死滅回游泳者:吉良吉影 作:同僚
2018年11月12日 10:24
爪を切る。
つい三日前に切ったはずの爪が、いつの間にか一センチに到達していたからである。
「……早いな」
爪切りの小さな金属音が、静かな部屋に規則正しく響く。
整えられた爪は新聞紙の上に散らばることなく、丁寧に指先で拾われた。
そして戸棚の引き出しを開ける。そこには、小さなガラス瓶がいくつも並んでいた。
どれも中身は同じだ。
白く薄い、私の爪。
それを一本一本、慎重に空の瓶の中へ落としていく。
ガラスの底に触れる乾いた音。
それを確認すると、彼は瓶を光にかざした。
透明なガラス越しに、爪が静かに積み重なっている。
机の横にはノートが置いてある。
私はそれを開き、ペンを走らせた。
11月12日右親指1.2センチ。
……やはり、早い。
長年私は数少ない趣味として、自分の爪の伸び率を記録している。
いつ、どれくらい伸びたか。全てだ。
それを続けてきて、分かったことがある。
私は人よりも早い期間で爪が伸びる。
そして特に爪が異常に伸びる時。それは決まって私のある〈欲求〉が高まっている時だ。
"美しい手を、この手の中に収めたい"。
そんな衝動が、胸の奥から静かに膨れ上がってくる。
静かに暮らしていたい。
穏やかな生活を送りたい。
そう思っているのに、体の奥から別の何かが湧き上がる。
人間というものは、不思議なものだ。
理性では〈やめておこう〉と思っても、体の奥にある本質までは変えられない。
爪は放っておけば伸びる。
どれだけ嫌でも、止めることはできない。
それと同じだ。
生まれついての
私は瓶の蓋を閉め、静かに息を吐きながら机の椅子にもたれた。
本来ならば、こんな衝動はもっと
規則正しい睡眠。
過不足のない食事。
余計な人間関係を作らない。
平穏な生活を守るための工夫は、いくらでもしてきた。
それなのに、胸の奥のざわつきは収まらない。
〈杜王町〉。
私は生まれ故郷でもあるこの街が好きだ。
朝、住宅街を歩けば、パン屋"サンジェルマン"から焼きたての匂いが流れてくる。
通りを掃く老人の箒の音。
学校へ向かう子供たちの声。
昼になれば商店街には人が集まり、夕方になれば海風がゆっくりと街を抜けていく。
騒がしすぎない。
だが、寂しすぎるわけでもない。
人は皆、それぞれの生活を送り、余計なことには踏み込まない。
私はそういう街が好きだ。
この杜王町には、穏やかな〈生活のリズム〉がある。
同じ時間に開く店。
同じ道を歩く人々。
変わらない日常。
私はその流れの中で、誰にも気づかれず、時に欲求を満たして静かに生きていける。
……そう思っていた。
それなのに今はどうだ。
通りには人影がない。
既にインフラは停止し、店は閉まり、窓も暗い。
まるで、街そのものが息を潜めている。
突然現れた杜王町の一部を覆う結界。
意味の分からないルール。
そして、人間同士…いや、術師か。それらを戦わせるというあの古来中国に伝わる呪術でもある蠱毒のような馬鹿げた仕組み。
「気に入らないな………〈死滅回游〉…だったか?」
なんとも趣味の悪い話だ。
人間の営みというものを、まるで盤上の遊びのように扱う。
この街で暮らしている人間がどんな生活をしているのか、仕向けた存在にとってそんなことはどうでもいいらしい。
私はただ、この街で静かに暮らしていたかっただけだ。
決まった時間に起き、決まった道を歩き、決まった店で買い物をする。
そして、誰にも脅かされずに生きる。
それだけだ。
たったそれだけの生活を、誰かの勝手な都合で乱されるとは。
窓の外の静まり返った街を見つめながら、指先を机の上で軽く叩く。
私は無意識に片手の親指を口元へ運び、力強く噛んだ。
切ったばかりの爪の先端が小さな軋みを上げる。
この街の生活の流れを乱すような仕組みなど、あっていいものではない。
