TS女神の体が万能薬なので気持ちよく配ってたらなぜか周りが全員泣いてる   作:なほやん

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第十六話 「地獄鍋」

 

「地獄鍋……」

 

 東の通りに出た瞬間、看板が見えた。

 真っ赤だった。鍋の絵が描いてある。炎まで赤い。文字まで赤い。悪趣味なくらい赤い。

 

「嫌な予感しかしません……」

 

 リーゼが足を止めた。フィオが黙って看板を見上げていた。ルーシェだけが目を輝かせていた。

 

「いいじゃない。分かりやすくて」

 

「分かりやすすぎるんです……」

 

 扉を開けた。

 

 匂いで目が痛くなった。

 辛い匂いだった。鼻の奥が焼ける。喉がひりつく。空気そのものに細かい棘が混じっているみたいだった。

 

「いらっしゃい」

 

 巨漢の店主だった。腕が丸太みたいに太い。額に汗が光っている。厨房の向こうで、大鍋が赤く煮立っていた。

 

「裏通りの爺さんの紹介で来ました」

 

 フィオが言った。

 

「ああ? あの偏屈の」

 

 店主が眉を上げた。三人を順番に見た。ルーシェの髪を見た。目が、少しだけ止まった。

 

「山のことが聞きたいんだろう。なら条件は一つだ」

 

 太い指が、奥の鍋を指した。

 

「うちの地獄鍋を完食しろ。話はそれからだ」

 

「やっぱり飯じゃないですか!」

 

 リーゼが叫んだ。店主は鼻で笑った。

 

「飯に真剣な奴にしか、あの山の話はしねえ」

 

「筋は通ってるわね」

 

「通ってません!」

 

 リーゼの声が裏返った。

 

 

  ◇

 

 

 鍋が運ばれてきた。

 

 赤かった。

 赤い、なんてものではなかった。表面に浮いている油が赤い。湯気まで赤く見える。丸ごとの唐辛子が何本も突き出ていた。刻まれた赤い破片が汁の中を漂っている。底が見えない。

 

 ぐつぐつと煮えていた。泡が弾けるたびに、赤い飛沫が鍋肌に散った。

 

「すごーい! きれい!」

 

 ルーシェが身を乗り出した。

 

「きれいって言う鍋じゃありません……」

 

 リーゼが椀を引き寄せた。まだ顔色が悪い。

 

「途中で水を飲んだら失格だ」

 

 店主が腕を組んだ。

 

「はいはい。じゃあ、いただきまーす」

 

 ルーシェが一番最初に匙を入れた。リーゼとフィオも、覚悟を決めて続いた。

 

 リーゼが一口、啜った。

 

「っ——!」

 

 呻いた。舌が燃えた。喉まで焼けた。唇の裏が一瞬で腫れたような気がした。目から涙が噴き出した。

 

「み、水——」

 

「失格だ」

 

「まだ何も飲んでません!!」

 

 リーゼが涙目で叫んだ。もう椀を置きたそうだった。

 

 フィオも一口、啜った。

 顔が真っ赤になった。目が充血した。喉の奥から胸まで、熱い鉄を流し込まれたみたいだった。声が出ない。咳も出来ない。

 

「…………っ」

 

 無言のまま口を押さえている。肩が震えていた。

 

「二人とも大丈夫?」

 

 ルーシェが首を傾げた。

 

「ルーシェ様は!?」

 

「辛いわ」

 

 ルーシェの目が、少しだけ見開いていた。

 頬が赤い。鼻先も赤い。額にうっすら汗が浮いている。

 

「辛い。よかった、まだ来る」

 

 安堵したみたいに笑った。

 

 もう一口。もう一口。

 熱い汁を啜って、唐辛子の欠片ごと飲み込む。

 

「ちゃんと辛いわ。すごい。舌がぴりぴりする」

 

 リーゼとフィオは顔を見合わせた。

 この鍋の感想としては、わりと正しい。正しいのが、逆に辛かった。

 

 ルーシェがまた匙を運んだ。

 具を掬って、ふうふうと息を吹きかけて、口に入れる。

 

「……ん」

 

 止まった。

 

「ルーシェ様?」

 

「……あれ?」

 

 もう一口、啜った。

 首を傾げた。鍋を覗き込んだ。匙の先についた赤い汁を、じっと見ている。

 

「どうしたんですか」

 

「ねえ、これ本当に辛い?」

 

 リーゼの顔から血の気が引いた。フィオの手が止まった。

 

「辛いに決まってるでしょう!!」

 

 リーゼが泣きながら叫んだ。

 

「だって——さっきより、来ないの」

 

 ルーシェがもう一口、啜った。ゆっくりと。確かめるように。

 

「温かいのは分かるわ。でも……辛さが、薄い」

 

