後悔と共に生きていこう。

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G1を勝った夜、三人は笑って「ありがとう」と言った。
翌朝、診断書は三枚。
恨まれないからこそ終われない、トレーナー曇らせ短編。

注意書き

※故障描写、精神的に追い詰められる描写があります。
※史実要素には寄せず、雰囲気重視の二次創作です。


ありがとうの鏡

紙吹雪の残り香

 

部屋に戻ると、音が足りなかった。

 

さっきまでいたレース場では、拍手も歓声も、照明に弾かれた声まで空気に混じっていたのに、寮の廊下は吸い込むみたいに静かだった。靴底が床を擦る音だけが長く残る。

 

手に残ったトロフィーは、見た目より重い。

軽そうに見えるものほど、持ったあとに残る。

 

棚の一番上にそれを置いた。届かない位置に置けば、少しは今日が遠ざかる気がした。花束は水差しに差し込んで、メダルは机の角に置く。写真はまだ見ない。見れば、あの顔がそのまま胸に入ってくる。

 

ドアが開く。

 

最初に入ってきたのはオグリだった。

続いてマックイーン。

最後にオペラオー。

 

勝って戻った夜なのに、三人の呼吸は揃わない。揃ってしまったら、それはもう祝勝じゃなく、訓練の延長だ。

 

「すごいな」

 

オグリがトロフィーを見上げて言った。子どもみたいな声だった。

そのまま、台座の縁を指でなぞる。軽い指先だった。

 

痛みがあると、人は重く触る。

確かめるために。

痛くないふりをするときほど、触れ方が軽くなる。

 

気づかない顔をした。

 

マックイーンは花束の前で立ち止まった。白い花を一輪だけ見て、それから微かに眉を寄せる。香りが強いのだろう。あるいは、呼吸がまだ整っていないだけかもしれない。

 

「お写真、見ませんの?」

 

伏せたままの写真立てに目をやって、彼女が言う。

 

「あとで」

 

そう答えて、俺はペン立てを直した。直す必要のないものを直すのは、考えたくない時の癖だ。

 

オペラオーは椅子に座る前に、一度だけ部屋の中を見回した。

物の配置を見ているようで、見ているのは俺の顔だ。

 

「さて」

 

そう言って笑う。

 

「次はどの舞台にしようか。今夜のうちに決めてしまうのも悪くない」

 

勝った直後に次へ行けるのは強さだ。

ただ、強さと無理は、境目が薄い。

 

「今日はやめとけ」

 

俺が言うと、オペラオーは少し目を細めた。

舞台の上の笑い方に似ている。よくできた笑顔ほど、時々、息が入っていない。

 

「やめないよ。勝てたんだ。勝てたんだから」

 

その言い方が少し強かった。

確認だ。自分への。

 

勝った直後、人は案外、勝ったことを信じきれない。

信じきれないから、次の目標を置いて穴を埋めようとする。

 

俺はその埋め方を、止められない。

 

「まず風呂入れ」

 

現実的な指示を投げる。

逃げ道のない言葉の方が、この夜には向いている。

 

オグリが手を挙げた。

 

「なあ、最後の直線、すごかった。身体が勝手に前へ出て、周りが細くなった」

 

「そうだな」

 

否定しない。否定すると、その感覚をもっと強い言葉で言い換え始める。言葉が強くなるほど、記憶は濃くなる。濃くなった記憶は、次の再現を欲しがる。

 

マックイーンが髪先を指で整えた。いつもより動きが速い。

 

「……明日、医務室には参りますわよね」

 

「行く」

 

即答した。迷う余地を見せると、不安は身体に逃げる。身体に逃げた不安は、走ることで黙らせようとする。

 

オペラオーが肩をすくめる。

 

「大丈夫だろう。だって、勝ったんだ」

 

同じ言葉が形を変えて、今夜もう何度目かになる。

勝ったから。勝てたから。だから。

 

机の角のメダルに目を落とした。

金属の縁は冷たい。

冷たいものは、嘘をつかない。

 

「大丈夫かどうかは、診てもらってからだ」

 

そう言いながら、口の中に違和感が残った。

本当は逆だ。診てもらうから大丈夫になるはずなのに、この世界では時々、大丈夫が“まだ走れる”と同じ意味になる。

 

オグリが靴を脱いで、片足を少しだけ浮かせた。腰を庇うような、ほんのわずかなずれ。普通なら見逃す。見逃してもおかしくない程度の誤差だ。

 

