千葉エリカの朝は早い。
彼女は早朝から鍛錬に汗を流すことを日課としている。
十歳の頃までは、父親に逆らえず、言われるがままに。
自分が何なのかを思い知らされた十四歳のあの時までは、誰よりも千葉の剣士らしくあろうとして。
去年の三月までは、ただ惰性で。
でも、去年の四月、達也と出会ってからは、自ら望んで。自分の意志で、強くなりたくて。
朝の鍛錬で剣は握らない。エリカの素質に目をつけた父親は、彼女を『秘剣・山津波』の使い手とすべく、否、『山津波』の使い手とする為だけに育てた。
彼女に叩き込まれた技は、疾風と化して斬り込み雷光と化して断ち切る、疾風迅雷、速さの剣。そのため、彼女に課せられた修行の中で、脚力の強化、走り込みはとりわけ重視されていた。
だが、今のエリカは少し違う。自身の強みを磨く事を辞めたのではなく、
九月二十五日、火曜日。
エリカは目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。体質的に言えば、エリカは余り朝に強い方ではない。身体は反応しても、意識がすぐに覚醒しないのだ。
それでも隣で寝ていた気配が自分を抱きしめ、その後に離れていけば、寂しさにより意識も浮上する。
欠伸を嚙み殺しながらベッド脇に畳んである下着と寝間着を身につける。足取りだけは危なげなく、一階へ降りてバスルームに向かう。
「おはようエリカ」
「おはよぉ」
トレーニングウェア姿の達也と入れ替わりで顔を洗い、ようやく意識を覚醒させたエリカは軽く歯を磨いて、鏡を前に簡単に髪を整え──どうせロードワーク後にシャワーを浴びることになるからだ──リビングへ向かう。
「達也くんおはよ」
「おはよう」
二度目の挨拶、エリカとしては寝惚け眼のあれを挨拶とは認めていない。半ば同棲している状態で無防備な姿を見せないのは不可能だが、それでもきちっとする所はしておきたい。
そのための二度目の挨拶。達也は当初理解できない様子だったが、「そういうもんなの」と押し切った。
なお、学校に着けば三度目の挨拶が待っている。
今はまだ日の出直後、正確な時間を言えば朝の五時半だ。ほぼ隔日で盛り上がっている二人だが、お互い早朝の鍛錬があるため日を越す前には寝るよう心掛けている。
エリカはバナナと牛乳だけ口に入れ、自身の服が仕舞ってあるだけの一階の空き部屋でトレーニングウェアに着替えた。
「ごめん、お待たせ」
玄関に向かうと、達也は既に靴を履き終えていた。エリカも靴を履くと、達也を見上げて目を瞑る。
「ん」
いつものちょうだいと、少しだけ唇を突き出す。達也も身を屈めてそっと唇を合わさる。
触れ合うだけのキス。
身体を離した二人は、早朝とは思えないほど活力に満ちた顔をしていた。
「そんじゃ、今日も頑張りますか」
「そうだな」
二人はドアを開け、それぞれの鍛錬に向かった。
◆
今年の「全国高校生魔法学論文コンペティション」まであと一ヶ月と少し。しかし、一高生たちの話題の中心は、まだ論文コンペのことではなかった。
「今年は去年みたいな波乱は起こらないだろうな」
「起こりようがないって、そもそも投票自体要らんだろ。仮に対抗馬が立ったとしても司波さんの圧勝に決まっている」
「司波さん、良いよなぁ……。早く演説会にならないかなぁ……」
「つーかさ、あの噂ってマジなのか? 三高の一条将輝が司波さんと連絡先交換したっていう……」
「バカだなー、嘘に決まってるだろ。そりゃあ一条将輝は司波さんにメロメロだったけど、あの司波さんだぜ? 連絡先持ってる男子なんているのか?」
という二年生男子の会話や、
「司波さん、誰を役員にするのかしら」
「気が早い……こともないわね。例年信任投票だし、今年は特に彼女の対立候補になろうっていう猛者はいないでしょ」
「でも役員もほぼ決まりじゃない?」
「そうねぇ、一年の七草さんは副会長に、桜井さんも会計に持ち上がりでしょ」
「あとは書記だけど……あの子だよねぇ」
「あの子かぁ……実力もコミュ力も確かなんだけど……桜井さんも大変よねぇ」
「ねぇ」
という三年生女子の会話。
他にも似たようなお喋りが、校内のあちらこちらから聞こえてくる。今の一高生の関心は、今週末に迫った生徒会長選挙に向けられていた。