爪を瓶に入れ終えた私は静かに椅子から立ち上がる。
ジャケットを手に取り、肩に通す。襟を軽く整え、袖口を引いて皺を伸ばす。
ネクタイの結び目を指先で整え、位置を少しだけ上げ、そのまま洗面所の鏡の前に立つ。
最後に髪を指で撫で、乱れた部分を整える。額にかかっていた一房を後ろへ流した。
敵味方、勝ち負け、闘争。
そういったものは、私は好きではない。
〈戦い〉とは無駄に神経をすり減らし、更なるトラブルのもとを作り出す愚かな行為とさえ考えている。
争いに身を置くつもりはない。
だが、状況を知らずに生きるほどの愚者でもない。
災害用のために備蓄していた食料もそろそろ切れる。ついでに私が置かれている状況について探り行く必要があるだろう。
私は洗面所を出た足で、玄関に向かう。
床に置かれた革靴に足を入れ、踵を軽く打ちつけて履き直した。
つま先の位置を整え、立ち上がる。
「……もっとも戦ったとしても──」
私はゆっくりとドアノブを回した。
「私は誰にも負けんがね」
※
「5点が追加されました」
頭上から響いた妙に軽いそのアナウンスに、私は歩みを止め、わずかに視線だけを上げた。
「……加減が難しいな」
私の目の前には、先程背後から突如襲いかかってきた呪術師──もとい
四肢は既になく、動く気配もない。
呼吸も、脈も、すでに止まっている。
本来の予定では、脚だけを破壊して動きを止め、そのまま
だが、ヤツはこちらの意図など構わず、間合いに入るなり術式を放ってきやがった。
そうなれば、こちらも余計な手加減をしていられない。
「その結果がコレではな」
私は道路の上の亡骸を一瞥し、静かに肩をすくめた。
「慣れないことをするものではないが、この吉良吉影、転んだままで終わるつもりはない」
戦闘の最中、この男は何度も実に気になる名を口にしていた。
そして、それこそがこの殺し合いを仕組んだ存在とでも言える存在だと私は確信していた。
「………〈ケンジャク〉だったか」
確か、そんな名前を口にしていた。
どうやら、この結界も、この馬鹿げた殺し合いも、そいつが中心になって作り上げた仕組みらしい。
「随分と手の込んだ遊びを考えたヤツがいるものだ………が、こちらにも考えがある」
私は指先でネクタイの結び目を軽く整え、頭上を見上げる。
「コガネ」
「おう、どうした?」
名を呼ぶと、空間がわずかに揺らぎ、まるで天使を連想させる翼を生やした珍妙な生物が現れる。
コイツの名は"コガネ"。死滅回游に参加しているプレイヤー一人一人に取り憑いているナビゲーター、悪霊のようなものだ。
「〈
遊びであれ、社会であれ、この世のありとあらゆる場所に〈ルール〉は存在する。
そして、このくそったれな殺し合いにもな。だが、その中にひとつ実に興味深い条文があった。
"
私はしばらくその内容を頭の中で反芻させ、やがて口の端がわずかに上がる。
かつて、癌で亡くなった親父が語っていた呪術における〈縛り〉の重要性。この閉鎖的な死滅回游を成立させる為の代償こそが、このプレイヤー側に僅かばかりの交渉の余地を残しておくことなんだろう。
つまり、このゲームが絶対ではないということだ。ほんの僅かでも干渉できる余地があるのなら、話は変わる。
「もっとも、それだけで全てが〈思い通り〉になるほど〈甘い〉仕組みでもないのだったな?」
「そうだな!ものによっては
そう、続く総則には、こうある。
"管理者は、死滅回游の永続に著しく障る場合を除き、前項によるルール追加を認めなければならない"。
「“著しく障る場合を除き”……か」
つまり、あまりにも露骨にこのゲームを壊すような内容なら却下されるということだ。
極端な話、"
私は足元の死体を軽く跨ぎながら、思考を整理する。
一つの総則では足りない。
だが、二つ、三つ。
あるいは──それ以上。総則を積み重ねれば、状況は確実に変わる。
「コガネ、現時点の総則追加の前例は
