TS女神の体が万能薬なので気持ちよく配ってたらなぜか周りが全員泣いてる 作:なほやん
世界は真っ暗だった。
生まれた時から、何も見えなかった。
音はある。匂いはある。温度はある。でも光だけが、ない。
教会の裏口に捨てられていたらしい。布に包まれて、泣きもせず、ただ転がっていたと聞いた。
拾ったのは老神官だった。「目が見えぬ子を、誰が引き取るか」——そう言いながら、毎朝粥を運んでくれた。
教会の子どもたちは優しくなかった。優しくない方が普通だ。
盲目の子どもにできることは少ない。掃除はできる。水汲みはできる。だが皿を割る。壁にぶつかる。階段を踏み外す。
笑われた。邪魔にされた。それが悪意なのか、退屈しのぎなのか、見えないから分からなかった。
一番辛かったのは、食事の時だ。
隣の子どもが何を食べているか分からない。自分の皿に何が載っているかも分からない。匂いで粥だと分かる。温度で冷めていると分かる。でも、色が分からない。形が分からない。
みんなが「今日のスープ、きれいな色」と言った時、自分だけが頷けなかった。
だから味だけは覚えた。舌だけが、自分の確かな目だった。塩の粒が粥に溶け残っている日。豆が少しだけ焦げた日。昨日と同じ粥でも、味だけは毎日違った。
世界は音と匂いと味でできていた。
石の床の冷たさ。井戸の水の鉄の匂い。食堂に漂うパンの匂い。夜、毛布の中で聞く自分の心臓の音。それだけが、自分の世界の全部だった。
一つだけ、好きなものがあった。
教会の裏庭に生えている薬草。名前は知らない。でも匂いで場所が分かった。苦い匂い。他の子どもは誰も摘まない。自分だけが、その匂いを好きだった。
摘んで、湯に入れて、飲む。苦い。でも、体の芯が温かくなる。暗闇の中で唯一、自分で見つけた、自分だけの味だった。
——ある日、教会が騒がしくなった。
「女神様が降りてきたんだって!」
「銀の髪の女神様! 触れるだけで病が治るって!」
「見た? 見た? すっごく綺麗なんだよ!」
子どもたちが走り回っている。足音が弾んでいる。
自分だけが、壁際に座っていた。
——見えない。
銀の髪が何色なのか、知らない。綺麗が何なのか、分からない。
みんなが見ているものが、自分にだけ見えない。いつもと同じだ。暗いままだ。
その日から、教会の話題は女神様のことばかりになった。
食事の時間も、掃除の時間も、寝る前も。「女神様の目はね、宝石みたいなの」「髪がね、月の光みたいに光るの」——自分には何一つ分からない言葉が、頭の上を飛び交っていた。
女神様が教会に来たのは、その三日後だった。
足音が聞こえた。軽い足音。石の床を踏む音が、他の誰とも違った。
甘い匂いがした。花でもない、香でもない、嗅いだことのない匂い。
「あら。この子は?」
声が降ってきた。高い声。明るい声。
「目が見えないのですか」
老神官の声。低い。申し訳なさそうな。
「生まれつきです。治癒術も試しましたが……」
「そう」
声が近づいた。しゃがんだのだと思う。目の高さが同じになった気がした。
「ねえ、あなた。お腹は空いてる?」
——空いていた。いつも空いていた。
「……はい」
自分の声が掠れていた。あまり喋ったことがなかったから。
「じゃあ、はい。あーん」
何かが唇に触れた。
丸い。温かい。濡れている。——人の肌の温度だった。
唇の間を滑って、舌の上に落ちてきた。
甘い。
匂いだけで、甘い。さっきの匂いと同じ。もっと濃い。もっと近い。もっと——中にいる。
口に入れた。
舌の上で、それが震えた。まだ生きているかのように。表面はつるりとして、薄い膜の下で何かが脈打っている。舌で転がすと、ぬるりと逃げる。追いかける。頬の内側に押しつける。ぷるん、と弾力で押し返された。
噛んだ。
ぷつり、と膜が破れた。
中から蜜が溢れ出す。甘い。——一度だけ、祭りの日にもらった飴玉を知っている。あれとは違う。あんなものではない。噛むたびに蜜が溢れた。食堂で出た果実よりもっと濃い。もっと生々しい。体温を持った甘さが舌を包み、歯茎を浸し、喉の奥まで流れ込んでくる。
とろりとした塊が、舌の付け根にまとわりつく。飲み込むのが惜しい。もっと口の中に留めていたい。舌で集めて、上顎に押し当てて、最後の一滴まで搾り取りたい。
——でも体が勝手に飲み下す。ごくり、と喉が鳴った。
胃の底に届く前に、体の隅々まで熱が広がった。指先まで。つま先まで。耳の奥まで。
——光が弾けた。
頭の中で。目の奥で。世界の全部が一度に。
「——っ」
初めて見たのは、銀色だった。
目の前に、顔があった。
銀の髪。薄い唇。長い睫毛。透き通るような肌。
他の全部がぼやけているのに、その顔だけがはっきり見えた。
そして——笑っている。
でも。
その顔の、左側が——おかしかった。
左の目があるべき場所に、光が渦巻いていた。銀色の光が、空の眼窩の縁からじわじわと内側へ伸びていく。何かが、生え直している途中だった。
「あら! 見えるようになったの?」
片目で、にこにこしていた。嬉しそうに。何でもないことのように。
「よかったぁ。ね、見える? 何本に見える?」
指を立てている。三本。——たぶん三本だと思う。数字は知っている。見たことがなかっただけで。
「……三」
「正解! すごいわね!」
