TS女神の体が万能薬なので気持ちよく配ってたらなぜか周りが全員泣いてる   作:なほやん

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第四話 「瓶詰めの女神」

 

「女神様……大変、心苦しいお願いなのですが……」

 

 白い法衣の男だった。四十がらみ。頬がこけている。目の下に深い隈。旅装は泥に汚れ、靴底がすり減っていた。

 

 声が震えていた。

 

「大陸の東端で、疫病が……子どもたちが……どうか、お力を……」

 

 泣いていた。本当に泣いていた。鼻水まで垂らしている。

 

 リーゼの目が据わった。また始まる。

 

「——行きましょう」

 

 ルーシェが立ち上がった。即答だった。

 

「ルーシェ様……!」

 

 リーゼが口を開きかけた。ルーシェはもう外套を羽織っている。

 

 だが、使者が首を振った。

 

「……ここから、馬車で五日かかります」

 

 ルーシェの手が、止まった。

 

「五日……」

 

「はい。五日。——往復で、十日です……」

 

 使者が、また泣いた。

 

 ルーシェは外套を持ったまま、立ち尽くしていた。

 ——行っても、間に合わない。

 

 リーゼがルーシェの顔を見た。フィオもルーシェの顔を見た。

 笑っていなかった。珍しいことだった。

 

「……」

 

 ルーシェが、外套を椅子に置いた。

 

「——ねえ。あなた、瓶は持ってる?」

 

「瓶……ですか?」

 

「何でもいいの。密封できるもの」

 

 使者が鞄を探った。薬湯用の小瓶が一つ、出てきた。空だった。

 

 ルーシェがそれを受け取った。

 

「これでいいわ」

 

 光の刃を呼んだ。左の手首に当てた。

 

「ルーシェ様……!」

 

 リーゼの声。いつもの声。

 

 すっ——と引いた。

 

「ん……っ」

 

 銀色の血が溢れ出す。ルーシェの瞳孔が開いた。頬が紅潮し、唇が半開きになり、睫毛が震えている。

 

 だが今日は、血を石畳にこぼさなかった。小瓶の口に手首を傾けて、丁寧に注いでいく。

 

 銀色の血は、普通の血より重かった。とろりと粘って、硝子の首にまとわりつく。瓶の内壁をゆっくり滑り落ち、底に溜まるたびに、銀色の渦が生まれる。

 手首が脈打つたびに、ドク、ドクと、新しい雫が落ちる。甘い匂いが部屋に充満していく。使者が鼻を押さえた。花でもない、蜜でもない——生涯一度も嗅いだことのない匂いだった。

 

「ん……ふ……っ」

 

 ルーシェの吐息が甘く漏れる。瓶が半分を超えた。銀色の液体が光を帯びて、硝子の中でぬらぬらと揺れている。

 

 使者の男が、凍りついていた。

 頬を紅潮させ、吐息を漏らし、目を潤ませている女神を——食い入るように見つめている。

 ——痛いのだ。この方は、見ず知らずの街の子どもたちのために、自分の手首を裂いて、痛みに耐えて、笑おうとしている。

 使者の膝が折れた。石畳に額をつけた。泣いていた。三度目だった。

 

 瓶がいっぱいになった。ルーシェが手首を離す。切断面が光って、閉じていく。十秒。元通り。

 

「はい。これを持って帰って」

 

 使者に瓶を差し出した。にっこり笑った。

 

「一瓶で、二十人くらい助かるわ。皆に飲ませて。甘いらしいから、子どもでも飲みやすいと思うわ」

 

 使者の手が、震えていた。銀色に光る小瓶を、壊れ物のように受け取った。

 

「……これは……女神様の……」

 

「血よ。大丈夫、腐らないと思うけど、できるだけ早く使ってね」

 

 にっこり。何でもないことのように。

 

 使者が、瓶を胸に抱いた。声が出なかった。

 ——甘いと言った。この血が、甘いのだと。この方が手首を裂いて、頬を赤くして、息を荒くして注いだ血を、子どもたちの口に運ぶのだ。甘い、と言いながら。

 唇がわなわなと動いているだけだった。

 リーゼは、その手を見ていた。知らない男の手が、ルーシェ様の血を抱いている。

 

「……ありがとう、ございます……」

 

「うん。——でもね」

 

 ルーシェの目が変わった。笑っている。だが、さっきまでとは違う笑い方だった。

 

「これじゃ足りないでしょう? 五日の距離でも間に合わないかもしれない。瓶一つじゃ二十人が限界。——前から思ってたの。私の体を、流通させたいって。だから、仕組みを作らないと」

 

 使者が顔を上げた。

 

「し、仕組み……?」

 

「流通網よ。教会の拠点って、この大陸にいくつあるの?」

 

「は……大小合わせて、三百ほどかと……」

 

「三百! いいわね。その三百拠点すべてに、私の血を常備するの」

 

「え……」

 

「各拠点に瓶を十本ずつ。月に一回補充する。でも鮮度が落ちるかもしれないから——氷の魔法が使える人、教会にいる?」

 

「は、はい……」

 

「じゃあ中継地点ごとに術者を置いて、冷やしながらリレーで運ぶ。本当は冷蔵庫があれば……」

 

「れい……ぞう、こ……?」

 