私がそう尋ねると、コガネは翼をぱたぱたと揺らしながら答えた。
「ああ、
コガネはまるで読み上げるように、その内容を口にする。
「ふふ、そうか。それは随分と気の利いたルールだ」
プレイヤーの点数が把握できる。
これに結界と結界同士の出入りを自由にしたり、プレイヤー間でのポイント讓渡などといったルールを追加さえすれば、生存効率、狩りの効率が大きく上がるということであり、このゲームの盤面を、より明確に可視化することが可能になったということだ。
「ならコガネ、この
「勿論だ。ちょっと待ってろよ」
私はコガネの返答を待ちながら、指先で顎を軽く撫でた。
……待っていろ、...ケンジャク。
この争いに巻き込まれた以上、ただ逃げ回るつもりはない。
私の生活を邪魔する者は、例外なく始末してきた。今までも、そして──これからもだ。
と、そう決意を抱いたその時だった。
「──む」
微かに、下方から異様な気配が立ち上る。
私はゆっくりと足を止め、視線だけを横へ滑らせた。
道路の脇。
堤防の向こう側、河川敷の方角。
そこから重たい音と共に、土煙が上がる。
何かが、地面を破るようにして現れたのだと認識した。
その土煙の中から、ゆっくりと“それ”が姿を現す。
その奇っ怪な姿に私はわずかに目を細めた。
最初に目に入ったのは、影のように黒い体。それはまるで人間の影がそのまま立体化したかのように、輪郭だけが存在している。
だが、その上に乗っている顔が異様だった。
長大な触角。
そして、無数の眼球が蠢く蜚蠊の顔。
しかしよく見ると、腕は人間のもの。
だが、関節は一つ多く、奇妙に折れ曲がりながらぶら下がっている。
そいつはまるで、巨大な蜚蠊と人間の肉体を無理やり継ぎ合わせたような、醜悪極まりない姿だった。
「くっ、随分と趣味の悪い造形じゃあないか。あれが〈呪霊〉というヤツか?」
「グギギ、久シブ リノ鉄ノ味 ダッ」
私は淡々と呟く。それに対して異形は、ぎちぎちと関節を鳴らしながらこちらを見上げていた。
すると隣で浮かんでいたコガネが、いつもの軽い調子で言葉を発し出した。
「おっと、ちょうどいいな。アイツは"黒沐死"ってんだ」
「…………ほう、アレもそうだと言うのか。だが、アレからは大した情報は得られなさそうだな」
私はゆっくりと堤防の縁まで歩み寄り、河川敷に立つその異形を見下ろした。
「現時点で私の
「だが、悪いが私の〈平穏〉への足掛かりとして、黒沐死。貴様を〈始末〉させてもらう」
「グギャ チ!チヲ ヨコセェッ」
私の殺意を前にし、黒沐死は戦闘態勢に入る。
一方私は小さく肩を鳴らし、ゆっくりと片手を持ち上げた。
「〈キラークイーン〉」
その瞬間、私の背後の空間がわずかに歪む。
まるで水面に石を落としたかのように、静かな波紋が広がった。
そして、その大きく広がった波紋の中心から、音もなく一つの人影が現れる。
淡い桃色の身体。滑らかな曲線を描く、筋肉質の四肢。
人型でありながら、人ではない存在。
猫のように鋭い目。
まるで彫像のように整った姿のそれが、私のすぐ後ろに立っている。
「安心しろ」
静かな声でそう告げる。
「抵抗しなければ、私は無駄に苦しめるようなことはしない」
私の背後に佇む者の指先が、ゆっくりと開く。
まるで、何かを掴む準備をするかのように。
私はそのまま堤防の縁に立ち、黒沐死を見下ろしたまま言葉を続けた。
「一瞬だ」
「君が〈爆弾〉になるのはな」
◀◁◀◁◀To Be Continued…
吉良吉影
この世界線では2018年の時点で33歳。
大抵の事はそつなくこなし、悪目立ちしてこないように生きてきた。
母は10歳になる前に
術式名は
父から簡単に呪術について聞いていたが、死滅回游に至るまで呪術師はおろか呪霊とさえ戦闘したことがない。
襲ってきた術師
羂索と契約し、受肉したが描写されることなく吉良に始末される。