「平気だ」

 

笑って言う。

俺の目を見て言う。

 

その瞬間、胸の奥で薄い音がした。

鈴みたいな、軽い音だった。骨でも息でもない。因果が回り始める音だけが、軽いことがある。

 

マックイーンが何かに気づいたみたいに視線を落とした。

誰も言わない。

言葉にすると、この部屋の温度が変わる。

 

俺の手元に、オペラオーの視線が落ちる。

まだ白紙は出していない。退職届なんて書いていない。

それでも頭の中には、もう白い紙がある。

 

「今日」

 

オペラオーが言った。明るい声だった。明るい声は、その後に暗いことを置きやすい。

 

「勝てた瞬間、満たされたんだ。もうこれでいいと、一瞬だけ思った」

 

そこで口を閉じる。

言ってしまった自分が少し怖くなったのだろう。

 

「……変かな」

 

「変じゃない」

 

俺はすぐに答えた。早すぎた。

否定が早いと、人は安心する。安心すると、次にそれを再現しようとする。

 

満たされた感覚はたいてい、限界の向こう側にある。

一度そこへ触れてしまうと、次からはそれが遠い場所ではなくなる。

 

危ない、と思った。

でもそれをこの夜に言えば、勝利に傷がつく。

 

傷のついた勝利は、彼女たちにとって足りない勝利になる。

足りないものは、次にもっと過剰なやり方で埋めようとされる。

 

「トレーナーさん」

 

マックイーンが呼ぶ。少しだけ、声が近い。

 

「……今日は、ありがとうございました」

 

丁寧な言い方だった。

丁寧なありがとうは深く刺さる。

 

オグリが続く。

 

「ありがとな。勝たせてくれて」

 

オペラオーは少し遅れて、いつもより静かな声で言った。

 

「ありがとう。本当に」

 

三つのありがとうが、同じ場所に落ちた。

床じゃない。俺の胸の中だ。

 

胸に落ちたものは拾えない。

拾えないものは、ずっと残る。

 

「明日、医務室だ。全員な」

 

少し命令に近い言い方になった。

責任がある人間は、時々、命令で立っている。

 

三人が頷く。

オグリは大きく。

マックイーンは小さく。

オペラオーは目だけで。

 

彼女たちが部屋を出ていく。

廊下の音がまた吸い込まれ、最後にドアが閉まると、部屋は完全に無音になった。

 

無音になると、聞こえる。

 

自分の呼吸。

自分の心拍。

花束の水が少しずつ重くなる気配。

机の角で冷えていくメダル。

 

そして、さっきの鈴の音の続き。

 

俺は棚の上のトロフィーを見上げた。

光はもう弱い。

それでも勝利の形だけは保っている。

 

形だけは。

 

医務室の白い扉が、頭の中に浮かぶ。

その向こうの紙も、もう見えている気がした。

 

紙吹雪は終わったのに、胸の中だけ降り続けていた。

 

 

白い紙が三枚

 

医務室の朝は、勝利より早い。

 

勝利は夜にしか咲かない。照明があって、歓声があって、拍手がまだ手のひらに残っている時間だけ、あれは形を持つ。朝になると、勝利は紙になる。

 

白い廊下を歩く音が、昨日より確かだった。

昨日は軽かった。軽さは浮つきじゃなく、負荷の逃がし方だ。逃がしているのに、逃げ切れていない時の軽さ。

 

扉の前で立ち止まる。

ノックをする前に、俺は自分の手を見た。爪の間に細かなラメみたいなものが残っている。紙吹雪の欠片だろう。落としきれていない。

 

勝利は付着する。

落ちるのは、後からだ。

 

中に入ると、机の上に三枚の紙が並んでいた。

どれも同じ形式で、同じ白さで、同じくらい救いがない。

 

オグリは背筋を伸ばして座っている。

伸ばしすぎていて、座っているのに立っているみたいだ。

 

マックイーンは膝の上に手を重ねていた。

崩さないための形を、最初から作っている。

 

オペラオーは背にもたれず、少し前へ身を乗り出している。

舞台を待つ時と同じ姿勢だ。

 

医師は淡々と説明を始めた。

淡々としているのは、たぶん優しさだ。感情を混ぜれば混ぜるほど、受け取る側はそこにすがろうとする。

 

「まず、オグリキャップさん」

 

