帳場の男 ―人を見捨てず頭を下げていたら、みんなの信用で押し上げられていく男の立身出世譚― 作:未雨
朝の詰所は、いつだって少しだけ遅れて目を覚ます。
外が白みきる前から人は動いているはずなのに、帳場のまわりに本当の意味で活気が出るのは、最初の伝令が戸を蹴るみたいに開けて入ってきてからだ。濡れた靴音、木札の鳴る音、眠そうな返事、誰かの悪態。そういうものがひと通り揃って、ようやく一日の面倒ごとが顔を出す。
ジャックは、その一番やかましくなる少し前に帳場へ入る。
火の残りを見て、湯を沸かし、夜のうちに積まれた木札をざっと見て、帰投予定と寝床の空きを頭の中で並べる。並べたところで、その通りにいった試しはほとんどない。だから並べるのは、当てるためじゃない。外れたとき、どこから手をつけるかを決めるためだ。
帳面を引き抜いたところで、戸が勢いよく開いた。
「ジャック、南棟の寝台札、ひとつ足りねえぞ」
夜番明けの若い伝令だった。目の下に隈がある。声だけは元気だが、歩き方に力が入っていない。
「足りないんじゃない。二番の札を三番に掛けたんだろ」
「え」
「二番には昨夜、熱出したのが寝かされてる。空いてるのは三番だ」
伝令はぽかんとした顔をしてから、頭をかいた。
「なんで知ってるんだよ」
「見たからだ。飯は食ったか」
「まだ」
「先に食え。足りない頭で札触るな」
伝令は口を尖らせながらも、「へいへい」と言って奥へ引っ込んだ。
それと入れ違いに、横手の戸口で小さな言い争いが始まった。若い下働きが補助役に詰められている。荷札の入れ違いらしい。
ジャックは帳面に日付を書き込みながら言った。
「それ、昨日の雨で紐が緩んだやつだ。見つかったのが今朝なだけで、入れ替わったのは夜のうちだろ」
二人がそろって振り向いた。
「でも今朝見つかったんだぞ」
「怒る相手を間違えるな」
補助役は言い返しかけてやめた。下働きのほうが露骨にほっとした顔をしたので、ジャックはそっちへ先に言う。
「倉の前へ行け。濡れた札、似たのが他にもないか見てこい。走るな」
「は、はい」
下働きが慌てて出ていく。補助役には水差しを顎で示した。
「お前は一口飲め。まだ朝だ」
「説教か」
「助言だ」
補助役は鼻を鳴らしたが、水差しは取った。
こういうのは朝のうちにいくらでも湧く。寝台札の掛け違い。荷札の紛れ。伝え忘れ。誰かの勘違い。誰かの疲れ。たいがいは大事じゃない。だが、大事じゃないものほど、放っておけば昼にはちゃんと面倒になる。
だからジャックは、目についたものから拾う。
拾ったところで感謝なんかされないことのほうが多い。別にそれで困らない。困るのは、誰も拾わなかったときだ。
帳場の前にまた別の男が立った。宿舎棟の掃除をしている中年の男で、片手に毛布を抱えている。
「ジャック、北棟の窓、ひとつ立てつけが悪い。昨夜の風で開いたまんまだ」
「六番か」
「なんでわかる」
「昨日から音してた。今夜は使うな。四番と七番を詰めろ」
「また文句が出るぞ」
「寒い部屋に寝かせるよりはましだ」
男は少し渋い顔をしたが、最後には肩をすくめた。
「困ったらまた来る」
「困る前に来い」
「無茶言うな」
言いながら、その男は笑って去っていった。
困る前に来るやつは少ない。たいていは、困ってから来る。もっと言えば、自分では困ってるとわかっていない顔で来る。帳場の前に立つ人間の半分は、用事より先にそういう顔をしていた。
ジャックは帰投予定の列へ目を落とした。
南から一隊。昼前。西回りの伝令組。昼過ぎ。北の見回り。夕刻。その下に、昨夜遅く書き足された一行がある。
東の外れで小競り合い。一隊帰投予定。時刻未定。
時刻未定は、たいがいろくでもない。
ジャックは指先でその一行を軽く叩いた。空いている寝床札を頭の中で数え、治療役の持ち場と、湯を多めに回せるかどうかもついでに考える。まだ戻ってもいない連中のことを先に考えるのは気が早いと言うやつもいるが、戻ってきてからでは遅いこともある。