 フィオが立ち上がりかけた。椅子が鳴った。

 

「ルーシェ様、もうやめてください」

 

「やだ」

 

 即答だった。

 

「だって、まだ少し分かるかもしれないもの」

 

 匙が止まらなかった。

 一口、もう一口。口に運ぶ。啜る。飲み込む。

 

「……だめ。もう、分からない」

 

 あっけらかんとした声だった。だから余計に、痛かった。

 

「辛いのに」

 

 リーゼが自分の舌を押さえた。唇が腫れている。涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃだった。

 

「こんなに辛いのに……!」

 

 ルーシェは鍋を見ていた。

 赤い。湯気も立っている。見た目は変わらない。匂いだって刺さるように辛いのに、舌だけが何も受け取らない。

 

「……そっか」

 

 静かに言って、また匙を入れた。

 

「じゃあ、もう温かいだけなのね」

 

 そのまま食べ続けた。機械みたいに。

 熱い汁を啜り、具を噛み、飲み込む。表情はない。さっきまでの「辛い。よかった」は、もうどこにもなかった。

 

 店主が腕を組んだまま、固まっていた。

 

「おい」

 

 ルーシェは顔を上げた。鍋は空だった。

 

「……完食したわ」

 

「ああ」

 

 店主の声が低かった。

 

「ただの大食いじゃねえな、あんた」

 

「そうかしら」

 

 ルーシェは空の椀を見た。少しだけ指先が震えていた。

 

「話して」

 

 店主が椅子を引いた。どっかりと腰を下ろした。

 

「山の奥に洞窟がある。瘴気は、そこから這い出てきている。俺は入口の少し先まで入った」

 

 リーゼとフィオが姿勢を正した。

 

「奥で何かが動いた。小さかった。目だけが、銀色に光ってた」

 

 リーゼの肩がびくりと揺れた。

 

「生きて帰れたのは?」

 

「辛いもん食って汗かいてたからかもしれねえな」

 

 店主が笑った。すぐ真顔に戻った。

 

「だが、二度と入りたくはねえ。人間の入る場所じゃない」

 

 

  ◇

 

 

 宿に戻った。

 

 リーゼもフィオも、ほとんど喋らなかった。

 ルーシェだけが明るく振る舞っていた。明るく、しようとしていた。

 

「店主のおじさま面白かったわね」

 

「…………」

 

「でも、ちゃんと分かったでしょう? 洞窟。簡単だけど地図もくれたし」

 

「……はい」

 

 リーゼの返事は掠れていた。

 

「ルーシェ様」

 

 フィオが言った。

 

「お茶を淹れます」

 

「お願い」

 

 いつもの薬湯だった。茶色い液体。三年間、朝と夜に飲んできたもの。

 フィオが差し出す。ルーシェが受け取る。

 

 一口、飲んだ。

 

「にが」

 

 リーゼとフィオが同時に顔を上げた。

 

 ルーシェの目が、ほんの少しだけ明るくなった。

 

「苦い。よかった」

 

 もう一口。もう一口。

 いつもより速かった。確かめるみたいに、焦るみたいに。

 

「まだ分かる。ちゃんと苦い」

 

 両手で椀を包んでいる。指先が白い。強く握りすぎていた。

 

「ルーシェ様、ゆっくり——」

 

「もっと濃くできる?」

 

 フィオの言葉を遮って、ルーシェが言った。

 

「もっと苦くして」

 

 フィオの喉が詰まった。声が出なかった。

 

「……はい」

 

 もう一杯淹れた。薬草を倍入れた。湯を注いだ。部屋に、鼻を突くような苦い匂いが広がる。

 

 ルーシェが受け取った。すぐに口をつけた。

 

「っ——にが……!」

 

 顔が歪んだ。目尻に涙が滲んだ。鼻先が赤くなった。

 それでも——笑った。

 

「よかった……まだ、苦い」

 

 リーゼが顔を背けた。見ていられなかった。

 フィオは目を逸らせなかった。

 

 ルーシェは椀を抱きしめるみたいに持っていた。

 大事なものを逃がさないみたいに。最後の一つを、必死に確かめるみたいに。

 

「もう一杯」

 

「ルーシェ様……」

 

「お願い。今のうちに、覚えておきたいの」

 

 何を、とは言わなかった。

 

 フィオが三杯目を淹れた。リーゼは窓の外を見たまま、動かなかった。

 

 ルーシェが飲んだ。苦さに顔を歪めて、涙を滲ませて、それでも嬉しそうに息をついた。

 

「……にがい」

 

 その声が、痛々しいほど幸せそうだった。

 

 リーゼの肩が震えていた。

 フィオの目から、音もなく涙が落ちた。

 

 ルーシェの髪が、湯気の向こうで揺れていた。

 

 銀色は、もう数えるほどしか残っていなかった。

 

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