一枚目の紙に指が置かれる。

それだけで胸が冷える。

 

「腰部に疲労性の損傷が見られます。現在は強い痛みが出ていなくても、今後、負荷のかかり方次第で悪化する可能性が高いです」

 

オグリは大きく頷いた。

 

理解したというより、受け入れた頷き方だった。

受け入れ方が綺麗な人間は、周りに止める隙を与えない。

 

「走れますか」

 

平坦な声だった。

決めたあとに出る声だ。

 

医師が一瞬だけ言葉を選ぶ。

 

「今すぐは勧められません。休養を挟んだ上で、状態を見ながら段階的に」

 

「分かった」

 

その“分かった”の中身を、俺は知っている。

分かっていないわけではない。

ただ、痛みより先に、再開の時期を計算している。

 

俺は口を開きかけて、閉じた。

ここで強く止めれば、彼女の受け入れそのものを否定することになる。

 

医師は二枚目に手を移した。

 

「メジロマックイーンさん」

 

「はい」

 

柔らかい返事だった。

柔らかい声は、周りを安心させる。安心は時々、見落としを呼ぶ。

 

説明が続く。

部位、所見、再発の可能性、復帰までの見通し。

どれも整った文だ。整っているからこそ、切れ味がある。

 

マックイーンは姿勢を崩さなかった。

崩せないのだろう。崩せば、周りに迷惑がかかると思っているから。

 

「ご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありません」

 

やはり言った。

 

謝る必要のない人間ほど、先に謝る。

礼儀が、刃になる。

 

「迷惑じゃない」

 

短く返した。

それ以上言うと、彼女の礼儀まで否定することになる気がした。

 

三枚目。

医師の手が移る。

 

「テイエムオペラオーさん」

 

オペラオーは笑った。

昨日の笑い方に近い。

近いほど、危ない。

 

「悪い知らせなら、少しは劇的に頼みたいところだね」

 

医師は冗談に乗らなかった。

それでいいと思った。ここで優しさを見せられると、彼女はきっとその優しさまで演出に組み込んでしまう。

 

説明が終わったあと、オペラオーはほんの一瞬だけ目を伏せた。

瞬きより短い。

見逃してもおかしくないほど短い。

でも俺は見逃せない。

 

「つまり」

 

顔を上げて、いつもの声で言う。

 

「しばらくは舞台を降りる、ということだね」

 

舞台。

彼女にとって、それは比喩ではなく現実に近い。

 

三枚の紙が揃った。

机の上に白い島ができる。

紙吹雪と同じ白なのに、こちらは軽くない。

 

医師は復帰に向けた一般的な流れを説明し始めた。

休養。観察。段階的復帰。

未来があるように聞こえる。

未来があると信じられるから、人は今日を耐えられる。

 

俺はその説明を聞きながら、別のものを考えていた。

 

寮の掲示板。

担当希望の紙。

俺の名前の横に増えていく文字。

 

勝たせられるトレーナーは少ない。

少ないから、集まる。

集まるから、辞められない。

 

辞めるという言葉は、逃げに見える。

逃げに見えると、彼女たちは自分を責める。

自分を責めれば、また無理をする。

 

「トレーナーさん」

 

マックイーンが俺を呼んだ。

 

「勝利の直後に、このようなことでご心配をおかけして……」

 

「謝るな」

 

少し強く言ってしまった。

彼女は黙る。

黙ると、空気が冷える。

 

その冷えを埋めるみたいに、オグリが言う。

 

「トレーナー。大丈夫だ」

 

大丈夫。

その言葉は、俺を守るための言葉だ。

 

オペラオーが続いた。

 

「そうだとも。勝てたのだ。今はそれでいい」

 

“今は”。

 

その二文字が一番危ない。

今だけ肯定して、後を切り離す言い方だ。

切り離せると思っているわけじゃない。ただ、そう言わないと立てないのだろう。

 

俺は三枚の紙を見た。

そこには、切り離せないと書いてある。

 

「ありがとう」

 

オグリが言った。

飾りのない声だった。

 

「勝たせてくれて、ありがとう」

 

マックイーンは背筋を伸ばしたまま、深く頭を下げる。

 

「本当にありがとうございました。あなたの采配がなければ、私たちはあの舞台に立てませんでしたわ」

 

オペラオーは微笑む。

 

「君の導きは、誇りだ。君は私たちを輝かせた」

 