さっきの若い伝令が今度は握り飯を持って通り過ぎた。
「おい」
「ん?」
「食いながら走るな」
「まだ走ってねえよ」
「これから走る顔してる」
「わかるのかよ」
「わかる」
伝令は半分笑って、半分呆れた顔をした。
「ほんと、おっかねえな。何でも見てんな」
「見えてるだけだ」
その伝令が、ちょうど入ってきたばかりの新顔へ顎をしゃくる。
「困ったら、とりあえずジャックのところ行け。追い返しはしねえから」
新顔はきょとんとして帳場のほうを見た。ジャックは小さく息を吐く。
「追い返さない代わりに、順番は守れ」
新顔は慌てて列の後ろについた。
そのとき、外で馬がいななき、誰かが大きな声を上げた。門のほうだ。帰投か、それとも荷の到着か。朝のざわめきが少しだけ別の熱を帯びる。
ジャックは立ち上がって外を見る。
戻るはずの人間がいるなら、戻ってきたときの場所を先に空けておく必要がある。そういうことを考えるのは、もう癖だった。
土と汗の匂いが詰所の中まで流れ込んできた。
帰投した連中は、いつも似たような音を連れてくる。靴底にこびりついた泥の重たさ、武具の擦れる音、ようやく戻った人間だけが出す息の荒さ。無事だったときほど、かえって大きな声は出ない。
帳場の前に立ったのは、三十手前くらいの小隊長だった。肩当てに乾いた泥が残り、袖口には血の色が少しついている。歩き方は崩れていない。大きな怪我はなさそうだった。
「東外れの見回り隊、帰投しました」
ジャックは帳面を開き、木札を引き寄せる。
「人数」
「出たとき十二。戻り十二」
「死傷」
「死者なし。負傷二。どちらも歩ける」
「追手」
「なし。小競り合い一度。森沿いに伏せてた連中を避けて戻った」
そこまで聞いて、ジャックは小隊長の後ろへ一度だけ目をやった。
半歩下がったところに、若い兵が立っていた。年は十八か十九くらいか。外套の襟が泥で汚れている。感知兵らしい軽装で、腰の荷は少ない。荷が少ないぶん、本人の細さが目についた。
若いのは前を向いて立っていたが、瞬きがやけに多かった。帳場の横で木箱の下ろされる音がすると、肩がほんのわずかに揺れる。視線がそちらへ流れ、戻るまでに半拍かかった。
ジャックは帳面へ視線を戻しながら聞いた。
「負傷の二人はどこだ」
「一人は治療役に回しました。もう一人は」
小隊長が少しだけ横を見る。
「こいつです」
若いのが小さく顎を引いた。
「エリオです」
声は出ている。だが、必要な分だけ押し出しているような固さがあった。
ジャックは木札に名前を書きつけながら何でもないふうに言った。
「水は飲んだか」
エリオが細かく瞬きをする。
「問題ありません」
小隊長が苦い顔で笑った。
「そう言って聞かないんですよ、こいつ。立てるから大丈夫だって」
「立てるのと平気なのは別だ」
ジャックがそう言うと、エリオは初めて少しだけこちらを見た。だが焦点が合うまでに、やはりわずかな遅れがある。
小隊長は肩を回した。
「途中で二度、伏兵の気配を拾いました。森の縁です。こいつがいなきゃ、もう少し危なかったでしょう」
「感知か」
「ええ。よく拾いました。拾いすぎたとも言えますが」
ジャックは小隊長の顔を見た。この男も、まったく何もわかっていないわけではないらしい。
「頭痛は」
「ありません」
「吐き気は」
「ありません」
「寝てない顔してる」
「任務中でした」
その答えのあいだにも、エリオの瞼がまた小さく上下した。帳場の戸口から入る朝の明るさを避けるように、わずかに顔が内側へ向いている。
ジャックは帳面を閉じた。
「そこの椅子、使え」
「必要ありません」
「必要かどうかは座ってから決めろ」
エリオは一瞬だけ黙った。小隊長が「座れ」と短く言うと、ようやく諦めたように腰を下ろす。座ったあと、目に見えない揺れがすっと収まった。立っているだけで余計な力を使っていたのがわかる。
