TS女神の体が万能薬なので気持ちよく配ってたらなぜか周りが全員泣いてる   作:なほやん

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第十二話 「お姉ちゃん」

 

 リーゼが東へ、フィオが西へ。二人の背中が人混みに消えていく。

 

 市場の通りに、ルーシェだけが残った。

 

「——お姉ちゃん」

 

 小さな声がした。

 

 幼かった。十にも満たない。黒い髪。大きな銀色の目。痩せた体。着ている服は汚れて、裸足だった。

 

「……お姉ちゃん、いい匂い」

 

 女の子が、一歩踏み出した。鼻をくんくん動かしている。

 

「あら」

 

 ルーシェが屈んで、女の子の顔を覗き込んだ。

 

「——あら!」

 

 目を丸くした。

 

「あなた……! あの時の子! ごめんなさい、名前——」

 

「ラトニア」

 

「ラトニア! そうだ、ラトニア!」

 

 ルーシェがラトニアの両手を掴んで、ぶんぶん振った。

 

「お姉ちゃん、覚えてくれてたの?」

 

「当たり前じゃない。あなたが最初だもの」

 

 最初。この世界に来て、初めて体を分けた相手。怪我をして倒れていた子。

 血を飲ませたら、目を開けて、笑った。あの時の「おいしい」が、全部の始まりだった。

 

「お腹空いてる?」

 

「……うん」

 

「じゃあ、あの時と同じね! ついてきて!」

 

 ラトニアの手を引いて、宿に戻った。部屋の扉を閉めて、窓辺の椅子に座った。

 

「はい。——どうぞ」

 

 すっ——と手首を引いた。

 

「…………っ」

 

 銀色の血が溢れた。目蓋が落ちて、甘い吐息が漏れた。

 

 ラトニアが両手でルーシェの手首を包んで、口をつけた。

 

 ——ぁ。

 

 小さな唇が傷口に吸いついた瞬間、背筋から何かが抜けた。瓶に注ぐのとは違う。吸われている。血が引き出されるたびに、手首から肘、肘から肩、肩から胸の奥へ、甘い痺れが脈に沿って遡っていく。瞳孔が開いた。唇が半開きになった。止まらない。吸われている限り、途切れない。

 

「…………おいしい」

 

 目を閉じて、こくこくと飲んでいる。猫みたいだった。

 

「ふ……ふふ。よかっ……た」

 

 声が上擦っていた。ルーシェが空いた手でラトニアの頭を撫でた。指先がうまく動かない。頬が赤い。目がとろんと溶けている。

 

「でもね、周りの人たちは分かってくれないの。泣くか、震えるかなの」

 

「なんで? おいしいのに」

 

「……そうよねぇ」

 

「いいんだよ。お姉ちゃんが嬉しいなら、いいの」

 

 全肯定だった。

 

「もっとちょうだい」

 

「はいはい、どうぞどうぞ」

 

 もう一度手首を差し出した。ラトニアが嬉しそうに口をつけた。——また、来た。あの熱が、手首から這い上がってくる。

 

「…………んん」

 

 ルーシェの目蓋が重くなった。肩が上下している。ラトニアの黒い髪を撫でながら、天井を仰いだ。

 

「……ねえ。甘い?」

 

「うん。甘くて、あったかいよ」

 

「そっか。甘いんだ……嬉しい」

 

 ルーシェがラトニアの唇の端を、指で拭った。銀色が指に移った。

 

「ねえ。あなたは泣かないのね」

 

「泣かないよ。だっておいしいもん」

 

「……みんなあなたみたいに、ただ『おいしい』って言ってくれたら——それだけで、いいのにね」

 

 二人で首を傾げた。同じ角度で。同じ顔で。

 

 ルーシェがラトニアの頭をもう一度撫でた。——ふと、手が止まった。

 

「そう言えば。あなたの目って、銀色だったかしら……?」

 

 その時、部屋の戸が叩かれた。

 