三つのありがとうが、順番に胸へ落ちてくる。

 

恨まれた方が、まだ呼吸ができた。

 

思った瞬間、自分が最低だと分かる。

それでも思ってしまう。

恨まれれば、謝れる。

謝れれば、償いの形ができる。

形ができれば、終わり方が見える。

 

終われないから、苦しい。

 

医師が席を立つ。

面談の終わりは、紙をファイルに戻す音で示された。

 

廊下へ出る。

オグリの歩幅が少しだけ狭い。

腰は誤魔化せる。誤魔化せるからこそ、厄介だ。

 

「トレーナー」

 

オグリが言う。

 

「焦らなくていい。待てる」

 

待てる。

その言葉がどれだけ優しいかを知っている。

待てる子ほど、待たされているあいだを一人で耐える。

 

マックイーンが静かに笑った。

 

「私たちは、あなたの担当です。急ぐ必要はありませんわ」

 

安心させようとしている。

その優しさが、首に巻きつく。

 

オペラオーは少しだけ声を落とした。

 

「君が壊れてしまう方が、私は嫌だ」

 

胸の奥に冷たいものが流れた。

壊れているのは俺じゃない。

壊れたのは彼女たちだ。

 

それなのに、彼女たちは俺を守る。

 

寮の自室の前で立ち止まる。

ここで辞めればいい、と一瞬だけ思った。

 

でも、辞めたら勝てない。

勝てない地獄も、俺は知っている。

 

だから、辞められない。

 

部屋の中は昨夜と同じだった。

棚の上のトロフィー。

少し濁った花の水。

冷えたメダル。

 

同じなのに、空気だけが違う。

 

勝利の夜は終わった。

朝は、紙で始まる。

 

 

最短の勝ち筋

 

勝たせ方には種類がある。

 

根性で押し切るやり方。

流れを拾うやり方。

相手の崩れを待つやり方。

 

どれも間違いではない。

ただ、俺が選んだのはいつも同じだった。

再現できる勝ち方を作る。

 

再現できる形は信頼になる。

信頼は、優しさに見える。

 

最初にやったのは、増やすことじゃない。

減らすことだった。

 

練習量を減らす。

判断を減らす。

迷いを減らす。

余計な刺激を減らす。

 

削って、削って、残す。

残ったものだけで勝てるようにする。

 

それは綺麗だった。

綺麗なものは、崩れた時に直しにくい。

 

オグリ

 

オグリは丈夫だと思われている。

実際、丈夫だった。

 

だからこそ危ない。

 

耐えられる人間は、壊れるまで進めてしまう。

壊れる前に止めるには、本人の感覚より先にこちらが切るしかない。

 

「今日はここまでだ」

 

俺は毎回、同じ温度で言った。

 

オグリは頷く。

だが一歩だけ、まだ走れる身体の気配を残す。

 

「もう一周なら」

 

「いらない」

 

そう言うと、素直に引く。

引くのは信頼しているからだ。

信頼して引いた分だけ、レースの日には全部出していいと思ってしまう。

 

全部出していい日。

その許可を与えたのは、たぶん俺だ。

 

ある日、踏み込みの終わりに骨盤が少し逃げた。

ほんの僅かだった。

タイムには出ない。フォームも大きくは崩れない。

 

「腰、どうだ」

 

聞くと、オグリは一拍だけ置いてから首を振った。

 

「大丈夫だ」

 

俺を安心させるための大丈夫だった。

 

「痛かったら言え」

 

「言う」

 

言う、と言って、言わない。

嘘ではない。

言えば俺が困ると分かっているから、言えないのだ。

 

その優しさが、判断を遅らせる。

 

マックイーン

 

マックイーンは最初から整っている。

 

呼吸。

フォーム。

姿勢。

言葉。

 

全部が整っているから、崩れる余白が少ない。

余白が少ないものは、崩れた時に音がしない。

 

だから俺は、彼女に余白を与えた。

優しさの形で。

 

「今日は八割でいい」

 

彼女は安心した顔で頷いた。

 

「承知いたしました。ご配慮ありがとうございます」

 

その一言がいつも刺さった。

俺の手順を、彼女は優しさとして受け取る。

 

優しさとして受け取られた手順は強い。

強くなるほど、逸脱しにくい。

逸脱しにくいほど、レースの日は百になる。

 

