TS女神の体が万能薬なので気持ちよく配ってたらなぜか周りが全員泣いてる   作:なほやん

5 / 20
第五話 「苦い薬」

 

 街道を歩いていた。三人で。

 

 初夏の風が銀の髪を揺らしている。ルーシェは外套の袖をまくって、上機嫌だった。

 

「ねえ、次の街まであとどのくらい?」

 

「三日です」

 

 リーゼが地図を畳みながら答えた。

 

「三日! 野宿ね。楽しみ」

 

「楽しくありません」

 

「リーゼはいつも否定から入るわね」

 

「事実を述べています」

 

 フィオが二人の間を、無言で歩いていた。鞄の中で薬草がかさかさと鳴っている。

 

 ——街道の脇の茂みが、揺れた。

 

 リーゼの足が止まった。手が剣の柄にかかる。

 

「下がって」

 

 声が変わっていた。さっきまでの少女の声ではない。

 

 茂みが裂けた。

 

 黒い影が飛び出す。四つ足。犬より大きい。猪ほどもある。口から紫色の涎を垂らしていた。——毒牙の魔獣。

 

 リーゼが抜刀した。一閃。

 

 魔獣の首が飛んだ。地面に転がって、痙攣した。

 

 剣を振って血を払い、鞘に収めた。息一つ乱れていない。

 

「すごーい! リーゼ強い!」

 

「当然です」

 

 ルーシェがぱちぱちと拍手した。リーゼの耳が少し赤くなった。

 

 ——地面の首が、跳ねた。

 

 紫の涎を撒き散らしながら、ルーシェに向かって飛んだ。

 

 リーゼの体が先に動いていた。左腕で庇った。毒牙が外套の袖を裂いて、腕に食い込んだ。

 

「——っ」

 

 右手の剣で首を叩き落とし、踏み砕いた。今度こそ、動かなくなった。

 

 外套の袖が裂けている。その下に、歯型の裂傷。——紫色の線が、傷口から手首に向かって走っていた。

 

「もう、リーゼ。私は丈夫だから、放っておけばよかったのに」

 

 ルーシェが眉を下げた。心底申し訳なさそうに。

 

「それは、護衛として看過できません」

 

 リーゼの顔が、白くなっていた。

 

「毒です」

 

 フィオが一語で言った。

 

「大丈夫、血を垂らせば傷は——」

 

 ルーシェが手首に光の刃を当てた。

 

「やめて、ください……! こんな傷で——」

 

 リーゼが腕を引こうとした。フィオが押さえた。——目を伏せたまま。

 

「リーゼ様。薬草では間に合いません」

 

 ルーシェがにっこり笑った。

 

「ね。フィオもそう言ってるわ」

 

 すっ——と引いた。リーゼの傷口に銀の血を三滴。傷が光って、閉じていく。

 

 だが——紫の線は消えなかった。

 

 むしろ広がっている。手首を越えて、肘に向かって。リーゼの肌の下を、毒が這い上がっている。

 

「……血では、消せません」

 

 フィオが言った。膝をついて、リーゼの腕を診ている。

 

「毒牙の魔獣の毒は、傷ではなく血に溶ける。血が傷を塞いでも、毒は体の中に閉じ込められるだけです」

 

「じゃあ——どうすれば」

 

「……解毒には」

 

 フィオがルーシェを見た。

 

「……涙を」

 

 ルーシェが目を丸くした。

 

「涙。——そうだわ。涙は解毒用なのよね」

 

 ルーシェが自分の目を指差した。

 

「泣けばいいのね?」

 

 リーゼの顔色が、さらに悪くなっていた。紫の線が肘を超えている。指先が動かなくなっていた。毒が神経を侵し始めている。時間がない。

 

「泣くわ。——泣く……」

 

 ルーシェが目を閉じた。眉を寄せた。

 

「…………」

 

「…………」

 

「……泣けないわ」

 

 目を開けた。きょとんとしていた。

 

「悲しいことを考えてみたんだけど、特にないの」

 

