TS女神の体が万能薬なので気持ちよく配ってたらなぜか周りが全員泣いてる   作:なほやん

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第十八話 「魔王」

 

 洞穴の入口は、山に空いた傷口のようだった。

 

 瘴気が壁から滲み出している。黒い靄が足元を這う。松明の火が揺れた。

 

「固まって進みましょう」

 

 リーゼが先頭。フィオが真ん中。ルーシェが最後尾。——のはずだった。

 

 十歩も進まないうちに、瘴気が急に濃くなった。

 

 黒い靄が足首から膝、膝から腰まで這い上がってきた。松明の光が潰される。視界が——奪われた。

 

「リーゼ! フィオ!」

 

「ルーシェ様!!」

 

 声が、遠くなった。瘴気が声を吸っている。綿を詰められたみたいに、音が丸くなっていく。手を伸ばした。——何にも触れなかった。

 

 

  ◇

 

 

 暗闇の中、ルーシェは一人で歩いていた。

 

 目が慣れてきた。瘴気が淡く光っている。黒い靄が足元を照らす——暗いのに、底の方だけがぼんやり見える。深海みたいだった。

 

「お姉ちゃん?」

 

 小さな声がした。

 

「ラトニア! なんでこんなところに?」

 

「ここ、私のおうち」

 

「おうち? こんな暗いところが?」

 

「うん。ずっとここにいるの。お腹が空いたら、外に出て食べるの」

 

 ルーシェがしゃがんだ。ラトニアの頭を撫でた。

 

「お腹空いてる?」

 

「……ううん。今日は、いい」

 

 ラトニアがルーシェの手を握った。小さな手。冷たかった。

 

「お姉ちゃん、なんか元気ないね」

 

「……うん。色々、分からなくなっちゃった」

 

「分からない?」

 

「味がね、しないの。全部。甘いのも、辛いのも、苦いのも。——何を食べても、何も感じない」

 

 ラトニアがルーシェの顔を覗き込んだ。大きな目が至近距離で光っている。吐息が——冷たかった。

 

「ほんと?」

 

「ほんと」

 

「お姉ちゃんなら大丈夫だよ。だから、また飲ませて?」

 

 ラトニアが笑った。無邪気に。

 

 ——断る理由がなかった。

 

 光の刃を呼んだ。左の手首に当てた。すっ——と引いた。

 

「ん——っ」

 

 銀色の血が溢れた。暗い洞穴の中で、血だけが光っている。

 ラトニアが両手でルーシェの手首を包んだ。小さな唇が、傷口に吸いついた。

 

 ——来た。

 

 背筋から脳天まで、甘い稲妻が駆け抜けた。

 あの港の時と同じだ。でも——比べものにならない。味覚が全部死んだ体が、残った回路の全てで快感を受け取っている。手首から肘、肘から肩、肩から胸、胸から腰、腰から膝まで、甘い痺れが脈を埋め尽くしていく。途切れない。吸われている限り、途切れない。

 瞳孔が開ききった。唇が半開きになった。肩が上下する。指先が震えて、ラトニアの髪を掴んだ。——離したくない。もっと吸って。もっと——。

 

「…………おいしい」

 

 ラトニアが目を閉じて、こくこくと飲んでいる。

 

「ふ……っ、ぁ……」

 

 声が漏れた。止められなかった。自分で切るのとは比べものにならない。誰かに飲まれている。求められている。おいしいと言ってもらえている。

 

 ——ああ、このまま全部飲まれてしまいたい。

 

「お姉ちゃん、顔真っ赤」

 

 ラトニアが口を離した。唇に銀色が光っている。舌でぺろりと舐めた。

 

「ねえ、お姉ちゃん。私ね、最初はこんな目じゃなかったの」

 

「……え?」

 

「お姉ちゃんの血を飲んでから、目が銀色になったの。そしたらね——もっとお腹が空くようになった。もっともっと食べたくなった」

 

 ラトニアが自分の目を指差した。銀色の瞳が、闇の中で光っている。

 

