TS女神の体が万能薬なので気持ちよく配ってたらなぜか周りが全員泣いてる 作:なほやん
「おのれ、魔王……!」
慢心していた。
勇者だと持て囃されて。国中から期待を背負い、剣を授かり、祝福の中で送り出された。
——世界を救ってきてくれ。お前なら出来る。
あの朝、差し出された葡萄酒は甘かった。喉を焼くほど甘くて、これが期待の味なのだと思った。
出来ると思っていた。本気で、心の底から。
魔王の城は蝕み病の瘴気に満ちていた。黒い霧が肺を焼く。仲間は一人、また一人と倒れた。それでも進んだ。勇者だから。
玉座に辿り着いた。
魔王は——笑っていた。瘴気の闇の中で、その瞳だけが銀色に光っていた。
刃を振るった。何度も。手応えがあったはずだ。
なのに次の瞬間、自分の胸に穴が空いていた。
鎧ごと貫かれていた。心臓があった場所に、黒い爪痕が残っている。
血が出ない。心臓がないのだ。鼓動が止まっている。なのに意識がある。毒が全身に回って、指一本動かせない。
無駄に頑丈な体が、死ぬことも、気絶することも許されない。
魔王が立ち去った。興味を失ったように。
殺す価値もない、とでも言うように。
口の中に、自分の血の味だけが残っていた。鉄と、錆と、苦み。
——倒れたまま、空を見ていた。
瘴気が広がっていくのが見えた。蝕み病の黒い霧が、空を覆っていく。あの霧の下に街がある。村がある。人が住んでいる。
止めなければならなかった。それが自分の使命だった。
なのに——指一本、動かない。
涙すら出なかった。心臓が止まっているから。体液を動かす力が、もうない。
泣きたいのに泣けない。叫びたいのに声が出ない。
ただ空を見ていた。黒い霧と、灰色の雲と、何もない空を。
——どのくらい経ったのだろう。
何かが見えた。
白い。いや、銀色だ。
銀の髪が風に舞っている。光を纏っている。瘴気の中にいるのに、その光だけが汚されていない。
「あら。ここにも倒れてる人がいるわ」
声が降ってきた。高い。明るい。場違いなほどに。
銀髪の女が、しゃがんだ。顔を覗き込んでくる。
綺麗だった。
「大変な怪我ね。心臓がないじゃない」
ないじゃない。胸に穴が空いている人間に向かって、世間話のように。
「これなら……ハツね!」
何を言っている。
銀髪の女が光の刃を呼んだ。自分の胸に当てた。
「捧げよ! 捧げよ! 心臓を捧げよ!」
——歌っている。自分の胸に刃を当てながら、歌っている。
声が出なかった。出せなかった。止めろ、と叫びたかった。
何をしている。自分の胸を——
すっ——と引いた。
「——ぐ、ぅっ」
肉が裂けて、銀色の光が溢れ出す。その奥から、女の手が何かを取り出した。
銀色の心臓だった。銀色に脈打っている。光を帯びて、手の中でドクドクと動いている。まだ生きている。女の体から離れてなお、律動を続けている。
切り取った直後の女の顔は——歪んでいた。目の焦点が合っていない。瞳孔が開ききって、銀色の虹彩がほとんど見えない。首筋を汗が一筋伝って、鎖骨の窪みに溜まった。
——痛いのだ。当たり前だ。自分の胸を裂いたのだから。
「心臓は……さすがにキくわね……」
息が荒かった。それでも笑っている。
「はい。あーんして。私の心臓をお食べ」
——できない。
口が動かない。喉が動かない。魔王の麻痺毒で、体の全部が止まっている。
「あれ」
銀髪の女が首を傾げた。唇に心臓が押し当てられた。——開かない。
「食べられないの?」
全身が麻痺している。指も動かない。瞼すら自力で閉じられない。
「んー……困ったわね」
困った、と言った。のんきに。自分の心臓を取り出した直後に。
——この女は、狂っている。自分の胸を裂いたのに、涙一つ流さない。
「名前もわからないまま……」
女の声が、変わった。
「かわいそう……」
ぽろり、と。
銀色の雫が、女の目から零れた。
一滴。たった一滴。
それが頬を伝って、顎の先で光って、落ちた。リーゼの唇の上に。
甘かった。
涙なのに——甘かった。舌の上を滑って、喉の奥に染みていく。温かい。体温よりもっと熱い。全身を満たしていた冷たい麻痺が、喉の奥から溶けていく。
指が、ピクリと動いた。
唇が震えた。声が出る。喉が戻った。
「…………リー、ゼ……」
掠れた声。自分でも聞き取れないくらい小さい。
「リーゼ? リーゼね! 覚えたわ!」
女が笑った。涙の筋が頬に残ったまま、にこにこしている。
「はい、リーゼ。口、開けて。あーん」
銀色の心臓が唇に押し当てられた。
——口が動く。顎が開く。涙が解いた麻痺は、まだ完全ではない。だが唇だけは動いた。
心臓が口の中に入った。
——熱い。
——甘い。
舌に触れた瞬間に、わかった。甘い。こんなにも甘い。あの出陣の葡萄酒など比べものにならない。口の中で、ドクン、ドクン、と脈打っている。生きている。歯を当てるたびに跳ねる。頬の内側に押しつけられて、逃げるように動く。逃げても甘い。触れているだけで、舌の上に甘さが滲み出してくる。
こんなものを知ってはいけない。——そう思った。知ってしまったら、もう戻れない。
噛んだ。
噛み切れない。固い。筋が歯に絡みつく。弾力が歯を押し返してくる。——心臓は筋肉の塊だ。この女の胸の中で、ずっと休まず動き続けてきた筋肉。噛み切れないのは当然だった。顎が軋む。それでも口の中で脈打っている。ドクン。ドクン。食べられているのに、まだ生きようとしている。