もっとも、今年もほぼ間違いなく対立候補のいない信任投票。去年の生徒会役員の選出資格に関する規定変更のような、生徒総会における大きなテーマも無い。
男子生徒の話題は演説会で見られる深雪の艶姿に、女子生徒の話題は新役員選出に集まっていた。
そんな中で、達也は昼休みにいつものメンバーを生徒会室に呼び出していた。
深雪、水波、ほのか、雫、幹比古の一科生。エリカ、レオ、美月の二科生。一科二科の垣根を越えて「いつもの」と言える友人たちを前に、達也は真剣な表情で告げる。
「皆集まってくれてありがとう。水波」
「はい」
達也の合図で水波が遮音結界を張る。そこには光を遮って中を見えなくする効果も付いていると、全員が魔法的な感覚で理解した。
同時に、達也の表情と合わせて只事でないと認識する。
「まず確認だが、これから話すことは機密事項に値する。守れない、知りたくない、そう思う者はいるか?」
いるならこの場を離れてくれと言外に告げられる。達也がこれから語るのは、軍務に関する話だと解らされる。
だが、この場を離れる者はいなかった。全員が心構えを整えて、達也のセリフを待っている。
「そうか」
達也はほんの僅かに表情を緩ませ、すぐにいつもの鉄面皮へと変わった。
「去年の横浜事変で敵工作員の手引きをした外国人魔法師、俺はそれを追う任務を受けた」
心構えをしていても、告げられた事実の重さは変わらない。横浜事変という大事件の黒幕の捕縛、重すぎる任務に一同は言葉を失った。
「今分かっているのが、ターゲットが追っ手を振り切っている魔法の概要と、京都付近でとある古式魔法師の集団に匿われていることのみ。情報が少な過ぎるため、俺が囮をすることになった」
「おとっ……!?」
「なんで達也さんが! いくら軍のお仕事だからって、まだ高校生じゃないですか!」
レオが言葉に詰まり、ほのかがその異常性を糾弾した。
「適材適所だ。動かせる人員には限りがあるし、正面戦闘なら俺が遅れを取ることはないと判断された。それだけだ」
「そう、ですか……」
達也が何とも思っていない、むしろ合理的だと判断していると分かってしまったため、ほのかは口を噤まざるを得なかった。
「それよりも俺が心配しているのは皆のことだ。俺が一高で最も親しくしているのはここにいるメンバーだし、巻き込まれる可能性も否定できない」
最も親しい、と言われて男二人を筆頭に照れたような表情を浮かべる。
一方、厳しい表情のままニコリともしなかったのはエリカだった。
「あたしは大丈夫よ。深雪や水波、ミキは言うまでもなく……レオも大丈夫でしょうね」
「俺はオメエの方が心配だぜ。オメエも一応、女だからな」
ある意味格下扱いをされて、レオが憎まれ口を叩く。しかしエリカの反応は、いつもと違っていた。
「じゃああたしは達也くんに面倒見てもらうわ。このバカの言うとおり、心配なのは雫とほのか、一番は美月だわ。戦闘力に関して言えば、普通の女の子でしかないからね」
「そうだね……」
同じことを考えていたのか、エリカの指摘に幹比古が緊張した面持ちで頷いた。美月も恐怖に自身の腕を擦っている。
「三人に関しては護衛を手配した。雫は登下校のみだが、美月とほのかは自宅でも遠方から護衛が付く」
「そんなっ、悪いですよ!」
「俺の事情に巻き込むかもしれないんだから当然だ」
「そうよほのか。ここは達也さんの厚意に甘えましょう」
「……分かった、そうする」
人員に限りがあると言われた直後に、護衛を手配されたことに遠慮を見せたほのかだが、深雪の後押しもあり達也の提案に甘えることにした。
「美月は……やはり不安か?」
「いえ、その、大丈夫です」
美月は気丈に笑ってみせたが、その表情には怯えが窺える。来るか分からない敵に、姿の見えない護衛。不安に思うのも無理はない。
「そうだ、ミキがついていてあげなさいよ」
「僕の名前は幹比古だ……って、ええっ!」
そこにエリカが爆弾を投げ込んだ。いや、主張自体はこの上なく正しいのだが、幹比古にとっては爆弾に等しい衝撃だった。
「そうだな。幹比古、頼めるか?」
「えっ、いや、でも」
「ちゃんと家まで送り迎えするのよ。ご両親へのあいさつも忘れないでね。じゃないとストーカーに間違えられちゃうから」
