TS女神の体が万能薬なので気持ちよく配ってたらなぜか周りが全員泣いてる 作:なほやん
「おはようございます! 今日も——」
ルーシェの声が止まった。
行列の先頭に、担架があった。少年が横たわっている。十二、三歳。顔の下半分が、なかった。顎から下が丸ごと抉られている。魔獣の爪痕だ。
「魔獣に……顔を……」
少年の父親が、地面に膝をついている。声にならない。
「女神様、どうか……髪を……」
「見せて」
ルーシェが少年の傍にしゃがんだ。顔を覗き込んだ。
リーゼが目を逸らした。フィオは動かない。
「……髪は煎じて飲ませるものだけれど。この子は——飲めないわね」
顎がない。口がない。噛めない。飲み込めない。指を食べさせることもできない。
父親の顔から血の気が引いた。
「そ、それでは……もう……」
「大丈夫よ」
ルーシェが立ち上がった。
光の刃を呼んだ。
「——血なら、傷口に垂らすだけでいいの」
リーゼが弾かれたように振り返った。
「ルーシェ様……! 血は……!」
「リーゼ。この子にはもう、他に方法がないわ」
にっこり笑った。
「血は直接傷に垂らせるの。骨も肉も、全部生え直すわ。すごいでしょう?」
すごくない。リーゼの顔が青い。
ルーシェが左の手首に光の刃を当てた。
「ルーシェ様っ……!」
すっ——と引いた。
「ん——っ……」
声が、漏れた。
切った手首から銀色の血が溢れ出す。光を帯びている。甘い匂いが広がった。
ルーシェの瞳孔が開いていた。頬が紅潮し、唇が半開きになり、睫毛が震えている。息が甘い。肩が上下している。
「あ……っ……ふ……」
恍惚だった。
指を切った時の比ではなかった。血が流れ続ける限り、感覚も途切れない。
——父親が凍りついていた。
——リーゼが唇を噛んでいた。
——行列の全員が、黙っていた。
ルーシェだけが、頬を赤くして、息を荒くして、目を潤ませて、笑っていた。
「さあ、傷口を見せて」
父親の手が震えている。少年の顔を上に向けた。
ルーシェが手首を傾けた。銀の血が、抉れた顎の断面に落ちる。一滴。二滴。三滴。
光が少年の体を走った。灰色だった顔に血色が戻る。抉れた顎から骨が伸び、肉が巻き、皮膚が閉じていく。
少年が、咳をした。目を開けた。
「……とう、さん……?」
父親が、息子を抱きしめた。声にならない叫びで。
「よかったぁ」
ルーシェが笑った。手首からまだ血が流れている。気にしていない。
——その血が、石畳にこぼれた。
一滴。二滴。銀の雫が石の隙間に染み込む。
石畳の隙間から、白い花が芽吹いた。一輪。二輪。三輪。ルーシェの足元を囲むように、小さな花が次々と開いていく。
行列の誰かが、膝をついた。
「女神様……」
一人が膝をつくと、隣の人間も膝をついた。その隣も。波のように、広場の全員が地面に額をつけていく。
ルーシェだけが立っていた。足元に花が咲いて、手首の傷が光って閉じていくのを、きょとんとした顔で見ていた。
「あら。お花が咲いたわ。きれいね」
その言葉に——リーゼが、声を殺して泣いた。
切断面が光り始めた。皮膚が閉じていく。指の時より長かった。三十秒。元通り。
「ね? 血のほうが効くでしょう?」
誰も、答えなかった。
白い花だけが、広場を静かに埋めていた。
◇
「ルーシェ様っ……!」
宿に帰った瞬間、リーゼが崩れた。膝から。
「今日は、今日のは、だめです……! 血は、だめです……!」
泣いている。もう堪える気もないらしい。
「あら。でも治ったわよ?」
「治りました……! 治りましたけど……!」
「じゃあ何が問題なの?」
本気で分かっていない。
「ルーシェ様の、お顔です……!」
「顔?」
「血を流している時の……あの……お顔が……!」
リーゼの声が震えている。
「……苦しそう、でした……」
それが、リーゼの精一杯だった。
「苦しくないわよ?」
「そう……ですか……」
「うん。全然。——ねえリーゼ、見てた? お花が咲いたの。石畳から。すごいわよね」
「…………」
「血って、あんなこともできるのね。知らなかったわ。今度からもっと——」
「もっと!?」
リーゼの声が裏返った。
「……あの。まだ何も言ってないわよ?」
「言わなくていいです……! 分かります……! もっと血を出されるおつもりでしょう……!」
「だって、花まで咲くのよ? お得じゃない?」
「お得って……! 血を……! お得って……!」
リーゼは二回言った。二回とも信じられない顔だった。
ルーシェが、リーゼの頭を撫でた。
「泣かないで。私は平気なのだから」
リーゼの肩が、がくがくと震えた。撫でられながら泣いている。
「リーゼ。私を守ってくれるのは嬉しいわ。でもね、守らなくていいの。私は壊れないから」
——宿の扉が叩かれた。
「す、すみません……! 女神様……!」
扉の向こうから、声がした。男の声。さっきの広場にいた誰かだ。
「あの……血を、もう少しだけ分けていただけないかと……妻が、熱を……」
ルーシェが立ち上がりかけた。
リーゼの方が速かった。
涙が止まった。目が据わった。扉の前に立ち、背筋を伸ばした。
