明日、摩利さんと七草先輩も行くんだけど、それと一緒じゃダメ?」
呂剛虎と一度対面している摩利が来るのは好ましくない。摩利たちだけで遭遇する可能性も無くはないが、可能性としては低い。それに万が一の場合、達也の戦闘を見せる人間をこれ以上増やしたくなかった。
「……できれば別々でお願いできませんか?」
「どうして?」
「エリカと渡辺先輩の仲があまりよくないようなので……」
「そうなの?」
苦しい言い訳だが、事実ではあるので最大限利用させてもらう。花音は少しの間思案顔になったが、すぐに顔を上げた。
「それならいいわ。三人分でいいのね」
「ありがとうございます」
想像よりも遥かにあっさりと許可が下りたので肩透かしを受けた気分になった。そんな達也に、花音はニヤリとした笑みを向けてきた。
「ところで司波君ってさぁ」
同じ役職では性格も似るのだろうか、摩利にそっくりな笑みだ。
「好きな子とかいないの?」
「……何故そんなことを?」
「九校戦で千葉さんに抱き着かれてたじゃない。普通気になるでしょ」
実を言うと、花音は先日エリカの怒りに中てられたからこそ気になっているのだが、それを言わないだけの分別はある。
「……そういえば千代田先輩、幹比古から書類作成が苦手だとお聞きしましたが?」
「うっ……」
「生徒会の方にも期限を待ってもらっているとか」
「……」
とりあえず誤魔化せるか試したところ、花音は面白いくらい気まずそうな顔になった。これならと思い、達也はこう提案した。
「よければ今日だけでもお手伝いしましょうか?」
「え、いいの!?」
「はい。その前に二十分ほど席を外させていただければ」
「全然いいわよ! それじゃあ待ってるわね!」
達也は一礼してから、風紀委員本部をあとにした。
◆
達也の手伝いによって仕事はどんどんと無くなっていく、と花音は思っていたのだが、そう上手く事は運ばなかった。
確かに達也は手伝ってはくれているし、進捗もだいぶ早い。
ただ想定外だったのが、達也がその仕事の全てを花音に処理させたことだ。
「先輩、ここの記入が漏れています。あとここもですね」
「この報告は以上ですね、では次にこれをお願いします」
「これは定時報告なのですぐ終わるでしょう。何故か二週間ほど溜まっていますから、すぐにでも片付けましょうか」
「これで三割ほどです。まだまだ残っていますので頑張ってください」
丁寧だが容赦の無いペースで、次から次へと仕事が降ってくるのだ。
書類仕事が苦手な花音は、一時間ほどで音を上げ始めた。
「あのさ、司波君…そろそろ警備の時間だから……」
「大丈夫ですよ」
「え? 何が?」
「先ほど沢木先輩に五十里先輩の警護と全体の指示出しを代わっていただけるようお願いしました」
「え、うそ……」
「本当です。先輩の仕事を邪魔しないようにと、快く引き受けてくれましたよ」
花音は目を泳がせながら必死に言い訳を考えている。
「えっと…それじゃあ啓の様子でも見に……」
「五十里先輩からですが、伝言を預かってます」
達也は端末を開いて花音へと掲げる。
『司波君から話は聞いたよ。しっかり仕事を片付けてから来てね』
花音の表情が絶望に染まっている。とは言っても、ここまで仕事を溜めた花音が悪いので、あまり罪悪感は湧かない。
「あ、悪魔なの……?」
「いえ、先輩の仕事を手伝っている優しい後輩ですよ」
恐ろしいものを見るような花音に対し、達也は先ほどの意趣返しとばかりにニヤリとした笑みを向けるのだった。
◇◇◇
千秋は窓のない病室のベッドでため息をついた。最近は暇をもて余しすぎて、嫌でも「アイツ」のことを考えてしまうのだ。
姉の言葉を聞いてから、何故「アイツ」をあれほどまでに敵視していたのか分からなくなった。「アイツ」に嫉妬していたのは確かだ。千秋も魔工師志望の端くれだ、あれほどの技術力に嫉妬しないわけがない。だが、「アイツ」を称賛こそすれ、憎悪など抱いていただろうか。
千秋は「アイツ」が姉の手柄を横取りするつもりだと考えていた。しかし姉自身がそれを否定し、千秋もそれが真実ではないかと感じ始めた。姉の言葉と、何より自分の気持ちを信じたい。だが、最後の最後で、心の中にある何かがそれを邪魔していた。
そんな思考を何度も繰り返すうちに、彼女は「もう何もかもがどうでも良い」という投げ遣りな心境になっていた。
ちょうどその時、病室の扉がノックされた。
無気力状態に沈みつつあった千秋だったが、それを不審に思う悟性は残っていた。今日は面会全面中止のはずだ。彼女が訝しんでいると、もう一度ドアがノックされた。千秋はそれに慌ててしまい、深く考えることなく遠隔操作で鍵を開けた。
「お加減は如何ですか、千秋さん」
ドアを開けて入ってきたのは思いがけない人物で──もしお見舞いに来てくれるならこの人だろうと心の奥底で予感していた青年だった。
「周さん、どうして……今日は面会できないはず……」
「とっておきを使いました」
「とっておき……魔法ですか?」
「いえいえ。魔法とは少し違うものです……魔法など無くても、人はいくらでも奇跡を起こせるものですよ。まあ、奇跡と言うには些細な業ですが」
「あの、周さん、わたし……本当に色々と力を貸していただいたのに、上手くできなくて」
ごめんなさい、と言いかけたその直前、彼女の目の前に花束が差し出された。妖しくも美しい、目を離せなくなる不思議な魅惑を醸し出すその花束に意識を奪われて、
「そんなことは気にしなくて良いんですよ」
千秋には周の声が遠くに聞こえた。
「私のしたことなど気にしなくても良いんです……でも、もし、それが貴女の悔いになるなら」
千秋の目は焦点を結んでいない。
「貴女の重荷になるなら」
彼女の意識は、周の声で占められていた。
「私のことは忘れても良いんです」
「忘れる……?」
無意識に漏れる呟き。
「そう、忘れてしまいなさい」
「忘れる……忘れれば良いの……?」
周に誘導されるままに、千秋は自分自身に忘却を許した。
「ええ、何もかも忘れれば良いのです」
「わかった……忘れることにする……」
千秋は自分自身に忘却を命じた。