「お姉ちゃんのせいだよ? だから、責任取って?」

 

 笑った。無邪気に。残酷に。

 

「私のところにいよ。ずっと一緒にいよ?」

 

 銀の目が暗闇の中で揺れている。

 

「お姉ちゃん、もう何を食べても分からないんでしょ? でも、私が飲めば、お姉ちゃんは分かるよね?」

 

 冷たい指が、まだ痺れているルーシェの手首を撫でた。

 

「辛くなくても、苦くなくても、甘くなくても。私が飲めば、お姉ちゃん、気持ちいいんでしょ?」

 

 ルーシェの目が、揺れた。

 

 手首がまだ痺れている。全身がまだ甘い。この子の傍にいれば、ずっとこうしていられる。味はもう分からない。でもこの子に飲まれている間だけ、体が生きている。

 

 もう少しだけ。もう少しだけ、この子の——。

 

「ルーシェ様!!」

 

 叫び声が洞穴に響いた。松明の光が揺れた。

 リーゼとフィオが、走ってきた。リーゼの鎧が瘴気で黒ずんでいる。フィオの鞄が半開きで、薬草が零れている。二人の顔が、青かった。

 

「よかった、二人とも無事——」

 

「下がってください!」

 

 リーゼが剣を抜いた。ルーシェとラトニアの間に割り込んだ。切っ先がラトニアの喉元に向いている。

 

「リーゼ? 何を——」

 

「ルーシェ様。そいつが——そいつが、魔王です」

 

 洞穴が静まった。瘴気が、止まった。靄が這うのをやめた。

 

 ラトニアが首を傾げた。

 

「私はただのラトニアだよ」

 

「違う」

 

 リーゼの声が震えていた。——怒りで。剣を握る手が白くなっている。

 

「その目。銀の目。瘴気の闇の中で光るあの瞳——忘れるわけがない」

 

「んー?」

 

 ラトニアが小さく首を傾げた。人差し指を頬に当てた。

 

「あー。あの時の女の子か」

 

 にこりと笑った。

 

「あなたの心臓、あんまり美味しくなかったよ。筋ばってて、硬くて」

 

「なっ——!」

 

 リーゼの顔が蒼白になった。剣の切っ先が震えた。胸の中で、あの日貫かれた場所が疼いた。

 

「……あなたにお姉ちゃんは渡さない」

 

 ラトニアの声が変わった。低く。冷たく。瘴気が、ラトニアの足元から噴き出した。

 

「だって、私がおいしいものが食べたいなって願った時に、お姉ちゃんがこの世界に降ってきたんだから。お姉ちゃんは——私のための、食べもの」

 

 フィオが鞄からメモ帳を引きずり出した。震える手で頁を捲る。何枚も何枚も、走り書きの文字を目で追って——手が止まった。

 

「召喚……!」

 

 声が裏返った。

 

「魔王の祈りが、女神を召喚する……!」

 

 ルーシェが立ち尽くしていた。足が動かない。この子が——私を呼んだ?

 

「私が、この世界に来たのは……この子が……?」

 

「そうだよ、お姉ちゃん。私が呼んだの。お腹が空いてたから」

 

 ラトニアが一歩、踏み出した。瘴気が靴のように足を包んでいる。裸足の底が、黒い靄の上を歩いている。

 

「ルーシェ様! 離れて——」

 

 リーゼが踏み込んだ。剣を振り下ろした。

 

 ——ラトニアが躱した。小さな体が紙のように揺れた。剣が洞穴の壁を削った。火花が散る。石の粉が舞った。

 

 瘴気がラトニアの腕を伝って、黒い爪のように伸びた。リーゼの頬を掠めた。皮膚が裂けた。

 

 剣と瘴気がぶつかった。リーゼの刃が闇を裂くたび、ラトニアの小さな体が影のように滑って躱す。瘴気の爪がリーゼの肩を裂き、腕を裂き、血が鎧の隙間から滲んでいく。

 

「お姉ちゃんは私のものだよ?」

 