拍手された。ぱちぱちと。小さな手。白い手。
——左目の光が、閉じた。再生が終わったのだ。銀色の瞳が、ぱちりと瞬いた。
さっきまで空洞だった場所に、何事もなかったかのように、きれいな目があった。
後になって知った。
あの時、口に入れたもの。あの甘いもの。
——女神様の、目だった。
教会の子どもが教えてくれた。「女神様ね、あんたに目をあげたんだって。自分の目。抉って、食べさせたんだよ」
笑いながら言っていた。すごいよね、と。
その夜から、三日間眠れなかった。
食堂の隅で膝を抱えて、あの甘さを思い出していた。あの匂いを。あの温度を。
舌の上に残る感触を、何度も何度もなぞった。あの丸さ。あの膜の弾力。噛んだ瞬間に溢れた蜜の味。——目だったのだ。あの人の目だったのだ。
——あの人が、自分の体を切ってくれた。
——自分のために。
——目も見えない、名前も知らない、教会の隅に転がっていただけの自分のために。
泣いた。生まれて初めて、声を上げて泣いた。
見えるようになった目から、涙が止まらなかった。
——何かを返さなければ。
でも、自分には何もなかった。目も見えない子どもに、何があるというのだ。
裏庭に走った。初めて自分の目で見た薬草は、灰色がかった緑色をしていた。——これが、あの匂いの色なのか。
摘んだ。できるだけたくさん。両手いっぱいに。
湯を沸かして、淹れた。手が震えて、半分こぼした。
女神様はまだ教会にいた。他の子どもたちに囲まれていた。
「……あの」
差し出した。両手で。こぼさないように。
「あら。なあに、これ?」
「……おちゃ、です」
女神様が受け取った。一口飲んだ。
「——おいしい。けど、ちょっと苦いわね」
笑った。
苦い。そうだ、苦いのだ。自分が好きだった味は、この人には苦かった。
——でも、「おいしい」と言ってくれた。
この目をくれた人の隣に立てるなら、何だってする。
文字を覚えた。次の日から本を読んだ。
神学書、薬学書、治癒術の教本。消灯後はロウソクを隠して毛布の中で読んだ。眠る時間以外の全部を使った。ページをめくるたびに、この目があの人のものだと思い出せた。文字を追うこの目は、あの人がくれたものだ。——だから、読むのをやめられなかった。
神童と呼ばれた。でもどうでもよかった。
三年で、神官になった。最年少だった。
——翌日、ルーシェ様の前に立った。
「はじめまして。今日からよろしくね」
——同じだった。
三年前と同じ笑顔。同じ声。同じ匂い。
「…………」
「あら、静かな子ね。名前は?」
「……フィオ」
「フィオ。いい名前ね」
ルーシェ様が首を傾げた。じっとフィオの顔を見た。
「——どこかで会ったかしら?」
心臓が止まるかと思った。
「……三年前。教会で」
「教会? ああ、たくさん回ったわねぇ。どこの教会だったかしら」
たくさん。たくさん回った。たくさんの教会で、たくさんの体を切った。
「……覚えて、いませんか」
「ごめんなさいね。あちこち行くものだから。——でも、また会えたのだから、嬉しいわ!」
にこにこしていた。悪気はない。本当に覚えていない。
「あ、お腹空いてる?」
また、同じことを聞いた。
覚えていないのに、同じことを聞く。——それがこの人なのだ。誰にでも、同じ笑顔で、同じ言葉を差し出す。
「……空いていません」
「そう? じゃあお茶にしましょう。リーゼ、この子の分もお願い」
「……私が、淹れます」
自分でも驚くほど、声が出た。
鞄の中に、薬草がある。三年間、ずっと持ち歩いていた。どこの教会でも育つ薬草だ。匂いで見つけられる。
湯を沸かした。今度はこぼさなかった。砂糖を少しだけ加えた。——あの時、苦いと言われたから。
差し出す前に、自分の分を一口だけ含んだ。
苦い。三年間、毎日飲んできた味だ。砂糖を入れても、芯の苦さは消えない。——でも、この苦さを好きだと思えたから、今ここにいる。
ルーシェ様に差し出した。
一口飲んだ。
「——あら。おいしい。……あれ? この味」
心臓が跳ねた。
「どこかで飲んだことがある……いつだったかしら……ねえ、これ苦くない? 前はもっと苦かった気がするの」
覚えている。顔は忘れたのに。名前も忘れたのに。——味だけ、覚えている。
「……砂糖を、入れました」
「あら! だから甘いのね。おいしいわ、フィオ」
傍にいた騎士が——リーゼが、頷いた。目が赤かった。さっきまで泣いていたらしい。
「リーゼ、また泣いてたの?」
「泣いてません……!」
——ああ。この人は、変わっていない。
自分の人生を丸ごと変えた一つが、あの人にとっては「いつもの一つ」だった。何十、何百と差し出してきた中の、名もない一つ。
だから、自分が泣くわけにはいかないのだ。
リーゼが泣く。村人が泣く。父親が泣く。老人が泣く。
みんなが泣くから、一人くらい、泣かずにいなければ。
薬湯を三つ。ルーシェ様には砂糖を多めに。リーゼにも、少しだけ。
——あの日もらった目で、今日もルーシェ様を見ている。
笑って、切って、配って。頬を赤くして、息を荒くして、目を潤ませて。
ああ、ルーシェ様が、私の全てだ。
「……ルーシェ様」
私は、花びらの一枚を、口に含んだ。
銀の樹液が舌の上で溶ける。
甘い。
やっぱり、あの日の味がした。