「ルーシェ様、戻りました」

 

 フィオの声だった。

 

「あ、もう戻ってきたの? ねえ——」

 

 振り返った。

 

 そこには、誰もいなかった。

 

「……あれ?」

 

 

  ◇

 

 

 扉を開けた瞬間、フィオの鼻が甘い匂いを捉えた。

 

 ルーシェの手首に、切り傷の跡があった。再生済み。でも肌がまだ赤い。

 

「ルーシェ様。血を、出しましたね」

 

「あ——」

 

「今日は休んでいてくださいと、言ったのに……!」

 

 リーゼの声が震えていた。

 

「ごめんなさい……お腹を空かせた子がいて……」

 

 ルーシェの声が萎んだ。

 

「さっきまでここにいたの。すれ違わなかった? ラトニアっていうの」

 

「ラトニア……?」

 

 リーゼが眉を寄せた。

 

「存じません」

 

「私も、見ていません」

 

 フィオが首を振った。

 

「そう? 不思議ねえ」

 

 ルーシェが首を傾げた。それ以上は追わなかった。

 

「それより! 結果発表よ!」

 

 ルーシェが手を叩いた。

 

 フィオが紙包みを差し出した。

 

「これです。港で一番高い菓子屋の、焼き菓子です。砂糖と蜂蜜を三層に重ねて焼いてあります」

 

 リーゼが木箱を置いた。

 

「南の島からの直送です! 数年に一度しか採れない幻の果実で、蜜の如き甘みと、それを引き立てる酸味が絶品——と店主が力説していました」

 

「わあ!」

 

 ルーシェが目を輝かせた。

 

「じゃあ、フィオのお菓子から!」

 

 焼き菓子を手に取った。割ると、さくっと音がして、蜂蜜の匂いが広がった。

 

 一口。

 

「おいしい! サクサクで、香ばしくて、すごくおいしいわ!」

 

 フィオの指が、膝の上で止まった。

 

 ——甘い、とは言わなかった。

 

「じゃあ、リーゼの果物!」

 

 木箱を開けた。薄紅色の果実。皮を剥いた。果汁が指を伝った。

 

 かぶりついた。

 

「わ! 瑞々しい! すっごくおいしい! 水みたい!」

 

 ——甘いと言わなかった。酸っぱいとも言わなかった。

 

 リーゼが果実をもぎ取った。自分の口に押し込んだ。

 

 ——甘い。猛烈に甘い。そして酸っぱい。舌が痺れるほどの甘酸っぱさが、口の中で爆発している。

 

「あら、リーゼも食べたかったの? もっと食べていいわよ?」

 

 ルーシェがにこにこしている。

 

 リーゼの顔から、血の気が引いた。

 

 甘さだけではない。酸味まで——。

 

 甘みが消えたと知ったばかりだ。——もう、次が消えている。

 

 このまま体を配り続けたら——他の味も。

 

 フィオの手が、メモ帳を握り潰していた。白い指が震えている。リーゼと目が合った。同じことを考えている顔だった。

 

「二人ともすごいわ! どっちもおいしかった!」

 

 ルーシェが口元を拭って、にっこり笑った。

 

「ねえ、フィオ。お茶淹れてくれる?」

 

「……はい」

 

 フィオが薬湯を淹れた。手は震えていなかった。震えないように、両手で急須を握っていた。

 

 ルーシェが一口飲んだ。

 

「……にが。うん、ちゃんと苦い。おいしい」

 

 ルーシェは笑った。

 

「ねえ、二人とも。いつも心配してくれてありがとうね」

 

 窓の外を見た。港の灯りが揺れている。

 

「でも……さっきの子ね、私の血を飲んで、ただ『おいしい』って言ってくれたの」

 

 振り返った。笑っていた。

 

「ああいう子がいると、やっぱり続けたいなって思うの」

 

 フィオの鉛筆が、ぱきん、と折れた。

 







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