「特に、ない……」

 

 フィオが繰り返した。

 

「だって、リーゼもフィオも元気だし。——あ、リーゼは今元気じゃないけど、すぐ治るし」

 

「治すのはあなたです……」

 

「じゃあ痛みで泣く?」

 

 ルーシェが光の刃を出した。自分の指先にちょんと当てた。

 

「ひ、っ——」

 

 耳の先まで朱が走った。喉の奥で小さく息を呑んで、指先がぴくりと跳ねた。銀色の血が一筋垂れた。——目が潤んでいる。だがそれは涙ではなかった。

 

「……だめ」

 

 鼻先が赤い。指先の傷がもう光って閉じている。

 

「あら、フィオ。なんで目を逸らすの?」

 

「いえ……なんでも……」

 

「玉ねぎとかないかしら」

 

「ありません」

 

「煙?」

 

「火を起こしている場合ではありません」

 

 リーゼの呼吸が浅くなっていた。紫の線が二の腕を超えた。肩に迫っている。もう腕全体が動かない。声も、出なくなっていた。

 

「…………」

 

 ルーシェの笑顔が、消えた。

 

「……フィオ」

 

「はい」

 

「一番苦い薬草、持ってる?」

 

 フィオの手が、止まった。

 

「……持って、います」

 

「ちょうだい」

 

「…………」

 

 フィオは動かなかった。

 

 鞄の中に手を入れたまま、動かなかった。——あの薬草だ。暗闇の中で見つけた。匂いだけで場所が分かった。苦い匂い。他の子どもは誰も摘まなかった。自分だけの味だった。

 

 初めてルーシェ様に差し出した。「おいしい、けど、ちょっと苦いわね」と笑った。

 

 だから——砂糖を入れた。三年間。ずっと。苦くないように。

 

 今日は、苦くなければならない。

 

 苦ければ苦いほど、ルーシェ様が泣く。それが必要だ。自分の一番大事なもので、一番大事な人を泣かせる。

 

 ——ぽたり。

 

 フィオの目から、雫が落ちた。

 

 泣かないと決めたのに。ルーシェ様の前ではもう泣かないと決めたのに。

 

「あら……」

 

 ルーシェが、フィオの顔を覗き込んだ。

 

「私が泣かないといけないのに、フィオが先に泣いちゃった」

 

「…………」

 

 フィオは袖で目を一度だけ拭った。

 

 鞄から薬草を取り出した。両手で。——三年前と同じように。

 

「……どうぞ」

 

 乾燥した葉だった。黒に近い深緑。潰すと鼻が曲がるほど苦い匂いがする。これが、フィオが暗闇で一番最初に好きになったものだった。

 

 ルーシェがそれを受け取った。一枚、口に入れた。

 

 噛んだ。

 

「——っ!!!」

 

 ルーシェの顔が歪んだ。初めて見る表情だった。

 

 苦い。甘さの欠片もない。舌が痺れるほどの苦みが口腔を満たし、鼻腔を突き抜け、こめかみを殴った。砂糖なし。希釈なし。これが、この薬草の本当の味だった。

 

 涙が溢れた。

 

 銀色だった。ルーシェの血と同じ色。だが血とはまるで違った。血が重く粘るのに対して、涙は軽い。薄い膜のように頬の上を滑っていく。光の粒子が混ざっていて、流れるたびに肌の上で細かく瞬く。

 温かかった。体温より、もう少しだけ熱い。頬を伝い、顎の先で一瞬ためらうように膨らんで、ぷるりと落ちる。触れると指に纏いついて、離れたがらない。

 

「にが……っ……」

 

 目を真っ赤にして、鼻をすすって、涙をぼろぼろ流している。——女神の威厳は、なかった。

 

「に、にがいぃ……フィオ、これいつものお茶の葉っぱ!?」

 

「……はい。お茶にすると、苦みが薄れるんです」

 

「薄れてあれ!? 生だとこんななの!?」

 

 泣きながら言っている。鼻声だった。

 

 ——だが、その涙は光っていた。

 