ジャックは若い伝令へ声をかけた。
「湯」
「誰のぶんだ」
「そこの感知兵。熱すぎるなよ」
「へい」
伝令は返事をして奥へ引っ込んだ。小隊長はその様子を見て鼻をかく。
「本当なら先に治療役へ回すべきなんでしょうが、帰投報告だけ済ませたくて」
「順番は合ってる」
「そうですか」
「報告してもらわんと、こっちも寝床を空けられん」
ジャックは帰投札の列に目を落とした。十二戻り、負傷二、死者なし。文字にすると軽い。だが、実際に戻ってきた人間の顔は文字よりずっと多くを喋る。
エリオは椅子に座ったまま、背筋だけはきっちり伸ばしていた。そういう座り方をするやつはたいてい厄介だ。自分で自分を休ませるのが下手で、できることとできないことの線引きも乱暴になりがちだ。
若い伝令が木椀を持って戻り、エリオの前に置く。
「ほらよ」
「……どうも」
礼は言えた。だが木椀を取る指先が、ほんのわずかに遅れる。
小隊長がそれを見て、今度ははっきり苦い顔をした。
「やっぱり治療役、先でしたかね」
「どっちみち行かせる」
ジャックは帳面の余白に短く書いた。
「今夜の帰投宿舎、南棟三番空ける。治療役にも回す」
小隊長が目を上げる。
「三番って、今夜もう埋まってたんじゃ」
「二番の熱持ちを四番へずらす。六番は窓が死んでるから使わん」
「そんなにすぐ回るんですか」
「回さないと詰まる」
小隊長はそれ以上言わなかった。その代わり、帳場の周りをひと目見て少しだけ笑った。
「噂どおりですね」
「何の」
「困ったらジャックのところへ行けってやつです」
ちょうどそのとき、奥から若い伝令が顔を出した。
「言ったの俺だぞ」
「うるさい、走るな」
「今は走ってねえよ」
伝令がまた引っ込み、小隊長は肩を揺らした。エリオだけは笑わなかった。笑う余裕がないのか、そういう場面そのものに慣れていないのか、まだわからない。
ジャックは小隊長に聞く。
「明日の戻しは誰が決める」
「所属先でしょう。感知役は足りてませんから」
「でしょうね」
その言い方で、小隊長の顔が少し曇った。
「まだ戻せないと思いますか」
「思う」
「見ただけで」
「見たからだ」
短く返すと、小隊長は二の句を継がなかった。
エリオが木椀を両手で持ったまま、わずかに目を上げる。その目が、さっきより少しだけ焦点を結ぶのが早かった。湯のせいか、座らせたせいか、それとも単に立っているのをやめたせいか。
どちらでもよかった。今、戻していい顔ではない。それだけははっきりしていた。
ジャックは帳面を閉じ、治療役の持ち場のほうを見た。昼まで待てば、規則のほうが先に動く。だったら、その前にこっちが動くしかない。
「おい、伝令」
奥から「はいよ」と気のない返事が返る。
「治療役、今空いてるか見てこい。あと南棟三番、札替えだ」
「また面倒ごとか」
「そうだ」
「だと思った」
伝令が走り出しかける。
「食ってから行け」
「まだ半分だ」
「全部入れてから行け」
伝令が文句を垂れつつ握り飯にかじりつくのを見て、ジャックは小さく息を吐いた。
面倒ごとは、たいてい一つだけでは済まない。だが一つずつ手をつければ、少なくとも手遅れにはならないこともある。
ジャックはエリオの前を通り過ぎざまに言った。
「椀、置いたら立つな。呼ぶまで座ってろ」
エリオは木椀を持ったまま、一瞬だけ言葉を探す顔をした。
「自分は、まだ」
「まだじゃない」
ジャックはそれだけ言って、帳場の奥を出た。後ろで小隊長が低く「従え」と言う声がした。
治療役の持ち場は、詰所の裏手にある細長い棟の端だった。
廊下へ出ると、帳場のざわつきが少し遠のく。代わりに、煮出した薬草の匂いと、洗いきれていない血の鉄っぽさが鼻についた。
戸口の前にはすでに三人待っている。腕を吊ったやつ、額に布を巻いたやつ、付き添いらしい男。皆、黙って座っていた。治療役の前で大声を出しても順番は早くならないと知っている顔だ。