「ルーシェ様は——私のものだ!!」

 

 叫んだ。胸の中でルーシェの心臓が暴れている。

 

「ふうん。同じだね、私たち。お姉ちゃんを独り占めしたい」

 

「一緒にするな!」

 

「何が違うの?」

 

 リーゼの剣が空を切った。三度打ち合った。四度目がラトニアの腕を掠めた——だが浅い。息が荒い。鎧の隙間から血が垂れている。膝が震え始めていた。

 

 ラトニアが、ふいに視線を逸らした。リーゼの後ろ——フィオの方を見て、にこりと笑った。

 

「ねえ。そっちの子、今にも倒れそうだよ?」

 

 フィオの膝が崩れた。肌に黒い斑紋が浮かんでいる。蝕み病。瘴気の中に長くいすぎた。

 

「フィオ!?」

 

 リーゼが振り返った。一瞬。

 

「リーゼ、前——!!」

 

 ルーシェの声が洞穴に響いた。体が動いた。でも——遅かった。

 

 ラトニアの手がリーゼの胸を貫いた。

 

 瘴気の爪が肋骨の隙間を縫って、胸の奥に届いた。銀色の血が——ルーシェの心臓の血が、ラトニアの指を伝った。温かい。

 

「あれ……おいしい。お姉ちゃんの味がする」

 

 ラトニアが指を舐めた。目を閉じた。うっとりと。

 

 リーゼが崩れた。

 

「リーゼ!!」

 

 ルーシェが走った。リーゼの体を受け止めた。重い。鎧が重い。膝が折れた。それでも抱きしめた。

 

 ルーシェが光の刃を呼んだ。自分の胸に当てた。

 

「心臓を——食べて——!」

 

 すっ——と引いた。

 

「——ぐ、ぅっ」

 

 肉が裂けた。肋骨の隙間に刃が入る。自分の胸が開いていく感覚。

 

 ——心臓だけは痛かった。あの時から。

 

 目の焦点が合わなくなった。瞳孔が開ききった。首筋を汗が一筋伝って、鎖骨の窪みに溜まった。

 

 銀色の心臓が、手の中で脈打っている。手の平の上で跳ねている。体から離れてなお、律動を続けている。

 

 リーゼの口に押し当てた。銀色の心臓が唇に触れている。

 

 ——動かない。唇が動かない。瘴気の毒で、麻痺している。顎が開かない。目蓋が閉じたまま動かない。

 

 あの時と同じだ。あの時も、リーゼは毒で動けなかった。涙を唇に落として、麻痺を解いて、心臓を食べさせた。

 

 涙。涙が要る。

 

「泣かなきゃ……涙で治せる……!」

 

 フィオが這いずりながら鞄を開けた。蝕み病の斑紋が腕まで広がっている。手の甲が黒い。指先が黒い。それでも鞄の中を探った。震える手で薬草を取り出した。あの苦い薬草を。三年間、毎日淹れてきた、あの苦い薬草を。

 

「これを——!」

 

 ルーシェが薬草を口に押し込んだ。噛んだ。繊維が歯の間で潰れた。

 

「…………」

 

 苦くない。

 

 もう一枚噛んだ。口の中が草で一杯になった。緑の汁が唇の端から零れた。

 

 何も感じなかった。

 

 涙が——出ない。

 

 分かっていた。

 もう苦くないと。昨日の焚き火で、最後の味も消えたと。

 それでもフィオは差し出した。他に何もないから。三年間、毎日差し出してきたものが、これしかないから。

 

「出て……泣きなさい……っ!」

 

 もう一枚。もう一枚。フィオの鞄にある薬草を全部口に押し込んだ。頬が膨らんだ。顎が軋むほど噛んだ。

 

 涙は、出なかった。

 

「お姉ちゃん、大丈夫? 私が全部食べてあげようか」

 

 ラトニアの声だけが、洞窟を満たしていた。

 

 いや、そのはずだった。

 

 瞬間、ルーシェが歌い出した。

 

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