百を出すために、彼女は自分の不調を上手く管理する。

管理は、時に隠蔽と似る。

 

練習後のストレッチは丁寧で、見ている側を安心させる。

安心した時にこそ、浅い息を見落とす。

 

「大丈夫ですわ」

 

聞いてもいないのに、彼女は時々そう言う。

俺が不安そうにしているのを見てしまうからだ。

 

痛みを隠すのに、礼儀はよくできている。

 

ある日、彼女は練習の後で頭を下げた。

 

「いつもありがとうございます。あなたのおかげで、迷わずに済んでいます」

 

迷わずに済む。

 

その言葉が一番危ない。

迷わないのは楽だ。

楽なものは続く。

続くものは強い。

強いものは、止まるきっかけを失う。

 

俺は「こちらこそ」と返してしまった。

その瞬間、相互の礼儀が完成した。

 

完成した礼儀は、崩しにくい。

礼儀は優しさの形をして、鎖になる。

 

オペラオー

 

オペラオーは、手順そのものより、手順が生む確信を好んだ。

 

確信があると輝ける。

輝けば、周りが集まる。

周りが集まれば、期待が生まれる。

期待が生まれると、彼女はさらに燃える。

 

「君の組み立ては美しい」

 

そう言って笑う。

褒め方が上手い。

 

「無駄がない。舞台が整う」

 

欲しい言葉ばかりだった。

欲しい言葉を与えられると、人はさらに丁寧に整えたくなる。

 

俺は削った。

練習の無駄を。

休養日の無駄を。

食事も睡眠も、全部を舞台準備として組み直した。

 

「今日の負荷はここまで」

 

そう言えば、オペラオーは素直に従った。

 

「君がそう言うなら、私はそうする」

 

信頼の言葉だ。

重い言葉だった。

 

重いものを預けられると、もっと正しくやらなければと思う。

もっと正しくやろうとすると、さらに削る。

 

削られた手順は、よく回る。

回るものは、美しい。

美しいものほど、崩れた時に戻れない。

 

練習後、彼女は一度だけ言った。

 

「君が心配するのが分かる。だが君が壊れるのは見たくない。だから私は、大丈夫だと言う」

 

そこで初めて、優しさの矢印が逆向きだと分かった。

 

壊れているのは、彼女たちの身体だ。

それなのに、彼女たちは俺を守ろうとする。

 

守られると、逃げられない。

逃げられないから、俺はまた次の手順を整える。

 

限界を越えるのは、才能じゃない。

信頼だ。

 

信頼で越えた限界は、裏切れない。

裏切れば、彼女たちは自分を責める。

自分を責めれば、もっと無茶をする。

 

だから俺は止めなかった。

丁寧に勝ち筋を作った。

 

作った結果、彼女たちは勝った。

 

勝った夜、三人はありがとうと言った。

あの言葉で、逃げ道は塞がれた。

 

オグリの腰は静かに壊れた。

静かに壊れるものは、見落とされる。

 

見落とされたのは痛みじゃない。

優しさが痛みを包んで見えなくする、その仕組みだった。

 

彼女たちは俺を責めない。

だから、俺はどこにも謝れない。

 

謝れない罪は、胸の中に残る。

残ったまま、次の手順を整えようとしてしまう。

 

それが一番、終わっている。

 

 

ありがとうの鎖

 

回想は便利だ。

 

今の自分に説明がつく。

説明がつけば、責任が見える。

責任が見えれば、対処できる気になる。

 

気になるだけで、遅れる。

 

寮の部屋に戻った三人は、昨夜と同じように笑った。

理由だけが違う。

昨日は勝ったから。

今日は、俺を壊さないために。

 

「トレーナー、心配するな」

 

オグリが言う。

 

「私は大丈夫だ」

 

大丈夫じゃない。

分かっている。

分かっているのに、頷きそうになる。

 

頷けば、彼女は安心する。

安心すれば、痛みを黙らせる。

痛みを黙らせれば、歩ける。

歩ければ、また走れる気がしてしまう。

 

「……大丈夫じゃない」

 

言いかけて、飲み込んだ。

 

マックイーンが茶を淹れてくる。

湯気が立つ。

花束よりもずっと、生活の匂いがする。

 

「お飲みくださいませ。落ち着きますわ」

 

受け取る。

受け取ると、彼女の肩が少しだけ下がった。

俺が受け取らなければ、彼女は自分を責める。

 