「行列に並んでください。明朝、広場で受け付けます」
護衛騎士の声だった。さっきまで泣いていた少女の声ではなかった。
「で、でも、妻が今夜——」
「お気持ちは分かります。ですが、順番を崩せば際限がなくなります」
声は静かだった。冷たいのではない。何度も同じ言葉を繰り返してきた声だった。
「ルーシェ様のお体は無限ではありません。今日差し出せる分は、もう差し出しました。明日また差し出します。だから——今日は、お帰りください」
扉の向こうの気配が、怯んで、去っていった。
リーゼが振り返った。ルーシェが、まだ立ちかけたままこちらを見ていた。
「あら、私ならまだ大丈夫なのに」
「だめです」
リーゼの声が、今日一番静かだった。
「ルーシェ様は『まだ大丈夫』と仰います。いつも仰います。でも——限界はあるはずです。お体が再生しても、何かが減っているかもしれない。私には分かりません。分からないから、怖いのです」
ルーシェが、きょとんとした。
「だから、せめて順番だけは、私に守らせてください」
——正しいことを言っている。正しいはずだ。
でも、リーゼの爪が、自分の掌に食い込んでいた。
順番を守らせたいのか。
それとも——誰にも渡したくないのか。
分かっている。分かってしまった。
あの手首から銀の血が溢れた瞬間。群衆が膝をついた瞬間。——自分の中に走ったのは、悲しみでも怒りでもなかった。
嫌だ、と思った。
この人の血を、知らない誰かの傷口に垂らすのが。この人の指を、知らない子供の口に押し込むのが。この人の痛みを——自分以外の誰かが受け取る理由にされるのが。
護衛騎士が守るべきは主の身。主の意思ではない。ましてや、主の体を「独り占めしたい」などという欲は。
——騎士失格だ。
リーゼは自分の掌に食い込んだ爪の痕を見た。三日月型の赤い跡。これは忠誠の痕ではない。嫉妬の痕だ。
だから、せめて——「順番」という鎧を着るしかない。正論という鎧を。そうでなければ、この醜い感情が剥き出しになってしまう。
リーゼの目は、もう赤くなかった。泣いていなかった。
フィオが薬湯を二つ、テーブルに置いた。
ルーシェの分と——リーゼの分。
リーゼの椀の横に、乾いた布巾を添えた。涙を拭け、という意味だった。
◇
「ねえフィオ。リーゼ、なんであんなに泣くのかしら」
リーゼが泣き疲れて眠った後。ルーシェが薬湯を啜りながら言った。
「……」
フィオは答えなかった。向かいの椅子に座って、自分の椀を見ていた。
「私、何か悪いことした?」
「……してません」
一語。フィオにしては、多弁だった。
「じゃあなんで泣くの?」
「…………」
「フィオ?」
「……ルーシェ様」
フィオが顔を上げた。
「ルーシェ様は、自分の血が流れているのを見て、何を思いましたか」
「何って……この子が助かるなぁ、って」
「……他には?」
「他? うーん……」
ルーシェが首を傾げた。少し考えて、少し頬を赤くした。
「……気持ちよかった、かな」
「…………」
ぽたり、と音がした。
フィオの椀に、雫が落ちた。薬湯の水面に波紋が広がる。
もう一滴。もう一滴。
フィオは俯いていた。肩は震えていない。声も出していない。ただ、目から水が落ちていた。
「え——フィオ?」
ルーシェが目を丸くした。
「えっ……えっ? なんで……フィオまで泣くの……?」
「…………」
「あ、変なこと言った? 気持ちいいって。ごめんね。忘れて。ね?」
フィオは椀を置いた。立ち上がった。
目元を袖で一度だけ拭った。それだけだった。
ルーシェの隣を通り過ぎる時、足が止まった。
何か言おうとした。口が開いて、閉じた。
そのまま、部屋を出た。
◇
翌朝。
フィオは誰よりも早く起きて、広場へ向かった。
昨日ルーシェの血がこぼれた場所。石畳の隙間に、白い花がまだ咲いていた。昨日より増えている。夜の間にも広がったのだ。
しゃがんで、一輪を手に取った。
小さな白い花。触ると温かい。ほんのり甘い匂いがする。ルーシェの、あの血の匂い。
花の根元を見た。石畳を割って、根が伸びている。たった数滴の血で、石を割るほどの力。
——あの血が、ルーシェの体の中を流れている。
毎日。今も。
あの血を流すたびに、ルーシェはあの顔をする。
頬を赤くして、息を荒くして、目を潤ませて。
昨夜、ルーシェは「気持ちよかった」と言った。——あれは強がりだ。痛いに決まっている。手首を切って、気持ちいいわけがない。
苦しいのを必死に我慢し、無理に笑顔を作っている。
——でも、あの顔を見た時に自分に湧き上がる感情は、なんなのだ。
分からない。分かりたくない。
ルーシェの前で。——あんなことは、二度としない。
泣いたら、ルーシェが困るから。
白い花を一輪、摘んだ。茎を折ると、切り口から銀色の樹液が滲んだ。甘い。ルーシェと同じ匂い。
——知っている。この匂いを。
フィオは花をそっと地面に戻した。
この目で見てきた。ルーシェが笑って、切って、配って、みんなが泣くのを。
この目は、そのためにもらったのかもしれない。
そう、あの日から——