ジャックは列の横を抜け、開け放たれた戸口から中をのぞいた。
治療卓の向こうで、背の高い男が包帯を巻いていた。年は四十前後。髪は短く刈ってあり、手だけが妙に速い。口はそのぶん悪い。詰所付きの治療役を長くやっている男で、ジャックとも付き合いは短くない。
男は顔も上げずに言った。
「後にしろ。見ての通りだ」
「見てる」
「なら下がれ」
「すぐ済む」
「お前らのすぐは当てにならん」
包帯を巻かれていた兵が苦笑する。
「おい、少しは愛想よくしろよ」
「口が利けるなら死にゃしない。次」
兵を追い出して、治療役の男がやっとこちらを見た。そこで初めて、相手がジャックだと気づいたらしい。少しだけ眉が動く。
「何だ。お前か」
「感知兵を一人、見てほしい」
「感知」
それだけで、男の顔つきが半分仕事のものに変わった。外傷なら見ればわかる。だが感知の焼け方は、本人も周りも軽く見ることが多い。
「どんなだ」
「若い。東外れの見回りから戻ったばかり。瞬きが多い。音で肩が揺れる。焦点が遅い。立ってるだけで脚に余計な力が入ってる」
治療役の男は包帯を放り、手を拭いた。
「本人は何て言ってる」
「問題ありません」
男が鼻で笑った。
「問題あるやつほどそう言う」
「そうだな」
「座らせたか」
「今は座ってる」
「吐いたか」
「まだ」
「まだ、か」
治療役の男は立ち上がり、小箱をつかむ。
「連れてこい」
「帳場にいる」
「座らせたまま待たせてるのか」
「そうだ」
「珍しく先が読めてるな」
「見ればわかる」
「見てもわからん奴が多いんだ」
そう言って男は戸口まで来ると、待っていた兵たちに向かって短く言った。
「一人先に見る。死にそうな顔してるなら文句を言え」
腕を吊った兵が肩をすくめた。
「感知焼いたやつか」
「そうだ」
「なら先でいい。あれは見た目で損する」
付き添いの男も黙ってうなずく。治療役は「聞いたな」とだけ言って歩き出した。
帳場へ戻ると、エリオは言われた通り椅子に座ったままだった。木椀は空になって、両手を膝の上に揃えている。じっとしているように見えて、人が横を通るたびに目だけがそちらへ引っ張られている。
治療役の男はエリオの前へ立つ。
「名前」
「エリオです」
「感知は何回使った」
「小さな探りを四度、強いのを二度」
「馬鹿か」
エリオが口をつぐむ。小隊長は少し離れたところで気まずそうにしていたが、口は挟まない。
治療役はエリオの瞼を押し上げ、左右の目を覗き込んだ。次に指を鳴らし、耳元で短く名を呼ぶ。反応は遅くない。ただ、ひとつひとつにわずかな引っかかりがある。
「昨夜は」
「ほとんど」
「寝てないな」
「任務中でした」
「今朝は」
「まだ平気です」
「聞いてない」
治療役の男はこめかみに触れた。エリオの肩がぴくりと揺れる。
「光がきついか」
「少し」
「音は」
「近いと、たまに」
「吐き気」
「今はありません」
男は手を離し、ジャックを見る。
「当たりだ。感知の焼け方だな」
小隊長が低く息を吐いた。やはりわかってはいたのだろう。ただ、わかっていても戻せると言うしかない立場はある。
治療役は小箱から板片を抜き、短く書きつけた。
「休ませろ。一晩じゃ足りんかもしれんが、今戻すのは駄目だ」
その言葉に、エリオが初めてはっきり顔を上げた。
「戻れます」
「戻れると戻していいは別だ」
さっきジャックが言ったのと似た温度で、治療役も返す。
「だが」
「だがは寝てから言え。感知は脚でやるもんじゃない。頭と目と神経でやるんだ。焼いたまま戻れば、次は拾えるもんも拾えん」
エリオはなお何か言いかけたが、その前に小隊長が短く言った。
「従え」
それでようやく口を閉じる。若いやつは、自分が今どこまで減っているかの見積もりが雑だ。
治療役は板片をジャックに押しつけた。