こうして優しさが循環する。

綺麗な循環は、逃げ道がない。

 

窓の外を見たまま、オペラオーが言った。

 

「君は悪くない」

 

その否定が、ひどく刺さる。

 

「俺が悪くないなら、誰が悪い」

 

乾いた声だった。

乾いていないと崩れる。

崩れたら、彼女たちが支える。

支えさせたら、もっと壊れる。

 

オペラオーはゆっくり振り返る。

 

「悪い、という言葉で片づけるべきではないよ。君は私たちを導いた。それは誇りだ」

 

誇り。

重い鎧だ。

 

オグリが頷く。

 

「そうだ。勝てたんだ」

 

勝てたから壊れた、とは誰も言わない。

言えば、勝利が汚れるからだ。

 

だから俺は勝利を汚さない。

汚さないことが、罪になる。

 

引き出しを開ける。

そこにあるのはただの白紙だ。

退職届ではない。

けれど白紙は何にでもなれる。

 

ペンを持つ。

指先が少し震えた。恐怖じゃない。抵抗だ。

身体がやめろと言っている。

 

廊下から、遠く声がする。

担当希望の名簿。

誰かが俺の名前を口にする。

 

辞めるのは簡単だ。

でも簡単に見えるだけで、後ろには誰かの負けが積もる。

 

「トレーナーさん」

 

マックイーンが白紙を見ていた。

 

「……悩んでおられるのでしょう」

 

「悩んでない」

 

嘘をつく。

優しさのつもりで。

また優しさで壊す。

 

マックイーンは小さく首を振った。

 

「悩んでくださいませ。悩まないで、決めないでくださいませ」

 

辞めないで、とは言わない。

言わないから、俺は従ってしまう。

 

オグリが立ち上がろうとして、止まる。

腰がそうさせる。

すぐに笑って、息を整える。

 

見せない。

見せない優しさが、一番遅れて刺さる。

 

オペラオーがぽつりと言った。

 

「君が、君自身を赦してしまうのが怖い」

 

赦しは救いだ。

でも、赦されると現実が軽くなる。

軽くなった現実は、また繰り返される。

 

俺は赦されたくない。

 

赦されないために、丁寧にする。

丁寧にして、また壊す。

 

ここが地獄だった。

 

三つのありがとうは、刃じゃなく鎖だった。

 

 

届かない灯り

 

夜、研究棟の方角にだけ灯りがある。

 

寮の窓からは遠く、ぼんやりとしか見えない。

遠い灯りは、現実の外にあるものみたいだ。

 

新しい技術が来るらしい。

そんな噂を聞いた。

 

壊れた身体の再起を助けるための仕組み。

まだ正式じゃない。

まだ、ただの噂だ。

 

噂の段階だからこそ、人はそれに希望を乗せられる。

手に入っていないものは、裏切っていない。

 

「トレーナー」

 

オグリが言う。低い声だった。

 

「私は、また走りたい」

 

当然の言葉だった。

走りたいを否定することは、存在を否定することに近い。

 

「走れるようにする」

 

口から出た。

約束の形をした言葉だった。

 

マックイーンが微笑む。

 

「あなたなら、きっと。……私たちを元へ戻してくださいますわ」

 

元へ戻す。

そんな言葉を、彼女は平然と俺に預ける。

 

信じられると、背筋が伸びる。

背筋が伸びると、また手順を探してしまう。

 

循環を断ち切るには、俺のやり方を捨てる必要がある。

でも捨てるには、代わりの手順がいる。

 

たぶん、あの灯りの中にある。

 

オペラオーが窓の向こうを見たまま言う。

 

「君がすがるなら、私は喜んですがるよ。希望は舞台に必要だ」

 

希望を舞台装置にしてしまうのが、彼女らしかった。

らしいからこそ、余計に胸に入る。

 

俺は灯りを見ていた。

遠い。

遠いから、まだ届かない。

 

届かない救いは、まだ救いじゃない。

でも、そこにあると知ってしまった。

 

知ってしまった瞬間、新しい手順が一つだけできる。

 

すがる。

 

それだけだ。

 

棚の一番上で、トロフィーが相変わらず鈍く光っている。

勝利の形をしているのに、今の俺には診断書の白にしか見えない。

 

拍手は終わった。

紙吹雪も終わった。

 

それでも胸の中だけ、まだ降り続けている。

 

恨まれない地獄が、いちばん長い。


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