「うっ……」
必要性は分かっている。だが心情的には大きな抵抗がある。「ご両親にあいさつ」という部分が特に。
「……分かったよ。何かあってからじゃ遅いからね」
理性と感情のせめぎ合い……とは少し違う。気恥ずかしさと照れ臭さを大義名分で押し潰し、幹比古は正直になることにした。
「えっと、よろしくお願いします」
美月も気恥ずかしさを感じながら、それ以上の安堵に胸を撫で下ろした。
「それで、三人はなるべく毎日の登下校の時間を一定にしてほしいんだが」
「分かった」
達也の要望に雫が頷いた。大実業家の娘である雫は、護衛される側の心得も学んでいた。
「寄り道はしてもいい?」
「大丈夫だ。急に登下校を早めたり、裏門から隠れて帰ったりしなければ問題ない」
「いつまで?」
「分からない」
「そっか」
無責任ともいえる達也の返答に、雫は怒りも落胆も見せなかった。
「ほのか、あと美月も。今日は寄り道していこう、達也さんがお財布出してくれるって」
「そうだな。そんな事でお詫びになるか分からないが、今日は俺が出すよ」
「……分かりました。雫、いつもの喫茶店でいい?」
「うん。美月もそれでいい?」
「大丈夫です。達也さん、ご馳走になります」
ほのかと美月の罪悪感を軽くするための提案を、二人とも少しの躊躇いを見せたが、結局は受け入れることにした。
「これで達也さんの話は終わり?」
「いや、もう一つある。京都でターゲットの捜索する際に、深雪と水波、それと幹比古の力を借りたい」
呼ばれなかった者のうち二人がムッとしたが、達也は一旦スルーすると決めていた。
「吉田くんだけではなく、私たちもですか?」
「ああ、二人は戦力としてついてきてほしい。その所為で生徒会の方で仕事が溜まったら、俺も処理するのを手伝うよ」
深雪と水波の二人には予め話を通していた。驚いた演技をする深雪に、達也も真面目な表情を作って言う。
「分かりました。水波ちゃんも大丈夫かしら?」
「問題ありません」
「助かるよ。幹比古も頼めるか?」
「うん、僕にできることなら何だってするさ」
幹比古も了承して話が纏ったところで、達也の肩がトントンと叩かれた。
「達也くん、あたしは?」
エリカの後ろではレオが俺もだぜとアピールしている。
「この話をしたら、二人は学校を休んででもついてくるだろう」
達也の的確な指摘に、エリカとレオが揃って顔を逸らす。
その動作があまりにシンクロしていたため、重たい空気に満ちていた生徒会室が一気に笑いに包まれた。
◇◇◇
達也が友人たちに話をした放課後、達也の自宅にはエリカと水波が訪れていた。
エリカは宣言通り達也に面倒を見させるため、水波はそれによる作り置きの補充だ。
「悪いわね水波、あたしの分まで追加で作ってもらうことになって」
「いいえ、これが私の仕事ですので」
仕事をやりがいに変換してもおかしくないほどやる気に満ちた口調で言うと、水波はキッチンへ向かう。
そんな水波に苦笑しつつ、エリカは地下へ向かった。
「達也くん、ちょっといい?」
「エリカ、どうした」
エリカが部屋に入った時には、既にモニターは落とされていた。まだ全幅の信頼はされていない事に少し傷付くが、それを表には出さない。
「確認なんだけど、今日達也くんが言ってた任務って、軍じゃなくて四葉の任務だよね?」
「よく分かったな」
達也の口からもたらされた短い回答、そこには本物の驚きと称賛があった。
あの後、ほのかと雫、美月が生徒会室を退室してから、達也は残りのメンバーへ周公瑾や『伝統派』について説明をして、そこに幹比古から補足があった。依頼主についてのヒントは皆無に等しいはずだった。
そんな中で正解にたどり着いたエリカに、達也は本気で感心していた。
「何となくね。軍には藤林さんもいるでしょ、伝統派が『九』の各家と対立してるっていうなら、老師に頼らない理由がないもの」
「なるほど」
藤林が老師──九島烈の孫娘なのは有名な話だ。そこから疑いを持って辿り着いたのかと納得する。
しかし、エリカは達也の称賛に笑みを浮かべはしなかった。
「四葉の任務だから、国防軍の藤林少尉や九島家に手を借りられないってこと?」