「所見は出す。所属先に見せろ。宿舎も押さえろ」
「今から行く」
「飯は食わせろ。今日は人混みの中に長く置くな。眠れなきゃ夜にもう一度連れてこい」
「わかった」
治療役の男は息を吐いた。
「お前がそこまで先に回るのは珍しいな」
「戻していい顔じゃなかった」
「それが見えるのは、お前の面倒なところだ」
褒めているのかいないのかわからない言い方だった。
ジャックは板片を帳面に挟み込み、南棟の札のこと、宿舎の空き、所属先の中間役が今どこにいるかを頭の中で並べ直した。
宿舎棟の裏では、毛布を干す綱が二列に渡されていた。その下で、世話役の男が寝台札の木片を紐でまとめ直している。
ジャックの顔を見るなり、男は嫌そうに眉を寄せた。
「その顔は面倒ごとだな」
「一人、寝かせたい」
「空きはない」
「南棟三番なら空けられる」
「空けられん。二番に熱持ちがいる。三番は付き添いを入れるつもりだった」
「付き添いは四番へ回せる。六番の窓は死んでる」
「お前、また勝手に寝床数えてるな」
「見えてるだけだ」
世話役は鼻を鳴らしたが、話は切らなかった。
「それで、誰を寝かせる」
「東の見回りから戻った感知兵」
「感知か」
その一言で、男の顔つきが少し変わる。
「治療役は」
「見た。今戻すなって所見もある」
ジャックが板片を見せると、男は札を脇へ放って立ち上がった。
「面倒なの拾ってきやがったな」
「そこにいた」
「同じだ」
ぶつぶつ言いながらも、男の頭の中ではもう配置が組み替わっている顔だった。
「南棟三番を空けるなら、二番の付き添いは四番へ詰める。四番の若いの二人は七番へ回す。毛布は一枚足りなくなる」
「倉の下段に冬物の余りが一枚あった」
「なんで知ってる」
「前の寒波のとき、横で見てた」
「怖えな、お前」
だが最後には額を掻いた。
「お前がそこまで言うなら、今夜だけはどうにかする。ただし寝台札の書き換えは手伝え。夜中に吐かれたらお前も起きろ」
「起きる」
「毛布も自分で持ってけ」
「わかった」
男は札束をつかみ、宿舎棟の中へずかずか入っていく。歩きながら、誰をどこへ動かすかもう叫び始めていた。
宿舎は確保できた。これでひとつ。
感知兵の所属帳を預かる中間上役は、詰所の奥まった小部屋を使っていた。
戸を叩くと、男は顔を上げずに言った。
「急ぎか」
「急ぎです」
その一言で、男はようやく視線を上げた。
「お前がそう言うのは珍しいな」
「冗談じゃありません」
「面白くないな」
男は手を止めた。机の上には感知兵の所属札が何枚も並んでいる。誰がどこへ出て、誰が戻り、誰が欠けているか。それを朝から組み直していたのだろう。
「で、何だ」
ジャックは所見板を机の上へ置いた。
「東外れから戻った感知兵、エリオを今夜は戻したくない」
男は板片をざっと読んだ。
「感知の焼け。休養要。前線復帰不適。ずいぶんはっきり書かせたな」
「見ればそうだったんで」
「感知役は足りん。明日の巡回も、次の見回りも穴が出る」
「今戻せば、もっと長く穴が出ます」
「それは結果論だ」
「今の時点で見えてる結果です」
男は少しだけ眉を寄せた。
「本人は何と言ってる」
「戻れますと」
「なら戻せる」
「動けるのと持つのは別です」
「それを決めるのはお前じゃない」
「治療役も同じことを言ってます」
「治療役は治療役だ。配置はこっちの仕事だ」
まったくその通りだった。だからジャックも口を噤んで終わりにはしない。
「宿舎は押さえました」
男の視線が少し上がる。
「早いな」
「南棟三番。今夜だけなら寝かせられます」
「今夜だけで済む保証はない」
「保証はありません」
「ないのに来たのか」
「ないから来ました」
男は小さく鼻を鳴らした。
「お前、あの若いのに入れ込みすぎじゃないか」
「そう見えるなら構いません」
「珍しく食い下がるな」
「戻して潰したあとで埋めるよりは、今こっちで埋めたほうがましです」