 フィオが木の椀を差し出した。ルーシェの頬を伝う涙を受ける。一滴。二滴。銀色の雫が椀の底で光った。

 

 フィオがリーゼの唇に椀を当てた。傾ける。

 

 ——銀色の雫が、リーゼの唇を濡らした。だが、そのまま顎を伝って地面にこぼれた。

 

「……飲めません。喉が麻痺しています」

 

 フィオの声が硬かった。紫の線は首元に達している。喉の筋肉が動かない。椀を傾けても、液体が口の中に留まらず流れ出る。

 

「え……じゃあ、どうすれば……」

 

「……直接」

 

 フィオが目を伏せた。

 

「口の中に、直接。舌の奥に落とせば、体が勝手に飲み込みます」

 

 ルーシェが頷いた。迷わなかった。

 

 リーゼの隣に膝をついた。リーゼの顔を両手で挟んだ。そっと上を向かせる。唇だけが、かすかに開いていた。

 

「リーゼ。入れるわね」

 

 返事はなかった。目は開いている。動けないだけだ。——ルーシェの顔が、真上にある。涙で濡れた銀色の瞳が、自分を見下ろしている。

 

 ルーシェが顔を近づけた。

 

 涙がまだ流れていた。塩辛さが残っているのだろう。銀色の雫が睫毛に溜まり、頬を伝い、顎の先に集まっていく。

 

 ——一滴が、落ちた。

 

 ルーシェの顎先から、リーゼの唇へ。銀色の雫が下唇に触れて、溶けるように口の中へ滑り込む。

 

 甘い。涙なのに、甘い。舌の奥を滑って、喉の深いところに沈んでいく。

 

 もう一滴。今度は頬を伝った雫が唇の内側に直接落ちた。三滴目は、睫毛から。舌の付け根に温かい重さが溜まって、体が勝手に飲み下す。ごくり、と喉が鳴った。

 

 ルーシェの顔が、すぐ上にある。泣いている。涙の筋が頬に光っている。——こんなに近くで見たことは、なかった。

 

 ——光が走った。

 

 紫の線が、止まった。首元で。そこから、ゆっくりと退いていく。肩へ。二の腕へ。肘へ。手首へ。指先へ。最後の一筋が傷口から抜けて、紫色の煙になって消えた。

 

 リーゼの顔に、血色が戻った。指先が、震えた。——動く。

 

「…………」

 

 リーゼの目が開いた。ルーシェを見上げている。唇が動いた——声は、まだ出なかった。

 

「あら! リーゼ! よかったぁ!」

 

 ルーシェが抱きついた。泣きながら。鼻水がリーゼの外套についた。

 

「にがかったぁ……」

 

 リーゼの唇がまた動いた。声が戻っていく。

 

「……泣いて、くださったのですか」

 

「だって苦いんだもの! ねえフィオ、ほんとにいつもの葉っぱ!? ほんとに!?」

 

 リーゼの目が、微かに曇った。

 

 ——私のためではなく、苦かったから泣いたのか。

 

「……ルーシェ様」

 

「なあに?」

 

 リーゼがルーシェの手を取った。まだ涙が残っている指先を、そっと握った。

 

「涙だけは——私以外に、見せないでください」

 

 ルーシェがきょとんとした。

 

「え? なんで?」

 

「……お願い、です」

 

 フィオが背を向けていた。空になった椀を洗っていた。

 

 手が、震えていた。

 

 

  ◇

 

 

 リーゼは眠れなかった。

 

 口の中に、まだ残っている。舌の上に。唇の裏に。喉の奥に。

 

 甘かった。涙は塩辛いはずなのに——甘かった。

 

 ——あの時と、同じ味だ。初めて会った、あの時と。

 

 胸の奥が、どくどくと鳴っていた。

 

 隣の部屋から、寝息が聞こえた。穏やかで、無防備で、何の翳りもない。

 

 リーゼは暗闇の中で、自分の唇に指を当てた。

 胸は、まだ鳴っていた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。