「そうだ。幹比古にも吉田家としての助力を断ったのと同じで、軍や他の十師族との協力関係は俺の一存でどうにかしていい話じゃない」
「個人単位ならいいんだ?」
「ああ」
「ふーん」
達也はエリカの意図するところが分からず、顔には出さず困惑している。
「じゃあさ、あたしのツテ使ってもいいわよ」
「エリカのツテ?」
「あたし、藤林さんに、おっきな貸しがあるのよね」
「……ああ、七宝の件か」
四月の七宝事件のことを思い出す。
詳細は割愛するが、藤林の声掛けによる仕事中に、達也は小和村真紀のあられもない姿を見てしまった。その際に、怒り心頭だったエリカは、藤林に貸し一つということで矛を収めたのだ。
藤林
「それを俺が使っていいのか?」
「いいわよ。あたしを除け者にしないならね」
そういう事かと達也も納得した。
エリカのツテ、藤林の助力は是が非でも欲しい。周公瑾を見つけられなければ捕縛もできない。だが、エリカがいると見せられる力も制限される。京都でもエリカはレオと共に幹比古の護衛に付けて、達也は深雪と水波の三人で行動するつもりでいた。
しかし、この提案を受ければそんな選択は許されないだろう。
「……分かった。叔母上に許可を取ってからだが、エリカの言う通りにするよ」
逡巡の末、達也はエリカの提案を受け入れることにした。
最悪の場合。エリカに達也の魔法を見せてしまった場合、その説明をすることを受け入れた。
「よしっ」
エリカは笑みを浮かべるのではなく、一仕事終えた達成感に大きく息を吐いた。
◆
エリカとの交渉を終えて、達也は自分の部屋からセキュリティ強化型の通話機を使って電話を掛けた。コールした番号は四葉家当主直通ナンバー。
『こんばんは、達也さん』
「こんばんは、叔母上」
急な電話にも拘わらず、真夜は優しく微笑んでいた。
『用件は周公瑾の捕縛の件かしら?』
「はい。その任務の件で叔母上に許可していただきたいことがありまして」
『何についての許可ですか?』
「ターゲットの捜索に、九島家の力を借りたいと思っています。藤林家を通じて九島閣下のお力を借りる事へ、許可をいただきたく」
『藤林家を通じて……』
真夜は達也のセリフから、そのワンフレーズだけ抽出して繰り返した。しばし思考した真夜は、画面越しの達也へ意識を戻した。
『独立魔装大隊の藤林少尉ではなく、藤林さんに助力を請うのですね?』
「はい。大元の依頼が何処から出ているにせよ、四葉の仕事で国防軍に借りを作るのは避けた方が良いと考えました」
『藤林家、そして九島家に借りを作るのは構わないと?』
「周某は『伝統派』と手を組んでいる可能性が高いのでしょう? であるなら、これまで長きにわたって『伝統派』と対立している『九』の力を借りるのが得策です。それに……」
『……それに?』
言い淀んだ達也に真夜が続きを促す。
「…エリカが個人的に藤林さんへ貸しがあるそうで、今回はそれを使わせてもらおうかと」
『エリカちゃん個人で、ですか……エリカちゃんは達也さんに何か条件を付けたのですか?』
「除け者にするなと」
『ふふふっ』
真夜が愉快そうに笑う。
『達也さんもエリカちゃんに振り回されていますね。喧嘩して、仲直りして、すれ違って、本音で話して……今度はエリカちゃんが踏み込んできたのね』
深雪から話を聞いたのか、一高内に四葉のスパイがいるのか、藤林たちと情報を共有しているのか。真夜は達也のこれまでを見ていたかのような発言をする。
「本当に。ままならないものです」
『そういうものよ、人間関係は。どれだけ仲が良くてもちょっとしたキッカケで喧嘩するし、逆にそのちょっとしたキッカケで仲直りする事もある』
深く実感の籠もった言葉、おそらく真夜と深夜の仲を言っているのだろうと達也は考えた。
『話を戻しましょうか。確かに今回、九島家の手を借りるというのは色々な意味で賢い選択ですね。いいでしょう、許可します』
「ありがとうございます」
達也は画面越しに頭を下げた。
『協力を取り付ける条件について、いちいち報告の必要はありません。相手が国防軍であろうと十師族他家であろうと、エリカちゃんやその他学友であろうと。本件については達也さんの裁量に一任しますので』
最後に大きな爆弾を落として、真夜は電話を切った。