その言い方に、男の指先が止まった。帳面をつける側の人間には、その理屈がいちばん厄介だ。厄介だが、わからないわけでもない。
男はエリオの名前の札を探し、別の列へ移した。
「今夜の差し戻しは保留にしてやる。ただし保留だ。免除じゃない。明朝、治療役の再確認が要る」
「わかってます」
「監督役の判は別に要る」
「そこまでは承知で来てます」
男は保留札を書きつけ、ジャックへ押し出した。
「持っていけ。お前がその顔で来るのは珍しい。そこまで揃えてるなら、俺のところで止める意味も薄い」
「助かります」
「助かるのはまだ早い。上は嫌がるぞ」
「でしょうね」
「それでも行くのか」
「行きます」
男は小さく肩をすくめた。
「だろうな」
戸口を出る寸前、背中に声が飛ぶ。
「ジャック」
振り返ると、男は帳面に目を落としたままだった。
「明日の朝、あの若いのが少しでもましな顔をしてたら、最初に見せに来い」
「わかりました」
返事をして戸を閉める。
治療役の所見。宿舎の受け入れ。所属先の保留。ここまで揃えば、最後に残るのはひとつだけだ。
詰所監督役の部屋は、帳場よりさらに奥にあった。
狭いぶんだけ散らかしようがなく、机の上はきっちり整っている。帳面は帳面、木札は木札、判木は判木で、それぞれ置かれるべき場所からほとんど動いていない。こういう部屋の主は、物だけでなく人間にも同じ整い方を求める。
戸を叩くと、すぐに声が返った。
「入れ」
中へ入る。監督役の男は書状へ目を落としていたが、ジャックが机の前に立つとようやく顔を上げた。
「話は聞いている」
「早いですね」
「お前が珍しく走り回ってるとなればな」
監督役は机の端を指で叩いた。
「感知兵エリオ。治療役の所見あり。宿舎確保済み。所属先は保留承認。ずいぶん揃えたな」
「足りるものは揃えました」
「それで足りるかどうかを決めるのは俺だ」
「はい」
ジャックはそこで黙った。急かしても意味がない相手だ。むしろ、急かせば切られる。
監督役は所見板と保留札に目を通した。
「歩けるんだな」
「歩けます」
「喋れる」
「喋れます」
「なら規定上は戻せる」
「規定上は」
そこで監督役の目が上がる。
「言いたいことがあるなら言え」
ジャックは一つ息を吸った。
「歩けるのと、戻していいのは別です」
「感情で判は押せん」
「感情で来たつもりはありません」
「なら何だ」
「今戻せば、次はもっと長く使えなくなる」
監督役は椅子の背にもたれた。
「感知役は足りん。明日も明後日もだ。一人寝かせる余裕はない」
「だから今、寝かせるんです」
「言い方を変えても同じだ」
「変えてません」
声は変わらない。熱もない。怒りも見せない。だが、ここで退く気がないときのジャックは、静かなぶんだけ面倒だった。
「若い感知兵一人に、ずいぶん入れ込んだな」
ジャックは首を振った。
「入れ込んでるわけじゃありません」
「では何だ」
少し考えてから、ジャックは答えた。
「戻ってきたやつを、歩けるからってそのまま返すのが嫌なんです」
その言葉のあと、部屋は少しだけ静かになった。
監督役は所見板を軽く叩いた。
「嫌、で帳尻が合うなら苦労はない」
「帳尻なら後で合わせます」
「誰がだ」
「俺がやります」
「お前がやることばかり増えてるな」
「そうですね」
「他人事みたいに言うな」
「他人事じゃないから来てます」
監督役の視線がまたジャックの顔へ戻る。普段ならここで黙らせて終わりだ。だが今日は、そこまでやってもこの男は引かない。もうそこも見えているらしかった。
「一晩で済まなければどうする」
「また頭を下げます」
「どこへ」
「必要なところへ」
「それで全部通ると思うか」
「全部は通らないでしょう」
「なら」
「通る分だけ通します」
監督役はそこで、初めて少しだけ口元を動かした。
「面倒な男だな、お前は」
「知ってます」