 使者の男が、リーゼを見た。リーゼがフィオを見た。フィオは壁を見ていた。

 

「あ、ごめんなさい。とにかく——三百拠点、月十本、瓶一本あたり三十滴として……」

 

 ルーシェが指を折り始めた。目が輝いている。さっきまで笑っていなかった顔が、もう笑っている。

 

「九万滴! 月に九百回。途中でこぼれる分……ロス——あ、損耗を二割見込んで、月千八十回。一日三十六回。——いけるわ」

 

「——え」

 

 使者の男の顔から血の気が引いた。

 

「血だけじゃないのよ。髪は煎じ薬用、爪は鎮痛用。用途別に瓶の色を変えて、各拠点に在庫を置く。保存期限は温度ごとに記録して——フィオ、メモして」

 

 フィオが頷いた。——すでに羊皮紙を広げていた。言われる前から書き始めている。手は震えていたが、文字は正確だった。

 

「備蓄もするわ。在庫が切れた拠点には近隣から融通——横流し……あ、相互供給ね。緊急輸送ルートも設計しなきゃ。リーゼ、各拠点の警備は——」

 

「ルーシェ様!!!」

 

 リーゼの声が裏返った。使者が跳び上がった。

 

「お体を——お体を、大陸中にばら撒くおつもりですか……!」

 

「ばら撒くって言い方は悪いわ。流通よ、流通」

 

「流通……! ルーシェ様のお体を……! 流通……!」

 

 リーゼは二回繰り返した。二回目のほうが声が高かった。

 

 ルーシェがきょとんとした。

 

「でも、五日かかる場所の子どもが死んでるのよ? 私が行けないなら、私の体を届けるしかないでしょう?」

 

 正論だった。ぐうの音も出ない正論だった。

 リーゼの口が開いて、閉じた。

 

「あの」

 

 使者の男が、おずおずと手を挙げた。

 

「あの……女神様のお心が……」

 

「心? 元気よ?」

 

 元気だった。本当に元気だった。むしろ、さっきの「行けない」と知った時より、ずっと楽しそうだった。

 

 ——仕組みを考えている時のルーシェは、体を切っている時と同じ顔をしている。

 

 使者の男が、リーゼを見た。助けを求める目だった。さっきまで助けを求めていたのは自分の方だったのに。

 

 リーゼが使者の隣に立った。

 

「……お気持ちは、よく分かります」

 

「あ、あなたも……毎日、これを……?」

 

「はい。毎日です」

 

 二人の目が合った。戦友のような顔だった。

 ——違う。この男は、ルーシェ様の体を持ち帰る側の人間だ。

 

「あの、女神様」

 

 使者が背筋を伸ばした。涙を拭いた。

 

「大変……ありがたいお申し出です。まずはこの一瓶を……必ず届けます。流通網の件は、持ち帰って検討させていただきます」

 

「本当? 待ってるわね!」

 

 使者が深く頭を下げて、去っていった。銀の小瓶を胸に抱いて。半ば逃げるように。

 リーゼは、その背中が見えなくなるまで見ていた。あの瓶の中身は、さっきルーシェ様が頬を赤くして、息を荒くして注いだものだ。それが今、知らない男の鞄に入って遠ざかっていく。

 ——三百拠点。月に十本ずつ。

 あの血が、三千本の瓶に分けられて、大陸中の知らない人間の喉を通っていく。

 胸の心臓が、嫌だと叫んでいた。

 

「もっといいアイディアがあったのに……」

 

 ルーシェが頬を膨らませた。

 

「ねえリーゼ。涙も瓶に詰められるのよ? 涙は解毒用だから、血とセットで配れば——」

 

「もう結構です……!」

 

「フィオは? 聞きたいでしょう?」

 

「…………」

 

 フィオは薬湯を淹れていた。三つ。使者の分も用意していたが、使者はもういなかった。

 

 余った一つを、自分で飲んだ。苦い。舌の奥に薬草の渋みがじわりと残る。さっきまで部屋に充満していた甘い匂い——あの血の匂いとは、何もかもが違う。いつもの味だった。

 

「ねえ、二人とも。私ね、思ったんだけど」

 

 ルーシェが薬湯を両手で持って、ふうふうと冷ましながら言った。

 

「爪は粉にしても鎮痛になるの。それを鼻からすーっと吸えば——」

 

「「だめです」」

 

 リーゼとフィオの声が重なった。

 

 フィオが喋った。ルーシェが目を丸くした。リーゼも目を丸くした。

 

「……フィオが喋った……」

 

「フィオが声を出した……!」

 

「…………」

 

 フィオは薬湯を一口飲んで、黙った。

 

 ルーシェが一口飲んで、顔をしかめた。

 

「苦っ……フィオ、お砂糖は?」

 

「……切らしました」

 

 嘘だった。鞄の中に砂糖壺がある。三年間、ずっと持ち歩いている。

 

 ルーシェがもう一口飲んだ。目を瞬いた。

 

「にが……でも、おいしい」

 

 ——ぽろり、と。銀色の雫が一滴、頬を伝って椀に落ちた。

 

「……そのお椀、私が洗います」

 

「いいの? フィオ、いつもありがとね」

 

 フィオは差し出された椀の中の銀色を、ただじっと見ていた。

 

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