「ただいま」
アルコール臭い暖簾に触れて、戸を開ける。
「あ?今日は午前中で終わりか?」
「うん、卒業式だから」
いつもすでに積まれている酒樽を運び終えたのか、少し父ちゃんの息が荒い。
「卒業式、どうだった?」
「別に、ってか父ちゃん、もう50なんだからそういうのは俺がやるって」
「ダメだ、それよりもお前は遊んでこい」
力仕事は大概俺にやらせてくれない。俺ももう15なのに。
「毎度毎度言ってるだろ、俺友達いねえんだって」
「じゃジョッキ洗え」
「へいへい」
ジョッキをスポンジで擦って、少し色々考えることを抑えた。
「お前好きな子とかいなかったのか?」
「いない」
無理やり強く言った。友達いないって先言っただろ。いるわけない。いたわけない。
もしかしたらいたかもしれない。
いやそんなことより洗うことに集中しないと。
「おい、洗う手止まってるぞ」
「あぁ、ごめんごめん」
父ちゃんの話はあんまり話が入ってこなかった。
「好きな子、いたのか?」
「いないって」
父ちゃんは何も分かってない。いつもそう思っていたそれは、今日は何か揉まれている。
その時、ふりこ時計の12時の鐘が鳴った。それが、今日は少し鬱陶しかった。
「洗い終わった」
「おう助かったわ。じゃ、先、席座っとけ」
「昼飯?だったら俺やるよ」
「まだダメだ」
いつまで経ってもこうだ。俺が来た時からずっとこうだよ。
父ちゃんのフライパン捌きの音が聞こえる。ずっと、フライパンは握らせてもらえない。考えているうちに、にんにくの匂いが鼻をつつく。フライパンの腕前だけは一丁前だ。父ちゃんはどうやってあんな上手くなったんだろう。
「なぁ、父ちゃん」
「なんだ?」
フライパンのコツってなんなんだ?素直に動かそうとした口は意外と重くて、言うことを聞かない。代わりに出たのは
「……俺、ジョッキで飲みたい」
そんな子供みたいなことだった。
「なんだそんなことか、調理中だから後にしてくれ」
だから、軽くあしらわれてしまう。どうやったら上手く聞けるんだろう。今だけじゃない。そんなことは何回も、あった。それで、何回も聞きそびれた。友達もできなかった。結局、卒業まで。写真ぐらいは撮りたかったのに。
「おい、何ぼーっとしてんだ。昼飯の準備、できたぞ」
「あ、うん」
父ちゃんの手に握られたのは、餃子と白米。いつもは喜べるのに、妙にテンションが上がらない。にんにくの匂いが、なんだか嫌で、
「父ちゃん、今日営業日だろ?酒飲んでいいのか?」
「いいんだよ」
父ちゃん。
「なんだ何かいいたげだな」
「別に」
「というかほら、さっさと食え」
言いたい。フライパンのこと。にんにくのせいで卒業式の場所に戻れなくなること。
「あぁ、そうだ、お前飲み物これでいいよな?お前好きだもんなオレンジジュース」
好きだ。好きだけど、頷いた。
「おう、今日はいっぱい飲め。なんせお前の卒業式だからな」
「ん」
箸よりも先にジョッキに手を伸ばす。
父ちゃんも食欲がないのか、箸じゃなくて、ビールに手を伸ばしていた。
つまみがないと酒は美味しくないなんて、あんなに言っていたのに、珍しい。
オレンジジュースから手を伸ばすよりも先に父ちゃんが口を開いた。
「なぁ、飯の前にちょっと話聞いてくれないか?」
父ちゃんにしてはやけに声が小さくて、酒が入っているなんて思えない。
「……何?」
聞いたはずなのに、父ちゃんはジョッキに口をつけた。
妙に静かで、振り子時計の音が聞こえる。
「お前、俺の店、本気で継ぐつもりなのか?」
「……うん」
多分6割ぐらいは本当な気がする。よくわかんないけど。
「……あのなぁ、もっと自由に進路決めてもいいんだぞ?この店にこだわらなくても。この店、人こねえんだから」
父ちゃんから初めて聞いたよ、そんな弱気なこと。
「そもそも料理人つったって、ここ以外にも、いっぱいあるじゃねえか」
ここの料理が一番、うまいよ。父ちゃん。
「料理以外にもお前はまだ15なんだから、やれることなんてまだ、いっぱいあるだろ?」
"まだ” 15じゃなくて、 "もう" 15だよ。父ちゃん。
「まだやりてえことなんていっぱいあるだろうし__」
父ちゃん。
「……なんで、」
「なんでそんなこと言うんだよ。父ちゃん」
「父ちゃん、あんな自分の店に誇り持ってたじゃねえか」
さっきまで全然声が出なかったのになぜだかするりするりと声が出る。
「何もわかってねえよ父ちゃんは」
その間も振り子時計の音が鳴る。
「それに、俺、父ちゃんの店で酒飲んでみたい」
「もういい」
父ちゃんは喉が潰れそうな声でそう言った。
「お前の思いは、よくわかった」
「でも、もう無理だ」
「無理じゃねえよ」
「無理なんだ。だって俺」
父ちゃんはまたビールを飲む。俺はただ黙って飲み終わるのを待つことしかできなかった。がんっとジョッキを置く音がする。でも父ちゃんは口を開かなかった。
二人で見合う時間が続いた。
正直、これが終わることが怖かった。
「俺、癌が見つかった。それも末期の」
換気扇の音が、大きくなった気がした。意味がわからなかった。
「……は?」
声が出なかった。
「冗談だろ、だって、だって今こうやって酒、飲んでるじゃねえか」
「医者には無理言って、今日まで酒飲めるようにしてもらった。だから、酒を飲むのも今日が最後だ」
「酒がねえと、お前に話せないからな」
「安心しろ、俺は死ぬまでこの店を続ける。俺は俺の背中しか押せねえからな」
俺はもう、父ちゃんと目を合わせられなかった。それで俺は、無駄に軽くなった口を呪った。
「俺、卒業式の奴らに会いに行ってくる」
父ちゃんの言葉も聞かず、家を飛び出した。
机の上にはジョッキが二つ。片方にはビールが、片方にはオレンジジュースが入っていた。