「褒めてない」
「でしょうね」
監督役はしばらく何も言わず、机の隅に積まれた木札へ目を移した。東外れ、小競り合い、帰投十二、死傷軽微。帳面の上では大ごとではない。だが帳面の上で軽いことほど、現場ではあとから重くなることがある。
「宿舎は取ったんだな」
「南棟三番」
「治療役は戻すなと言った」
「はい」
「所属先は今夜の差し戻しを保留」
「はい」
「お前は、その先の面倒まで引き受ける気で来た」
「はい」
監督役はゆっくり判木を手に取った。
「お前が言うから押すわけじゃない」
「はい」
「押したあと、お前が投げないと知っているから考えてる」
ジャックはそこでようやく、ほんの少しだけ息をついた。
「十分です」
「まだ押してない」
「知ってます」
監督役はわずかに笑った。すぐ消えたが、なかったことにもならない程度の笑いだった。
「今夜だけだ」
判木が板片へ落ちる。乾いた音がひとつ、机の上で鳴った。
「明朝、治療役に再確認させる。戻せると言われたら戻す」
「はい」
「宿舎の帳尻合わせ、人員の組み替え、戻し先との連絡。全部お前が見るんだぞ」
「見ます」
「あとで十分な顔をしろ。今はまだ、面倒の始まりだ」
「そうですね」
監督役は押した板片をジャックへ突き返した。
「行け」
「ありがとうございます」
「礼を言うな」
「じゃあ、助かります」
「それも今言うな」
監督役はすでに次の書状へ目を落としていたが、ジャックが戸口へ向かいかけたところで低く声を投げた。
「ジャック」
振り返る。男はまだ書状を見たままだった。
「無理をしてるやつを見る目だけは、お前のほうが当たる」
ジャックは返事をしなかった。返せばたぶん、余計な顔になる。
戸を閉めて廊下へ出る。表のざわつきがまた耳へ戻ってきた。人の声、足音、木箱の音、遠くで誰かが怒鳴る声。詰所は相変わらず、次の面倒ごとへ向かって動いている。
ここまで揃えば、今夜だけは前線へ戻さずに済む。
帳場へ戻ると、朝からのざわつきは少しだけ質を変えていた。忙しさは変わらないが、各々が自分の面倒を抱えたまま動き始めた感じがある。
ジャックは帳場の前へ戻る前に、南棟三番の札が替わっているのをひと目だけ確かめた。きちんと替わっている。宿舎の世話役は、文句は多いが仕事は早い。
そのまま帳場の前へ回る。
エリオは、まだ椅子に座っていた。
木椀は空で、両手は膝の上にある。背筋だけは相変わらず妙にまっすぐだった。じっとしているように見えて、帳場の横を誰かが通るたびに、目だけがそちらへ引っ張られる。
小隊長の姿はもうない。代わりに、さっきの若い伝令が帳場の端で握り飯の最後を押し込んでいた。
ジャックは帳面を机へ置き、エリオの前で足を止めた。
「南棟三番、空いた」
エリオが顔を上げる。やはり、焦点が合うまでに少しだけ間がある。
「今夜は戻らなくていい」
その一言で、エリオの表情がわずかに止まった。
「ですが」
「監督役の判も通った」
「それでも」
「それでもだ」
ジャックは帳面から所見板と判の押された板片を抜き、エリオの目の届くところへ軽く見せた。
「治療役。宿舎。所属先。監督役。順に通した」
エリオはその板片を見た。文字を読んでいるのか、そこまで誰かが動いた事実を見ているのか、表情だけではわからない。ただ、まばたきの速さが一瞬だけ乱れた。
「……なぜ」
やっと出た言葉がそれだった。
ジャックは板片を帳面へ戻す。
「寝かせたほうがましだからだ」
「自分は、動けます」
「見ればわかる」
「何がです」
「まだ戻していい顔じゃない」
エリオは口をつぐんだ。納得したわけではない顔だった。だが、言い返す言葉が見つからない顔でもある。
横で聞いていた若い伝令が、口の端の飯粒を指で払ってから言った。
「よかったな。ジャックがここまで回るときは、たいてい本当にまずいときだぞ」
「余計なこと言うな」
「事実だろ」