「がんばって。全部食べて」
女の声が上から降ってくる。応援している。自分の心臓を食べることを、応援している。
奥歯で噛んだ。力を込めて。
ぶつり——と筋が切れた。
——もっと、甘い。
表面の比ではなかった。裂けた筋の奥から、熱い汁が溢れ出す。舌の付け根を浸して、顎の裏まで染みていく。噛むたびに筋が裂けて、裂け目から蜜が滲む。この世のどんな果実よりも甘い。飴よりも。蜂蜜よりも。この女の体の、一番底にしまってあったものの味だった。
歯の間から逃げる肉を舌で集めて、もう一度噛む。また溢れる。噛み砕くたびに新しく湧いてくる。顎が痛い。それでも止められない。噛むほどに甘い。噛むほどに美味い。固くて、熱くて、こんなにも甘い。
飲み込むのが惜しい——なのに、喉が勝手に動いた。
ごくり、と音が鳴った。食道を熱い塊が落ちていく。胃に届く前に、体の芯が燃えた。
もう一つ食べたいと、そう思ってしまった。
——胸の中で、何かが動いた。
空洞だった場所。黒い爪痕だけが残っていた穴の奥で、光が灯った。
ドクン。
一度。大きく。
これは——この人の心臓だ。
ドクン。ドクン。ドクン。
他人の鼓動が、自分の胸で鳴っている。速い。自分が知っている自分の鼓動より、ずっと速い。
体に力が戻っていく。指が握れる。腕が持ち上がる。
上半身を起こした。生きている。
「やったぁ!」
銀髪の女が拍手した。ぱちぱちと。自分の心臓を食べさせた相手に向かって。
「ね、味はどうだった?」
「…………」
味を聞いている。自分の心臓の。
「ちょっと固かったかしら。ごめんね、もっと柔らかい部位もあるんだけど、心臓が一番効くと思うの。
いぞうほぞう。——何だそれは。
柔らかい部位も意味が分からない。この人の思考回路は理解できない。
「……でもね」
声が、少しだけ変わった。
「心臓をあげたのは、初めてなの」
「…………」
「指とか髪とか血はいっぱいあげたけど。心臓は初めて。でもね、他とはぜんぜん違った」
何でもないように言った。でも、頬がまだ赤かった。
「ちゃんと食べてもらえてよかった」
——ああ。この人は……この方は、初めてを、私のために。
胸の奥で、もらったばかりの鼓動が跳ねた。
うるさい。うるさいのだ、この心臓は。
「あなた、すごい怪我してたのね。何があったの?」
「……戦いに、負けました」
「そうなんだ。あ、私はルーシェ。よろしくね、リーゼ」
手を握られた。暖かかった。
「ねえリーゼ。あなた、剣を持ってるのね。強いの?」
「……少しだけ」
自分が勇者だとは言わなかった。言えなかった。
勇者は死んだ。今ここにいるのは、この方の心臓で動いているだけの、ただの剣士だ。
「少しだけ! 剣が使えるなんてかっこいいわ!」
ルーシェの目が輝いた。
「じゃあ、一緒に旅しない? 私ね、蝕み病の人たちを治して回ってるの。でも一人だとなかなか大変で」
「……あなたは。自分の心臓を人にあげて、平気なのですか」
「平気よ? また生えるし」
ルーシェが胸を張る。切り裂いたはずの傷はいつの間にか塞がっていた。
「ほら」
ルーシェが私の手を取り、その胸に手を当てた。
ドクン、と音がした。
「ね?」
笑った。何でもないことのように。
ドクン。ドクン。ドクン。
この方の鼓動が、鳴っている。速い。明るい。
私の鼓動と、重なっていく。
「……一つ、聞いてもいいですか」
「なあに?」
「さっき。泣いてくれましたね」
ルーシェがきょとんとした。
「泣いた? 私が?」
「はい。一滴だけ」
「ああ、あれ。あれはね、食べられないのは可哀想だなって」
自分の胸を裂いても泣かない。心臓を取り出しても泣かない。
——相手が食べられないことだけが、この方を泣かせる。
「……ルーシェ様」
「様はいいわよ。ルーシェでいいの」
「ルーシェ様」
「……まあ、いいわ」
「お供させてください」
膝をついた。
「いいの? 嬉しい!」
「はい。この命は、あなたのものです」
「大げさねぇ。心臓一個あげただけよ?」
一個。一個だけ。
リーゼの目が、熱くなった。喉の奥に、まだ涙の甘さが残っている。あの一滴。たった一滴の涙。この方が流した、唯一の涙。
——目頭が熱くなった。
「あら、リーゼ。泣いてるの?」
「泣いてません」
泣いていた。ぼろぼろと。止まらなかった。
体が、勝手に泣いていた。
「泣かないで。痛くないでしょう? もう治ったのだから」
「泣いてません……!」
声が裏返っていた。
「本当に、泣いてません……!」
涙が止まらなかった。
あの一滴は、自分の唇に落ちた。世界中のどこでもない、自分の唇の上に。
誰にも渡したくない。
この方を泣かせたくない。
だから私が代わりに泣く。
ドクン。ドクン。ドクン。
喉の奥に、まだあの味が残っている。涙の甘さと、心臓の甘さ。あの筋張った塊を噛み切った時の、歯の間から溢れた蜜の熱さ。
ドクン。ドクン。
馴染むな、と思った。馴染んでしまったら、これがこの方の鼓動だと忘れてしまう。
忘れてはいけない。この鼓動は借り物だ。この方が胸を裂いて、笑いながら差し出してくださった……だから。
ドクン。
忘れるものか。