伝令はそう言ってから、エリオのほうへ半ば勝手に親しげな顔を向けた。
「南棟三番な。窓はまともだ。今日は眠れよ」
エリオは戸惑ったように伝令を見た。こういう距離の詰め方にも慣れていないのかもしれない。
ジャックは伝令へ顎をしゃくる。
「南棟まで案内しろ」
「俺が?」
「お前だ」
「仕事は」
「口は回ってる。脚も回るだろ」
「雑だなあ」
文句を言いながらも、伝令は椅子の横に立った。エリオはまだ座ったまま、ジャックを見ている。
「……迷惑をかけました」
やっとそれだけ言った。礼とも謝罪ともつかない、口下手なやつがどうにか出す言葉だった。
ジャックは肩をすくめる。
「迷惑かけるのも仕事のうちだ」
伝令が吹き出す。
「それ、慰めになってるか?」
「なってなくていい」
伝令は笑いながらエリオへ手を出した。
「ほら、立てるか」
「立てます」
「そういう答えしか返ってこねえのか、お前」
エリオは少しだけ眉を寄せたが、自分の力で立ち上がった。立てはする。だが、立った瞬間に視界が揺れたらしく、目を閉じるまでの間がほんの少し長い。ジャックはそれを見て、帳場の脇に置いてあった小さな水袋を持ち上げ、伝令へ放った。
「それも持ってけ」
「はいはい」
「途中で階段踏み外したら戻せ」
「縁起でもないこと言うなよ」
「踏み外しそうな顔してる」
「俺じゃなくてそっちだろ」
伝令が顎で示した先で、エリオは何か言い返そうとしてやめた。気力はある。だが、その気力で身体がついてくる段階はもう少し先だ。
ジャックはエリオに向かって言う。
「今夜は寝ろ。明日のことは明日だ」
「ですが」
「その顔で“ですが”は通らん」
エリオはそこでようやく黙った。たぶん、押し切れないとわかったのだろう。
伝令が戸口のほうへ歩き出しながら振り向く。
「南棟三番な。道わかるか?」
「いえ」
「だろうな。来い」
エリオは一度だけジャックを見た。礼を言うべきか、何か返すべきか、そのどちらも言葉にならない顔だった。
ジャックは先に視線を外した。
「行け。座ってるだけでも目立つ」
それでようやく、エリオは小さく頭を下げた。深くではない。ぎこちない、年若い兵の礼だった。
伝令と一緒に戸口の向こうへ消えていく背を、ジャックは見送らなかった。見送ると、また余計なことを考える。
帳場の前には、もう次の顔が来ていた。荷札を抱えた補助役がひとり、眉をひそめて立っている。
「ジャック、北倉の受け取りが合わん」
「どっちが足りない」
「塩袋が二つ」
「二つなら足りてる。帳面のほうが古い」
「またか」
「まただ」
帳面を引き寄せながら、ジャックは南棟の方角を頭の端で一度だけ思い出した。眠れれば少し違う。眠れなければ、夜にもう一度治療役へ回す。そこまでやれば、今夜のところは十分だ。
横で、小隊長がいつ戻ってきたのか、帳場の柱にもたれてこちらを見ていた。ジャックが帳面へ視線を落としたまま数字を書き込むのを見て、低くつぶやく。
「……あの人、いつもああなんですか」
若い伝令が肩をすくめた。
「困ったら、まずジャックのところだ。そういうことになってる」
ジャックは顔も上げず、帳面の余白に新しい数字を書き込んだ。
一人寝かせたところで、詰所の一日は止まらない。
それでも、今夜あの若いのが前へ戻らずに済むなら、悪くなかった。
エリオ・レイス
東方見回り隊に属していた若手感知兵。
年少ながら索敵・感知系魔法の適性に優れ、今回の東外れの小競り合いでは二度にわたって伏兵の気配を察知し、一隊の損耗回避に貢献した。
当時は感知の酷使による神経疲労が深く、即時復帰は危険な状態だったが、詰所帳場役ジャックが休養延長の承認を取り付けたことで前線戻しを免れる。
のちに特務索敵班へ転じ、感知兵長に着任。戦後、その功績により功績叙爵を受け、下級貴族に列せられた。若年期にこの休養判断がなければ、その後の栄達はなかったとする証言も残る。